サルベージ






「なんだよ……その、ゴツいカバンは」
「相変わらず色っぽくない格好で悪かったわね」
「皮肉のつもりは、別にねーけどよ」
「どうだか。……で、あの子たちは?」
 予約の時間に一五分遅れて案内されたテーブルに居たのは、夫の毛利小五郎ひとりだけだった。
 子ども抜きでお忍びでデートかって?
 まさか。2人揃ってお手洗いにでも行っているのかと思い、あたりをキョロキョロと見渡していると、
「よろしければ……」
 そう四人掛けテーブルの空いている席にバッグを置くよう促され、私は目を丸くした。二つの空席。テーブルの上には、はがき半分サイズのメッセージカードが置いてあった。

『たまには夫婦ふたりきりで過ごして欲しいっていう娘のけなげな計画でーす! 忙しいのは分かるけど、美味しいもの食べて! たまには子どもがいるって忘れちゃうくらい楽しんじゃってもいいんだよ♡ 蘭』

 ズリっと、重たい鞄が肩からずり落ちた。
 

 ──忙しいのは分かってるの。でも明日はどうしても! お願いっ!
 珍しくあの子が懇願するものだから変だと思った。
 このところ蘭からの食事の誘いを断ってばかりで……仕事に忙殺される私を見かねて、
 ──ちゃんと食べてるの?
 上京した子を心配する親のようなことを言い、
 ──困ってるなら、お父さんに相談してみたら?
 そんなあり得ない提案をするものだから、電話で少しキツい言い方をしてしまったのだ。
「子供が親の心配なんてするものじゃないの!」
 だからあの子は、こんな手段にでたらしい。


「なるほど。今頃蘭とコナン君もデートというわけ」
「デートだぁ? そんなんじゃねえだろ」
「それは蘭たちのことかしら」
「あん?」
「それとも私たちのこと?」
「そりゃー……」

 静かにメガネを光らせて追求すると、小五郎は答えから逃げるように目をそらした。その様子を睨んだまま、私は席につき膝の上に広げた厚いナプキンを丁寧に撫でつけた。
 夫婦の食事をデートと迷いなく言い切れるのは、仲の良い夫婦の証だ。

 二人で黙って見つめ合って、乾杯をした。グラスを静かに置いたとき、真っ白いテーブルクロスを見つめて……困惑してしまったわ。いったい何を話題に出せばいいのか、分からなかったの。小五郎も同じように困ったのか「煙草は吸えますかねぇ?」とお店の人に聞き、丁重に断られていた。

 "子どもがいるって忘れちゃうくらい"

 私は深く苦しいため息を落とした。あの子にそんなこと言わせてしまい、吐く息が胸に詰まる。
 会話もままならない私たちにとって、あの子の存在がいかに大きいのか。夫婦揃って娘に甘えすぎていることを、実感する夜だというのに。

 ねえ、蘭……。あなたのお父さんは濃い色のベストがよく似合ってるわ。このお店に相応しいフォーマル感もばっちり。センスがいいわね。
 この人にこの服を着せてこの席に座らせるために、どう言いくるめたのかしら。聞くのが少し怖いけど、今度教えて頂戴ね。



「いつもの、お得意の武勇伝でも話したら」
「はぁっ? 何でお前に?」

 小五郎はそう言い放った。なぜ私と夫婦の枠組みに収まり続けるのか、疑問に思うほどに愛想がない。
「たまには聞いてあげてもよくってよ」
 ムッとして高飛車に言ってみせると、
「な〜に企んでんだかな」
 不審がり探る目つきで見つめてくる。私は負けじと唇の端を持ち上げた。
「アラ別に企みなんて……。ペラペラ話して、大サービスをするのがお好きでしょ? この場にいるのが私以外の女性なら、でしょうけどね」
 楽しそうに話して聞かせ、会話が弾んで仕方がなく、心からバカ笑いの絶えない夜になっただろう。
 小五郎は黙った。倦怠を極めた夫婦の通夜みたいに静かなテーブル。二人きりで過ごすこの時間は、私たちが放棄している夫婦生活と同じように、彼にとって窮屈で居心地の悪い時間に違いない。
 こちらも同じだ。せっかくの食事を少しも楽しめる気がしなかった。──まともなお店で食事をとるのはいつ振りか、思い出せもしないというのに。

 私は普段よりもピリピリしていた。無理をして今夜時間を捻出したのは、他でもない一人娘の為であって、こんな女好きオジサンの機嫌をとる為ではなかったのだから。
 ワインを一口飲んでは置き、ため息をつきまた少し飲んだ。今夜は、美味しいはずのワインも身体にスッと入ってこないようで、ただ喉が渇くばかり。空席に置いたビジネスバッグがやたらと気になった。

「そのカバン、石でも入ってんのかよ」
「オホホ。石材屋に転職したのよ」
「……。そのうち腰でも壊すんじゃねーの」
「ハイハイ、もう若くないものね。忙しいのよ。素敵なお店にこんな格好で現れてしまう程にはね」
「どんな事件だよ」

 事件。確かにそれが手持ちの話題で、一番弾む話題に間違いない。私もそのことで頭がいっぱいだ。テーブルに置かれた色とりどりのオードブルには似つかわしくない話だが、何しろ話題がない。
 そうして私は、ある殺人事件の弁護の話をし始めたのだった。もちろん職責上の秘密を守ることに配慮した話し方ではあったが、小五郎は概要を聞いてピンときたようだ。この人も新聞くらいはちゃんと読んでいるらしい。
 出先から直接駆けつけ、仕事モードが抜けていない脳はキンキンに冴え渡っていた。いったん開きはじめると流れるように口は動いていた。
 蘭からの手紙で、変なスイッチが入ったのかもしれない。間が持たなかったのが嘘のように、言葉が次から次にあふれ出てきた。

 長い話になり、小五郎のグラスにだけ幾度もワインが注がれた。破裂寸前の風船の口を開いたような、頭から鬱血した血が抜けていくような、そんな感覚すらしていた。
 ──私。何だか、変だわ。



 食欲がわかず、量を控えめにと予めお願いをしていたため、私の皿はすぐにあいた。小五郎は前菜からメイン料理を平らげるまでの長い時間、黙って聞いていた。
 事件の話は時系列がバラバラで飛んだり、当事者ではなく弁護人の感情が交じったりもした。小五郎は表情を変えなかったが、私の頭が雑然としていることに、内心では何を思っているのだろうか。
 "お父さんに相談してみたら?"
 私は憫然な気持ちになりながらも、この顔にあの子の面影を重ねずにはいられなかった。


 やがてデザートの時になり、白い大きなプレートが運ばれてきた。
 そこに描かれていたのはチョコレートソースの一本の直線。中央にショコラがひとつ佇んでいた。華美な飾りではないが、シンプルな余白の美しさにふと心が奪われた。
 
「まぁ綺麗……頂くのが勿体ないわね」
「ンン、なんだって?」
 プレートから顔を上げると、小五郎はすでに口に入れた後だった。この盛りつけの多彩な表情を味わう間の無さには心底呆れたが、私は何だか笑えてきた。
「なんでもないわ。美味しそうね」
「あ? 気になるだろーがよ」
「……ねえ。私、どこか変かしら」
「別に普通」
 シレっと小五郎は言った。だがやはり、そのことが普通ではないことの、証明みたいのものだった。
 小五郎は普段ならもっと嫌みを言うのだ。「お前、せこせこ働きすぎなんじゃねーのぉ?」とか「まったく、うらやましいぜ。寝食ほったらかしで夢中になれる燃費の良さがよー」とか。彼の表する「別に普通」は、私のおかしな状態を映す鏡のように正しい。
 ストレスだろうか……。今話した、担当している殺人事件の弁護が行き詰まっていることと関係があるのかもしれない。でも食事は三食頂いているし、きちんと寝てもいる。健康管理には自信があるが、それでもたまに心身のバランスを崩す時がある。

 話をやめると、また静かなテーブルに戻った。だが先ほどのピリついたムードではなく、沈黙もそこまで気にならなかった。
 二人きりの食事をデートとすら言えない小五郎の、咀嚼する口元を見つめた。料理を味わうとき眉間にしわを寄せる癖。このしかめっ面。もっと美味しそうに食べなさいよ、と何度叱ったかわからない。

 ──あなた。なぜ逃げなかったの?
 よく考えれば、私がこの店に到着するまでの間、いくらでも逃亡のチャンスはあっただろうに。正面に座る男がなぜ納得してココに居るのかが謎だった。



***



 ──渡すモンがあるから、ちょっと寄っていけよ。
 ガスコンロの火を見つめながら言葉の意味を考えていた。タクシーを停めようとする私に、小五郎がそう言ったのだ。

 毛利家のキッチンは、実は度々利用している。こうして食事会の後に誘われて、コーヒーを飲みにくることもあるし、小五郎が留守の時に蘭と二人で料理をしたりもする。つまり、必ずそこには蘭がいた。
 今夜もそのつもりだったので驚いたのだが、あの子は今日、この街にいないらしい。阿笠博士の引率で、子供たちと旅行に行っているそうなのだ。
 遠出をするときは必ず母親の私に一報をいれるようにと口酸っぱく言っており、その言いつけを破るような子ではない。
「いーんだよ……」と訳知り顔で言い、探偵事務所へ降りていく後ろ姿を見て、私はようやく、今夜の黒幕の正体に気づいた。
 何を、企んでいるんだか知らないが……あまり良い予感はしていない。

 渡すものがある。そう言われて、贈り物への期待感に心が浮き立った過去が嘘のようだ。今では蘭の学校関係の書類や保険の書類、とにかく現実的なものばかりが頭に浮かぶ。
 小五郎はいい加減な性格のくせに、マメにプレゼントをするのが好きだった。自分の好意を表現することに照れがなく積極的で、いまもその個性は何処かで発揮されているのだろう。大して興味もないが。

「あんなオヤジの、どこがいいのかしら」
「……あんだって?」
「きゃっ!」

 首に何かが触れ、虫かと思って飛び上がった。
 首を押さえて振りむくと、小五郎が悪戯に、うなじを封筒で撫でたのだった。
「やめてよ! 驚くじゃないの!」
 キッチンに入ってきた小五郎の手には、大きな茶封筒がある。探偵事務所から持ってきた物らしい。
「役に立つかは、知らん」
 小五郎はさも重要では無さそうに封筒を差し出した。やはり何かの書類のようだが、特に心当たりがない。首を傾げながら受け取ったそれは、マチ付きでかなり厚みがある。
「何。その不吉な言い方」
 ガサガサと封筒に手を入れて中身を取り出しながら言った。中に入っているのは厚み1センチほどの分厚い書類の束。正面を向けて表紙をめくり、一行目の書き出しを見て、いきなり言葉を失った。

「──え」
「小耳に挟んだんでな。ついでだ、ついで!」

 ぶっきらぼうな声に顔を上げたが、小五郎はむずがゆそうな顔をして、私の手元を見やる。私は動揺して瞳が細かく揺れ、1ページ目をめくる手が少し震えていた。

 いつの間にか、ピー、というヤカンの音が鳴っていたが、食い入るように読むことを止められない。小五郎は自分のカップにだけお湯を注いでいた。
 懐かしい感覚だった。コーヒーを立飲みをしながら見守られている視線に、優しく抱かれているような。


「……ど、どういうこと」
「ン?」
「どうやってこんな証言がとれたの……」
「ま。細けえことは、いいじゃねーか」
「何のついで? そんな偶然ある訳が……。大体あなたこんなことをする暇があるの? それとも暇を持て余していて?」
 あきらかに適切ではない言葉だけれど、でもなら、何て言ったらよいのか……。感謝よりも驚きと、長いトンネルから抜けたような晴れやかさと、興奮が勝っていた。熱くなった額を手で覆うと、小五郎は私の大混乱を面白がるように目が笑っていた。

「第一声がそれかよ?」
「だってこんな聞き込みの量……! どれだけしつこく聞き込みをしたの? 何度現場に足を運んだの? この証言にどれほどの価値があるかわかってる? ……ええそれは、私が誰よりも理解できるわよ。それなのに、『役に立つかは知らん』ですって?」

 ファイルの厚みを強調するようにバララッとめくって見せ、一息で混乱をぶちまけた。小五郎は鼻の穴を膨らませて、笑い声をあげた。私は眉を吊り上げた。
「何がおかしいの? 感情をひっくり返すのも無理ないでしょう? 私がずっと探し続けたこの証言、裁判がひっくり返るほどの内容なのよ⁉
「クク……そりゃよかったな」
 ま、ただのついでなんだけどよ! と小五郎は耳をほじくり、私はますますカッとなる。素直じゃねえ、可愛くねえ、などと口悪く言うが、私が素直に感謝を伝えられないのは、小五郎がこんな調子で逃げるせいなのだ。

「ここまでしておいて、私のために骨を折ったと認めたくはないと言うの? このお陰で今夜は徹夜になりそう。どうしてくれるのよ」
「はぁっ⁉ 何でだよ。それさえありゃ、」
「だってこの件、早く聞かせてあげたくてワクワクしてしょうがないの。とても眠れないわよ!」
「あ、そう……ソッチね」

 小五郎に詰め寄った私の頬は興奮で上気していた。この事実を伝えたい人物の顔が、何人も頭に浮かぶ。今にも踊り出したい気持ちで小五郎を見つめ、せめての謝意を伝えるように目を綻ばせた。
「けっ、遠足前日のガキかよ」
「ええ。そんな気分だわ」
 静かに見つめると、小五郎も顔をほんのりと赤くした。照れくさそうに目を逸らし、手にしたコーヒーの残りを飲むようにカップの底を上へぐいっと傾けた。
「もう空っぽでしょ」
「……うるっせえな」
 その仕草は、さっきも見たのだ。だから照れた顔を隠す仕草にしか私には映らない。
 幼稚だわ……。そう思いつつ私も慌てて小五郎に背を向け、もう一度コンロの火を灯した。認めたくはないが、わき出る温かい感情に戸惑っていた。



 セットしたドリップコーヒーからの乾いた香りは、馴染みの深いものだ。なぜならこれは、私がこっそりと持ち込んでいる。
「これ、美味しいから」と蘭には言っているが、あの子はコーヒーを飲まないのに、いつも満面の笑みを浮かべて礼を言う。棚にしまわれたそれの残量はかなり少なくなっていた。これはほんの一例で、この家には家の主が知らないことが、実は沢山あるのだった。

「あらやだ。いつの間にかこんな時間ね」
 慌てて携帯電話を取り出し、秘書の栗山緑へメッセージを打った。

 ──お疲れさま。今夜はありがとう。これから迎えに行っても大丈夫かしら?

 そのメッセージはすぐに既読になった。すると一枚の写真が送られてきた。愛猫が顔を緩ませて寝ている画像とともに、

 ──このとおり気持ちよく寝ちゃってます。こっちのゴロちゃんお迎えは、明日でもかまいませんよ。先生のお好きなようになさってくださいね♡

 ハートマークの絵文字付きでそう書いてあったのでぎょっした。こっちのゴロちゃん、という指示詞は察するに余りある。明らかに……のことで。おそらく今夜のことを、蘭から何か聞いているのだ。
 普段誰よりも私のそばにいる彼女に、仕事のことは勿論、プライベートまで面倒をかけてしまっている。
 "お好きなように"
 その言葉の意味合いに、苦笑いを浮かべた。蘭といい彼女といい、私にこれ以上感情を優先させてどうしろと言うのだろう。そもそも感情よりも立場を優先する責任がある。そのくせ感情に身を任せてばかりで、とんでもない人生を送ってきた私に。

 きれいに磨かれた台所のシンクを見つめていた。2人の優しさと、背後からの視線の温かさが、私を覆い尽くしていた。
「私って、そんなに頼りないのかしらね……」
 そんな本音が、ふっと息をするようにこぼれた。
 すると後ろから、手が甲から被せるようなつなぎ方で重なった。動作はゆったりとしていて甘く、首筋が一気に熱く紅潮した。

「寝れねえってなら、泊まっていくか?」
 耳が溶けそうなほどの声。小五郎に誘惑されている事実に、ほんの一瞬息が止まった。
「……こ、コーヒーくらい飲んでいけよ、って言ってなかったかしら」
「勘違いすんなよ。……ただ別に、俺は」

 カタカタとヤカンの蓋が音を立てはじめた。小五郎の言葉を遮るほどの音は、戸惑う心のように激しい。
「結局お前に、惚れちまってるだけだよ……」
 心地よい声の余韻と、ピー、と沸騰を知らせる音。落ち着き払った小五郎の手が、ヤカンの音を鎮めた。火を止めた手で、今度は私の顎を支えた。くい、と横を向かされる優しい手付きで、心を掬いとるように唇がそっと触れた。


 何事もなかったかのように、小五郎が私の分のコーヒーにお湯を注ぎはじめた。私の指先は感電したかのようにジンジンとしびれたままで、手渡されたコーヒーカップの温度を、まったく感じることができない。
「結構美味いだろ。このコーヒー」
「そうかしら。……なんだか少し、しょっぱくてよ」
 そんな味の感想を言うのがやっとだった。