1
「あなたの護身術、役に立たなかったわ」
私を誘拐した男をガムテープでグルグルに巻きつけて、床にゴロリと転がした。ぐぇ、と汚い声がしたかもしれない。
英理は手をパンッと払いながら、その歪んだいやしい顔を一瞥する。この男の計画を聞かされて、そのあまりの下衆さに、頰をグリグリに踏みつけてやりたいくらいだ。
私はスンと鼻をすすった。口を塞がれたときの、この男の手のひらの体臭が、鼻の奥にこびりついている。不愉快だ。
「ドジやらかしたんだろ? お前はときどきツメが甘いからよ」
「どうせ……」
小五郎に痛いところを突かれて、言い淀む。夫が正しい。
「不用心なんだよ。刑事の妻だったくせに」
「そ、そんな大昔のことを持ち出さないでよ」
刑事の妻、というカビの生えたフレーズ。それをいまさら夫が言い出したことに、私は驚いていた。彼は普段、刑事時代のことをあまり語りたがらない。決していい思い出ではないからだ。
何事かと小五郎を見ると、彼は、登ってきた窓のそばで固まっていた。その顔色は、なぜだか優れない。
「ちょっとあなた、大丈夫?」
「そりゃ、こっちのセリフだ……」
口先はいつもどおりだ。なのに、腰が引けている。
「怪我でもしたんじゃないの?」
歩を進め、小五郎に近づいた。地上からココまで、一息で登ってきたのだ。どこかを傷めていても、不思議じゃない。
窓の側まで来たところで、私はようやく気がついた。
「よく、登ってこられたわね」
ココは4階だ。地上から10メートル以上はあるだろう。
この人は幼い頃から、高いところを怖がった。足がすくみ、目眩がして腰が抜けそうになるらしい。澄ました表情よりも、不自然に開かれた膝が雄弁だ。
「どってことねーよ……」
恥ずかしそうに顔を背けて、照れたように薄っすら笑っている。昔から努力とか情熱とかを、私に悟られるのが嫌いなのだ。
こういう一面があるから、この人の妻は、やめられないのかもしれない。
──可愛いひと。無理しちゃって。
小五郎に寄り添って、ポケットにするりと手を滑り込ませた。隠されている拳に、指先でそっと触れる。すこし離れた距離をつめるのに、年甲斐もなく緊張し、心臓が跳ねた。
「あなた……ありがとう」
我ながら、気持ちが悪いくらい素直な感情が、口から出る。
そんな柄にもないことが言えてしまうくらい『俺だけだ……』という小五郎の言葉が、私の心臓をまっすぐに貫いていた。
この人の心に、あんな情熱が残っている。それが嬉しくて、自分もなにかを捧げずにはいられない。
「礼ならあの坊主に言えよ。アイツがいなきゃ、正直ヤバかった。誰が後ろで糸を引いてるのかは、知らねぇがな」
硬い表情で小五郎は言った。まるで黒幕を知っているような口ぶりだ。そして、少し拗ねているようにも聞こえた。
私は、小五郎の右手を握ってポケットから取り出し、目の前で1本ずつ指を開いていった。あちこちに傷が付いていて、じっとりと汗を掻いている。
思わず、慈愛の塊みたいな息が、口から漏れた。
愛おしい。
そんな感情が、肚の底から湧き出てくる。たまらず顔を手のひらに近づけると、錆びた鉄の匂いがした。
知らない男に刻まれた、不快な記憶を上書きするように。
大切に吸い込んで、そこに口付けをした。
2
タクシーは夜の街を走ったり止まったり。根気よく進んでいる。
映画館を出てすぐ、小五郎はタクシーを停めた。
「英理は俺が送っていく。お前ら二人で帰れるな?」
「うん! うん!」
小五郎の有無を言わせない口調。蘭は大袈裟に、2回頷いた。
今日に限って異を唱える者など、いるはずがない。
チカッと料金のメーターが動く度に、少しだけハラハラしながら、小五郎の顔を見る。
私は、もちろんお金など持っていない。今夜は夫の懐だけが頼りだ。
誰かの財布を当てにするなんてシチュエーションは、久しぶりだった。小五郎の涼し気な表情を見て、私は胸をなで下ろす。なぜか妙にウキウキしてきた。
小五郎は隣で、何やら考えごとをしている。先ほどまで映画を観ながら、鼻の下を伸ばしていた人とは、まるで別人だ。
私の視線に気がついたのか、咳払いを一つして、彼は口を開いた。
「……連れ去られるときよ。栗山さんと同じように、スタンガンでやられたんだろ。どこをやられた?」
そんな物騒な話。こんなところでする必要があるかと思ったが、なにか考えがあるのだろう。私は記憶を辿らせる。
「……腰の少し右辺り、かしら」
そう答えると、小五郎は呆れたような溜息をついた。
「後ろからかよ……そりゃあ伝家の宝刀も、役立たねぇわけだ」
「二人組とは思わなかったのよ!」
「冗談抜きでドジじゃねぇか。痛むのか?」
「大丈夫よ。明日診てもらうから」
「痛むのかと聞いてる」
「……少しだけ、ね」
夫の畳み掛けるような強い問いかけ。私は怯んで、つい素直に答える。すると小五郎は、暗い車内で指を絡ませてきた。
「あとで見せろよ。言っとくが、変な意味じゃねぇぞ」
その言葉に、私の身体が硬直する。そして今日はじめて、自分の下着がどんなものだったのか、気になりだした。
3
「どう?」
煌々とした明かりの灯ったリビング。黒いタートルネックの裾を捲り上げて、私はくるりと背を向けた。小五郎は屈んで、顔を近づけている。
「……」
夫の小さな呼吸に、素肌をくすぐられる。
傷のあたりに手を添えて、彼が息を呑むのがわかった。ギリ、とか、ガリという奥歯を噛む音が聞こえる。無言の緊張感に不安になって、私は焦って答えを急かした。
「どうなの?」
「……水ぶくれになってるな。小さいが」
「そう」
ホッとして、眉を開いた。
いや、別にホッとなんてする必要はない。嫁入り前の、若い娘じゃあるまいし……いまさら見えない傷痕が一つ増えたところで、どうってことはない。
服を直しながら、私はそんなことを思った。
「おい」
低く、真剣な声が、後ろから投げられる。
振り返ると、二つの目が私を心配そうに睨んでいた。その瞳はゆらゆらと揺れている。
「俺は、間に合ったんだよな?」
「……ええ」
「本当だな? お前はすぐ嘘をつく」
「見たでしょ? 間一髪。助かったわ」
間一髪の文字どおりだ。スタンガンの電圧で、前髪の焦げる匂いがするくらい。本当のギリギリセーフだった。
小五郎の視線が、私の太腿辺りををチラリとかすめる。そしてそのまま、ゆっくりと目をつむった。
まるで、感情を眼球の裏に閉じ込めるような動きだ。彼の傷ついた手が、微かに震えている気がした。私には、彼が何を考えているのか、すぐに分かった。
ああ、この人は。まったく……しようのない。
私は目を細めて、両腕を大きく広げてみせた。
「いらっしゃい」
「……なんの真似だ?」
小五郎は眉根を寄せ、怖い顔で見てくる。
「抱いてあげるわ」
「……ハハ」
「まさか、このまま帰る気じゃないでしょうね?」
「……」
「今日抱かないで、一体いつ抱くの? 女心がわかってないのね」
「……ハハハ」
夫の乾いた笑いが、虚しく響いた。
この人の心が、一人で遠くへ行ってしまう前に、やるべき事をしておかなければならなかった。
小五郎は、自分を責めている。
「私は据え膳じゃないけど。食べてもらえなきゃ、少し傷つくわ」
可愛げのないことを言っている自覚はある。キレイな表情を作れていないことも、誘い方が下手くそなのも、わかっている。
それでも、しなければならなかった。
「……明日は槍が降るだろうなァ」
小五郎の手がゆっくり伸びてきた。興味の薄そうな言葉とは裏腹に、その腕はぎゅうううっと私の背中を強く圧迫する。
とても冷たい手だった。私は覚悟を決めた。
4
小五郎のキスが好きだった。
私はベッドの上で、大きな体に馬乗りになっている。夫自身を受け入れながら、彼にのしかかって舌を絡めた。
別に攻めているわけじゃない。腰の火傷を庇うためだ。
服もストッキングも下着もメガネも、すぐに何処かへ行った。髪は解かれ、バラバラに散らばっている。廃ビルに居たせいで、肌も髪も埃くさい。けれど、そんなことはどうでもよかった。
私はじっとり汗を掻いているというのに、彼の肌は、涼しげに乾いている。そのことのほうが大問題だ。
何年ぶりだろう? 夫と肌を重ねるのは。
『別居中とは言え、旦那とは時々二人で会ってるんでしょ?』
そんなことを言う友人がいた。答えはノーだ。
私たちは、そんなに器用じゃない。いがみ合い、喧嘩をしながら肌を重ねるなど、そんなことは生まれ変わらないと難しい。
過去に何度か、小五郎が気まぐれに誘ってくることはあったが、私はそれに応えなかった。もう少し、仲の悪い夫婦でいさせてほしかった。全部が全部、私の我儘だ。
夫の変わらない愛情を知っているからこそ、甘え続けた。その結果が、夫婦として失われた、この10年だ。
「あなた……」
小五郎の髪を両手で掴み、ぐちゃぐちゃに乱す。同じように心も乱してほしいと、私は願った。
小五郎は、きっと別のことを考えている。
「あなたぁ……」
小五郎の閉じられた瞳に、私はほどんど泣きそうになりながら、腰を揺する。誘拐されて、乱暴されて、服をひん剥かれそうになっても、涙の一滴も出さなかったこの私が。
「英理……」
小五郎の声がかすれて、切なげに耳に響く。小五郎の両手に頬を包みこまれ、私は唇を開いて彼の舌を受け止めた。
「ハァ、ハァ……」
私の乱れた呼吸が、儚く部屋に散っていく。小五郎の表情で、彼が達したことがわかった。乾いていた肌が、少しだけ熱く湿っている。
「オイ……あんまり弄ぶなよ。一体誰に仕込まれたんだ」
小五郎は苦く笑った。髪が乱れ、目は憂いに満ちている。
私は彼の胸に体重を預け、呼吸を整えてから、小さく口を開いた。
「……私、こんなだから。よく、恨みを買うでしょ?」
小五郎は寝っ転がったまま、私の髪を梳いている。
「そりゃ少しは怖いけど……万が一のことを覚悟してないわけじゃないの」
彼を傷つけると分かっていても、私は刀を抜く。
「でも私、あなたを信じていたわ」
「……やめてくれ」
小五郎は、私の鎖骨に顔を埋めた。背中を抱く力が強くなる。
泣いているのかもしれなかった。
5
10年前、私は夫に撃たれた。
あの頃、刑事だった小五郎は仕事に奔走していて、帰宅できないことが多かった。そんな夫に着替えを届けるため、娘を連れて、夫の職場へ行ったときのことだ。
幼い娘の手を引いて、薄暗い署内を歩いていた。すると突然男が飛び出してきて、私はいつの間にか捕らえられていた。とっさに娘を突き放すことに夢中で、自分の身を護るどころではなかったのだ。
その男は、小五郎が逮捕し、身柄を拘束していた被疑者だ。男は見張りのスキをついて逃げ出し、たまたま居合わせた私を盾に、逃亡を図ろうとしたらしい。
冷たい銃口が、こめかみにグリっと当てられる感覚を、いまでもハッキリ覚えている。生涯ではじめて味わう、死の恐怖だった。
夫は、私の脚をめがけて弾を放った。銃弾の衝撃波は脚をかすめて、人質となった私は倒れ込み、重力によって解放される。彼の判断は的確で、私は命を救われた。
この事件をきっかけに、彼は変わった。刑事を辞めると言い出したのだ。
『色々問題起こしちまって、居づれーんだ!』そう明るく言っていた。もちろん理由は他にある。
一言でいえば、彼は臆病になった。
彼は、自分の両腕に抱えられる人間を、命をかけて守る男だ。だからこそ、あの事件は自分自身が許せなかったのだろう。
私が家を出たのは、彼の腕の中から飛び出すため。私のせいで、彼に保守的な人生を歩んで欲しくなかった。どうにか立ち直ってほしかった。
けれど、結局彼は刑事を辞めた。蘭は夫のもとに留まると言い張って、私はいつの間にか、帰る場所も、そのタイミングも失っていた。
そしてそのまま、弁護士の仕事に忙殺されていった。寝る間も惜しんで働くような環境では、独り身のほうが、正直気が楽だった。私はそうして自由な環境に甘え、この部屋にすっかり根付いてしまっていた。
今思えば、悪手だったのかもしれない。当時は様々な感情が複雑に絡み合っていて、いま覚えているのは、これらの事実だけだ。
彼の片腕を自由にするため、私は彼を突き放した。
私が弁護士としての地位を確立していくにつれ、今度は私自身が恨みを買うようになり、そして今回の事件が起きた。
皮肉なものだ。
6
「……なんで俺が、慰められてんだ。普通、逆だろ」
小五郎は顔を埋めたままだ。あやすように、しばらく彼の頭を撫でていた。
「私は平気よ」
「どうしてそんな、タフになっちまったんだか」
「そうね。私、たくましくなったでしょ」
「放っておけねぇよ……」
泣き言のような声を聞いて、私は胸がぎゅうぎゅうに締め付けられる。小五郎は私を抱く手を緩め、瞳を覗き込んできた。
「ホントにヤバかったんだぞ。ドジなんだもん、お前」
「大丈夫よ。あなたがいるもの」
「……ひっでぇ女!」
私は小五郎に追い打ちをかける。
スタンガンを当てられた感覚は、まだ身体に残っていた。
身を潜めて怯えた、あのときの恐怖。それらは独りのときに蘇ってくるのだろう。彼の胸の中にいる間は、私は幾らでも強気でいられる気がした。
「頼りにしてるわよ。元刑事さん?」
私が首をかしげて言うと、小五郎はあきれた顔で笑っていた。その顔をみて、私は満足する。これでよかった。
小五郎は上体を起こした。私は彼の上に座る格好になり、彼自身のモノをまだ飲み込んだままだったことを思い出す。彼がもぞもぞと動くと、ヌルリとそれは抜けた。
「さて。お前に聞いておかなきゃいけない事が、あるんだがな」
彼は性器に付けられた避妊具を外し、私に見せつけるように、その口をぐるりを縛った。ティッシュペーパーでそれを包んで、ゴミ箱に手荒く投げる。
「ずいぶん用意がいいことで」
「予測外の事態もあるでしょう。万が一のためよ……」
それは、いつか思い出せないくらい大昔から、ナイトテーブルに忍ばせていたものだ。なぜ持っているのかと聞かれたら、用心のためだとしか、言いようがない。
「万が一ね。そいつは結構だなぁ」
「でも一つしかないわ。だから、今夜はもうおしまいよ」
「そうはいくか」
小五郎は私の胸を鷲掴みにしてきた。遠慮がない手つきだ。
「ちょっと!」
「お前の裸を見ていいのは、俺だけのはずなんだけど?」
夫の瞳は、ギラリと燃えていた。
当然よ、と言ってあげるべきか迷って、少し困ってみせる。すると、彼の股間がムクリと膨れるのがわかった。
ああやっぱり、可愛いひと。
小五郎は、私の胸に吸い付いてくる。
私は恍惚としながら彼を胸に抱いて、少しだけ泣いた。
おわり