まとわりつくような喧騒や機械が発する電子音はこの街ではありふれていて、普段は気に止めることなんてない。
 まだ日は高いし化粧も肌に馴染んでくるし、このまま家に引き返すのもなんだか勿体無い気がした。
 しばらく足を赴くままに動かして進んでいたが家からも、事務所からも段々と遠ざかっていってしまうようでそれがとても嫌だった。
 人通りの多い歩道でひとり右往左往するのもみっともないので、日の影になりそうな冷たい場所を探して背をついて溜息を吐く。
 
 ――そんなに顔に出てた?
 出勤したもののわずか数時間で勤めている事務所の所長に心配そうに声を掛けられ、ニ、三日の休養を与えられてしまった。仕事には必要以上に厳しいのに、それ以外では必要以上に甘やかす人なのだ。
 開業したての弁護士だった彼の事務所でバイトをしていたことがあり、そのときまだ私は大学生だった。その時の縁で仲の良かった彼のもと、再び働き始めたのだ。
 無事二回試験にも通り、司法修習を終えた後から休業していたため、取り戻さなければならないものも多く、人一倍の努力を要したことは事実では有るが、もともと司法試験の合格率は一桁で、いま私の年齢でやっと合格する人だってたくさんいるのだからスタートラインはさほど変わらないのだ。
 今の事務所に勤めてもう2年になる。
 毎日毎日激労に身を投じていたのに、こんな風に突然に暇を与えられても仕事以外にすることなんてなかなか思い出せない。
 そのことが、自分がなんの面白みも持たないつまらない人間なのでは無いかという疑いをもたらして、また嫌な気持ちになった。
 何をしようか本気で考え出し記憶をたどって頭を働かせようとすると、頭に熱い何かが集まって眩暈がした。
 目の前で陽炎がいくつも沸き出ては消え、目頭に集まってくる熱い血液の流れが、見上げた空までもを歪ませる。
 昔から夏の暑さにめっぽう弱い私は、若い時から軽い立ちくらみを起こすことがあった。特にこういった人並みに限った独特の熱気が、私を酔わせるのだ。
「……」
 腰をかがめて、微かにしゃがみ込んだ。
 こうしていればいつのまにか治まるであろう。


「お嬢さん、大丈夫ですか?」
 明らかに私に向けられている(お嬢さんという年でもないが)その声に顔を上げず、手のひらを軽く振って言った。
「平気です。良くあることですから……」
 そうしてまたその場にしゃがみ込んだ。
 今は、どんな優しい親切も思いやりも、すべてが疎ましいと思った。こういう時は、誰にも当たらずにすむから独りの方が都合がいいのだと過去に恐ろしいほど学んだ。
「ちょっと、救急車よびましょうか?」
 それは困る!そんなことをしたらあの人に連絡がいってしまうかもしれない。ただの暑気当たりであの人と顔を会わせるのはあまりに不都合が多すぎる。
 私はあの人に会わせる顔がないのだ。刑事を辞めて探偵をやっているというあの男に……
「……大丈夫ですから」
そういって無理矢理顔を上げた。


「あ……」


髭……


「あ~……何やってんだ? お前」
 そこに立っていたのは今、最も会いたくないと思っていた人物。
「……あなたこそ」
 私の亭主だった。
「また、あれか?いつもの立ちくらみ?」
「……そ。だから、ちょっと休めば楽になるから平気よ」
 全身の血が逆流して変な息苦しさを伴う緊張感に見舞われた。それでも努めて平生を装おうと、いつもの自分を思い描きながら口を動かす。
「若い女の子じゃなくて、残念だったわね」
「そんな青い顔で、よく毒吐けるよな」
 ……うるさいわね。
「今、なんか冷たいもん持ってくるからここ動くんじゃねーぞ」
 そういって吐き気のするような人ごみに彼は消えていった。
 まさか、こんなところで会うなんて思っても見なかった。あれ以来気持ちの整理がつくまで絶対に会いたくないと思っていたのに。
 心の準備がまるで出来ていない。走り去るあの人の後姿をみると、なんだか自分だけが取り残されたような感じがしてひどく不愉快だった。
 このまま逃げてしまおうか?
 そうすれば、あなたから逃げたいと思う気持ちを少しでもあなたに知らしめることが出来るだろう。そう思う反面、あの人には弱みを握られたくは無いという強い意地もあった。なんて馬鹿馬鹿しい葛藤だろうか。
「これで、ちょっと頭冷やしてろ」
 いつのまにか戻った小五郎が、英理に一本の缶コーヒーを差し出していた。
「あ、ありがと」
 英理は良く冷えた缶を受け取り、ハンドバックに入っていたハンカチを、くるりと缶に巻いた。小五郎はもう一本買ってきた缶コーヒーを、あっという間に飲み干す。
「…………」
 重い沈黙が流れる。
 何か気の利いたことを言わなければと思うのに、そんな簡単なことが出来なくなってしまった。
 きっと小五郎は、私が何も言わなくても分かっていると思うけれど。
「もう、平気か?」
「あ、ええ……」
 本当はあなたの顔を見てからあの病的な熱は引いてしまったのだけど、其れに気がついたのは返事をした後だった。
「じゃ、もう行くわ」
「ちょっと待て」
「なによ?」
「礼になんか奢っていけ」
「はい?」
 もう一刻も早くこの場から、いやこの人の傍から去りたいのいうのに。
「お前ん家この近くだろ?なんか冷たいもん出してくれよ」
「いやよ、何言ってるの」
「いいから、ほら行くぞ!」
「ちょっとッ!」
 小五郎は英理の手を引いて颯爽と歩いていく。
 なんでこんなに強引なのかさっぱり分からない。
 長く続けてきたこの曖昧な関係をどうにかしようと言うのか。
 それは英理にとって歓迎すべき事ではなかった。どんな顔して話せば良いのか分からない、絶対的な負い目が英理にはあった。




「お前、今日仕事はねーのか?」
 英理が良く飲むらしい銘柄の麦酒に小五郎は愚痴をこぼしながら、それでもけっこう酒は進んでいるようだった。
 さっきチラッとみた冷蔵庫のなかに沢山ストックがあったから、普段相当呑んでいるはずだ。
 俺が進めた酒もやんわり断られたし、自分ひとりが勝手に呑んでいるのも気が惹けるのだが気分が良くなっていくうちにそんなことはどうでも良くなってしまった。
「今日は臨時休暇よ。無理矢理ね」
 そういうと英理は綺麗に笑った。なんだかコレ以上は俺が踏み込んではいけないのだと思わざるを得ない口ぶりだ。
 本当は御互い今の生活の話は極力避けようとしている。今までのことが笑い話になるほど俺らの経験値は溜まっていないのだから、それは仕方のないことなのだが。


 思えば、こうして会うのは2年ぶりのことだと気がついた。
 それが長かったのか短かったのか。
 原因は些細なことだった気もするし、重要なことだった気もする。
 始まりはもう思い出すことも出来ない。
 意地を張っているのか、それともコレが最善なのかも、分からない。
「ちょっと、昼間っから呑み過ぎなんじゃない?」
 めんどくさい返事の変わりに、小五郎は飲み干した空の缶をグシャリと潰した。
 突然訪ねたこの家には、俺が密かに想像していたのとは違いまったく男の気配が無かった。細部の小物に至るまでそれは徹底していて、そんな事実は無いのだということを俺は段々と呑みこめはじめている。
「ねぇ蘭の養育費のこと、前にも言ったんだけど……」
「だから、前にもそんなもんいらねぇって言っただろ?」
 まるで俺が子供一人も育てられねぇみたいじゃねぇか。
「ちゃんとした生活させてあげてるの?あなたはどうでも良いけど、蘭は……」
「お前からの金なんて一銭も受けとんねぇよ!」
 木製のテーブルに傷がつくのではないか、というぐらい持っていた缶をそこに叩きつけた。英理は顔を歪ませる。
 そりゃ弁護士なんてのは相当儲かるんだろうが、前まで専業主婦やってた女房の金なんて情けなくて受け取れるわけない。
「あなたがだらしないから蘭が心配なんでしょう?意地張ってるくらいならちゃんと稼いで見せなさいよ」
 それが本音か。
「意地張ってんのはおめぇじゃねぇか!」
 ついついつられて本音が零れてしまった。
「な、なんだよ?」
 英理は突然俺のまん前に立って腰掛ける俺を見下ろした。
 突然縮まった距離に、思わず動揺の声をあげてしまう。
 英理は何も言わない。
「なんだよ?」
 俺ははじめて、英理の冷静な面持ちから一瞬だけ何かが崩れそうなのを感じた。……気のせいかもしれないけど。
 英理は無言のまま、口元を笑わせた。
 何も言えない。
 何も。
「……どういう意味よ?」
 お前が意地張っているのを知ってて、そのまま放置してる。
 そんなつもりじゃないんだが、ともかく英理にはそういう意味ということになるのだろう。
 本当にそんなつもりじゃないんだ。
「……英理」
 幸せにしてやれなくて、悪かったな。
 ホントに、悪かった……
 俺は英理の方に手を伸ばす。
 出ていったこの女を、憎くは感じない。
 英理というひとりの人間の存在が、俺のすべてと絡み合っている。
 それがとても心地よいと思う時もあれば、とても歯がゆいと思う時もあり、平行になったり交じったりいろいろな曲線を描く。
 ……俺は今。
「英理」
「なに……?」
 女の、薫りに酔っている。
 この気持ちの意味が分からない。この気持ちに重なる上手い言葉が見つからない。
 どうしたらこの気持ちが晴れるだろう?
 そう思った途端、小五郎は立ちあがり英理の方へと体をさらに近づけていった。
「ちょ……っと、何!?」
 壁に押し付けられた英理の躰は小さなうめき声をあげ、瞳の奥に強い意思を秘めたままで、それがなぜかとても愉快だった。
 小五郎は英理の折れそうな白い手首を片手で易々と頭上にくくりあげ、もう片方の手は多少の気の迷いを含めながら、英理の顎に触れる。
 心の奥ではずっとずっと触れたいと思っていた。今、柔らかい唇が俺の前に有るのだ。英理の細い呼吸が掠めそうなほどに唇を近づけて、目を細めて英理から発せられるであろう言葉を聞こうとした。
「冗談じゃないわ」
 唇が小さく動く。英理はずっと下に目を泳がせていて、目を合わせようとはしない。それでも、彼女が平常を装っていられない様子なのだと俺は理解して、胸の奥のほうが熱を持ちはじめていくのが分かった。
 英理の一挙一動がこうまでも俺を熱くさせている。
 少しの沈黙が流れ、いったん置いた唇との距離を前触れ無しに埋めた。
「ん!」
 深く深く深く、絡みを求めて舌を入れた。甘い唇の味を何度も何度も吸い、頭の中で何かが溶けていくのを感じる。
 英理は抵抗らしい抵抗もしない、かといって俺を受け入れる訳でもなく、逃げ場のない舌をぎこちなく絡ませて、時々苦しそうなうめきを漏らしていた。
 其れは英理の呼吸までも支配するかのようで、英理の膝が小五郎のみぞおちに入るまで続けられた。
「っう……」
 突然の抵抗に、小五郎は小さなうめきを漏らす。
 唇は離してしまったものの、拘束した英理の手首にはさらに力をこめた。
「いい加減にしてっ!!」
 抵抗も毒吐きも、すべては俺の手中に有るようだった。俺の中にある存在が、まるで俺のものであるという錯覚を起こさせる。
「英理」
 顔を決して合わせようとしない英理の顔を、顎をつかんで上を向かせた。
「やめて……」
 そこにあったのは折れそうな意思だった。
「英理?」
「やめて……よっ!!」
 そういって、英理は小五郎の身体をコレ以上は無いというほどに強く突き飛ばした。
 小五郎の体が勢い良くテーブルに激突する。
「って……」
「……なんなのよ、突然っ」
 ひどく動揺した英理の顔。
 柔らかな唇の感触がまだ微かに残っている。
 すこし怯えたように自分自身を守ろうとする英理を見ると、包み込みたい気持ちと攻撃的本能がぶつかりあっている状態に陥った。
 その柔らかな肌に触れたい。
 お前の心を傷つけたくない。
 お前、どうしてそんな目で見るんだよ?
「結局……それ、なの?」
 空回りばかりだ。一体何がしたいんだろう、オレは。
 小五郎はテーブルにぶつけて強打した腰をさすりながら、気まずそうに頭を掻いた。酔いがまわっているのだろうか…なんて、自分自身にする言い訳にしても陳腐すぎて苦笑いが漏れそうになる。頭が上手く回転してくれないことは 事実ではあったのだが。
「……そんなんじゃねぇ」
「じゃあ一体どういうつもりなのよ!」
 部屋中に英理の感情的な声が響き、部屋隅々のあらゆるものがオレを咎めている気がしてならなかった。
 ただただ懐かしかった。
 二年なんて短いようだが、本当はとんでもなく長かったのだ。
 ただその隙間を埋めたかっただけなんだ、それがどうも上手く伝わらないらしい。そもそも昔から俺たちは肝心なところで意思疎通が出来なかったように思う。そのうち伝えるのも億劫になってしまい、放って置くといつの間にか喧嘩にもなってしまっていたことも良くあった。
 伝えようにもその肝心な気持ち自体が掴めないんだからしょうがないじゃないか。
「そんなもん……こっちが聞きてえっ!」
「な……なんなの?いっつもそうやって開き直るのね。まったく……話にならないわ」
 英理は最後のほうの言葉を目線とともに吐き捨てた。
「ならなくて結構!」
 話がだんだん予期せぬ方向へ走り出していくのを止められないのだ。あの日だってそうだった。
「邪魔したな」
 本当に英理にとっては邪魔以外のなんでもなかっただろう。


「……蘭は、元気なの?」
 覇気の無い英理の声に小五郎は虚をつかれたような顔をして立ち止まった。
 もっとも、背を向けているために英理からはその顔をうかがい知ることは出来ないし、また小五郎からは英理がどんな顔をしてそんなことを言ったのかは分からないが。
「まあ、元気にやってるかな」
 そう、と英理はゆっくりと呟いた。一体その言葉にはどんな感情が込められているというのだろうか。
「でも……寂しがってる。きっと」
 愛した女さえ、俺は幸せに出来なかった。
「……ありがとう」
 礼を言う意味が良く分からなかったが、その返事は間違ってはいないだろうか。その意味を問うべきなのか迷ったが、この雰囲気のなかでは野暮な気がした。そして英理は、はぐらかしてきっと答えない。
 扉を閉めてしまえば、俺たちが共有していた空気が遮断される。
 真夏の気だるい空気。
 ともかくそれで”全て”だった。





 部屋の隅からジムノぺディが流れてくる。
 冷房の効いた部屋にもかかわらず、立ち眩むような眩暈を感じた。
 こんな短時間で一体何が起きたというのだろう。
 あの人が刑事の仕事を辞めたと聞いていた。あまりに昔と変わりない様子にそのことを忘れてしまいそうになったのだが――
 あの人の、髭。
 私立探偵をはじめてから伸ばし始めたのだろうか……いや刑事を辞めてから剃るのをやめたのだろうか。
 『どうしたの?その髭』
 とても聞けなかった。
 ――人質にかまわず発砲したことが警察内部でもかなり問題視され、彼は自らその職を辞した。
 そう聞いたのは随分後になってからだった。
 私は……彼の上司達が知り得ない真実を話して、彼を護るべきだったのだ。
 知らぬ間に小五郎は私を守るために発砲し、その真実を抱え込んで去っていった。
 気づくのが遅すぎた。気づいたときには彼は刑事を辞め、あの持ちビルで探偵業を営んでいたという。
 刑事を志すと決めた彼の――まだ青年だった彼の、私は隣にいたではないか。
 あのだらしのない男が子育てとバイトに追われながら、卓袱台で国家試験の勉強をしていた姿が脳裏に浮かぶ。
「本当に、馬鹿なんだから……」
 あの小五郎が人には話さない、拳銃の腕についての絶対的な自信があったのだ。そんな自分しか信じることの出来ない腕を、上層部が認めるはずもないことくらい、彼には簡単に分かるはずだ。それなのに彼はそれを使って私を救った。彼は私と(人質としての?それとも妻として?)自分のキャリアを天秤にかける前に全てをあの銃弾でぶち抜いたのだ。
 自分の立場とか生じる責任……そういうことに躊躇しない。そういう男だった。
 たまらなかった。
 どうして私はいまこの職に就いているんだろう。
 英理はあの男の座っていた椅子に背をついて深く腰をかけた。蓋の開けられていない麦酒の缶がほのかに汗を掻いているのが目に入って、自分がいま酷く喉が渇いていることに気がついた。
 帰してしまって良かったのだろうか、そんな思いがふとよぎるが、やはり二人きりでいてもまともな会話が出来そうにないと思った。
 プシュ、と小気味の良い音を立てて何のためらいもなく缶を口へと近づけていった。喉が鳴る、体の隅々に養分が行き渡る。


 蘭は、どうしているだろうか。
 こんな母親を恨んではいないだろうか。
 英理は涼しい顔をしながらそっと目を伏せる。短い間隔で缶を唇へと近づけていくペースは衰えなかった。
 小五郎は私がちゃんとわかっていることを知っているだろうか。あなたが誤って私の足を掠めたのではないということ。
 分かってるんだろうな……きっと。
 ともかく……かろうじて聞けたのは娘が表向き”元気だ”ということだけ。
 英理はため息をつくとその場から立ち上がって歩き出した。とんでもない徒労感に襲われていた。
 今更どの面下げてあの家に帰れるというの。もう後には絶対に戻れない。
 行き着いたところは寝室で、まだ酔ってもいないのにどうにかして意識を手放そうとベットの上で試みる。
 心の整理がつくのにいったいどれほどの年月がかかるだろうか。
 リビングから微かに流れ込んでくるジムノぺディを聴くと、騒いだ心が少し安らかになる。
 そうだ、今度……あの人に内緒で蘭と会おう。


 愛しい娘の顔を思い浮かべると、意外と泥のように眠れてしまうのだった。




おわり