──スン、スン……。
布団の中でまどろむ意識のなか、すすり泣く声が聞こえた。ときどき、蘭の部屋から聞こえてくる音だ。母親不在の日常に慣れ、とんと無かったのだが、最近まただ。あの生意気な探偵ボウズが顔を見せなくなってから。
蘭の泣き虫はアイツに似たんだよなぁ、と小五郎は昔の記憶とかすかな苛立ちとともに身体を覚醒させた。
コンコン、と部屋の扉をノックする。「……はーい!」という元気な声の裏にある涙声に小五郎はいっさい気づかない振りをして、扉を20センチだけ開けた。
「まーだ起きてんのか?」
「あ。ウン。もう寝るところ」
そうか。とそれ以外にどう声を掛けたらいいものか。娘を心配する気持ちは大きいが、どう励ませばよいか難しい。小五郎の頭にはあの探偵ボウズの悪口ばかりが頭をよぎるのだ。まったく父親というものは。
アイツが居てくれりゃな、とつい思ってしまう。小五郎はパジャマのままサンダルをつっかけ事務所へおりた。
「──ええ、わかった。私から電話してみるわね」
電話口の英理が母親の優しげな声色でそう言ったことで、小五郎は幾らかの安心感を覚えて、肩の力を抜いた。
数十分経ってから、英理から折り返しが掛かってきた。開口一番に飛び出した発言に、小五郎はぎょっとする。
「……ねぇあなた。私、しばらくそっちに戻ろうかしら」
「な、なにぃ?」
「新一君が戻ってくるまで一ヶ月とか……まぁ少しの期間よ。それ以上あなたと一緒にいたら気が狂っちゃう」
「そりゃこっちのセリフだよ! なんだよ、そんなに深刻なのか」
「電話だけじゃどうもね。私だって娘が心配なのよ。わかるでしょ? 何か、帰る理由が必要になるわよねぇ」
「理由だとぉ? んなモンでっちあげる必要も無え。ただ勝手に出て行って勝手に帰ってくるだけだろが」
「バカね必要に決まってるでしょ。だってあの子、自分のためだと知ったら却って疲れてしまうわ。そういう気遣いをさせる子に育てちゃったの。私たちがね」
「……。マンションの工事とかリフォームとか適当に言やいいだろ」
「そんな嘘すぐにバレる。私があなたにお願いするなんてあり得ないし、あなたが頼みこむほうが賢明だわ」
「はぁっ? なんでオレが……」
「作り話はお得意でしょ?」
「あのな。そうじゃなくて」
英理は聞く耳を持たない。良い意味でも悪い意味でも、一度決めたら頑固すぎるのだ。
「蘭にはもう、あなたを私の家に呼び寄せるように頼んでおいた。あなたは私に、許してくれ帰ってきてくれオレが悪かった、って言うの。それで私の荷物を持って、私を連れ帰るのよ。いいわね?」
「……オイコラ。ずいぶん根回しがいいじゃねえか。調子に乗るんじゃねぇよ」
「いいわね?」
英理の脅しのような物言いに、小五郎はヤレヤレ、と長い前髪をゆっくりとかきあげる。
「……ったく、ウチの女たちは世話のやける……」
「ご協力どうもありがとう」
「めんどくせーが……しゃあねえ。付き合ってやるよ」
「形だけで構わないわよ。蘭のためなんだから」
小五郎はここでカチンときた。戻ってくるのに文句はないが、娘のためというなら自らが折れればいい話だ。
「英理。オレはな形だけじゃなく、ちゃんと思ってるぜ。今ココにお前がいてくれりゃあな、ってな」
「……」
「聞いてんのか」
「……もう始まってる?」
「何が」
「くさいお芝居の事」
ズコッとずっこける。たまに本音を言えばこれだ。普段の態度のせいだが、直接目を見ないとどうもダメだ。
「あなたの本音なんてどうせ、自由をお預けされて勘弁ってところでしょ」
それも正直なくはない……が、母親がいてくれた方がいいに決まってる。我慢と忍耐が必要になるだろうが、好き勝手に遊びまくっていた訳でもない。小五郎の線引きは明確にあり、その枠内で正しく遊んでいただけだ。
「……ま、いーや。それよりお前、覚悟しとけよ。オレ様の芝居に腰砕けになっても知らねーぞ」
「え? 何ですって?」
そっちがその気なら、小賢しい小芝居に付き合ってやろうじゃないか。
じゃーな、と言って電話を切り、小五郎は唇の両端をニッと持ち上げた。