「英理。一緒に行くよな」
その日はやたらと暑い日で。
夏休みの登校日で教室の窓際の席で惚けている英理の机に小五郎は両手をバンとついて単刀直入にそう言った。
わざわざ他所のクラスからやってきた小五郎に話しかけられたのはあまりにも久しぶりで、ビックリした英理は目を丸くする。
「え、あ、うん……」
小五郎が何を言っているのかサッパリわからなかったのに、とっさに頷いてしまったのは有無を言わせない小五郎の強引さに面食らったからだ。
あとから聞くと、どうやら夏祭りの誘いだったらしい。
昔は男女数人で出かけることはあったが、小五郎から声をかけてきたのは初めてだった。
正直に言って、驚き以外のなんの感情も湧かなかった。
手帳に夏祭りの日程を書くのは久しぶりだなと思いながら、夏期講習の予定がビッシリと書き込まれた手帳の隅に「お祭り 小五郎」とだけ記した。
その手帳と共に英理は受験生らしい淡々とした夏休みを過ごしていた。
約束の日、英理は塾の授業が延長していて待ち合わせに遅れてしまうと焦り、急いで帰宅してその足で待ち合わせ場所に向かった。
「……なんだよ。浴衣ぐらい着てこいよ」
精一杯走ってきた英理を見るなり、開口一番に小五郎は言った。
「受験生なのよ? そんな余裕あるわけないじゃない」
自分はTシャツにジーンズという軽装のくせに、偉そうな口ぶりの小五郎に嫌な気持ちになりながら……
浴衣を着るなどという発想すら少しも浮かばなかった自分の色気のなさに、居心地の悪い思いをした。
いつものように出店を回って飲み食いしてテキ屋でゲームをして花火を見る。特に変化もないお決まりの行事を済ませて二人はアッサリと帰路につく。
小五郎の少し後を付いていくと、例の公園のベンチに腰をかけた。昔の名残かもしれない。
公園に静かにそびえる時計をチラリと見ると、まだ門限には少し間があったので、英理も隣に腰を下ろした。
「……お前さ」
小五郎は唐突に話を切り出した。
「そんなに勉強してマジで東都大に行くつもりなのか?」
マジに、とはどういう意味だろう。私には不相応とでも言いたいの?
「……そんなこと、ほっといてよ。あんたこそ進路決まったの?」
「俺は実力に見合ったそれなりの大学にいくさ」
「ふーん」
「お前と違って楽勝ってわけじゃないけどよ。いいよなー、頭いいやつは選び放題で悩みがなくてさ」
悪意はないとわかっていても苛立った。
そしてそう言われると、つい言い返したくなってしまう性分なのだった。
「私だってね、悩みくらいあるのよ。
……留学に誘われてて、どうしようかなって考えてるんだから」
「え?どこに」
「アメリカ。それも有名なとこよ」
これじゃ思いっきり自慢話だ。英理は言いたいことが上手く言えなくてもどかしかった。
「……すげーな」
「断ろうかと思ってるけどね」
「ああ、金かかりそうだもんなぁ……」
「というより……アンタみたいな幼馴染、残していったら不安だし」
「は?……本当に? そんな理由で?」
「いけない?」
「もったいねーじゃん。バカだな」
「少しは喜びなさいよ」
「なんで俺が喜ばなきゃいけねーんだ。ムカつく」
英理は、小五郎のいない、味方のいない異国の地に1人で行くことが怖いのだと素直に言うことができなかった。なんとなくごまかしで、素直な気持ちを半分の嘘に包んで茶化してみただけだ。
それから数日して、小五郎はあの年上の彼女と付き合い始めたのだった。
――俺にはお前なんか居なくたって大丈夫だから。
まるでそう言っているかのようなタイミングだと英理は思った。
あの公園で初めて二人に遭遇した日から、何度かあの場所であのカップルを見かけることがあった。
それも塾の帰りの遅い時間にだ。
見かけるたびに英理は胸が痛く、目を背けて走り去りたい気持ちが起こったが、逃げたくはなかった。逃げたくなる意味が分からなかったからだ。
だから、いつでもまっすぐに二人を見据えてずんずん歩いた。そして胸はどんどん痛んでいった。
どうして逃げたくなるのか。
それが英理にはわからない。
すこし前に、親友の有希子と恋の話をした時の彼女の言葉が思い出される。
――恋? そうねぇ、なにが恋って思ってるうちは、それは恋じゃないと思うの。
恋はするものじゃなくて突然落ちるものだし、胸が苦しくて、ぎゅーって痛くなるのよ。
有希子は英理と同い年だというのに、経験豊富でいつでも余裕たっぷりに見えた。
芸能界の仕事をしていると普通の女の子よりもたくさんの経験をしてしまうのだと有希子は言った。
どうして親友はいまここにいないのだ。
そんなことを何日も何度も繰り返しているうちに、胸を尖ったもので刺すような鋭い痛みは日に日に強くなっていく。
そのあまりの息苦しさに、英理はとうとう逃げ場が無くなり頭を抱えた。
――わたしは小五郎が好きなのかもしれない。
それを認めてしまったらおしまいだ。
手からサラサラと砂が零れ落ちていくような感覚がして。
英理はひとりで愕然とするのだった。