スーツ姿でスーパーの買い物袋を下げて歩く男は、みっともない。
若い頃は背伸びをして、そう言っていたこともある。
実際、スーパーで買い物をしたのは随分久しぶりで、モタついてしまった。
まして初めて来た、見慣れない景色の高級スーパーである。棚の陳列ルールは普通の店と違っていて、若い店員に何々はどこですか、と聞くのもなんだか気恥ずかしく、無駄に店の中を何周もしていた。
……少し遅刻だ。
18時に行くからよ
と短くメッセージを打つと。
いきなりね
と妻も短く返信してくる。
それが拒絶ではなく承諾だと文字面だけでわかるくらいには、俺たちの付き合いは長い。
本日は3月14日直前の日曜日。
***
ドアを開けたのは、黒いニット地のワンピースを着て赤い口紅を引いた、珍しく女っぽい格好をしている英理だった。
俺が黙って玄関に上がり込むと、
「どこかへ食事に行くんじゃないの?」
と不思議そうに聞いてくる。黙ってスーパーの茶色い紙袋を掲げて見せると、ええ?と驚きの声をあげた。
「うそ、大丈夫なの」
袋を受け取って中身を見ながら心配そうに言う。
「まぁ、お前よりは?」
とコートを脱ぎながら答えると、英理はムッとして
「あらあら、じゃあ勉強させて頂くわ」
そう強気に腕を組んでみせた。
ピカピカなガステーブル。
曇りのない銀色のシンク。
よく磨かれた、というより、元よりあまり使っていないという気がした。
自宅のキッチンも几帳面な娘によって良く掃除されているけれど、こことは違って、もっと家庭的な匂いがしている。
俺は前から不思議に思っていたことを聞いてみた。
「普段の食事はどうしてんだよ」
「まあ、適当にね」
エプロン代わりに英理は藍色の手ぬぐいを持ってきて、俺の腰に巻きながら言った。
「外食ばっかしてると、そのうちガクッとくるぞ。若くねぇんだからよ」
「大酒飲みのあなたにそんなこと、言われたくないわねぇ」
きゅっ、布の端と端を強く結ばれる。
でも酒飲みなのに、なんでお腹が出ないのかしら。不思議ね、とか言って、英理は俺の腹をつついた。
「体質だろ。羨ましいか」
俺はワイシャツの袖を捲り得意になる。
そりゃ、それなりに鍛えてます。
とは、コイツにだけは言いたくない。
英理はちょっと悔しそうな顔をしたが、すぐに気をそらして紙袋を見た。
「なにを作るの?」
どことなく華やいだ英理の声。機嫌がいいな、と俺が言うと。
「だって、こんなの初めてじゃない?」
と素直に袋から材料を取り出している。良いワインね、としげしげとラベルを眺めて、戸棚からデカンタを取り出してきた。
「もう開けちまおうぜ」
「嫌ね、キッチンドランカーみたい」
英理は呆れたように言うが、本当に機嫌がいいのか、その手は既に引き出しに伸びている。
時間がかからず、簡単で美味いもの。
それは肉。それも上質な。
かたまり肉に塩と胡椒とにんにくを両手で擦り込みながら、俺は英理に顔を向けた。
物欲しげに顎を反らしてみる。
グラスを片手に横で見ていた英理は、仕方ないわね、という顔をして俺の口にグラスをあてがった。
こういう空気は好きだ。
歳を取ったせいか、二人きりの時には口数が減った。けれどそのほうが、無駄な言い争いをしなくて済むのだろう。
「いつ料理なんて覚えたの?」
「別に覚えちゃいねぇけど。こんなの、感覚だろ」
ふうん、と英理は納得していないように言う。来る途中の本屋で『手軽で美味しい』と銘打った本をパラパラと立ち読みをしてきただけだ。男の気まぐれ料理なんて、だいたいそんなもの。
英理だって教科書通りに作れば、あんな壊滅的にならないだろうに。
「お前って、家庭科の成績どうだった?」
「私はどの教科でも5以外の成績をとったことがないわ」
嫌味に聞こえるが、優等生にとっては単なる事実。
「そうだよなぁ。ペーパー試験じゃ、わかんねぇよな」
「どういう意味よ!」
俺が試しに喧嘩を売ってみると、
英理の赤い唇がツンと尖った。
ワインよりも色鮮やかで、甘みがあり。
生肉よりも柔らかくて、美味いもの。
それが目前に差し出されてくる。
「おっとぉ、目にゴミが」
両手が塞がった状態で俺は片方を瞑り、少しかがんで英理に向く。
え、大丈夫?と言いながら俺に近づき、目を覗き込んできた。
手が使えないと仕掛けるのにコツがいる。
「ん」
そして上手いこと唇に吸い付いた。
いつもなら逃さないように背中に回す手が、宙ぶらりんに浮いている。でも捕まえなくても、意外と逃げないんだな、と思いながら唇を挟むようにして食べていった。
顔を離す。
英理の瞳に驚きと呆れの色があるが、その奥はゆらゆらと浮ついている気がした。
「……サプライズがお好きね」
英理は間を持たせて、ゆっくりと言う。
俺が何も言わずに作業に戻ろうとすると、頬に手が添えられて。
今度は俺が、はむりと食べられた。
柔らかい感触を受け止め、心の片隅では珍しい、と思いながら。
キスが熱を帯びそうになり、使えない両手にもどかしさを感じていると、ちゅ、と唇を離して英理は言った。
「逆に……されるのは苦手だって、ちゃんと知ってるのよ?」
と勝ち誇ったような顔が、恥ずかしそうに赤く染まっている。
そんな顔をされるとこちらまで照れが伝染してきて、俺まで耳が熱くなった。
やだね、いい歳して
こんなこそばゆい気持ちにさせられんの。
俺の口元を拭う親指。
やっぱり赤はだめね、落ちない。と発情した赤い唇が、気まずそうに呟いている。
俺は早く料理を仕上げて
メインを食べたい、と思った。
おわり