時には些細なことで






「……何しに来たのよ?」
「……用があるのはそっちだろ?」

 半開きのドア越しに、部屋の冷気がオレの頬をかすめる。
 BGMの蝉の声とオレ達が妙に溶け合っていることに気づき、小五郎は女の顔を見つめながら、ため息の後にゆっくりと苦笑いを浮かべた。
 ここでこうしてこう逢うのは、いったい何回目になるのだろう。同じ顔で、心境で、同じ言葉を交わすのは。
 言うまでもなく、蘭の仕業だった。ただそれに、今の今、たった今気づいたオレは……アホだ。アホ過ぎる。
 どうせ騙すのならコイツのほうにして欲しかった。
 騙された英理がオレのところに来たのなら、迎えてやる心持ちは出来ているのに。
 オレだけじゃ、格好悪すぎるじゃねーか。
 顔を見て、英理はある程度の状況を把握したようだった。
 この頭の回転のよさが、英理の良いところでもあり、時には損なところでもある。
「……とりあえず、入ったら?」
「いや、今日はいい。邪魔したな」
「え、ちょっと!」
 無理矢理に閉じようとした扉を、英理の細い指がそれを拒んだ。
 おそらくは条件反射的なものだったんだろう。引き止めたものの、英理は困惑した表情で顔を背けている。
「……何でも、ないわ」
 英理は怒ったような、それでいて少し悲しそうな微妙な表情で、小五郎と目をあわそうとはせずに扉を止めていた手の力をふっと抜いた。
 ったく、素直じゃねーな。
「しゃーねーな……ちょっと涼んでくわ」
 どうせ最初から、そのつもりだった。
「あらそう?じゃあ、どうぞ」
 いつもの冷ややかな声が、少し嬉々としていることがオレには分かった。
 コイツがどういう女なのかは、オレなりによく知ってるつもりだ。

 この部屋、この家は、いつ来てもサッパリとしていて、変わることがない。とはいっても、数えるくらいしか訪れることも無いような気がするけどな。
 すっかり定位置となってる大きいソファにどっかりと腰をかけると、先ほど買ったばかりの煙草に火をつけた……つけようとした。
「ん?」
 なんとも間抜けな声を出しながら、何度も試みるが今ひとつのところで火がつかない。
 今日は100円ライターしか持ってなかったしな……これだから安物はダメなんだ。まぁライターに皮肉っても、火が出るわけがない。
 いったん口付けたものをしまう気がせず、子供がストローを口で遊ぶように、意味なく咥えていた。
「どうぞ、使って」
 目の前にライターが差し出される。
「んあ? ……ああ悪いな」
 今度こそとばかりに、火のついた煙草から火を吹かし、ふと考える。
「お前、吸うのか? 煙草」
 他にライターの使い道は、オレには考えつかない。あ、花火とか?
 一瞬、ベランダで細々と線香花火をやってる英理の姿が浮かんで、オレは頭を左右に大きく振った。馬鹿げてる。
「何言ってるのよ、あなたが置いてったんでしょう。気づかなかったの?」
 いつの話だか、オレには考えが及ばない。
 そもそも、カートンで買うとおまけでついてくるライターが、家のそこらじゅうに置いてあるし。
「捨てないでおいて良かったわ。ライターなんて他に使い道、無いものね」
 花火のついでに、他の誰か(男だ。無論)が、この部屋でオレと同じように煙草を吸っている図が浮かんだが、血迷っても言わなくて良かったと思った。
 オレの身勝手な想像は、めったにあたることは無いし。昔っからオレにだけは嘘をつくのが苦手なんだ。

 疑われるのが嫌いだったし、こんな些細なことでも喧嘩になりかねないからな、オレたちは。
「やめろって、言わなくなったなお前。昔は散々言ってたくせによ」
 禁煙なんて、オレには到底無理だが。
「言っても無駄だって、やっと諦めたのよ」
 そういうオレも、蘭ができてからは当分吸わなかったこともあった。
 そのときの反動が、ここ10年も続いてるんだなぁ、きっと。
「今日は麦茶にしておきなさいね。酔ったオヤジの介抱なんて、したくないから」
 英理はお盆の上に乗っけた涼しげな麦茶を差し出した。
 受け取ったオレの手が、その瞬間無意識にピタリと止まったが、無かったことにしておこう。
 こんな些細なことでも、喧嘩になりかねないからな。
 もう一度同じように心にフタをして、言葉たちを茶といっしょに胃に流し込んだ。
「ま、世話なんてする気、無いけどね」
「……そうかよ」
 なにが可笑しいのか、英理はクスクスと笑っていた。
 ここしばらく、コイツの笑った顔なんて見ていなかった気がする。
「なによ、変な顔して」
「なんでもねー」
「ねぇ、……本当は何しに来たの?」
「んぁ?」
 英理は少し声のトーンを下げて言ったのをいいことに、オレは聞こえないフリをした。
 きっとコイツも気づいてるはずだ。だったらなおさら言い出せない。
「用が無いなら、帰ってくれない?明日の仕事の準備があるの」
「自分で引き止めたくせに、勝手な女だな」
「引き止めてなんか……」
「まあいい。んじゃ、邪魔したな」
「っ……ねぇ!!」
 グイっと小五郎の腕を力まかせに引っ張った。
「イてっ……!なんなんだよ?」
「……」
「おい」
「……何しに来たのよ」
「そりゃー……蘭に言われて」
「どうして言ってくれないの?」
「何をだよ」
「なんで私ばっかり……」
「だから何をだよっ」
「……もういい、早く帰って」
「言われねぇでも帰るよっ」
 今度は英理の腕がその進行をとどめることなく、小五郎の身体は彼女の視界から消えた。
 無情に閉まるドアの前に佇むふたり。
 オレは立ち去ったフリをして、ドアの前で英理の溜息を聞いた。
「……バカ」
 少しだけ声がくもっていたのは、厚い扉のせいなのか。もしかしたら泣いているのかもしれないとオレは思った。
けれど今、このぶ厚い壁を剥いだところで、オレはどうしていいか分からねぇから……やっぱり英理の存在は大きすぎるから、オレが傷つけた涙は見たくない。
 今日がオレたちの結婚記念日だということは、もちろん知っていた。
 内ポケットに眠る存在も、忘れたわけじゃない。
 いっつもこうだ。
 こころに穴があいたように、
 いま確かに悔やんでる自分がいる。引き返そうと何度も思う自分がいる。
 なのに
 オレたちは……いつもこうなってしまうんだ。
 きっとアイツは分かっている。オレの言いたかったことも、なぜオレが今日現れたのかも。
 同じ苛立ちも、この後味の悪さも。
 言わないのはお互い様じゃねぇか。
 バカみたいだ……オレたちは。
 部屋の寒いほどの冷気が、この身体から徐々に引いていくのが分かって、オレの心も徐々に温まりつつあった。
 いまなら、もっと穏やかな気持ちで渡せる気がしたけれど、やっぱり英理の涙を想うと、それはどうしてもできない。
 最後に一度だけ、今いたマンションを振り返り、英理のくれたライターで煙草にしっかりと火をつける。
 ベランダから英理が見ている気がして……オレは最後まで意地を張りつづけ……
高層を見つめながら、ゆっくりと煙を吐きだした。






おわり