英理は鏡台に背を向けて、手鏡から自分の後ろ姿を覗いた。
後れ毛の量は適正かどうか。変に引きつれた所はないかどうか。結った髪の仕上がりを、鏡を二枚使って確認するのは毎朝の日課だ。そして、今日に限ってはもう一つ、大きなチェックが加わる。
英理は自分の首後ろに指をやり、それの様子を丹念に確認した。
「……朝飯、いらねぇからな~」
手鏡の向こうには、ベッドで胡座をかいた小五郎が新聞を読んでいた。
二人で夜を過ごした翌朝にだけチェックが念入りになるので、英理の身だしなみが普段より細かいことに、当の本人は気がつかない。小五郎にとってはいつもの身支度の様子である。
小五郎のスーツもネクタイも昨日と同じ。ワイシャツは代えさせた。朝帰りの父親の下着とシャツが違うことに年頃の娘が気づくのはいつだろう。英理はハラハラするというより、そのときを密かに待ち望んでいる。
「……あ」
ふと、英理はちいさく声を漏らした。英理が指先で触れているのは、首の後ろにある昨夜の情熱のアト。それが英理の想像以上に、主張の強いものだったのだ。
英理は黙って鏡台の前から立ち上がり、着替えたばかりの白いシャツを脱ぎながら寝室を歩いた。
クローゼットのなかに手を伸ばし、指で服を何枚か弾いていると、かさりかさり、と新聞をめくる音がした。まったく仕方のない……、と英理は思った。
──子どもっぽいし、みっともない。いくつだと思ってるの? 痕なんてつけて。
だが、英理はそんな心の内を言うことはない。
小五郎は英理が気づいたことに気づいているに違いないが、知らん顔だ。
若いとき、一緒に住んでいた頃は、胸元にびっしりと赤い痕を付けられて「エッチ!」と抗議することはよくあった。「見られて困る奴でもいんのかよ?」けらけら笑って小五郎はよく言った。独占欲というより、ただ英理が顔を真っ赤にして怒る様が見たくて、そうしていたのだ。そういう人だった。本来は。
この服はダメね。これも違う。カチャカチャとハンガーを鳴らして黙々と選ぶ。脳天気さとはかけ離れた代物だと、ふたりとも解りきっているので、英理は抗議もせず、小五郎は茶化しもしなかった。
英理は髪の量が豊かで長い。あの夢中になっている行為のさなかに、小五郎は髪をかき分け、そこ一点だけをゆっくりと吸いあげる。英理がそれどころではない時に、わざわざ首の後ろの死角にだ。
……まぁそういう事情で、英理は翌朝の身だしなみを念入りに行うことにしている。そんな位置に自分の存在を残す男の心理を咎める気にはなれず、かといって、白日の下に晒すわけにもいかなかった。
英理はタートルネックの細い襟口から顔をすぽん、と出して聞いた。コーヒーでも飲む? と。小五郎は新聞を畳んで「ああ」とだけ答えた。