事務所近くのドッグカフェで、朝から嫌な相手と出くわしてしまった。彼は、空いたばかりの対面の席に腰掛けて、私を見る。
「……なぁに? その目つきは」
私は何でもない風で、紙ストローを口に運んだ。夫の毛利小五郎も、注文したての熱いコーヒーを啜った。そこは先程まで、愛猫のかかりつけ獣医さんが座っていた席。獣医さんとはいつものようにゴロちゃんの相談事をして、いつもの旦那の愚痴をこぼし、ちょうど別れたところだった。
夫は偶然その様子を見たらしい。それで、この席に腰をかけてきた。なにやら言いたいことがありそうな目。けれどはっきり言いもしない。こんな目つきを、最近見たことを思い出した。
「バカね……。あなたまで、不倫だ浮気だのって、騒ぐつもり?」
は? と。小五郎は、キュッと眉毛をあげた。
「ちゃんと説明するわね。あの人は、」
「ただの獣医だろ? 俺が解らねぇわけねーだろ。バァカ」
ぴきっと、私のこめかみが引きつった。私に冷静さを失わせる事にかけて、このひとの右に出る者はいない。
「この俺を誰だと思ってんだよ」
「じゃあ、名探偵さんは何を言いたいのかしら?」
「フッ。早朝にたまたま立ち寄った喫茶店で、イヤ~な相手に出くわしたって事だけだな……」
「こっちのセリフだわ! なら、わざわざ私の行きつけのドッグカフェに来ないでくれる?」
「しるか。お前だって別に犬なんか飼ってねーくせに」
「あの人に会うためよ。悪い?」
私が息巻いて言うと、小五郎はコーヒーカップを持ったまま、不自然に黙った。私は自分の言葉を反芻する。
──あの人に会うため。私が沈黙の意味にハッとすると、彼の目は細く、ねちっこい目つきに変わっていた。
「あ、いえ……そういう意味ではないんだけど」
「そういう意味、ってなんだよ?」
「不倫とか浮気とかいう話じゃないって事」
「さっき聞いたぞ」
小五郎はふい、と視線を地面の石畳へやり、そのまぶたには陰が落ちた。
「だ、だから。ゴロちゃんの事で相談があって。私が営業時間に行けないものだから、先生が都合を付けてくださって、」
「別に知りたくねーな……」
「!」
そっけなく言い放った小五郎をよそに、私の意識は、唐突に下半身へ向かされた。
スカートの裾あたりの膝のあいだに、何かが触れたのだ。ドッグカフェなので、どこかの愛犬がテーブルの下に迷い込んだのかと思ったのだけれど……どうやら違う。
「ちょ、ちょっと!」
私は焦って小声で抗議した。
「……」
「聞いてるの? ねえ、あなたってば」
「ン? 何だ」
視線の先の表情は変わらず、そっぽを向いたまま彼はコーヒーを啜っている。けれど、わざとだ。この私が解らないわけがない。お行儀の悪い彼の脚が、私の内股を割った。
「~~~!!」
「ははっ。ヘンな奴」
大胆不敵に小五郎は鼻で笑った。私の薄手のストッキングが、スーツの生地にこすれて、負けている。
私は、こんな公共の場でヘンな声を上げるわけにいかない。脚を蹴るなんて不作法な真似も断じてできない。
ただただ黙って自分のストローをくわえる事しかできない。紙でできたそれは、すっかりふにゃふにゃになっていた。まさか嫉妬? そんな事、真っ向から聞くのは嫌。彼が正直に言うわけがないし……聞いた後が怖いし。
私は汗をかきながらも、苦しまぎれに言った。
「躾がなってないわね。……ゴローちゃん」
「フン……。犬扱いすんな」