よまい

 

 

 

 ……早く。

 冬のしんとした空気に、凍える寒さ。はやる心が早い足踏みをさせ、アスファルト叩くブーツの音があたりに響いた。
 調子の悪い街灯が、ぱぱ、と音を立てて点き、不安げにまた消えた。あと3回、いや、あと5回粘ってみよう。気持ちを奮い立たせて幾度目かのコールボタンを押す。手袋を脱いだむき出しの右手が、寒さもあって震えた。
 ……早く。早く。早く。そう願っているうちに、ようやく音は途切れた。

「もしもし?」
「……何時だと思ってる」

 待ちわびた声。明らかに寝起きの、不機嫌な声だ。それでも安堵の笑みがこぼれる。もぞぞ、という布が擦れる音がした。男が毛布を手繰り寄せる様子が、頭にありありと浮かぶようだった。時刻は、まだ一時を過ぎたばかり。

「近くまで来てるの」
「あぁ? なんで」
「手持ちが無くなっちゃって」
「バカじゃねえの。蘭なら居ね──」
「すぐ行くから、寝ないでよ」

 返事を待たずに、通話終了ボタンを押した。いい加減、寒さに耐えきれなかった。もちろん、蘭もコナン君も居ないことくらい知っている。だから来た。
 願うように。かじかんだ手を組んでビルを見上げていると、パッと部屋の奥に灯りが点いた。ほっと白い息を吐き、軽やかなヒールの音を響かせて、階段を駆け上がる。合鍵を持っているのに使わないのは、最後の意地なのかもしれない。
 玄関のドアを開けた瞬間、懐かしい家庭の温かみが、むわっと襲ってきた。行き過ぎた安らぎに、ほんの一瞬、涙腺が壊れそうになった。

「…………やだ。まだ着てるの? それ」
「あぁ?」

 こらえて、踏みとどまった。ブレーキをかけるようにいつもの調子で言うと、寝起きの夫は、寝乱れた頭で、自分の姿を見下ろした。それ、の意味に気づいて、「草臥れてて具合がイイんだよ」と実に彼らしいことを言う。
 パジャマの上に羽織っている、着古した青色のはんてん。その姿はあまりに懐かしい。張り詰めた糸が緩んで笑いが漏れると、鼻息で着ているコートのファーが揺れた。先ほどまで居た薄暗いバーとは対照的な明るい玄関に、目が眩んだ。

「本当に寝てたみたいね? 随分お利口なオジサンだこと」
「……で、お前はこんな時間に出歩いてる、不良オバサン?」
「あら、心配してくれて嬉しいわ」
「心配っつーか、迷惑なんだが……」

 夫は本当に迷惑そうにあくびをして、頭を掻いた。冷たい言葉を浴びせられると、どうにかその気にさせてやろうと、芯が燃えてくる。ジ、ジジ、とゆっくりとブーツのジッパーを下ろし、履き口をぱっくり広げた。黒いタイツの膝に視線が落ちる。バランスを崩して手を借りると、夫は身を引いてわかりやすく動揺した。寝ぼけた男のペースに付き合ってやるつもりは、もちろんない。

「ホストにでもハマってんのか? 貢ぎすぎて、スッカラカンってわけか。ざまあみろ」

 ──やっぱり燃えるわね。そう思いながら、はんてんの黒い襟を掴んで、背伸びをした。床の冷たさは感じない。屋外に居た時間は、思いのほか長かったようで指先まで感覚が薄れている。力任せにひっぱり、唇を重ねた。

「……酒」
「高いお酒をご馳走になったから。おすそわけ」
「奢られたんなら、金はあるだろ」
「誰と飲んでたのか、聞かないの?」
「興味ないね」
「そう?」

 チロ、と歯の間から舌を覗かせた。誘うように右から左へ、左から右へ、ゆっくりと動かす。小五郎の瞳は呆れたように、ソレを目で追った。大サービスで、出迎えるように唇を開くと、ようやく捕まえにきた。やっぱり男は素直でないと。可愛くない。

「……気に入らねえ。この味」
「あら、ブランデーはお嫌い? 100年モノのレミーマルタンよ」
「はぁ、自慢? どこの大富豪だよ」

 うふふ、と声に出したが、本当は、笑いたい気分ではとても無かった。確かに美味しかったけれど、後味が酷すぎた。金を持っているだけの癖のある、髭男。断りきれないのは悪い癖だとはわかっている。「君は愛されていない」だの「縋るの、やめたら」だの、薬指の指輪を、散々同情の目で見られた。それだけでも不愉快なのに、あげく、「上に部屋を取ってるから」などと、いにしえのセリフを吐いて、せっかくのコニャックを濁った液体に変えた。思い込みの激しい権力者は、自信満々で近寄ってくるので始末に負えない。

「今後のお仕事に差し障りますわよ。それでも……よろしくて?」

 そう最後の警告をした。「構わないよ」と珍妙な返答をする男に首を振り、エレベーターに乗りこもうとすると、強引に手を握る真似までした。
 思い切り、ビンタしてやった。結構強く振り切ったので、まだ手のひらの血管が熱くなっている。万が一訴えられたら、逆にわいせつ行為で訴えてやるつもりだ。そう鼻息荒くタクシーに乗り込んだけれど、まっすぐ帰る気にもなれなくて、ついココに来てしまった。
 早く、口直しがしたかった。

「でもね。私はあなたの味が好きよ。落ち着くの。気取ってないから」
「……安っぽくて悪かったな」
「嫌いじゃないわ」
「なら、芋焼酎でうがいさせてやろうか?」

 濡れた目で首を傾げても、夫はふざけて、すぐに期待を叶えてくれなかった。いつもならこの駆け引きだって楽しめるのに。今夜は身体の芯まで冷えていて、手順を踏むのが煩わしいと思った。眠りの深い迷探偵のせい。
 コートを脱ぎながら、部屋に上がり、チップでも握らせるように、いやらしく手を握る。なんて高い体温だろう。その手に脱いだものを押しつけると、鼻を埋めて「……くせえ」と呟く声がした。あと少しで感傷に浸れるところだったのに。この人はいつもこう。

「禁煙のバーなんて、そう無いわよ?」

 煽るように言い、さらにスーツのジャケットも脱いだ。胃の中から鼻の奥まで不愉快だった。まず。とりあえず繋がろう。話はそれからでもできる。
 タイツを脱がせてあげるために、ベッドに腰をかけ、脚を組んだ。







「煙草の量、増えたんじゃないの?」

 英理は顔をしかめた。跨がりながら、手から生まれる煙を見ている。女に乗られながら吸う一服は、どんな煙草よりも旨いものだが、今夜は少々、趣が違っている。
「眠気覚ましだよ」と言うと、英理はムキになって締め付けてきた。こういうところは、まだまだ可愛い。
 ゆっくりと腰を揺する女は、何があったのかは知らないが、ほったらかしの亭主の身体に縋りたくなるほどに弱っているらしい。それもまた可愛いと思えるほどに、自分も歳をとった。
 けれど、まあ。なんでも許せるかといえば、そんなこともない。例えば、このうねる髪に染みついた匂い。自分が好む銘柄とは違う、キツイ香りだ。ある衝動をこらえて、英理の顔にめがけて煙をフーーっと吹きかける。露骨に嫌な顔をして、「やめて」と手で払った。払ってやりたいのは、こっちだ。

「お清めだよ」
「もう、感じ悪いわよ」
「デリカシーねえよな、お前って」
「ふふふ、笑わせないでよ」
「シャワーも浴びねえし」
「デリカシーないのはどっち?」
「喫煙者ってのはさ。慣れないタバコの匂いには、敏感なもんよ?」
「……」

 英理は黙って、また指を絡めてきた。今夜はやたらと手を握りたがるので、負傷したのは、手だとわかった。

「……ケチケチしねえで、手ぐらい握らせてやりゃいい。それで仕事が取れるなら、安いもんだろ」

 羨ましいぜ、と。本音と虚構が入り混じったことを言い、灰皿に煙草を置いた。英理は言い当てられて少し驚いた顔をし、すぐに目を伏せた。

「……そうね。いい男なら、迷わずそうするんだけど」
「手を握るのも嫌な相手と、酒なんか飲むな。馬鹿野郎」

 英理は満足げな微笑みを浮かべ、身体を倒して、舌をねじ込んできた。腔内の蒸留酒の味は薄まったが、どんな近距離で飲んでいたのか、匂いは消えなかった。
 
「……もっと叱って」
「ヤダね。お前の奴隷にはなれねえ」
「……あっはは」

 英理は笑う。昔から、笑いのツボがよくわからない女だ。だがしかし、この顔は久しぶりに見た。微笑んだ顔は見せても、(不敵に笑う、というほうがしっくりくるが)声をあげて笑うところなど、外では見ない。余程リラックスしている証拠だ。性器を咥え込んだままリラックスされるというのも、男としてどうかという話だが。まあいい。

「つくづく思うわ。やっぱり、安らぎが一番なの」
「ホー。安らぎね」
「安らぎ、安心、安定。女の幸せじゃない?」
「──嘘つきは、弁護士のはじまりだな」

 英理はまた笑って、仰るとおり。と目でそう言った。揺れる髪から、ツンと鼻につく匂いが、もう、最高にムシャクシャした。下から思い切り突き上げると、英理は仰け反り、ようやく満足そうな声をあげる。──ホラな。女はこれだから信用できない。
 たまには、ぐちゃぐちゃに誤魔化したい夜があったっていいだろう。汗をかいて、全てを流せばいい。迷いも、匂いも。






おわり