「なんでココ、バツがついてんだ?」
暗い寝室に、トップライトの間接照明がぼんやりと照っている。ヘッドボードに寄りかかりながら、小五郎は煙草の煙を手帳に近づけ、横になる妻に問いかけた。
「……ちょっと。人の手帳を勝手に見ないでよ。どうせゴミでも付いてるんでしょ」
「ちげーよホラ、この日付の下んとこ。今日のところにも、ちっちゃくバツが……」
小五郎は、回収しようと伸びてきた英理の手から手帳を逃がしつつ、眉間に皺を寄せながらしばらく考えていた。
やがてなにかを閃いたのか、ぱっと眉を開いてニヤリと笑った。
「ハハーン! お前もまだまだ可愛いトコあるじゃねーか! 亭主と会う日に、手帳に印を付けるなんてよぉ」
小五郎はフンフンと頷きながら、つーかゴミって、ひでえな! そう言いつつ、その顔は珍しい物でも見るよう綻び、英理を見下ろした。
「……有事のときに、言い逃れされたら困りますからね」
「ユージ?」
「身に覚えがないだの、俺じゃないだの。責任逃れされちゃ女はたまったもんじゃないもの。手帳は、裁判でも立派な証拠になるのよ」
「全然可愛くねえ理由だった! つーか、夫婦だろ……なんで訴える気満々だよ!」
「うふふ」
「目が笑ってねえし! 怖っ!」
小五郎は煙草を口にくわえながら、顔を歪ませ、両手で手帳をパラパラとめくり続けた。やがて、なにかを思い出すように部屋の隅に目線を移したあと、眉毛をみるみると歪ませて、煙草を灰皿に置いた。不穏にゆらゆら立ち上る煙のように、うねる英理の髪をどかし、晒した耳に低い声を落とす。
「……チョット聞いてもいいか」
「なに」
「マジで身に覚えが、ねぇんですけど」
「え?」
「例えば、この日とこの日。これは、どーいうことですかねぇ、奥さん」
「ウソ、いつ?」
ココ! と人差し指の第二関節で日付を叩いた。英理は両手を突っ張って身を起こし、裸眼の目の焦点を合わせるため、ぐっと細めて、小五郎の手の中にある手帳を覗き込む。
「ああ。これは……」
英理は少し考えた。
手を緩めて、小五郎の固い腹の上に頭を落とし、いたずらに目を輝かせて小五郎を見上げた。
「もう。あなたが、忘れただけでしょ」
「イーヤ! 間違いない」
「細かいことは、気にしちゃダーメ。女の手帳には、秘密が詰まってるんですから」
「秘密、ねぇ? 女弁護士の手帳に、そんないかがわしいことが書かれてるなんて、誰も思わねえだろな。こんなことでボロ出すなんて、お前もツメが甘いっつーか、証拠が仇になったつーか、なんつーか……」
ベラベラと喋ったあと、ふーっと長い息を吐いて、小五郎は声のテンションを落とし、頭も落とした。
「…………帰る」
腹の上の英理の頭など無いように、小五郎はベッドから身を起こして立ち上がった。
脱ぎ捨てられた下着やシャツを拾って、再び身に纏いはじめた小五郎の曲がった背中に向かって、英理は言った。
「アラ、拗ねちゃった?」
「……べつにィ」
「一応言っておきますけど、浮気なんて、してないわよ」
「気にしてねえって。好きにやれや」
「パンツ、裏表逆になってるわ」
「いーんだよ! どーせすぐ脱ぐことになるんだし!」
俺も若いオネーチャンとこでも、遊びに行こうかね! と小五郎は英理に当てつけるように言って、ベルトまで締めた。
「あはは、そんな相手いるの? 強がっちゃって」
「いるっつの! めちゃくちゃいるっつーの!」
「ふふ。教えてあげようかと思ったけど、やめたわ。あなたこそまだ、可愛いところあるじゃない?」
英理はベッドに仰向けになり、置かれた手帳を掲げて機嫌良く笑った。
こんなもの、種も仕掛けもない単純な話だ。英理は仕事にのめり込むタイプなので、休肝日のごとく、残業しないと決めた日を自分で決めている。その日には予め×印を付し、自分をセーブしていただけだった。
その日が、たまたま夫と約束している日だったり、そうでなかったりしただけ。まさかソノ日をありのまま記録しているわけがない。そもそも仕事で使う手帳に、そんなデリケートなことを書くはずもないのだ。
「ああ? なんで上機嫌なんだよ。余裕ぶっこいちゃって、ヤダね。ヤダヤダ!」
小五郎は着替え終わり振り返ると、英理はそれを見てたまらず噴き出した。
「シャツのボタン、掛け違えてるわよ」
英理の言葉に自らの服を見下ろし、バツの悪そうな顔をする。英理は寝返り打ち、地に足をつけた。小五郎の正面に立つと、慣れた手つきで下からボタンを外した。再度上から掛けようかと手が迷い、もう一度噴き出した。
「動揺したの?」
「……暗くて手元が狂っただけだ」
「ふふ。ねえ、あの手帳、よく見た?」
「見たよ」
「本当に見た? ……未来の予定も?」
小五郎はまだ不愉快そうに、眉毛で英理に問いかける。
英理はベッドに置かれた手帳を持ち出して開き、顎に手を置く。目で字を追いながら、まるで裁判の次回期日でも決めるかのように、淡々と言った。
「次は、来週の金曜日ね。翌週は、木曜日。その次の週は水曜日になってるわ。変則的で悪いけど、仕事柄融通を利かせなきゃいけないのは、わかるでしょ?」
「は……」
「その日は、あなたの自由にしていいのよ? 幸せね、あなた」
小五郎は少し考えて、英理の持つ手帳を上から覗き込んだ。そして、ようやく合点がいったのか、惚けていた顔を緩ませて、背を向けて頭を掻いた。
「……ったく、しょうがねえヤツだなー」
忙しすぎて、身体が持つかね!? と調子よく言いながら、小五郎はボタンの外されたシャツをまた脱ぎ始め、ベルトにも手を掛けた。
単純で、明るくて、素直じゃない男。英理はその後ろ姿を見ていると、溢れ出る感情が堪えきれなくなってしまう。裏表でタグが丸見えになっているパンツが見えて、悪戯半分で、力一杯に下ろしてやった。
おわり
ありがとうございました♡