暗くなった秋の夜道を、一人の男が颯爽と歩いてくる。
雨が降り続いた昼の空とはうって変わって、珍しく星があちらこちらに落ち着かない様子で光っていた。
――いい夜だった。
少なくとも今の彼にはそう思えた。
彼は迷いもせず、一軒の居酒屋の扉を開けた。
古い扉は動かすたびにギシギシと心地悪い音を奏でる。
外とは別空間のように、中では威勢の良い声がいくつか飛び交っていた。
少し辺りを見回しながら、開いている席を探す。
近くに手頃で彼好みの席がひとつだけぽつんと開いているのが見えた。そこに座ろうと椅子の背もたれに荒々しく手をかけた。
「よう!小五郎じゃないか〜!?」
突然、酒の入ったような声が小五郎の背中に飛んできた。とりあえず振り返って見ると、6、7人の男女がテーブルを囲んで酒を飲んでいた。
彼らの一人一人を確認していくうちに小五郎の顔が明るくなっていく。
「おー!どうしたんだお前ら、みんなそろって!」
小五郎は体の向きを変えるとテーブルの方へずかずかと歩み寄った。
「あ〜!やっぱり小五郎だ。全然変わってない〜〜元気〜!?」
そこにいたのは、小五郎の高校時代の友人だった。小五郎は高校の時に戻ったような無邪気な笑顔を6人に向けていた。
「あぁ。ここ座っていいか?」
小五郎は言ったのと同時にさっさと靴を脱いで座布団にあぐらをかく。
簡単に酒とつまみを頼むと、テーブルにあった枝豆に手をつけた。
「あれ?こちらの方は…」
小五郎は枝豆を口に含みながら辺りを見回すと、一人見慣れない顔の人がいるのに気が付いた。
「あぁ。俺の会社の同僚なんだ。……なかなか美人だろ?」
「そんな事ないですよ新田さん………初めまして。相田ゆかりと申します」
そう言うと女は小五郎に向かって綺麗に会釈してみせた。
相田ゆかりは彼女の勤める会社でも1.2を争うほどの美貌の持ち主で、彼女もそれを自負していた。その上仕事もでき、社内では才色兼備と言われているほどだった。
ゆかりはそれを知っていたし、決して人には言わなかったにせよ、いつでも自分自身が誇らしかった。
35という年齢よりもいくつか若く見えるその顔は美人と可愛いが入り混じっていて、時折みせる美人の中の可愛さがとても魅力的だった。
「あ、いやこちらこそ……私は毛利小五郎といいまして、一応探偵を……」
「え————!!?あの有名な名探偵の毛利小五郎さん!?すごーい感激〜〜」
ゆかりは立ち上がる勢いで一段と甲高い声を上げる。
周りの客の視線が痛かった。
「いや〜どうも♪こんな美人にそう言っていただけるなんてうれしいですなぁ…」
小五郎は照れたように頭を掻きながら口にジョッキを運んでいく。
ゆかりはそんな小五郎を微笑ましく見つめた。
「毛利さんって…なんかすごくいいですね……なんていうか〜、一緒にいるとすごく落ち着く……」
ゆかりの視線がだんだん愛しげに変わっていく。
「え゛?」
「すごいタイプだなぁ〜〜」
ゆかりは勢いで小五郎の肩に寄りかかった。
「あ〜?もしかしてゆかりちゃん小五郎狙ってる?いくらゆかりちゃんが美人でもそれは無理だなぁ〜…」
脇で見ていた友人が、ゆかりの様子を見てからかうように言った。
「そうそう。小五郎は昔〜っから彼女一筋だもんねぇ〜〜羨ましいなぁ…」
「?」
「そういえば…英理最近会ってないわねぇ…」
テーブルの端っこで焼き鳥をつついていた女が思い出したようにポツリと呟く。
ゆかりと何やらにこやか話していた小五郎の顔が、その名前ひとつで面白く変わった。
「仕事忙しいんじゃない?…大変そうだし」
そう言うとちらりと小五郎に妖しい視線を送った。
「な、なんだよ……俺は何にも知らねーぞ!!」
「あら、別に何にも言ってないわよ?」
恐いほどのにこやかな笑顔をされ、小五郎は思わずたじろぐ。
「あ、あのなぁ……それより最近会ってないのか?」
「会いたいの?」
「………」
小五郎は呆れたような照れているような微妙に嬉しそうな顔になった。
彼にこんな顔をさせられるのはおそらく彼女だけだろう。
「あのぅ…毛利さん結婚されてるんですか?」
さっきから一人蚊帳の外になっていたゆかりがおそるおそる小五郎に向かって聞いてみた。
「まぁ………別居、してるんだけどな」
小五郎は、たいした事じゃないようにさらっと言ってのける。
「別居……?」
「もう、二人とも正直になんないんだから〜。ホントはラブラブなのにねぇ〜♪」
深刻そうなゆかりに比べて他は変わらず陽気に振舞う。
「…奥さまってどんな方なんですか?」
「う〜ん、一言で言うなら…『敏腕美人弁護士』ってとこね♪」
「そうそう。小五郎にはもったいないって絶対!」
「もったいない………?」
ゆかりは、いまいち信じられないという気持ちでいっぱいだった。
世間では名探偵だと言われていて、顔も良いし性格もわりと良い。そんな彼にもったいないほどの女なんているのだろうか?
———いったいどんな人なんだろう……?———
「おい、何だよそれ。どういう意味だ?!」
「…あら、そのまんまの意味じゃなくて?…名探偵サン?」
いきなり背後で聞きなれた声がして、小五郎はとっさに声のするほうに振り向いた。
…途端に顔つきが変わっていく。
「え、英理…なんで?」
小五郎は声の主を確認すると無意識に苦笑いを作っていた。
「なんでって…来ないかって電話があったから…」
英理はそう言うと電話をくれた友人の顔をみて微笑した。
今日の英理の服装はいつもとは違う印象を受けるグレイのスーツだった。時間帯からして仕事帰りなのだろうが、英理の顔からはすこしも疲れているという感じがしない。始終その顔は華やかに咲き誇っているのだろう。
英理と会うたびに小五郎は彼女が少しずつ変わっていくような気がしてならない。
夫婦という感じがしない。
普段のお互いを知らないのだから。
英理はしなやかに靴を脱ぐと、開いていた小五郎の隣の座布団に座った。
ほのかな香水の香りが鼻をかすめる。
正座を少し崩した綺麗で色っぽい脚が悩ましい。
「あら、こちらの方は?」
英理はゆかりの姿を見つけると彼女に向かって優しく微笑む。
「え?は、初めまして…新田さんの後輩で相田ゆかりと申します…」
ゆかりはただただ英理の顔を見ていた。
どっから見ても”美人”としかいえないほどの顔つきに、さすが弁護士だと思わせる知的な雰囲気。誰が見ても魅力的な女性だった。そのうえスタイルもよく、
やや背の高めの小五郎とも丁度よく釣り合っていた。
ゆかりは心が痛んだ。
「はぁ…やっぱしこうやって見ると、なんだかんだ言って二人ってお似合いよねぇ…」
『は!?』
二人の声は息ぴったり重なった。
「冗談止めてよね」
英理は初めっから相手にしてないように素っ気無く返事を返すと、よそよそしくグラスを口に運んでいった。
「いや〜冗談じゃないって!マジで。なんつーか、昔からそうだってけどさ、こう二人だけの空気?見たいな感じがあってよ。言葉がなくてもお互いが分かってる…みたいなやつ?
実はさ〜今だから言うけど、俺高校の時、英理のこと好きだったんだぜ?
でもさ〜英理は小五郎しかそういう対象で見てなかっただろ?何とかして気を引こうとしたんだけど全然気づいてくれないしさ〜。泣く泣く諦めたんだぜ?」
「……あ…なんかごめんなさい」
英理はなんだか居たたまれない気持ちになって、自分の手をそっと握り締めた。
「え?いや〜なんで英理が謝るんだよ。そんな別に今更悔しいとか思ってないって! それに今は俺は俺なりに幸せだからな♪」
そう言うと新田は左手にはめられた指輪を見せる。
「そうか……よかったな」
小五郎は心の底からに彼の幸せを嬉しく思った。
その場の雰囲気が和む。
彼らはしばらくにこやかに語り合っていた。
「あ、私、家遠いんでそろそろ帰りますね」
飲み会もだいぶ終わりに近づいてきたころ、名残惜しそうにゆかりは靴を履きだした。
「今日は皆さん楽しかったです♪じゃあ、お休みなさい」
「おう。気をつけて帰れよ〜」
ゆかりは暗くなった夜道を歩いていく。
月がとても綺麗だった。
今日はいろいろな事があった日だと思う。
良い意味でも悪い意味でも。
別に彼を誑かそうとかそういう気持ちは全くなかった。
会った時にピンときた。いつもの遊びとかではなくて真剣に。
彼女の歳を考えると焦らずにはいられなかった。相手がいなくて困っているわけではない。お金に困っているわけでもないけれど。
ゆかりは真剣に向かい合っていける相手が欲しかった。金や名誉は関係ない、ただ自分が一生愛していけると思える人に。
いつもの自分なら相手がいたとしても諦めたりしない。無理矢理奪うくらいのことをするかもしれない。
…でも相手が悪すぎた。
この先一生彼を求めたとしても、彼女にかなう事はないだろう。
空に浮かぶ月のように遠すぎる彼女の存在には、戦う気も起きなかった。
彼等は今は別居していたとしても、絶対にお互いを憎みあったりなどしていない。それどころか今も変わらず愛し合っているのだろう。昔と変わらずに、そしてこれからもずっと…
そんな二人を本当に羨ましいと思った。
一緒に暮らしていなくても不安にならない二人を。お互いに信じあっていないと、とてもじゃないけど上手くはいかないと思う。
……本当に羨ましい。
悔しくて悔しくて泣けてくる。
どんなに努力したってかないっこない存在。
そしてかなう事のない願い。
そんな想いを胸に秘めながら夜道をひたすら歩いていく。
頬が濡れて風が一層冷たく感じる。
初めて味わう敗北感。
その冷ややかな感触がなぜかとても心地良い。
とめどなく流れる涙に、ゆかりはだんだん心が満たされていくような気がした。
小五郎と英理は二人で夜道を歩いていた。
いつもはあまり酔わない英理もこの日だけは異様に飲んでいた。
「ったく…弱いくせにあんなに飲むから…」
そういう小五郎はいつもほどは飲んでいない。
「いいじゃない……たまには。私にだって飲みたい時があるんだから」
酒のせいか、いつもよりも寂しげな表情をする英理に思わず引き込まれる。
「なんだよ…なんかあったのか?」
ふと、英理の脳裏に幸せそうに指輪を見せびらかしていた新田の顔が浮かんだ。
「ねぇ……指輪持ってる?」
「指輪ぁ?あぁ一応な」
小五郎はポケットから銀色の指輪を取り出すと、自分の左手の薬指にはめた。
「私の指輪もはめてくれる?」
いつもはしている指輪も、今日はされていなかった。
小五郎は差し出された指輪を受け取ると、優しく左手に触れそれをはめた。
英理は自分の指にはめられた指輪から、ゆっくりと小五郎へ目線を上げる。
すると英理は力なく小五郎にもたれかかった。
小五郎はそれをしっかりと受け止める。
「ほんとにどうしたんだよ?」
小五郎は胸に顔を埋もれさせたままの英理の背にそっと触れる。
「…………」
英理はシャツを握り締めていた手を、いっそう強める。
——二人の心情は複雑だった。
「…私、なんだか人を傷つけてばかりいるわ…」
一人は新田のこと。
彼のことは本当にいい友人だと思っていた。彼の気持ちははっきり今日言われるまではまったく全然気づかなかくて。
もしかしたら私は鈍いのかもしれない。でもそういう実感が全く無くて。
それはきっと小五郎のせいだと思う。
彼には作り笑いも、男女の微妙な駆け引きさえも通じないから。
いつでもストレートじゃないと分からない人だから。
それは法廷での駆け引きとは緊張感の質がまったく違う。
なれない恋の駆け引きは苦手。
だから人を気づかないうちに傷つけてしまう。
———今日だって一人。
彼女はきっと傷ついてしまっただろう…
彼女の視線や行動からも自分と同じ小五郎への想いが感じられた。
同じ女だから。…そして彼女がどこか自分と似ていたから。
彼女が私のせいで傷ついたとしても、謝ろうなんて思わない。私は悪い事は何一つしていないから。していないと思うから……そう思いたいから。
思わず歯を食いしばった。
自分がはっきりしないのが悪いのかもしれない。私達の関係は特殊だから。お互い嫌いで離れているわけじゃない。…むしろ逆。お互いに嫌いにならないための環境だから。けれど別居という周りにとって不自然な関係であるからこそ他の人たちを傷つけてしまう……
いくら考えたって答えなんか出なかった。
英理は答えを求めるように小五郎をゆっくりと見上げる。
そこには優しい光をまとった小五郎の瞳があった。
「…お前は自分が傷つくのが怖いだけじゃないのか?」
彼も同じことを考えていたのだろうか。
「今の自分を否定されるのが怖いんだろ?」
否定…そうかもしれない。私は自分なりに自分のしている事が正しいと思いたいけれど自信が無い。肯定すればするほど本当に今のままでいいのかって思えてきて、根拠のない今の関係が、私の存在自体が意味の無いものになってしまう気がして。
……ただ怖いだけ?
………そうかもしれない。
———そうか。
「…そうよ怖いの……自分が傷つくのが怖いの!あなたは違うの!?」
感情が今にも露呈してしまいそうな英理の目には涙が見え隠れした。
「…俺だって傷つくのは嫌だ。だけど傷を怖がって何も出来ないのはもっと嫌だ。そんなことしたら絶対に後悔するだろ?」
そう言いながら小五郎は左手をちらつかせる。
「俺はあの時結婚して良かったと思ってる。周りが反対しようが、歳が若かろうがそんな事どうでも良かっただろ?傷つくのが分かっていてもそうしたかったんだよ……」
小五郎の目が英理の顔を捕らえる。真剣な小五郎の顔に英理は瞬きするのすら忘れ、目から溢れそうな想いをじっとこらえていた。
悲しいわけではない、というよりも彼と悩みを共有できた嬉しさからくるものだった。
「分かりやすい人ね……」
「おう、人間正直が一番だぜ♪」
二人はやっと答えを見出せたような気がした。
それはジグソーパズルが完成した時のような晴れやかさと微妙な寂しさとを併せ持っているのかもしれない。
そんな心持ちで二人は夜道を再び歩き出す。
「ねぇ、いいワインが入ったんだけど家によって飲んでかない?」
「ワイン!?行くに決まってんだろ?今日はついでに泊まってってもいいか?」
小五郎はワインに心弾ませる。
「いいわよ。じゃあ蘭に電話しないとね」
外は二人の靴音と、微かに聞こえる踏み切りの音が響いている。
お互いの心の中に自分の存在を確認しながら二人は暖かな笑いを交わす。
今の二人に似合いすぎるほどのこの情景は、次第にかすかな明るささえ醸し出していて。
とてもシンプルで、とても美しい。
まるでこの二人のように……
涼しげな秋風をのせて。
おわり