バレンタインディナーの夜


夫とこっぴどい喧嘩をしたのは、
1ヶ月も前のことだ。



2月のデパートは浮かれている。
気晴らしに訪れたはずのショッピングだったのに、バレンタイン1色の目に眩しい色使いに、私は居心地の悪い思いをした。
ああ、イヤだ。
長年の習慣はそう簡単に消えてはくれない。



私は娘に、高級チョコレートを託した。
『お返し期待してるわよ』の無言の圧力が込められた、バカ高いブランド品。
夫は、そのメッセージを汲み取れないほど風情のない人じゃない。珍しく「飯でも、どうだ」と、短いメッセージを送ってきた。
本日は、2月14日。


***


指定された駅で待ち合わせをした。
こんな始まり方はいつぶりだろう。そっぽを見ながら待つ彼の姿は、昔とちっとも変わらない。
背の高いシルエット、着古したコートの渋い色。どこか憂いのある姿は目を引いた。
黙っていればそこそこイイ男だ。それは認める。
私はもう少しで、彼の腕に手を絡めてしまいそうになった。



連れてこられたのは、洒落たフランス料理店。突然の誘いになんの準備もできず、脱いだコートの下は、いつもと同じスーツだ。彼もそうだけれど、今夜に限っては男の服とは価値の重さが全然違う。
引かれた椅子に腰を掛けて、私は口を開いた。

「いい雰囲気ね。蘭にでも聞いたの?」
「デートで使う店を、娘に聞くかよ」

デート、という言葉に私はドキッとした。そのあと少しだけむっとした。
対象は私だけとは限らないのだ。

「よく予約が取れたわね」
「これでも、コネは色々持ってんだぜ」

夫は言う。
ムズムズと痒そうな頬。私は「それって、女?」と聞こうとして、やめた。喧嘩の続きをするなら料理を食べてからだ。せっかくのディナーを味わう前に、台無しにしたくはない。

先月の家族での会食は、険悪なムードのまま解散した。特に深刻な理由もなく、いつもの売り言葉を買われただけだ。
それ以来、家族での食事会は開かれていない。夫婦2人きりのディナーは、もっとずっと久しぶりだ。

「顔が広いのね。結構ですこと」

私は慣れない笑顔を作った。
柄にもなく緊張している?
夫婦なのに、変な話。



***



今宵はバレンタイン仕様の特別メニュー。
コースの名前も料理の名前も甘ったるくて、私は目を泳がせる。
小五郎はなんでもない顔をして、ワインを選んでいた。飄々としていてわからない心の内。身じろぎをするのは私だけ。

「カップルが多い店ね」

ドライシェリーで乾杯をして、喉を潤す。
これではまるで、バレンタインの夜にデートをする仲の良い夫婦だ。
私たちは上手く擬態している。
実際は別居中のいざこざ夫婦なのに。

「今夜は、特別だろ」
「蘭とコナン君も、連れてくれば良かったのに」
「野暮なこと言うな」

……聞かなきゃよかった。
今夜の夫は口説きモードだ。
私は乗るか反るか、少し迷った。



***



食事は文句なく美味しかった。
時折彼が投げてくる視線と言葉で、私の舌は麻痺していたけれど。
娘の話や、仕事のこと。昔の思い出話。こんなに会話をしたのは、本当に久しぶりかもしれない。
会話の展開によって喧嘩の火種が生まれそうになると、小五郎はタバコの火を始末するように、片っ端から揉み消していった。
私はそのたびに口をつぐんだ。


食後のコーヒーの香りが漂う頃。
あら、どうして喧嘩をしていたのかしら?
なんて気分にさせられる。
夫のずるいテクニック。


「郵便屋さんは、引退したの?」


私は彼と喧嘩をすると、そわそわとポストを見る。そんな癖がついていた。
中身は一輪の花だったりチョコレートだったり、大昔には映画のチケットだったこともあった。
その古風な謝罪の手法は、ささくれた私の心をいつの間にか柔らかくほぐすのだ。

夫は、こう見えて女の扱いが上手い。
私はそれにヤキモチを妬いて、つまらない喧嘩を吹っかける。私は男を怒らせることにかけては、テクニシャンだ。
前回の喧嘩の時も原因はソレだった。

「差出人不明のチョコを食っちまう、誰かさんには危なっかしくてよ」

ああ、確かに。
私はあのときのことを思い出す。口の中に刺激が蘇ってきた気がして、慌ててコーヒーを口に運んだ。

「……悪かったわね」
「ドジ」
「あんなことするの、あなたくらいだと思うじゃない」
「お前の周りは、気が利かねえ男ばっかなんだな」
「あなたが気障なだけよ」

夫のコーヒーカップの中身の量を気にしながら、私はペースを合わせる。
これを飲み終わったら、どうなる?


「あんなバカ高ぇチョコ、俺の口には合わねぇんだけど」
「可哀想に。貧乏なのね」
「手作りだってしたんだろ?懲りもせず」
「もう、やめたの」

嘘だ。自宅の冷蔵庫には、練習したチョコレート色のパンプディングが、たくさん入っていた。

「フーン?」
「私ね。身を粉にして働いたお金で、高級チョコを配るって決めたのよ。それも大人らしくていいでしょう?」
「モロモロだったり分離してるのも、愛嬌があって可愛いぞ」
「イヤよ。そんなのもう柄じゃないわ」

この人と話していると、自分のクールなキャラクターを見失いそうになる。
彼の中の私は、世間ずれしていない少女時代のままなのだろうか。

彼はカップを置いた。中身はついに空だ。

「じゃ。処理しにいくか」
「処理って。爆弾じゃないんだから」
「食えばわかる」
「……まだ練習中なのよ」

私は観念して白状する。
今夜の夫は固い意思を持っていて、張り合うのは分が悪すぎた。

「毒入りチョコより、酷かねぇだろう」
「あなたも、胃の洗浄が必要になるかもしれないわよ」

どんな自虐だ。だが自分で言ったほうが、ダメージは幾らかは少ない。
小五郎はいつもの3枚目の顔を封印して、私をじっと見た。

「口実だよ」

なにがクールだ、高貴な女王様だ。
私は顔が熱くなり動揺して下を向いた。

夫に口説かれてなびく、ただの小娘だ。




おわり