汗ばむ背中

R15です。ご注意ください。

 

 

 

 




 淡々と離婚の成立を届け出る書類。

 離婚届。


 小五郎はその紙を茶封筒に入れ、机の底にしまっていた。
 感情のこもっていない、几帳面に並ぶ妻の文字が目の裏に浮かんだ。

「……人生やりなおしましょう」

 前向きに、と英理は言った。
 そうだ。妻は明らかにウンザリしていた。

 家を出てから弁護士としての才能を開花させ、立派に成功してみせた妻。
 家庭という檻から解放してやった途端に、アイツは輝きだした。
 そしていま、捨てたがっている。
 売れない探偵の妻という肩書きを。

 わからないでもないのだ。
 腐れ縁だの、なんだのと言って。
 今にも切れそうな糸にしがみついているのは自分だけだと、小五郎は思った。





 十年前。妻は家を出ていき、そして小五郎は刑事を辞めた。
 刑事の成れの果ては警備の仕事か、探偵くらいしか思いつかなかったが、まだ幼かった娘のことだけを考えて、自由の利く職業を迷いなく選んだ。
 
 妻とは幼馴染だった。
 幼いころから比較され、少しは彼女を見習えと周りは言った。
 確かにアイツはいつでも模範的で、正しい。
 学生時分、なんども道を外れかけた小五郎の、灯台みたいな存在だった。
 英理がいなくなり、小五郎はとたんに進む道が見えなくなった。

 水は低きに流れる。
 小五郎にとって、自由とは自堕落なことだ。
 生活に必要なギリギリの金を泥臭く稼いだ後は、好きなことをして暮らした。
 麻雀、パチンコ、競馬といったギャンブル。
 そして酒に、女。





「……手厳しいな」

 英理の平手打ちが小五郎の心を揺さぶった。

 別居中の妻のマンションに初めて訪れた小五郎は、その良い暮らしぶりにまず驚いた。
 そして、キリリと髪をまとめ上げた妻の美しいうなじを見て、クラクラと眩暈がした。
 学生時代からのトレードマークだった髪型を変えた英理は、小五郎の知らない、キャリアウーマン顔をした大人の女になっていた。

 話があるといって、別居してから一年ぶりのコンタクト。
 そこには別居したほんの一年の間に、見るからにしょぼくれた夫と、直視できないほど眩く美しい妻がいた。
 まるで高嶺の花だったころに戻ってしまったようだと思い。
 小五郎はその現実が途端に恐ろしくなって、思わず妻の細い首を掴んでいた。

「……!」

 小五郎の突然な口付けに、英理が力いっぱいの抵抗を見せる。
 そのことに小五郎は密かに傷ついたが、そんなことも気にしていられないほどに、小五郎は妻の舌を求めた。
 小五郎の大きな手が英理の頬を覆い隠し、上を向かせて固く結ばれた唇をこじ開ける。
 コーヒーの味と香水の匂い。そんなキスは小五郎には馴染みがなく、もどかしい切なさと、興奮を覚えていた。

 ドスンと強い力で胸を叩かれる。小五郎は物ともしないといった様子で更に強い力で抱いた。
 英理の膝がもぞもぞと小五郎の股間に当たり。
 膝で蹴りかねないと少し力を緩めると、英理の両手が思い切り小五郎の胸を付き。
 英理の思い切りの平手が小五郎の頬を打った。

「……手厳しいな」

 英理の荒い息使いが静かな部屋に響いた。

「――――!」

 妻の怒りの声は、まるで小五郎の耳には届かない。
 小五郎は英理の腕を掴んで部屋の奥へと連れ込んだ。





「これでもまだ、夫婦なのね……」

 背中を向けて横になる英理の剥き出しの肩はびっしょりと汗で濡れて。
 そのときの傷つき掠れた妻の声に、小五郎は妻の顔を見ることができなかった。





 あのときと同じ背中だと小五郎は思った。

「私たち……人生、やりなおしましょう」

 妻は汗ばむ背中を向け、裸のまま、寝室のサイドボードから封筒を取り出して言った。

 普段よりも絡みつくようなキスをせがみ、何度も奥深くに求めていた妻の腰使い。
 それが、最後のセックスにするつもりだったからだとわかると、小五郎の腹の底がヒヤリと冷たくなった。

 小五郎がゆっくり指を向けて受け取ると、カサカサと薄っぺらな音がした。

「……俺の意思次第。つうこと?」

「……前向きに考えて」

 妻はきわめて落ち着いていた。
 この紙を突き出されるのは実は初めてではない。けれどそれはもっと投げやりなやり方だった。

「私たち、まだ若いわ」
 
 静かな視線が小五郎を見つめる。
 嘘も誤魔化しもない妻の言葉が胸に突き刺さる。

「お互いのために」

「……預かっとく。それでいいか」

「……急いでいないから」
 
 英理の声は冷たく静かだった。こんな情事の後だというのに。

「やりなおせるかもな、お前だけは……」
 
 売れない探偵と別居中なんて。英理にはメリットどころか不都合だらけだ。
 それでも離婚せずにいたのは。
 英理の責任感からかもしれない。

「あなた、変わったわ」

「……」

 小五郎は黙ってタバコに火をつける。
 寝室は薄暗く、ライターの明かりがぼうっと手元を照らした。

「私のせいね……」

「……お前は関係ない」

 ふと、英理のヒトサシ指が、小五郎の髭をゆっくりと撫でた。

「辞めるべきじゃなかった」

 もう十年も前の話。いまさらだ。
 語ったところで何の味もしやしない。
 この話はしないと言うかわりに、小五郎は火をつけたばかりのタバコを灰皿に押し付けた。

「……ちょっと」

 英理の汗で冷えた背中に口付けていると、英理は不満そうな声を出した。
 構わない。
 とにかく中に入って温まりたいと小五郎は英理を組み敷いた。

「……卑怯じゃないか?」

 自分だけ納得して終わるなんて。

「撤回するわ。そういうトコ、昔から変わらない」

「照れるだろ」

「前向きね。結構なこと」

 冷たくて生意気な言葉を浴びせられると心が騒ぐが。
 抱いていれば少し気持ちが落ち着きそうだと思った。

「そんな冷たくされると、中で折れそう」

「燃えるくせに。嘘つきね」

 それでも英理の瞳は揺れない。
 それを見て小五郎は腹を括った。





「おじさん、なにを見てるの?」

 机に傍から覗き込む子どもが居た。つい最近蘭が連れてきた生意気なガキ。
 タダでさえカツカツの食い扶持が圧迫されてしまうと、最初は反対したものの。
 
 こいつは福の神か?
 そう本気で思うほど、途端に大きな仕事の依頼が舞い込むようになっていた。

「……なんでもねーよ」

 子どもの目ざとい視線から逃げるように紙切れを小さく折り畳み。
 モヤモヤした感情を再び机の奥底へ沈ませた。

 毛利小五郎の名前が売れるにつれ、みるみるうちに仕事が忙しくなり、新聞に名前が載り、テレビに出演し、派手な活躍が続いた。
 迷探偵などと言われた自分が、名探偵だと持て囃されるようになる。 
 
「おじさん!今日も名推理だったね!」

 そういって笑いかけるクソ生意気な居候のボウズ。
 最初は本気で神の使いかと思った。
 コイツがいるとなぜか事件がスムーズに解決したり、気を失っている間に名推理が披露されていたりするからだ。

 初めは俺の中に眠れる力が覚醒したのかと本気で思っていた。
 しかし回を重ねるにつれ、強い力が働いているのを感じ。
 逆らわない性分の小五郎は、それをしばらく静観していた。

 ――そう。「名探偵 毛利小五郎」はこのボウズだと、俺は知っている。

 だからといって、こちらから働きかけることなどしない。
 助けを求めない者を救う方法はないのだ。
 こいつは、こんなだらしのない男のことなど頼りにしていないと、観察していればムカつくほどよくわかった。

 腹話術人形の役回りは当然いけ好かない。
 けれど一人歩きした名声に応える働きをするために、甘んじて受け入れている。
 それはいい迷惑だったが、いい思いもたくさんしたし、いい効果もあったのだ。

 ――お母さんのあんなに嬉しそうな顔、はじめて見たかも……

 小五郎が名探偵としてテレビに出演し、事件を解決して見せた時のVTRを英理と一緒に見たという娘が。
 その時の妻の様子を、そんな風に語っていた。

 妻は家を出てから。
 刑事を辞め、売れない探偵としてくすぶっている俺を不安そうに、また不満そうに見ていた。

 その妻が喜んでいるというのであれば、人形も悪くはない。

 自分の力でなかったとしても、妻の喜ぶ姿を見ていたい。
 ……もう少しだけ。
 
 小五郎は煙草を灰皿へ押し付けて立ち上がる。


 机の奥底で妻の気持ちがいくつも重なって、崩れた。






おわり