【前作のあらすじ】
1月1日の夜中、初詣に来た小五郎と蘭とコナンが遭遇したのは小五郎の別居中の妻妃英理だった。
英理はクリスマスの約束を小五郎にすっぽかされて怒り心頭。小五郎はそんな英理をなだめるために、普段のおちゃらけた顔を隠し、英理を黙らせる。
初詣を簡単に済ませたあと、娘の蘭の気遣われ、2人は連れ立ってタクシーで英理の家に向かい一夜を共にしたのだった。
1
夕飯は、ウナギの蒲焼きだった。
「こ、今夜もずいぶんと豪勢だなぁ。なんか良いことでもあったのかぁ?」
「お父さん、ウナギは冬が旬なんだって知ってた? 脂が乗ってて美味しそうでしょー!」
蘭は笑顔でほかほかのお茶碗を手渡してくる。湯気でその顔はキラキラと輝いてみえた。
娘はのっぴきならない事情により、高校生ながらも毛利家の台所を取り仕切っている。食うに困るほどではないが、決して裕福ではない我が家の家計状況を一番良くわかってくれていた。上手くやりくりするために、栄養がありつつリーズナブルなメニューを日々工夫している。その腕前もなかなかだ。
さすが我が娘。父親に似てなかなかの生活力を身につけている。
…ところがだ。そんな質素な毛利家の食卓に、ここ数日異変が起きていた。
昨日の夕飯はすき焼きで、おとといは小五郎の好きなビーフシチューだった。最初は単純に「お、今日はごちそうだな!」なーんて機嫌よく食べていた。
しかしA級メニューも今夜で連続3日目だ。こう続くとなると…楽天家を自他共に認める小五郎もさすがに喜ぶばかりではいられない。
機嫌が料理にあらわれるのは、誰かさん譲りなのだ。その出来栄えには雲泥の差があるけれど。
「オレの知らねぇところで、大口の依頼でもあったとか!」
「ブブー!」
「ま、まさか…! 年末の宝くじが当たったとか…⁉」
「違うよぉ。今年はね、お父さんがフラフラ飲み歩く時間が減るみたいなの! その浮いたお金で、たーんと美味しいもの作っちゃうからね!」
「ハァ? 占いでもしてもらったのかよ…」
「いーからいーから♡」
元日に初詣に行ってからというもの、蘭はずっとこの調子で機嫌がいい。
あの日。夜中に神社へ連れて行かれ、別居中の妻英理とバッタリ鉢合わせをした。
偶然ではなく、もちろん蘭の策略だ。娘の企みはいつも明快でわかりやすかった。大晦日の数日前にウキウキしながら3人分の着物を干していたときからクサイ匂いがプンプンしていた。
しかし今回ばかりは都合がよかった。英理に会うキッカケはないものかと、少し考えていたからだ。
それはつい先月のクリスマスのこと。長年の習慣が抜けず、なんとなく英理と過ごさなければと刷り込まれていたオレは、しぶしぶ英理のマンションを訪れようとしていた。
アイツは口では、「また来たの?」だの、「あなたの顔は見飽きた」だの言うくせに。内心ではウキウキして、頼んでもいない風変わりな料理を作ったり高い酒を用意したりする。そういう女だ。
しかし、その当日に急な依頼が舞い込んできて、オレは迷わず仕事を選んだ。別にそれは珍しいことじゃない。まだ英理が家にいたころも、急な事件で家族行事が潰れることなんてしょっちゅうだったし、そのことで今更本気で腹を立てるような女でもない。そりゃあ多少機嫌は悪くなるだろうが、英理の機嫌を取ることは、コツさえあれば簡単だった。
英理に何度か電話を入れたが繋がらなく、どうせブツクサ不貞腐れているんだろうと、気にはなっていた。
魚の小骨みたいなもんだ。喉に引っかかり、ただチクチクとうっとおしい。しかたなく取り除く方法をボンヤリ考えていたところに不意に娘の計画が舞い込んできたから、小五郎はその船にふらっと便乗しただけだ。
ともかく、あの日からだ。
嫌がる英理を多少強引にタクシーに押し込んで、英理のマンションに押しかけた。そのまま外泊し、昼にひっそり帰宅したところを蘭にニマーっとした顔で出迎えられた。あのときの妙な気恥ずかしさを思い出すと今でも顔がむず痒くなるくらい、蘭はウキウキと喜んでいた。
それからずっとこの調子である。
一人娘として、オレと英理の不仲に心を痛めていたから、それで上機嫌なのはもちろん頷ける。だが、食事のメニューに異変が訪れたのはつい三日前。今日はもう1月11日だ。
「オジサン、ぼーっとしてどうしたの? ウナギ、食べないの?」
「なぁ、オメーはなんか知ってんだろ?」
「…ボク、毎晩ごちそう食べられて嬉しいなー!」
隣に居るコナンにボソッとと話しかけるが、ヤツは無邪気な顔でわざとらしい声を上げている。小賢しい少年が我関せずといったポーズを決めたのだとわかり、舌打ちをしてやりたくなった。子供相手にそんな大人気ないことはしないが。
「変な顔してどうしたの。ビール、冷えてるよ。それともお酒のほうがいい?」
「お、おう…じゃ、せっかくなんで」
「はーい」
蘭は鼻歌のような返事をして立ち上がる。
小五郎は、頭の上に大きな疑問符を浮かべながら腕を組んだ。
蘭がますます機嫌が良くなるようなこと…もしかしてあのクソ生意気な探偵坊主絡みじゃねぇだろうな…
小五郎はモヤモヤ、ムカムカしつつ、ふとテーブルの上から漂ってくる香ばしい物体をチラリと見る。美味しそうな湯気をたてて、ツヤツヤと光って。じわりと口の中に唾液が湧き出てきた。
「…ま、考えてもしゃーねーか 」
楽天家らしく思考を脇へよけて、目の前の御馳走を素直に平らげることにした。
蘭は鼻歌を歌いながら台所に行き、隅に置かれた一升瓶を持ちあげた。そのとき、冷蔵庫に張られた紙がヒラリと揺れる。
『スクープ‼ 毛利小五郎タクシー車内で濃厚○○ 密室の30分間!』
それはコトの発端である、3日前に発売された週刊誌の切抜きだった。
2
「妃先生! 僕は、貴女に弄ばれたんでしょうか⁉」
「…どこからツッコめばいいかしら?」
かわいそうに。ひざの上に置かれた拳がカタカタと震えている。
彼は後輩の弁護士。朝一番に、相談があるからと強引に事務所を訪ねられて、いきなりこの状況。年齢はたしか三十歳前後、客観的に見てなかなか良い顔立ちをしているが、オトコとして見るにはチョット若すぎる。
…いやいや。何かと忘れられがちだけど、そもそも私は人妻だ。もてあそぶ、などとまるで身に覚えのないことを言われたら、心の警戒レベルを上げなければなるまい。
「これを」
後輩君は鞄からスッと週刊誌を取り出してみせた。一目でオジサンが好む週刊誌とわかるような、女性の際どい水着姿の表紙。赤い配色が朝っぱらから目にまぶしく、お堅いブリーフケースと低俗な雑誌とのミスマッチさに背徳感がより際立っていた。
「付箋のページです」
1月8日、本日発売されたばかりの週刊誌だ。雑誌の上には薄ピンクの付箋が貼られていた。ふと過去にも似たような状況があったことが頭に浮かんで、かわいそうなのは彼ではなく自分の方だと気がついた。
「またか…もう主人の破廉恥な記事は見飽きてるから。わざわざ見る必要ないし、いまさら関心もないわ」
ヒラヒラと手を降り、雑誌を開きもせず机に置いた。
夫である毛利小五郎は、女好きで有名な男だ。その性質は大学生になった頃から開きはじめ、年を重ねるにつれて徐々にエスカレートしてきている。今ではもう私の手に余るほどなので放置しているが。
現在は名前が売れて、名探偵などと持てはやされているため、週刊誌にその醜態を面白おかしく掻き立てられることはそう珍しいことではなかった。
一応肩書き上はまだ妻である私の元へわざわざ報告してくれる“ありがたい気遣い”にも辟易としていた。
だから興味ありません気にしてません。そう演じることにはすっかり慣れているのだ。
しかし本心では、夫の浮気疑惑の記事などいい気分のものではない。というよりハラワタが煮えくりかえるくらい、最高に不愉快だった。
「よく見てください」
後輩君はこちらの心境などお構いなしに、該当のページをバッと見開きにしてみせた。
『スクープ‼ 毛利小五郎タクシー車内で濃厚○○ 密室の30分間!』
見出しの言葉を目で追い、その過激さに一瞬言葉を失った。でかでかと写真が載っているのを瞳の端で目視する。
…なるほど。なるほど。なるほどねぇ。
車の後部座席で絡みあう男女の写真が載っている。白黒写真でもあのマヌケ面はバッチリと判別ができるぐらいの鮮明さだった。
「これは、ちょっと問題ね」
この記事は「でっち上げだ、ハメられた!」などと言い逃れしようのない決定的な証拠だった。私がもし判事なら、裁判で証拠として採用するだろう。今回ばかりは、ただの憶測記事ではない。奥歯をかみ締める顎にギリギリと力が入った。
「やっぱり。本当なんですね」
「いえ、知らないけど…こんな写真があるなら間違いないでしょうね」
「…貴女が読まないなら、私が声に出して読んで差し上げましょう」
「どういうこと?」
――1月某日某神社にて。芸能人もお忍びで訪れるというこの神社に夜中から張り込んでいる我々の前に急ぎ足でタクシーに乗り込む長身の男女二人の姿が飛び込んできた。着物を着こなすスタイルのいい男性は、眠りの小五郎という異名を持つ、かの名探偵毛利小五郎(38)。普段のひょうきんなイメージとかけ離れた深刻な様子で女性をタクシーの中へ強引に押し込んでいた。
血の気が引くとは、まさにこのこと。
「まさか」
――お相手はなんと別居中の美人妻英理さん(38)。タクシーと併走し後部座席の様子を伺うと我々は目を疑った。離婚秒読みかと囁かれる中、二人はなんと車内で…
「いいわもう‼ 読まなくて‼」
スクッと立ち上がり、読み上げている雑誌を勢いよく閉じた。後輩君は私を恨めしそうに見上げている。恨まれる覚えなど少しもないが、正直いまはそれどころではない。
「これは真実ですか? どうか嘘だと言ってください」
「嘘よ嘘! うそっぱちよ…!」
「ならば! 早急に出版社を名誉毀損で訴える準備を整えましょう!」
「あ~~~~~もう。あのスケベオヤジィ…‼」
たまらず両手で顔を覆った。あの初詣の帰り道、妙~に自信ありげだったスケベヒゲオヤジの顔を思い浮かべる。あの男は、確信的にそういうオトコの顔を見せる日があるのだ。タチの悪い風邪みたいなものだと思っているが。
あの日…タクシーの車内で起きたことの記憶を紐解こうとして、居たたまれず小さく地団太を踏みつける。記事の内容に身に覚えがありすぎて、耳まで燃えるみたいだった。
「ご主人と別居されてるんでしょう? 不仲なんでしょう? 『あんな男どーしようもない最低男』だって言っていたじゃないですか!」
「く、栗山さん!」
別室の秘書を呼び、男から雑誌を取り上げた。
「先生、どうされました?」
「栗山さん悪いけど。この雑誌、買い集めてきて」
「は、はい?」
「コンビニ、この近辺に5軒はあるでしょ? あと地裁と家裁の地下にも。そこのコレ、すべて買い占めてきて。今すぐ」
頭に思い浮かぶ限り、この雑誌が置いてありそうな店を挙げる。同業者に知られることが最も耐えがたい辱めだ。
「わ、わかりました」
財布から1万円札をすべて抜いて栗山に手渡すと、栗山は有能な秘書らしく余計なことは聞かずに部屋を飛び出していった。
こんなことは焼け石に水だ。わかっている。それでも1冊でも多く人目に触れないで欲しいという、ささやかな願い、儚い望みだ。
肩を一度上下させてフーっと細い息を吐く。そこで椅子に座ってうなだれる若い男のことを思い出した。
「わざわざ教えてくれてありがとう。詳しく読んでから、法的手段についても検討することにするわ」
「貴女が…あんなことをするような人だなんて。しかもこんな人目につく場所で…僕にはとても信じられません。あの男が無理やり迫ったんじゃないんですか? 強制わいせつ罪で告訴をするということも視野に入れてみては…」
「強制わいせつ!」
あのチョビヒゲ面を思い浮かべて胃の奥から笑いがこみ上げそうになる。本当にそんなことをしたら、あの男はどんな顔をするだろう。ちょっと見てみたい…!
「いちいちそんなことしてたら、今頃あの男は刑務所の中でしょうね! 見ものだわ」
(んなモン若気の至りだろ、アホらしい。)
あの男はそう言って、汗を掻きつつ呆れるだろう。これまで小五郎から受けた数々の仕打ちを思い出し、復讐の想像を膨らまして堪え切れず口の端から笑みが漏れた。
「貴女も甘んじて受け入れているというわけですか…? 僕は、本気で愛していたのに」
どうやら後輩君は私の笑みの意味を勘違いしたようだ。物のついでに彼をあしらう為、少し困った顔をして左手の指輪をクルッと弄ってみせた。
「あなたは只の可愛い後輩だし、私たちはこれでも一応夫婦ですからね」
そう演技をしてみせたが、心では内乱が起きていたのは言うまでもない。
3
――タクシーの窓が曇りそうだった。
英理はオレの頬を両手で強く掴むと、合わせた唇を少し横にずらした。
苦しそうな呼吸が悩ましく頬にかかり、髭を熱く湿らせる。がっつき過ぎて呼吸の間を与え忘れたと思い、体を少しだけ離すと、堅い座席に押し付けられたまとめ髪の束がだらりとこぼれた。
「っ…」
口から垂れた唾液を舌で絡め取ってやると、英理のまぶたがピクッと震えた。
「こんなところで…!」
小さく囁くような、10回目の抗議が聞こえた。
英理は濁流に流されまいと必死に1本のワラを掴んでいる。そんな顔をしている。
これを見せられてはたまったものではない。その言葉に蓋をするようにまた唇を開かせていった。
…最初はこんなトコロでこんなコトをするつもりではなかった。
オレは英理をタクシーに押し込んだあと、意思表示のつもりで軽~くキスをした。押しの姿勢をハッキリ見せるための雰囲気作りのつもりだった。英理は普段はツンケンしているのに、こちらが攻めの姿勢を見せると、とたんにしおらしくなるきらいがあるのだ。
珍しく抵抗をしてこない英理が面白くて何度も口付けていくと、やがて身を堅くして拒むようなそぶりを見せはじめてきた。
そこで何故かちょっとムキになって、顎を掴んで強引に口を開かせて舌を捻じ込んでやる。これまで数え切れないキスをしてきたのだ。ちょいとコツがある。例えば上顎の歯茎の裏。ココをくすぐると、英理の体の力はあっという間に抜けるのだと知っていた。
力の抜けた柔らかい舌を吸うように、文字どおり、唇を『奪う』ことにオレは夢中になった。
「着きました、よぉ…」
年配の運転手の遠慮がちな声が聞こえて、ようやく手の力を緩める。コチラの顔を見て、英理は濡れた瞳で眉根を寄せた。むしゃぶりつきたくなるような顔をしていた。
小五郎は頭の中のイメージを消すように、探偵事務所の机で頭をガシガシと掻きむしる。
「…ち」
この事務所はまだ正月気分が抜けきっていない。昼間からほろ酔いになりながら、あの元日の出来事を思い出していた。1月の探偵は結構暇なのだ。
あのニオイのせいだ。コートの傍にかけられたマフラーを恨めしく睨みつける。編み主のニオイが染み付いたマフラー。忘れているときは妙に鼻につくのに、思い出してしまうとなかなか忘れられないのがアノ女の甘い体臭だ。
一度覚えた匂いに一生捕らえられる運命なのかと絶望的な気持ちになりながら、窓の外に流れる雲に向かって煙をフーっと吐き出した。
「今日の夕飯は、パスかね」
さきほど英理から短い電話があった。
――19時に来てちょうだい。理由はわかるわね?
有無を言わせない事務的な命令口調。あの熱情的な行為のあとの初めての会話がコレだから笑ってしまう。ずいぶん素っ気ないなとは思うが、まあそれはいつものことだ。
『毛利ちゃん、奥さんとヨリが戻りそうなんだって?』
麻雀仲間にそう言われ、なぜそれを⁉ と驚きつつまんざらでもない顔で照れて見せたり。
『奥さん帰ってきたんだって? お盛んでよかったねぇ♡』
パチンコ仲間のオバちゃんにすれ違いざまに言われれば、いやあそれほどでも…と妙にくすぐったい答えを返した。
情報の出所は謎だし内容は不正確だが、タイミングだけが妙に良かった。
鏡がわりに、携帯電話の黒い画面に映る自分の顔をまじまじと見つめる。
「…オレ、そんなに浮かれて見えんのか?」
4
「ごめんね、蘭。今週も忙しいのよ」
例の週刊誌が発売されてから今日でちょうど1週間。あの日からあまり深く睡眠が取れていない。
近しい人間にはあからさまに冷やかされ、遠巻きにみる人の好色そうな目が気になった。至る所で会う人間がみんなあの記事を読んでいるような気がして…。法廷で鍛え抜いた図太いはずの神経が、恥ずかしさでギリギリまで痩せ細って高ぶっていた。
そして今日。ようやくあの雑誌が店頭から消えた。ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間で、まだまだ気を緩めることができないでいる。蘭が、あの日から間髪をいれずに電話をしてくるからだ。
「どーしても? ランチ1時間もむずかしいの?」
もちろん、かわいい娘に会いたくないわけではない。けれど少しほとぼりが冷めてから…という気持ちが正直なところだ。
「ごめんね。2月になったら落ち着くと思うから…」
「お父さんとは上手くいってる?」
蘭は週刊誌の件に一切触れてはこないが、見ている。確実に。娘にアノ写真と記事を見られたという、どうしようもない恥ずかしさが頭の中を渦巻いて、目が回って倒れそうだった。
「あの人? 上手くいくも何も。いつもどおりだけど」
シラを切りとおして、なんでもないような声を作る。蘭とは相反して、小五郎からは一切の連絡がない。
こちらに対する気遣い一つくらいあっても良さそうなものだが、あの男にとってはスキャンダル記事など取るに足らないことなのだ。周りの噂話など、どこ吹く風という顔をしているに違いない。いけ好かない男。
「ふーん、いつもどおりなんだ。お父さん」
「知らないわよ。会ってないもの」
「会ってないの⁉ どうして‼」
「どうしてって…」
「お父さんここのところボンヤリしちゃってさ。まぁそれもいつもどおりなんだけど」
「へぇ、そうなの」
「何かあったのかな?」
「だから知らないわよ…」
「なんで⁉」
ここ数日、このやり取りの繰り返しだ。
押し問答に嫌気が差して、これから所用があることを告げると、蘭は間延びした返事をし、納得しない様子でしぶしぶと電話を切った。
これは一発渇を入れてやらねば。イラつく指を押さえつつ、すぐに当人に電話を入れる。
「19時に来てちょうだい。理由はわかるわね?」
マヌケな返事を聞かされたら、会う前に怒鳴り散らしてしまいそうで、返事を聞かずに強めに受話器を投げた。
5
約束の時間より少し前に英理の事務所に着くと、秘書の栗山緑がちょうどタイムカードを押しているところだった。
「毛利さん! お待ちしておりました。この度は…」
栗山は不自然に言葉尻を濁してきた。
ご愁傷様なのか、おめでとうございますなのか、どちらともつかない複雑な表情をして、ピタリと動きを止めている。
「どした? なにかあった?」
コチラの顔を見て栗山は何やら考え込んでいる様子だ。ふと部屋の隅に縛られた冊子がいくつも見えた。よく見ると、全部アタマの表紙が同じものだった。すごく異様な光景だ。
「この雑誌の山、いったいどうしたの?」
「…ええと。資源ゴミ、ですね」
「栗山さん! お茶なんて出さなくて大丈夫だから、もう帰ってちょうだい。残業おつかれさま」
奥の部屋から英理の声が飛んできた。いつもよりキーが少し高く、キリキリしているのが顔を見なくてもわかった。
「忙しいんだ? 年明け早々大変だね。今年もアイツのことよろしく頼むよ」
気苦労をねぎらう気持ちを込めて言う。すると栗山は目じりを下げ、表情をわずかに笑いに傾けた。なぜか困りながらも嬉しそうな顔をしている。
「毛利さんこそ…がんばってくださいね」
「どゆこと?」
栗山はうふふ、と含みのある笑いをすると、すぐそばを通り抜けて事務所を後にしていった。
「?」
「…相変わらずのマヌケ面ねぇ」
半開きのドアから英理が顔を出した。その顔は予想どおり、いつも以上に厳しく吊り上っていて顔色がどんよりと暗い。そのせいで口紅の色がいつもより冴えないように見えた。
…ったくしょうがねぇ女。
「そりゃねーだろぉ。そういうお前こそ、顔ひっでーなぁ。オニババに磨きがかかって、般若もビックリってカンジ…」
「誰のせいだと思って…⁉」
「…根つめてんのか。ほどほどにしとけよ。ちゃんと飯食ってんのか?」
落として上げる。優しさの使い方をしっかり心得たオレの言葉を聞いて、英理は黙ったようだった。
コチラの顔をマジマジと見てくる。先ほどの栗山と同じで、変なモノを見るような顔をして…
「オレの顔になんか付いてるか?」
英理は雑誌の山の上から1冊を手にとると、大きな書類鞄にそれを仕舞ってから、大袈裟なため息を吐いた。
「…とにかく移動しましょ」
地下駐車場に停めてある英理のクラシックカーは、体格のいい男には少し窮屈だ。
「相変わらずちっせぇ車だな」
助手席でそんなことをボヤキながら運転席に乗り込んでくる英理を見る。大きな書類鞄を体をひねって後部座席に置こうとしている顔がふと近づいてきた。オレはすかさず、その唇に顔を近づけていった。
「どっ…!」
英理は驚きの表情をみせ、腕全体を使って顔面をグイと押しのけてくる。つれねぇなあ、と言うと、大きく息を吸って思い切り吐き出してきた。
「どこまで、馬鹿なの‼」
「は? 女房に迫って何が悪い」
「頭のネジ締めてあげましょうか~? こないだから緩みっぱなしじゃない! 顔もココもだらしがないわね!」
英理は拳をグーにしてこめかみをグリグリと削ってくる。相当機嫌が悪いらしい。
「なんだよ。まーた機嫌わりーのか…ちっと仕事入れすぎなんじゃねぇか?」
「諸悪の根源はあ・な・た!」
英理は姿勢を正してアクセルを踏む。慣性の法則でよろけた体をシートにぶつける羽目になった。
「オイオイ…! 気性の荒い女王様だな。正月早々事故ったらマスコミの格好の餌食だぞ」
「一体どの口が⁉」
いつもと違って簡単に機嫌の直らない英理を見る。きっと仕事で相当嫌なコトでもあったのだろう。
こりゃあ今夜は大変だな…ちょっと気合いを入れねぇと。
小五郎は冷や汗を垂らして笑いながらシートベルトをしめる。車は駐車場の坂を勢いよく上っていった。
6
「…んで? 話があるんだろ」
シャワーから戻ると、暗い寝室で髪を乱しベッドに倒れこんでいる女の背が小さく上下していた。
猫のようなラインの剥き出しの裸体に、傍にあった灰色のブランケットをふわりと落としてやると、英理の背中がピクリと反応した。…オレはちょっと張り切りすぎたかもしれない。
「風邪引くぞ…」
部屋に着くなり早々に、話す間も無く寝室に押し込んだ。我ながら今夜は気合が入りすぎて凄すぎたなぁとつい数時間前のことを思い出し、ニタニタと笑う。
「あなたって人は…」
もぞり、と英理はたいそう億劫そうに上体を起こした。背中には力が入らず、気の毒になるくらい疲れ切っている。
「…そのまま寝ちまえば? 明日、休みだろ」
「わたしの気が済まないのよ! のんきな探偵さんに、ひとこと言ってやらなきゃ…!」
少し優しい言葉をかけようものなら、すぐコレだ。バスタオルで濡れた髪の毛を拭きながら、英理の気の強さに口笛を吹いて煽りたくなった。
「おー怖え怖え」
「…あなたはこんなスキャンダル慣れてるかもしれませんけどね」
「スキャンダルぅ?」
「困るのよ! クールな法曹界のクイーンなんて勝手なイメージ付けられたうえ、勝手に幻滅されちゃたまんないわ…」
「困るって? そりゃ、柄にもねぇキャラ作るからだろ。オメーは元々クールってタイプかよ〜」
「受けるのよ。特に若い男の子にはね」
「そりゃあ、物好きなもんだ…」
「"こんな人だと思わなかった"なんて言われちゃったわ」
「うん…? ちょいと話が見えねぇんだが」
英理は枕元にある眼鏡を掛けるとブランケットを体に羽織って立ち上がった。英理の足元に小さな猫がまとわりついている。寝室を出て行く後姿は飼猫の毛とほとんど同じ色だった。
英理は少し重そうな足取りで戻ってくると、パチリと寝室の電気を点けた。手には先ほど鞄に入れていた雑誌を持っている。
「どーせ、知らないんでしょ。このお気楽オジサンは」
それは英理が普段買いそうもない類の男性向け週刊誌だ。それを苦々しい顔で手渡してくる。英理の指が挟まれたページを躊躇なく開いてみると、衝撃的なモノが目に飛び込んできた。たまらず喉を見せるぐらいの盛大な笑いが腹からこみ上げてくる。
「…ハッハハ‼ こりゃー、まいったな!」
これは興味深い内容だ。さかんに目を上から下へ動かして記事に食いついた。
「笑い事じゃないわよ! この一週間生きた心地がしなかったわ!」
「『離婚秒読みは大ウソ! アツアツ夫婦の通い愛♡』だって。ハハッ、けっこー生々しいなぁ!」
「笑いごとじゃないわよ‼」
「『…離婚秒読みかと囁かれる中、2人はなんと車内で何度も情熱的なキスを交わしていた。人目もはばからず、我々にたっぷり見せ付けること30分。信号待ちで停車するたびにミラーを直すドライバーの心情に同情しつつ、そんな夫婦の姿を至近距離で撮影することに成功。女好きで浮いた噂の多い毛利氏だが、この様子を見る限りすべて巧妙なカムフラージュだったのかもしれない。やがて2人は寄り添って美人妻の別宅へ消えていった。』」
「……」
「美人妻だってよ! よかったな」
英理は恨めしそうな目で小五郎を見ながらグーで小五郎の胸を何度も叩く。よほど耐えかねる思いをしたらしかった。
「なるほどなー。オレも最近、どーもおかしいと思ったんだ!」
「こんな至近距離で撮られてるのよ⁉ なんで気がつかないのよ! よくそんなおマヌケで探偵なんかつとまりますこと。感心しちゃうわ!」
英理はプリプリと怒っているが、その顔は徐々に普段の色に戻りつつあるようだ。
「知らせてくれりゃーいいのによぉ。なんか周りからニヤニヤされて気味悪ぃやら居心地わりぃやら…」
「自業自得じゃない? こんな雑誌が世に出回ってるときにあなたと接触なんてできるわけないでしょ!」
「そこは別にいいだろ。夫婦なんだし。悪いことをしてるわけでもないんだぜ」
堂々と胸をはる。我ながら正論。至極真っ当な意見だ。ぐうの音もでまい。
「あなたはいいでしょうけど! …わたしは困るのよ。だってこんな仕事してるのよ? あんな写真を誰かに見られたかと思うと、いったいどんな顔して法廷に立てばいいのか…! あなたには一生わからないでしょうけどね!」
「そりゃそーだ。それにしても、よく撮れてるぞ! こんな顔撮られたら、さすがのオレも照れちゃうなァ」
「能天気でお幸せね~?」
「蘭もどうりで機嫌がいいわけだ。あいつ期待してんだろうなー。お前がやっと帰ってくるんじゃねぇかってさ」
「こんな状態で? 冗談でしょ…耐えられないわよ」
「お前も好きだよなぁ。昔っからオヤジさんの目を盗んだりしてたし、今は娘を目を盗んでコソコソとねぇ。不倫カップルかっつーの! どーせお堅い弁護士先生はそういうのが燃えるんだろ? ったく仕方ねぇなあ…」
「はぁ⁉ 何もかも、あなたの仕業じゃないの!」
「まー帰ってくる気がねぇんなら、おかげでコレ、いい魔除けになったじゃねーか。よかったな!」
この写真と記事の効果は、結婚指輪どころの騒ぎではないだろう。内心ザマーミロと愉快な気持ちがこらえきれない。頑なに戻ってこないヤツが悪いのだ。
「まったく…救いのない馬鹿ね…」
同情するくらい凹んでいる英理の頭を寛大な気持ちでポンポンと撫でてやると、英理は怒り疲れてグッタリとうな垂れるのだった。
かわいい奴め。
7
「あ、お母さんだ」
日曜の昼、昼食を食べながら居間で何気なく見ていたテレビの情報番組に昨日別れたばかりの顔が映って、小五郎は茶を吹きそうになった。
「テレビなんて珍しいね。お母さんも教えてくれればいいのに! お父さん知ってた? これ生放送かな?」
「さぁな…」
『…まず民事事件においての名誉毀損ですが、被告側が真実性、公共性、公益性の特例三要素を満たせば損害賠償義務は発生せず…』
"弁護士妃英理"と書かれた机上札の字面は堅苦しい。英理は当然ニコリともせず淡々とコメントを残していた。テレビで見ると、キツそうなオバサン感がより際立つのはなんでだろうなぁと、次に会う時のイヤミを一つ頭に書き留める。
やがて番組も終盤になり画面の下側にエンドロールが流れ始める。司会の男が雑談を振りまく段になると、突然火の粉は飛んできた。
「ところで妃弁護士は、新年早々大変だったそうで」
「はい?」
カメラが切り替わり、英理の硬い表情が画面に映し出された。
「ご夫婦仲がよろしくて羨ましいですね。ズバリ夫婦円満の秘訣はなんでしょう」
「え、円満…」
先ほどまでニコリとも笑わなかった英理の顔が引きつり、みるみるうちに赤く染まっていった。
「ぜんぜん円満じゃ…全部主人のしたことで…」
小五郎の手からポロリと箸が落ちた。英理の鉄仮面がボトリと落ちたのと、多分同時だっただろう。
「あ〜あ…お父さんのせいでウチのお母さんがテレビでからかわれちゃったじゃない! とっとと早く連れて帰ってきてあげてよね」
蘭は嬉しそうにプリプリと怒っている。
英理のあの赤面顔が全国ネットでお茶の間に晒されたことに、上機嫌だった小五郎は一転、頭を抱えて泣きたくなった。
虫除けのはずが、これでは虫寄せだった。
「なんてこった…!」
【後日談】
小五郎の心配は現実のものとなり…
それからしばらく英理の同業者の間ではあの放送の噂で持ちきり。
一部ネットでは『ツンデレ弁護士可愛い!』の声がある界隈で湧いたのだった。
♡おわり♡
ご覧いただきありがとうございました!