一
モテることが嫌な男などいない。まして女将は美人だった。
小料理屋の女将は小柄で目が大きく、ちょこまか働くシマリスみたいな女だと思った。
「毛利先生? 今日は少々ペースが早いのですね」
和服姿の女将は菜箸でさっと盛り付けた小鉢をカウンター席の小五郎へ差し出した。熱燗のお猪口からポタリと酒が垂れ、小五郎はつまらなさそうな顔をする。
「そお? 女将が言うならそうなのかも」
「事件のことですか。それともプライベートで何か嫌なことでも? もう一杯いかがです」
女将のつぶらな瞳に見つめられ、小五郎は鼻奥から下心のある声を漏らした。
「んふふ。もう今夜はだいぶ酔ったかな。女将、勘定頼むよ」
「あら、もうお帰りに? 少々お待ちを」
女将はパタパタと奥へ消え、厨房の若い男になにやら声をかけている。
「わたくしも近くですから、ご一緒させて」
女将はエプロンを外し、小さなバッグを持って奥から顔を出した。
「今日はもう店じまい? 若いのに任せても平気なのか」
「ええ」
そうだ。モテることが嫌な男などいない。
小五郎は妻帯者だが、妻は十年も前に家を出てからそれきり別々に暮らしている。会うのは年に数回、それも家族揃ってで二人きりで会うことなどまずない。実質的にコブつきの独り身のようなものだ。
並んで歩く背の低い女将の肩を横目で見ながら、あいつなら……と思った。あいつなら背が高いから、並んで歩くと鼻先に髪の香りがすると。
夫婦として未だ成立しているかと聞かれたら、少々難しいと言わざるを得ない。気持ちだけではうまくいかないことは小五郎が一番わかっていた。一人娘の甲斐甲斐しい努力だけが、家族という括りに空しく花を添えた。
しかし最近、娘が家族の食事会を企画しても妻はちっとも乗ってこない。電話には出るが、どこか気のない返事で素っ気ないと蘭は愚痴をこぼしていた。余程忙しいのか、それとも何か事情があるのかもしれない。
歩道で女将と他愛もない立ち話をしながら自宅の前に着く。細い階段を見上げると、階段の途中、二階の探偵事務所の前で立ち留まる人影があった。
長身のスラリとした女のシルエット。見間違えるはずもない、妻の姿だった。お互いが同時に気がついた。こちらを見て英理の表情が呆けたように固まるが、すぐにいつもの聡明な表情になる。
隣で腕を絡ませた女将は、佇む英理を見上げながら、勝ち誇ったような微笑みを浮かべていた。
「あら、こんばんは。毛利先生のお知り合いの方でいらっしゃる?」
「いや、まぁ、なんつーか……」
英理に向けられた違和感に気をとられて小五郎は言い淀む。英理は一段ずつゆっくりと階段を降りながら口を開いた。
「身内の者です。なにかご迷惑をおかけしましたか? 女性には見境がない男なもので」
歯切れの悪い小五郎の声に被せるように英理は言った。
「そんな、とんでもない。毛利先生はいつも紳士な振る舞いでいらっしゃいますのよ」
「へぇ、そうなんですか。この男がねぇ? 今夜はわざわざ送ってくださったのかしら。どうも御迷惑をおかけしました」
『わざわざ』を強調するように言う英理に、小五郎は頬をポリポリと掻いた。
「……わたくしはこちらで失礼致しますね。毛利先生、また」
「あ、あぁ。ありがとな」
女将を見送り、小五郎は特に何も言わず階段を登ると、英理はその後を自然についてくる。鍵を開け、英理を家の中へ招き入れると、小五郎はパチリと部屋の灯りを点けた。
「何しに来たんだか知らねーが、とりあえず入れよ」
「蘭、居ないんでしょ。ここでいいわ」
小五郎はアルコールの濃そうなため息をつくと、靴を雑に脱ぎ捨てて英理を追い越し部屋に上がった。
「……眼鏡、どうしたよ。またドジをやって割っちまったのか?」
違和感の原因はそれだった。小五郎の知る限り風呂と寝るとき以外は片時も離さないはずの眼鏡を、今夜の英理はしていなかった。それだけではない。髪型もいつものアップスタイルではなく低い位置で一つにまとめているだけで、身なりも平常と違いスーツではないラフな普段着だ。英理の肩がいつもより小さく見える気がした。
「別に。ただの気分転換よ」
「フーン。どこの誰かと思ったぜ」
「腕なんて組んじゃって。随分と親しげなのね」
英理は俯いたまま顔を上げず、声は部屋の底に沈むように低く響いた。
「そう見えた? 美人だろ」
「そうね。あなた遊ばれてそうね」
「おれ意外とモテるって。知ってるか?」
「男ってほんと馬鹿」
正面から見ると、英理の化粧はいつもより薄く風呂上りのように艶があるように見え、今夜は酒を飲みすぎたと小五郎は思った。
「……見りゃわかるとおり、飲み屋の女将だよ。たまたま帰りが一緒になっただけだ」
「あなた、好きでしょ。ああいう可愛らしい小動物系タイプ」
「美人が嫌いな男はいねーだろ。で、なにしにきたのお前」
「蘭が空手の合宿で居ない隙に、羽を伸ばそうってわけ? それはそれは邪魔して悪かったわね」
英理の言葉自体はいつもどおりなのに、その声には鋭さがまるで無くしおらしかった。目線を三和土に落としたまま動かない英理を見て小五郎は迷う。
「オイ……何があった?」
「別に」
「ミエミエなんだよ。どうした、厄介事か」
「どうもしませんけど」
「それ、おれの目を見て言えるか?」
小五郎は頑なな英理の態度に苛立ち、頰を両手で包んで上を向かせる。英理の視線は部屋の左隅を泳いだ。
「わたしに何があろうと、あなたには関係ないわ」
「夫婦なんだから、関係ないとは言えねえだろ」
「……夫婦じゃないわよ」
「なんだって?」
「こんな状態で、夫婦だなんて言える? 抜き打ちで来てみればあなたは他所の女と仲良くやってるし、妻だと紹介すらしないじゃない」
「それとこれとは……」
ばつの悪そうな小五郎の声に、英理は頭を振って小五郎の手を振りほどくと玄関のドアノブに手をかけた。
「気になるなら自分で調べれば? バカ探偵‼」
捨て台詞を吐いて英理は暗闇に消えていった。
二
あんな男、欲しけりゃくれてやる。
英理は腕組みをして米花駅のホームで電車を待っている。最終電車らしく電車同士の連絡待ちで遅れていた。
腕を組まれて鼻の下を伸ばす亭主のニヤついた顔、こちらを挑戦的に見上げる女の目つきと艶美な微笑みが頭の中に何度も浮かんでは消えていく。
小五郎と英理は幼馴染で子ども時代からの古い付き合いだ。彼は学生時代から陰でモテるタイプで、好きでもなんとなく友達には言い出しにくいタイプの男子だった。つい友達に相談しようものなら、あんなののドコがいいの⁉なんて言われてしまうような。
『小五郎くんと付き合ってるの?』
『小五郎くんと本当にただの幼なじみ?』
そう何人もの女子からコッソリ聞かれたことがある。もちろん只の幼馴染の腐れ縁だと、英理は何度も答えてきた。正直に答えるたびにチクチクと正体のわからない棘が少しずつ刺さることに気がついたのは、高校を卒業するころだったか。
だから英理は慣れている。普段ならあんな場面見たって鼻で笑える余裕があるのだ。しかし今日はガラにもなく無防備な状態だった。負ったダメージは意外と深そうだと手のひらに食い込んだ爪のあとを見ながら英理は思う。
弱き者には手を差し伸べ、決して自分からはそれを語らない。普段はだらしがないのに、いざという時は切れ者。これまでの人生でたくさんの人に出会ったけれど、あんな人ほかにどこにもいなかった。
あのとき妻と名乗ったところで、何の効果も無いことを英理は知っている。愛されていない妻だと、あの女の目が言っていた。
困った時にだけ助けを請おうなどと調子の良いことを考えるな。その横で彼の目もそう言っていた気がした。
――確かに小五郎の言うように、英理は厄介事に巻き込まれている。
二ヶ月前、ある離婚事件の代理人になってからおかしな事が起こり始め、つい先日には脅迫じみた内容の手紙まで届くようになっていた。少々身の危険を感じる内容だ。
英理は今夜、ビルの閉まる時刻ギリギリまで仕事をしたあと、持参した私服に合わせて髪とメイクを直し、変装とまではいかないが、目眩しくらいにはなるだろうと眼鏡を外してコンタクトを入れ、電車を使ってここまで来たのだった。
金曜の零時すぎ、乗車率二百パーセントの電車がホームに滑り込んでくる。混んだ電車なら万が一つけられてもまける可能性が高いだろうと英理はすこしホッとしていた。
電車のつり革につかまりながら窓に映る自分の姿を見つめると、くたびれた女の姿が映っていた。薄化粧だと見た目だけでなく内面もどうも弱気になる気がする。
――情けない顔しちゃって。化粧はオンナの鎧とはよく言ったものだわ。
自宅の最寄駅に着くと英理は小走りで自宅へ向かう。力を緩めると目頭が熱くなり、年甲斐もなく涙が溢れそうになるのを英理は走ることで誤魔化そうとしていた。
あの人の元を去ったのも、戻ってきてくれと求める夫の願いを聞き捨てたのも、すべて自分だった。それでも英理はどこかで繋がっていると信じていた。
彼は私の物だと喚き叫びたかった。
三
小五郎は翌朝になってすぐに英理の秘書栗山緑との約束を取り付けた。英理の身の回りのことなら彼女に聞くのが手っ取り早いし、逆に言うならば彼女以外に聞くあてはないのだ。
彼女は基本的に英理の味方だけれど、上司のすべてを盲信しているわけではない。疑問を持ち、それを指摘する能力を持っており総合的に見て賢明な判断ができる聡い女性だと小五郎は買っていた。
「毛利さん!」
指定したカフェに先に来ていた栗山は、手を挙げて微笑んだ。
土曜日の朝のカフェテラスには年代の幅広いカップルが多く、栗山と小五郎は客観的に見てそういう関係に見えてしまわないだろうかと若い彼女を気遣い余計な心配をしてしまう。
「悪いなぁ。休みの日に急に呼び出したりして」
「いいえ、大丈夫です。一人でショッピングでもしようかなって思っていただけですから」
小五郎は深く腰をかけてアイスコーヒーを注文すると、大きく背伸びをした。
「いい天気だし、デートの予定でも入ってたらと思ってさ」
「あら、今日は毛利さんとデートですよね。……なーんて。妃先生に知られたら大変」
いたずらっぽく笑う。彼女はきっと男性の引く手数多なのだろう。二十代も後半に差し掛かり、自信がみなぎる時期特有の余裕の表情からそれが少しうかがえた。
「あいつが俺のコトなんて気にすると思う? 栗山さんならよく分かってるはずだけど」
「毛利さんに、普段の妃先生を見せてあげたいですね。色んな意味で」
「もうきっと、君の方がアイツのことをよく知ってるよ」
小五郎はアイスコーヒーの氷をかき混ぜながら笑った。もしも異性の秘書であったのなら、きっと自分はこんなに心穏やかでいられなかっただろう。
「私は先生に憧れて今の事務所にご縁を頂いたんですけれど」
「ほー、それは初耳だ」
「綺麗だしキレ者だし、当時から業界じゃ有名人でした。でも……」
栗山は少しずつ言葉を選ぶように話す。
「あんなに美人で目立つ方だと、謂れのない恨みを買ったり面倒に巻き込まれたり、見ていて気の毒になる事もありますね」
「だろ? あいつ昔っからそういうタイプでさ」
英理は学生時代からよく目立つ女だった。頭がよく容姿がよく、教師にも大層気に入られる絵に描いたような優秀な女生徒。もちろん取り巻きも多かったが一部の人間のやっかみを買うことも幾度かあった。小五郎は英理の側にいることで、本人の気づかぬところで守ってきたつもりでいた。
しかしやがて英理は弁護士になり小五郎のもとを飛び立っていった。元来気の強い性格の英理だが、学生時代とは比べ物にならない人間関係の複雑さや責任の重さに順応するようにますます強い女になっていくのを複雑な思いで小五郎は見ることになる。小五郎の知る素顔の英理が少しずつ消えていくのを遠まきに感じていた。
「ええ。妃先生は慣れてるから平気よって笑っていましたけど、今回のこと、私はちょっと心配で」
「まぁ、そうだよなぁ」
栗山は夫である自分が当然知らされているものだと思っているらしく、少しの相槌を挟むだけで望みの情報をくれた。こんなに簡単な仕事もそうない。
「手紙も、脅迫罪が成立するほどの内容ではないんです。警察にも相談して、先生も一応用心しているみたいなんですけど……」
そう言って視線をこちらに投げてくる。
手紙、脅迫、警察
物騒な言葉に慣れているはずの小五郎も、いざ身内のこととなると背中がヒヤリと冷たくなった。
「ボディガードでも雇えればいいんですけどね。ツテがなかなか……毛利さん、どなたかご存知ありません?」
そう言って再び意味深な視線を送ってきて、ようやく小五郎は栗山の真意を理解した。
「アイツは強情張りだから。おれが下手に動くと嫌がると思うぞ」
「妃先生には内緒で遠くから見守るだけでも、安心なんですけれどね」
そして今度は、ウインクしてみせる。
「おれは、自分の私情で仕事をしない主義でね」
小五郎はキリッと真面目な顔をして栗山を見つめると、彼女はまっすぐに迷いのない目で小五郎を見つめ返してきた。
「では、依頼人は私ということで。いいですよね? 他でもない妃先生の身の安全のためですもの」
「可愛い栗山さんからの依頼なら無下には断れないよ。仕方ねぇなぁ」
やはりおれの目に狂いはなかったと、小五郎は心の中でほくそ笑んだ。
四
「朝は九時半に出勤ね。今日の法廷は地裁で十時半、十一時、十三時半と三件。その後も顧問会社との打ち合わせが一時間刻みね……さーすが売れっ子先生」
小五郎は栗山から預かった英理のスケジュール表を確認しながら、レンタカーの車内で朝食のサンドウィッチをかじっていた。
別の書類の束を取り出す。今度の事件の詳細が書かれたレポートだ。時系列に沿ってあらましが書かれていて、栗山の几帳面な性格がよく表れていた。
顧問会社の役員からの依頼で、夫側から離婚をしたいという相談を受けた英理なのだが、相手方の妻が強烈な人物でヤキモチ妬きを通り越した支配欲が異常らしかった。離婚の申し入れなど到底考えられない妻は、恨みの矛先を彼へではなく、彼の代理人である英理に向けるようになったそうだ。
脅迫状のコピーがスケジュールの紙にホチキスで留めて添えてある。些細なことだがそんなことで本当に手慣れているんだなと感じた。
『あなたに彼は渡さない。もうすぐ天罰が下る』
なるほど、これでは警察も動きようがない。差出人は明白だが、害悪を与えることを明文化していないし天罰なんてのは吉凶禍福に関することでしかない。
「謂れのない恨みね……」
煙草を唇の間に咥えながら考える。こうすると落ち着いて考えがまとまりやすかった。
弁護士も探偵も、たしかに恨みを買いやすい仕事だろう。小五郎自身にも何度か覚えがあった。
しかし、栗山が見ていて気の毒になると言っていたが、それはちと多すぎやしないだろうか。何かドジを踏んでいるのかと、ふと最後に見た英理の顔を思い浮かべようとして小五郎は首を左右に振る。私情は禁物だ。
女が恨みを買うってのは大抵相手は女だ。依頼した弁護士が異性で、しかもあんな女だから余計に気に障ったのだろう。この奥さんは依頼人と英理との関係を疑ってるわけだ。それならば、やりようはある。
ブルーのクラシックカーが駐車場から姿を現した。こんな車は都内では珍しいから目立つし尾行は容易い仕事だ。小五郎は車をゆっくりと発進させた。
五
小五郎が英理のボディガード兼尾行を開始して二週間が過ぎた。
小五郎が見ていたのは、ほとんどが朝から晩まで仕事に明け暮れる姿ばかりだった。そして仕事終わりには男女問わず必ず誰かと一緒に食事をし、夜遅くに帰宅をした。
休日出勤上等、たまの休みには家から一歩も出る様子もない。きっとスイッチをオフにして飼い猫と一緒に寝てばかりいるのだろう。
小五郎の知る素顔の英理はどこにもいなかった。別居してから見ることのなくなった知らない英理の一面を見せつけられるようで少しだけ心が軋みながらも、仕事だと割り切ってやったつもりではある。
雰囲気の良いバーで男と二人で酒を飲む姿を見せつけられようとも、冷静にこの目に焼き付けている。もちろん行く先先で見かける妙齢の女の影にもすぐに気がついた。件のバーでものすごい顔をして英理を睨んでいた様子で、この男が例の依頼人でだということがすぐにわかる。女は非常に危険なオーラを纏っていた。
小五郎はプロらしくそれなりの成果を得て英理の事務所へ顔を出すと、報告を受けていた栗山は心得たという顔をしてサッと消えるように帰宅していった。
「調べがついたってわけ?」
執務室兼応接室に入ると、英理はパソコンで書類を作成しながら目すら合わせずに話掛けてくる。
「余計なことだが、お前はもう少し背後に警戒したほうがいいな。護身術も背後からじゃ役に立たない」
「意外だったわ。あなたはそういうことはしないと思ってた。もう露ほどの興味もないかと」
小五郎は英理のデスクの前まで来て、英理を見下ろした。
「率直に言う。お前は今いつ刺されてもおかしくない、切迫した状況だ」
「そう。困ったわね」
英理は表情を変えずに画面を見たままだ。気が強いだけで傷つきやすかったあの少女が、どうしてこんなに強くて逞しい可愛げのない女になってしまったのだろうかと小五郎は目を細める。
「怖いだろ?」
「そうね。まだ死にたくはないかしらね」
「そんなこと、おれが許すと思うか」
英理の手がはたと止まる。小五郎の強い口調はまっすぐ英理に届いた。英理は意外そうな顔をして小五郎を見上げる。
「守ってくれるの? あなたがわたしを?」
「おれを誰だと思ってる。おまえの旦那だ」
小五郎のいつにない真剣に顔つきを見て、英理の白い頬に少しの色が差した。
六
「もうちっと、くっつけねーか?」
「ひとに見られるわ」
混雑したエレベーターの中の奥で絡まる男女。下階に降りる箱の中で二人は小声でささやき合っている。
「見られなきゃアピールになんねぇだろ。腰に手ぐらい廻せねーのかよ」
「そこまでしなきゃダメ?」
「あったりめーだろ。お遊びじゃねぇんだから」
『別居中で離婚寸前だなんて言われてっから、変なのに絡まれるんだ』
『それって事実じゃない?』
『いいから、支度しろ』
小五郎の作戦は単純なものだった。
元はすべて勘違いなのだ。例え二人きりで食事をしようがバーに行こうが、弁護士と依頼人以上の関係ではない。他の人間が付け入る隙もないくらいの夫婦の親密さを見せつければ、やがて誤解も解けるだろうと小五郎は言った。
「歩きにくいわ」
「すぐ慣れる」
オフィスの入ったビルのロビーを抜けるがちょうど帰宅ラッシュの時間で周りの視線が妙に気になった。
「なんだか、見られてない?」
「まずまず成功ってとこだな」
そりゃあ、目立つだろうなと。小五郎は胸の内でしたり顔をする。英理を知っている者は勿論驚くだろうし、知らない者でもつい目がいってしまうだろう。
美しく鋭い面差しから目線を下げると、引き締まった腰の線からなだらかに丸いヒップが豊かに広がり、その対比がなんとも言えず淫靡だと小五郎は心得ていた。
普段は窮屈なタイトスカートに包まれて隠されているが、そこを強調するかのように手を這わせて、添えてやる。それだけで男を刺激する強烈な色気を発していた。
――いい機会だから、ちゃんと顔を売っておきたいもんだ。
他人に見せつけるように小五郎は胸を開いた。それはそれは気分が良かった。
七
こじんまりとしたモダンフレンチの店で食事をした。雰囲気のいい店で程よく酒が回り、小五郎も珍しくいつもの意地悪さを覗かせない。英理は気分が良くなって、帰り道では自ら腕を絡ませていた。
小五郎の言うとおりこうやって歩くのにもすぐに慣れ、逞しい胸上の凹みに英理は頭を軽く乗せた。
「……なんだか懐かしいわね。昔はよくこうやって歩いたわ。覚えてる?」
「えらい昔話だが、若かったな」
美味しいお酒に背中を押され、暖かい体温に触れて、英理の固まった心は少しずつ柔らかくほぐれていった。小五郎の声がいつになく甘く英理の耳に落ちた。英理のマンションが近づいてきて、少しずつ呼吸が荒くなる。マンションのオートロックを開けるころには、胸の高鳴りを隠せなくなっていた。
「郵便受け、見といた方がいいな」
そう言って一時的に体温が離れると、それだけで身体の中心から切ない感情がこみ上げてくる。英理の口の中はカラカラに乾いていて、自分が欲情しているとはっきりわかった。郵便受けからダイレクトメールを数通取り出して見せる手は甲まで赤くなっている。
「変なものは届いてないみたい」
ホッとして小五郎を見るとしかめた顔つきで見つめられ、視線が濡れた糸のように絡まった。困ったように黙る小五郎を見て、彼が何を考えているのか英理には手に取るようにわかる。わたしも今同じことを考えていると英理も同じ表情をしながら思った。
「今日は送ってくれた……だけじゃないのよね」
「そうだな。一日だけじゃ効果は薄いだろう」
「泊まっていくつもり?」
「ソファでも、文句言わねぇけど」
「ヨダレ垂らして、汚されでもしたらイヤよ。高いんだから」
「……可愛いやつ」
小五郎は英理の前腕を引っ張り抱き寄せると、情熱的に唇を重ねた。
八
艶かしく粘膜をなぶるような口付けを受け止めながら、英理は玄関のサイドボードに手探りで鍵を置くと、のしかかってくる小五郎の肩を強い力で押し留めた。
ねっとりと唇を離す。
「ね……ちょっと待って」
「あんだよ」
「水取ってくるわ。飲みすぎちゃったみたい」
「……この」
昂った感情に水を差されて、小五郎は拗ねた声を出した。
「精々しっかり水分補給しとけよ」
小五郎はそう言うと先に寝室に向かい、ネクタイに手をかける。妖しい女の匂いをさせるシーツに腰を下ろし、鼻から大きく息を吸いこんだ。
「あなたも飲む?」
「ああ」
手渡されたミネラルウォーターを勢いよく流し込みながら、この落ち着き払った女をどうしてやろうかと想像を巡らせていた。
「暑いわ。シャワー浴びてくるわね」
「ああ」
「ちょっと。ああ、ああって……気の無い返事ね」
英理が小五郎を覗き込むと、膨らんだ女の唇が小五郎の目に入った。先ほどの激しいキスの名残でいつもより色も赤く腫れている。
「シャワーはいいだろ」
小五郎はベッドに腰掛けたまま、英理の腰に組みつき大きく息を吸った。堅苦しいスーツに隠されている肌の匂いが恋しかった。
「この匂いがいい」
「あなた」
「早く脱げよ。触りたい」
「慌てないでよ、逃げないから。スケベね」
「……エロいオジサンだからな」
九
ベッドサイドの橙の光が、英理の弓なりになった裸体を美しく照らしている。胸の頂に与えられる刺激に、英理は左右に身体をくねらせた。
吸われて、舐め回され。舌を使って、指を使って、切りそろえられた鼻下の髭を使って。
「も……ソコばっかり! ねちっこすぎるわ」
小五郎は苦言のお返しとばかりに強めに吸い上げると、英理の口から吐息の混ざった甘い声が上がる。優しくも執拗な焦らしに耐えかねて、懇願の言葉が喉元まで出かかるが、そっと薄目を開けると小五郎の愉悦な表情に英理は言葉を失った。
「んん……っ」
秘口に指が押し込まれ、くぐもった声が漏れる。久方ぶりの感触が全身を駆け巡る。あまり心地よさに、身を任せてしまいたいという投げやりな感情に覆われつつあった。
「熱いな……おまけにキツイ」
「バカ……」
小五郎は上機嫌に肉芽を優しくほぐしながら、中をゆっくりと丹念に搔き回す。慣れた指遣いは英理を高みに追いやる方法を良く覚えていて、弱い部分の肉壁を指の腹で押しつける。逃げないように腰を押さえつけられた英理はどうしたって逆らうことはできなかった。
「エロい身体だな。いやらしい」
小五郎が耳元で囁くと絶頂の波が押し寄せ、身体がビクッと小刻みに震える。大きな快楽に身を任せてベッドに背中を下ろすと、燃える小五郎の瞳にゾクリとしたものを感じた。
「そんなに善がるほどイイのか?」
波のような快感の余韻に浸るなか、冷静な声が落ちてきた。英理は頼りなげに皺のよったシーツをぎゅっと掴む。英理の記憶にある小五郎の抱き方はもっと性急で勢いがあり、こんなに落ち着きはらった顔で見下ろされたことなどかつてなかった。先ほどまで上機嫌だったのに、今は怒っているようにさえ見える。
「ずいぶんご機嫌ね」
英理は不安な気持ちを打ち消すように言った。最後に抱かれたのは遠い記憶の彼方。新しい女ができて、このやり方は新しい女に馴染んだものかもしれないという考えがふと浮かんだ。
あの女のことも、同じように抱いたのかもしれない。
英理はあの夜のことを思い出し、昂った感情と火照った身体が切なくて、耐えきれず一筋の涙を零した。
十
「……つまみ食いしてねーんだ?」
英理の媚肉に指を入れたまま、快感に達したばかりの熱い肉壁をゆっくりと探るように指を押しつける。顔を歪ませながら、小五郎を見つめ返す英理の濡れた艶っぽい視線に小五郎は自身の肉棒がそそり立つのをはっきりと感じた。
「どういう意味?」
「あの男と一度くらいは寝たのかと」
「誰のことよ」
「あの依頼人の男だよ」
とろけそうに熱い膣内をやわやわと解すように揉みながら、耳元で囁く。
「傍からは、男と女の関係に見えた」
「ん……いつ?」
「だからお前は背後が甘すぎるって言ったろ」
英理を尾行したとき、男と連れ立って二人はでバーに入りカウンターで酒を飲み交わす姿を小五郎は少し離れた席で見ていた。女を口説くときに使うような雰囲気たっぷりの店だ。打ち合わせで使うような所ではないし、仕事の話をしているようにも見えなかった。
「クライアントと寝たりするほどバカじゃないわよ。失礼ね」
「傍から見たらそう見えるってのが問題なんだ」
人差し指をふやし、二本の指がぬっぽりと差し入れられ、ゆっくり動きだす。自分では届かない弱い部分を指の腹で優しくなぞられると、もどかしい疼きを与えられ、英理は腰をくねらせて無意識にさらなる刺激を求めた。
小五郎はそのいやらしさに益々興奮を覚えながらも、どうしようもない苛立ちの感情が湧き起こることを止めることができなくなる。
「こんなエロい身体しといて、自覚が足らな過ぎる」
「誰のせい……」
「もっと周りを警戒しろ。お前は根が甘過ぎる。特にプライベートの領域はな」
「偉そうに。清く正しい夫みたいなことを言うのね」
英理はいつものトゲのある口調で反抗的な瞳を向けるが、指を深く咥えこんでなすがままにされるこの状況では、ただただ官能的に小五郎を悦ばせるだけだった。
「お前のために言ってんだ。お前が買う恨みってやつは本当に謂れのないものなのか、いちどよく考えてみろ」
指を奥でねっとりと動かしながら、徐々にその動きを激しくさせ、英理の口からは非難の言葉の代わりに喘ぎ声が漏れ落ちた。
「人の二倍も三倍も神経を使え、特にお前のような女はな。……オイ、聞いてるか?」
英理は首を激しく横に振りながら、身をよじって逃げようとする。仕方ないと言わんばかりに今度は頭を押さえつけ、舌を根元から唇で包み吸い上げた。指は奥深くに入れられたままで、英理は気がおかしくなりそうだった。
「挿れて欲しいんだろ? 懇願してみるか?」
不意に垂らされた糸に英理は思わず縋り付こうとするが、小五郎の不穏な口ぶりにすんでの所で指が宙を泳いだ。
「それとも咥えてみるか? 口で」
小五郎は苛立ちを隠そうともせず、冷酷な雄の目つきで笑みを浮かべた。
十一
腰が抜けるほどの快感と倦怠感からぐったりとベッドに倒れ込み、ベッドサイドの橙の光をぼんやり見つめながら英理は口を開いた。
「なにを怒ってるのよ」
「わからないか」
英理の乱れた髪を小五郎の固くて大きな手が慈しむように撫でる。その仕草とは対照的に侮るような小五郎の口調に英理は反感を感じたが、呆けた頭では身体の力が入らずにただ目と口で抗議することしかできなかった。
「あなたには関係のないことだわ……」
「なんだって?」
英理は喘ぐような息を吐いた。
「これだから、嫉妬深い男ってイヤよ」
「誰と比べてる?」
「ほらね。もううんざり」
「テメー……」
身体もロクに動かず甘ったるい声を出しているくせに、容赦のない小言を吐く。小五郎は英理のその気の強さに笑うように鼻を鳴らして煽った。小五郎の知る英理の素顔など、幻想なのかもしれなかった。
「お前こそ、拗ねるならもっと可愛く拗ねてみろよ」
「自惚れないで」
そのハッキリとした口調に小五郎は気色ばみ、英理の尻をパチンと叩く。
「おしわかった。そのままケツ上げろ」
「あなた、他の人にもそんな事させてるんでしょ。いやらしいわね」
英理はあの夜のことを思い、吐きすてるように言った。小悪魔な猫のような女と夫が絡み愛しあう姿を何度想像したか聞かせてやりたい。
「相変わらず思い込みの激しいことで。察しが良すぎるのも、考えもんだな」
「思い込み? だってあんなの見たら……」
「いいから、ケツ上げろ」
腰を掬い上げ、尻を高々と突き出す格好にさられせる。絵に描いたように美しい曲線の形と物欲しそうに濡れそぼる花園が露わになり、小五郎はとうとう辛抱が利かなくなった。
「無茶しないで……」
「黙ってろ」
幼い頃から英理だけを見てきたのだ。物心がついたときから傍にいて、じっと愛し続けて今でもその気持ちは変わらないというのに、なぜそれが伝わらないのかと小五郎は焦れた。
「あぁ……いや……どうして」
柔らかくなった英理の中を掻き分けるようにゆっくりと肉の凶器が差し入れられると、指先が快感で痺れた。
すれ違う心とは裏腹に身体の溶けるような快感に英理は恍惚となっていく。隙間の空いた距離を埋めるように小五郎は自身を英理の奥深くに沈めた。
「……ああああ‼」
英理の口から我慢ができずに叫び声が上がる。熱く、柔らかく、締め付ける淫肉に包まれて極上の幸せを感じ、小五郎は強く拳を握りしめた。
「英理……」
「ダメ、だめ、もう……」
「おい、もうかよ!」
英理は一際高い悲鳴を上げて身体を震わせる。
足先まで全身の毛穴が開くようなとてつもない快感が貫き、膣内が痙攣している。小五郎は中で動かずに収まるのを待った。美しい背筋が見事に反り返り、小五郎は優しくそこを撫でる。
――身体はこんなに素直なのになぁ。
小五郎はひっそりと苦笑いを浮かべた。
腰を支え、再びゆっくりと動かし始めると、英理の口から普段からは想像もつかないようないやらしい声が発せられ、小五郎はどうしてもソノ顔が見たくなって繋がりあったまま正面から抱き合う形に体勢を変えた。
英理は乱れていた。腰に脚を絡ませて、本能のままキスをせがむ。生温い舌が、腔内の粘膜を淫らに弄った。
「ああ、小五郎……」
鼻先が触れ合う距離で、うわ言のように名前を呼ぶ。鎧を剥ぎ捨てたオンナの顔のなんと耽美なことかと小五郎は胸が熱くなった。
直ぐにでも爆発しそうな自身を堪えて、この時間に終わりが来ることを予感しながら小五郎は大粒の汗を零す。
いつも、肝心なことはなにも語らずにすれ違うばかりの二人だが、言葉がなくても愛を確かめられる方法は確かに存在した。
十二
「妃先生、最近エステに行かれました? お肌がピッカピカですね!」
「ちょっと栗山さん……良い歳したオバサンをからかわないで」
そう言って英理は頬を染めて微笑んだ。
なんと可愛いアラフォーだろうか!信じられない!と秘書の栗山は心の中で嬉しそうに足をバタつかせる。
どうやら毛利探偵は依頼したこと以上に上手くやってくれているらしかった。
名目上は送迎とボディガードだそうで、朝は一緒に出勤し、退勤の頃に再びやってきてはイチャつきながら帰宅をする。
そのほかの時間は毛利探偵から報告を受けていないのでわからないが『これなら天罰とやらが当たった方が楽だった……』と英理がふと呟いたのを栗山は聞き逃しはしなかった。
栗山はふむ、と探偵のような顔をして考え込む。
明らかに睡眠不足な顔をしているのにお肌はしっとりツヤツヤ。もう春だというのに最近は首元を隠すタートルネックばかりを着ている。毛利探偵から報酬の請求がないのも、妃先生が別の形で支払ってくれているのでは……と良からぬ推理を巡らして栗山は口元がモゾモゾとした。これ以上の想像は業務に支障が出そうだった。
「……この事件は辞任して、相応しい他の弁護士を紹介することにしたわ。これでもう恨まれることは無くなるでしょうけど……」
はぁぁと長いため息をひとつ。
「あのひと、依頼人が誰なのか、頑なに口を割らないのよ。もうボディガードは必要ないのに」
困ったわ、という英理の顔に微かに喜びの色が混じるのを見て、栗山はピンと人差し指を立ててウインクをしてみせた。
「そりゃあ探偵ですもの! 依頼人の秘密を守るのは何よりも大事なコトなんでしょうね」
栗山はそう言って微笑んだとき、事務所のインターフォンが鳴った。
「噂をすれば、旦那様ですね」
「居ないって言って……」
「なにを仰るんですか~」
先生ったらもう照れちゃって可愛いんだから~!といそいそと扉を開けに行く栗山を見て、英理は肩を落とした。
――複雑だわ。
ねっとりした愛撫の余韻が昼間でも強く残っている。連夜の行為の激しさに、英理は身体に鞭打って仕事をしていた。
「これは、別居解消なんて、以てのほかね。殺されるわ、絶対」
『お前が余計な勘違いしねぇように、ちゃんと覚えさせとかねーとな』
離れていた十年の隙間を埋めるような夫の熾烈な愛情に、英理は面食らい心底戸惑っていた。口を開けば喧嘩ばかりなのに、身体を重ねているときに感じられる深い愛情にすっかり溺れたようだった。
愛する夫に求められる悦びと、責任ある仕事のクオリティとを天秤に掛けると、自分でも驚くほど針はピクリとも動かなかった。ここが、ベストポジションなのだ。どちらも英理には大事なもので、片方だけでは生きていけない。このバランスを保つことが英理にとって一番大切なことだという気がした。
「まだまだあの人の元へ帰るわけにはいかないわね……」
英理は近づいてくる上機嫌な鼻歌に表情を隠し、うんざりとした顔を作って夫を待ち受けるのだった。
おわり