リリース




  1

 碓氷律子の告別式は、青山にある葬儀所で行われた。
 今日はあいにくの天気だが、二百人近い参列者がかけつけたらしく、彼女の交友関係の派手さがうかがえた。
 小五郎と英理は焼香を済ませて外へ出た。傘を差して隣にいる妻へ、知り合いらしき人間が次から次に駆け寄ってくる。英理は神妙な顔をして対応していた。
 一体何を話すことがあるのかと思ったが、弁護士が犯した、弁護士が犠牲になった殺人事件の話題でもちきりだ。あの事件はニュースでも新聞でも大きく報道されていた。当事者のひとりである英理は、沢山の人間に詳細を聞かれていたが、「さあ、私もあまり詳しくは……」とぼかした答えをしていた。犯人を追い詰めた、張本人のくせに。
 小五郎が英理の仕事関係者に会う機会はあまりなく、出会う人間は馴染みのない人種ばかりだった。「主人です」と英理に紹介されるたびに、「ドーモドーモ!」と軽い挨拶をした。
「ああ……。あの有名な……」
 その言い方に、小五郎は眉を少しひそめた。それは名探偵だと持ち上げる言い方ではなく、奥歯に何か挟まったようなリアクションだったからだ。そんな言い方を何人にもされた。
「……おい。オレはどう有名なんだよ?」と英理に聞いたが、「ご自分の胸に聞いたらいかが?」と辛辣な答えが返ってきた。
 どんな噂をされているのか、想像しただけで居心地が悪く、ゴリゴリに肩が凝った。それは普段の行いのせいなのか、碓氷律子の最期について知られているからなのかは、気にしないことにした。
 髭にまでついた線香の匂いが、ねつこく鼻奥を刺激している。
 小五郎は隣にいる英理をチラと見た。喪服姿の英理は、「厳か」という言葉がよくお似合いである。
 流石にこの場で、露骨に喪服姿に見とれているのは大馬鹿者だ。小五郎は話し相手となった男たちの視線を内心で蔑んでいた。口紅の塗られていない唇を熟視したり、ドキッというオノマトペが目に見えるほど動揺している者は、おそらく故人と関係の薄い人間なのだろう。そういう関係性の人間が多いように感じた。小五郎はその男たちの顔と名前を余さず脳に刻んだ。
 小五郎も碓氷律子の最期に立ち合った人間のひとりだ。
 立ち合ったというより、正確に言えば眠り込んでいた。小五郎の脳裏には、律子の妖艶な表情が浮かぶ。律子と最期にした会話。それは「……部屋で飲み直しません?」という、秘密めいた男女のやり取りだった。律子の人差し指の先が、小五郎の唇にそっと触れたことを一生、誰にも言うつもりはない。小五郎がその誘いに乗った本当の理由のことも。
 小五郎は、昨日群馬県警を訪れ、その足で告別式に出席していた。あの事件、──自分が碓氷律子の殺人容疑を掛けられ、妻が真犯人を暴いた事件について、個人的にかなり気になることがあったのだ。
 群馬県警の山村警部補は、はるばるやってきた小五郎を歓迎し、得意げに証拠の録画VTRを披露した。妻が仲間内の弁護士である佐久法史を真犯人として挙げ、逮捕の決め手となったものだ。小五郎はその映像を見て、やはりある違和感を覚えた。
 映像というものは実に客観的に事実を映す。英理に向かって言った佐久の言葉が頭を何度もよぎっている。
 ──あなたのことを本気で狙っていた男の一人でね……。

「……碓氷さんとは、殆ど仕事だけのお付き合いだったけれど」
 蘭とコナンが手洗いに離れている間に、英理は呟いた。
「誤解されやすい性格だったかもしれないわね。女がこの業界で派手に立ち回ると、悪目立ちしてしまうことがあるから」
 英理にも激しく身に覚えがあるのだろう。確かにお前は目立ちすぎだよ、と内心で思った。
「律子先生って、確かアレだよな。お前の出てた番組の後任をやってたもんな。さぞ目立ってたんだろ、彼女も」
 英理はすこし目を細めた。
「そんな昔のこと、よく覚えてるわね」
「ああ。無理して慣れねーことしてたからなぁ」
「けどあれでも結構評判良かったのよ。碓氷さんもね、つい最近までやってたかしら。彼女は上手だったわ。三十代前半で交代させるって、今思うと露骨なキャスティングよね。女弁護士をなんだと思ってるのかしら。まったく失礼しちゃう」
「まあ、目立つのも善し悪しだな。殺されちまったら元も子もねーからな」
「女弁護士が殺されるなんて、本当に嫌な事件」

 秋の長雨が降っていた。
「お前、佐久法史の弁護はやらねーんだってな」
「あなたそれ、どこで聞いたの?」
 この話を知ったのは、昨日訪れた群馬県警でだ。英理が佐久に対して、「あなたの弁護は引き受けなくってよ!」と冗談めかせて断っていた映像を見たからだ。佐久の犯した殺人について、英理は重大な事実を知らないままだ。
「オレはやっぱ、殺人者の気持ちには寄り添えねーな……」
「わかってるわよ。それがあなたという人間」
 英理はまっすぐ前を見つめている。目線の先には沢山の供花が並べられている。中には英理の送った花もあった。オレの名前も入れてくれりゃ良いのに。小五郎は一瞬思ったが、旧姓で送っているあたり、この女にも何か線引きがあるのだろう。
「頼まれたら、やってたか?」
「さあ、どうかしらね」
「お前はやるだろ。そういうタイプだ」
「あなた、自分が殺人の罪を被せられたこと、もう忘れたの?」
「関係ねーんじゃねーの。被告人が困ってたら手を差し伸べる。そういう弁護士だろ、お前は」
「……やけに彼の肩を持つのね? いまごろは良い弁護士が見つかってるわよ、きっとね……」
 けれど英理は今日、おかしなことを聞いていた。被害者の告別式だというのに、知り合いの弁護士に会うたび「彼の弁護を頼まれなかった?」とコッソリ情報を欲しがっていた。
 遠くに見慣れた二人組が見えた。いつもの制服姿の蘭と、半ズボンに黒いサスペンダーを付けた礼服のコナンだ。小五郎は話を切り上げようと、英理に背を向けた。
「律子先生は、気の毒だったな」
「……そうね」
 英理の低い声に、小五郎はいったん開いた口を、何もせずに閉じた。昨日群馬で知ったことを英理に話すべきだと思ったのだが、タイミングを計っていた。

 タクシーを拾うために、一人先に場を後にした。
 小五郎が手を挙げる前に、黄色い車が近づいて停まった。開いたドアの上に傘をさし、後部座席に英理を座らせた。自分はそのまま隣に乗り込んだ。蘭は助手席、コナンはその膝の上に収まった。
 英理は腰を掛けて、少し濡れた前髪を掻き上げていた。湿気に色気があるとは、誰の言葉だったか。喪服姿の妻が妙に色っぽいのは、憂いが強く感じられるからかもしれない。
「うわー。何か、ざーざー降りになってきたね」
「ほんと」
「お葬式が雨だなんて、最後まで残酷ね」
 英理の静かな言葉に、車内の空気が重苦しくなった。信号待ちをしている早いワイパーの音を聞きながら、小五郎は窓を少しだけ開けた。ふと香ってきたのは、雨と混ざった蕎麦屋の出汁の匂いだ。
「腹減ったなー。なんか食ってくか?」
「お葬式帰りに寄り道する気には、あまりなれないわ」
 それもそうかと、小五郎はさらに大きく窓を開けた。匂いだけでも堪能しようと鼻から息大きく息を吸った。
 その匂いはある記憶を連れてきた。嗅覚というのは、五感の中で最も記憶に残りやすいらしい。


   2

 ──七年前のあの日。英理が指定してきたのは蕎麦屋だった。
 洋食党の英理が、「久しぶりにお蕎麦が食べたいわね」なんて珍しく言ったので、小五郎はよく覚えている。
 しかもその店は小五郎の土地勘のない駅にあった。駅から少し歩き、脇道を入ったところにある店は古めかしく、ひっそりと佇んでいた。せまい袋小路には、濃い出汁の匂いが強く香っていた。
 すり切れた暖簾を見ながら、「まさか、人目を忍んでいるのか?」と、英理の思惑を勘ぐった。夫婦だというのに忍ばれるとは……。あのときの英理にとって小五郎は、隠したくなるような恥ずべき存在だったのかもしれない。
 そのくらい英理は輝いていた。以前は家族に遠慮して控えめに羽を広げていたが、別居したことで吹っ切れたように、その才能を存分に羽ばたかせていた。ふと振り返ってみたら、夫は豆粒のようにちっぽけな存在に見えたかもしれない。隠したくなったのかもしれない。だが、豆粒だって生きてれば意思もプライドもある。恥ずかしい思うくらいなら、捨ててみやがれ。そう自分を奮い立たせるように、暖簾をくぐった。
 英理はまだ来ていなかった。奥の席を選び、頬杖をついて窓の外を見ていた。朝から止みそうで止まない、しつこい雨が降っていた。
 英理から電話が掛かってきたのは十月の頭のことだ。三年前に家出をした妻からは、電話がしょっちゅう掛かってくるのだが、そのほとんどは幼い娘あての電話だ。
 うっかり小五郎が取ってしまえば、百発百中で喧嘩が勃発するので、蘭は電話のコール音を聞き取るのがすっかり上手くなった。まるでビーチフラッグスみたいに電話機へ向かって駆け出すのだから、日々鍛え抜かれていく娘の反射神経には、すさまじいものがある。小五郎はオイオイ蘭ちゃん……、と娘の背中にただ呆れて苦笑いだ。
「おとうさんいる? だって。おかあさんが……」
 蘭は複雑な顔で小五郎に受話器を手渡した。期待と不安が入り交じった表情をしていた。蘭がいるときに掛かってくる小五郎あての電話は、とても珍しいことだった。
 小五郎は苦虫をかみつぶしたような顔をして子機を受け取った。あまりいい予感がしなかったからだ。
「あァ? 何の用だよ」
 小五郎は迷惑そうに言いつつ、条件反射的に壁掛けカレンダーの前へ移動した。今月の山は紅葉している。この山の写真が入ったカレンダーは、町内会で配っている書き込みスペースが広いタイプのものだ。だが、十月十日に「運動会」、と書かれているのみで、特に何の予定も入っていなかった。
「蘭の運動会? 勝手に来たきゃ来ればいいじゃねーか……。なに? 都合がつかねーだと?」
 小五郎は言い、こちらを見上げている蘭をちらと見た。不安げな顔はうっすらと、悲しみの表情に変化しているように見えた。小五郎は思わず声を落とした。
「……なんとかなんねーのかよ」
 勝手に来ればと言いつつ矛盾しているが、蘭の表情を見たらそう言わずにはいられなかった。
 英理は「私も困ってるのよ……」と本当に困り果てたように言ってきた。しおらしい声に小五郎はいつもの調子を崩され、それで、久々に会う約束をした。対策会議だ。その週の日曜、運動会の一週間前の日。
 そして英理は、この蕎麦屋を指定してきた。

「待った?」
「おせー。腹ぺこだよ。ちと昼メシには遅すぎ……」
 小五郎は言いながら顔を上げた。約束の時間は十三時だったはずだが、既に十五分が経過していた。文句を言おうと思ったのだが、英理の装いを見て言葉が喉に詰まった。
「何よ? ボケッとして。どうかしたの?」
「……いや、べつに」
「変な人ね、相変わらず」
 英理は正面に座り、すぐにメニューを手にした。
「順調?」
「ハ、順調? お前ほどじゃねえよ。それなりだ、それなり」
「苦労させてるのね」
「優しいねぇ、心配してくれるなんてよ」
「バカね。あなたの心配じゃないわよ」
 小五郎はわざとらしい泣きまねをしたが、英理はメニューを見ていて顔も上げない。当然そうと分かっていて言ったことだが、英理の素っ気ない言い方が、お茶目な小五郎の虚しさを助長した。
 英理の顔は少し強ばっている。「よっぽど腹が減ってるのか?」 昔ならそう言って英理をからかっただろう。
 英理は真剣な顔でメニューを睨んでいる。どうせ注文するものは決まってるくせに。つまり、英理は緊張しているのだ。
 まあ無理もない。ふたりで会うのはかなり久しぶりのことだ。五月頃、どこで聞きつけたのか、小学校の授業参観でバッタリ鉢合わせをして以来だ。
「何でお前が!?」「あなたこそ!」でお互い面食らい、教室中の注目を浴びてしまった。蘭は恥ずかしさで俯いてしまい、今思えばとても可哀想なことをした。
 その日の帰りも壮絶なケンカになった。
 原因は、小学校の役員を引き受けたいという、承諾しかねることを英理が言ってきたからだ。小五郎は「お前がでしゃばるとややこしいからよ……」、と本心で迷惑がった。
「あなたのいーかげんな性格に任せておけないわ!」
「父親なんか来たら、周りに気を遣わせるだけよ」
「……私が関わると何か都合が悪いというわけね?」
 とか勘ぐって言うのだから、「うるせー、この話は二度と持ち出すな!」とかなり強めに言った。小五郎なりにちゃんとやるべきことはやっているのに、「いーかげん」と決めつけられて腹が立ったし、そういう学校の雑務をされては、何のために別居しているのか本末転倒だと思ったからだ。
 ふたりが別居しているのは、英理の仕事の為。寛大な心で送り出したのは小五郎だ。
「オレらに遠慮してねーで、ちょっと本気出してみればぁ?」
 そう煽るように、強引に押し出した。英理は家庭と仕事の両立に悩んでいたのを知っていたからだ。そうして三年が経ち、英理は現在、華々しい活躍を見せているというわけだ。
 英理は英理なりに、この状況に思うことがあるのだろう。自分の母親としての在り方について、立ち返り苦悩していることを知ってはいた。
 一人娘は愛情の板挟みになっている。蘭は英理と頻繁に会っているのだが、小五郎にはそのことを隠したがっている。会うことを禁じたりはしていないのに。だから小五郎も見て見ぬふりをしなければならなかった。英理が家のそばまで蘭を迎えに来て、ふたりでどこかへ出掛けていく姿を。並んで歩く二人の後ろ姿は、小五郎からはよく見えていた。
 だから英理が髪型を最近変えたことも知っていた。慣れ親しんだ揺れるポニーテールから、ボリュームのあるアップスタイルに変化していた。
 なんてことはなく、三十路を目前にした心境の変化かもしれない。加齢による変化かと聞けば、英理は小五郎のデリカシーの無さに腹を立て、早々に席を立つだろう。

「……その服、自前なのかよ。シュミ変わったな」
 英理は今日、ライトグレーのワンピースを着ている。
 鎖骨が見えるVネックに、深く切れ込んだスリット。その装いがあまりにも筆舌につくしがたく、小五郎は出会い頭に言葉を失ったのだ。
 男の本能に従う浅はかな男なら、奇声を上げて飛びつきたくなる格好だろう。……まあ自分のことだが。相手はただの妻であるので、小五郎は顔をしかめただけだった。
「……あなた見てるの?」
「たまたまな。たまたま。すっかり有名人じゃねーか」
「そんなことないけど」
「オレの目にも耳にも入るくれーだからよ。イケイケなんだろ」
「イケイケって……」
 英理はなんと、最近テレビ番組に出るようになった。
 日曜日の朝十時からやっている、公共放送のお堅い法律番組である。お堅い番組とはいえ、おそらく、この容姿を大きく買われての起用だろう。
 でなければ二十代の小娘を専門家として呼ばない。貫禄と説得力がなさすぎるからだ。この服装は、今朝見たばかりのものだ。見たというのは一方的に、画面越しでだ。英理の趣味とは違うので、てっきり衣装だと思っていた。
「あなたの趣味かなと思って、わざわざ買い取ったのよ? 喜ばないの?」
「オレの趣味ってより、もっとオヤジの趣味だろ……」
「あら、嫌いだった?」
「ってかそれ、局側からのセクハラじゃねーの? あの番組、腹から上しか映ってねーだろ。なのに、なんだよその、無意味なフトモモは……」
「嫌いなの? 昔は好きだったじゃない……」
 英理は何故か切なそうな顔をして小五郎を見てきた。
 嫌いか好きかを聞かれれば好きだが、それは妻でない場合の話だ。妻を見世物にされて喜ぶのは特殊性癖の男くらいだ。小五郎は友だちや知人から、あの番組についてしょっちゅう冷やかされているので、かなり迷惑をしている。
 先日など、たまたま床屋で手にした雑誌に、「美人すぎる○○」という様々な職業美人を取り上げる特集があったのだが、そこにその番組での写真が使われていて、小五郎はあんぐり口を開けてしてしまった。
 世代的に脂ぎった男が好みそうな雑誌で、前に屈んだ瞬間の、かなり際どい写真が使われていた。小五郎は思わずその場で雑誌を真っ二つに裂いて、床屋のオヤジにどやされた。
「……だって用意されてるんだから仕方ないじゃない? 本当は私だって……やりたくないのよ。わかるでしょ? 最初に断り切れなかったのが運の尽きね」
「変わんねーなぁ、昔から」
「あなたさえいてくれたらね」
「オレはお前の番犬じゃねーっつの」
「……犬でも、居るだけマシよ」
 英理は頬杖をついた。これはかなり参っている様子だ。このやり取りは、学生時代のミスコンを彷彿とさせた。いまや人妻で、一児の母だというのに。
「そんなに嫌なら断わりゃいーだろ……」
「組織に属してるんだから断り切れないこともあるのよ。一年だけって約束だから辛抱するわ」
 一年後、同じように断り切れない姿が容易に想像できた。
「ズルズルすんなよ。自分でなんとかしろよ。お前は押しに弱ぇんだから」
「だからあなたと結婚する羽目になったのかしらね」
「……そうかよ」
「もう私の味方は蘭だけだわ」
「この仕事のせいで、運動会にも来られねえくせに……」
 あの番組は生放送で、今年の体育の日は、運悪く日曜日と重なった。都合が付かないと困り果てるのは無理もなかった。

 几帳面な英理は、娘のことを何でも知りたがる。小学校から蘭が持ち帰ってくるプリントは、謎のルートを通じて、すべて英理の元へ渡っているらしい。それで授業参観の予定まで把握し、教室で鉢合わせしたのだ。
 それでも、助かったこともある。新学期になると、手作りの手提げバッグやシューズバッグなど色々な物品を用意しなければならないそうだ。おそらく保育園でもそうだったはずだが、小五郎は刑事として一線を走り続けていたため、育児の細かい点については全く知らなかった。
 ・手提げバッグ ・シューズバッグ ・ピアニカ入れ ・防災ずきん(できれば手作りのもの)
 小五郎はプリントを見て(できれば手作りのもの)の「できれば」の意味を素直に受け取り、「ウン、できねえな!」といさぎよく匙を投げていた。
 ところがそれらは、いつの間にか毛利家に送られてきていた。英理は、料理は下手だが手先はなぜか器用なのだ。蘭はそれを嬉しそうに使っている。
「おすすめは揚げ茄子なんだけど……」
 小五郎は頬杖をついて、緊張している英理の顔をながめた。
 ……母親としての在り方なんて、人それぞれじゃねーのかな。
 小五郎がそう励ましても、「あなたに何が分かるのよ?」と半笑いで返されるだけだ。小五郎は胸ポケットに手を当ててアレを確認し、メニューを見ている英理の顔を見続けた。
 久しぶりに顔を近くで見た気がした。こんなに睫が細長かったかとか、こんな所にほくろがあったかとか、細かな点が目についた。目元がハッキリとし、唇が赤濃く染められている。化粧が濃いのは、今日は他人に施して貰っているからだろう。
 美人は三日で飽きる? 本当に飽きるなら、こんな気持ちにはならないだろうな。なんせ物心ついたときから、小五郎は英理に惚れ込んでいるのだ。とっとと飽きればいいものを。
 腹の立つくらい整った顔。なんでこんな顔に生まれちまったかな……。そう時々思うのだ。英理がこんなに美人でなければ、ふたりの運命はもう少し違ったかもしれない。
 メニュー越しに見つめていた唇は、不意に動いた。
「あなたはどうせ、ざる蕎麦よね」
 質問ではなく確認の口調だった。選ぶメニューが分かるほどの付き合いだと言わんばかりだが、小五郎は今日珍しく、穴子天を食べたい気分だった。そうとは言えなくなり、黙って肯定した。英理は小五郎の予想どおり、天ぷら蕎麦を頼んだ。
 英理はテーブルの隅にある空っぽの灰皿を見た。
「禁煙してるんですってね……。どういう風の吹き回し?」
「別に深い意味はねーよ」
「恋人でもできた?」
 どうせ本気で聞いてもいない。答えるのも馬鹿らしい質問は無視をした。英理も蘭から小五郎の変化を聞いていたのだろう。それは英理の髪型と同じで、なんてことはない心境の変化だ。

 愛しい愛娘から託された伝言が、耳に強く残っている。
 ──ハッピーバースディって、ちゃんと伝えてね~!
 運動会に母親が来られないと知って、蘭は小五郎に伝言を託した。十月の頭、英理の電話が掛かってきたとき、小五郎はカレンダーの前で、その日が近いことにすぐ気がついた。
 英理と電話を切ったあと、カレンダーに時刻を書きいれるのを見て、蘭はパッと笑顔を咲かせた。「蘭も来るか?」と聞いたが、「じゃましちゃ悪いから!」と子どもとは思えない気づかいを見せた。
 本当に。蘭にだけは申し訳ないことをしている。納得ずくで決めた別居だが、その罪悪感が、ふたりの間に重くのし掛かる責任で、それが今のふたりを繋いでいる絆ともいえる。周囲の助けもあって、今のところ明るい子に育っているのが何よりの救いだ。愛情を惜しみなくあたえることに関してだけは、小五郎は大きく胸を張る。
 小五郎は胸ポケットから、一枚のカードを取り出した。
「蘭からだとよ」
 それは、蘭から託されたバースデーカードだ。二つ折りにされているカードを開いた英理は、柔らかい母親の顔をして微笑んだ。優しい微笑みに、小五郎は息を飲んだ。
 先日、蘭と米花商店街の文房具屋に行ったときだ。回転ラックにいくつも揃えられたバースデーカードの前で、蘭はしゃがみこんで真剣に悩んでいた。三十分も経ったころに、
「まだかよ、なんでもいーだろ」
 小五郎が業を煮やして言うと、蘭は手ぶらで戻ってきた。「なんだよ。買わなくていいのか?」と聞けば「いいの!」と自信満々で言っていた。結局、厚紙と折紙で手作りすることにしたらしい力作がこれだ。ハサミで器用に切った母親の絵と、「おかあさん、おたんじょうび おめでとう!」の大きな文字が、小五郎の胸にも染みた。こんなものは、世界中どこを探しても売ってはいなかっただろう。
「いい子ね」
「だろ」
「……いい子に育ってるわね。ありがとう」
「ありがとうだぁ? お前だって育ててるだろうがよ」
「……どうかしらね……」
「そういう言い方はよせ。無責任に聞こえるからよ。他人には」
「うん……」
 英理は天井を見上げて涙をこらえるようにしていた。どんなことを考えているのか、しばらく天井を見上げていた。やがてカードを大事そうに折り戻して、バッグへしまった。
 一度鼻をすすって小五郎の目を見た。眼鏡の奥の瞳は水分を多く蓄えて潤んでいた。
「優しいのね」
 今日の英理は、やたらと切なげに小五郎を見てくる。
 いまふたりは蘭の両親として会っているが、英理は母親の顔をバッグへしまったのだと分かった。小五郎も同じように、父親の顔を何処かへしまうべきなのだろう。
 気まぐれか? それとも本気か? 見極めるように小五郎がダメ押しにじっと見つめると、英理の瞳はさらにゆらめいた。その視線には正直、心がざわついた。
 ……助けて欲しいのか。
 思っただけで口にはしなかった。参っているのは電話の様子だけで分かってはいた。こんな衣装を着させられ、オヤジの下劣な趣味に付き合わされる仕事など、絶対に英理の性格では向かないのだ。やめたくて逃げ出したくて、小五郎をよろこばせる為じゃなく、助けて欲しくてこれを着てきたのだ。
 助けてやってもいい。ただし、ちゃんと筋を通すなら。何かを頼むとき、それが仕事なら、ちゃんと契約書に取り決めを明記する。そうだろう、弁護士さん。
 ……助けてくれないの?
 英理の目がゆらゆらと揺れている。気の強い英理にこんなすがるような目をされると負けるので、小五郎はなるべく見ないようにした。
 勝手に動いて、「あなたが余計なことをしたせいよ!」と過去に何度も言われたことがある。バカではないので、その反省をちゃんと生かしているつもりだ。
 会話は運ばれてきた盆によって遮られ、すぐにテーブルが一杯になった。湯気が会話の邪魔をするので、ふたりで黙って蕎麦を啜った。
「……こりゃー旨いな」
「でしょ?」
 英理の声はもう明るい。
「舌は肥えてんのに、まったくもって、不思議っつーか……」
「何が?」
「いや、コッチの話」
「私の料理が何か?」
「いや……」
「何か?」
「なんでもねーよ!」
 英理の料理下手は、別居の原因のひとつということになっている。これは決して小さくはない問題であり、ふたりの夫婦生活はストレスと常に隣り合わせだった。
 だが、娘の心情を置き去りにするほどの因果関係があるかといえば、そんな単純な理由ではないのだと、ふたりそろって口をつぐむ。
 別居の真の原因は、誰にも語らないとふたりで決めていた。
 すべて蘭のためだ。母親が娘より仕事を優先していると、本人にも周りにも、勘違いさせたくないからだ。
 だから別居の原因はふたりの性格の不一致ということにしている。実際、誰から見てもふたりは一致していないので、疑う者など誰もいなかった。
 英理が残したエビの尻尾を小五郎は箸でつまんだ。尻尾の処理は昔から小五郎の役目だった。
「ココが旨いのによ」と言えば、
「バリバリ音がして恥ずかしいもの……」
 と実に英理らしい理由を述べる。小五郎はひとりで蕎麦屋に入るとき、今日は英理がいないから尻尾が食えねえな、と思いながら天ぷら蕎麦を頼むのだ。

 運動会不参加への対策会議は、後日に埋め合わせるということであっさり話はまとまった。蘭の両親としての用件は、表向き以上だった。
 どうするかな……、と小五郎は考えた。英理は助けて欲しがっているが、それを容易く叶えてやってよいものか。少し前ならば悩むことなど無かっただろうが……。そこに、少しの意地の悪い気持ちがあったことは認めよう。
 信じられないことだが、英理はこの一年間、一度も身を委ねてこようとしなかったのだ。夫婦であることをやめたわけではない。別居しても夫婦としての機能をふたりは大事にしてきた。小五郎は愛情を持って英理を送り出しているし、英理もそれは分かっていた。
 仕事に熱中するのは結構。その為の別居だ。充実した日々に忙殺されているのも構わない。だが……。ひょっとしたら……。
 小五郎には少しの危惧があった。英理は新しい世界に染まり、小五郎に縛られることを止めたがっているのではないか、と。

 ……助けてくれないの?

 だがそれは、思い過ごしだったようだ。今日、英理は切なげに小五郎を見つめてきた。必要とされていた。揺れる瞳で助けを察してくれと言われれば、心が揺れるのも無理はない。
 じゃあたまにはかわいくお願いしてみれば? そんなイジワルのひとつも言いたくなるのは、果たして心が狭いだろうか?

 小五郎は悩みつつ、会計を済ませた。代金は小五郎が持ち、「ごちそうさま」と英理は言った。いやに他人行儀だなと思ったのだが、そういえば英理は昔からそういう女だったのに、自分はそのことを一瞬忘れかけていた。
 雨は窓越しで見ていたよりも強く降っていた。英理は濃緑の傘を傘立てから取り出した。
「えっと……」
 傘立ての上で、英理の右手がうろうろと迷っている。客は小五郎たちひと組しか居なかったはずだが、黒い傘が三本も刺さっていた。小五郎は英理の後ろから腕を伸ばし、柄の端が割れた傘を取り出した。
 いま自分たちは、お互いの傘も知らない間柄なのだ。その紛れもない事実は、それなりの感傷をもたらした。
「どしゃぶりだなー……」
 傘をひらいて歩きだした。雨音があまりにうるさく、どこへいくかと大声で問うのは野暮な気がした。横並びであっても、先導しているのは小五郎だ。当てもなく駅とは反対方向に進む足取りに、英理は異を唱えない。
 どこへ行こうか。さらに込み入った話をするには、ふたりきりになるのがよさそうだ。だが、昼間からふたりきりになれる密室など、思いつく場所はそう幾つもない。連れ込み先によっては顔をかわいらしく染めて、「スケベ!」とか言うだろう。すでに頭の中では、英理がブーブーと文句を言っている。本当は、早くその顔が見たい。
 だが、当の本人は黙りこくっている。こんな激しい雨の日にハイヒールなんかを履いている珍しい英理の歩き方は、どこか不安定で、滑っていまにも転ぶのではないかと思った。
 らしくないその不安定さは、あざとく男心をくすぐった。すっかり父親業が板についた自分だが、これでもまだ生々しい男であることを、妻はいつまでも忘れさせてくれない。
 本当に自分は英理に甘い。昔から。今も。三年前も。
 ……しゃーねーな、と小五郎はこの意地の張り合いに、いったんは目をつむってやることにした。意を決し、英理の手を引こうと手を伸ばした。照れくさくてそっぽを向いていたので、うまくキャッチできずに、空気をかき混ぜただけだった。
 右腕が冷たく濡れたが、めげずにもう一度トライした。けれどスカッと空振った。
「……?」
 不思議に思って横を見ると、いつの間にかそこに、こつぜんと英理は居なかった。
 振り返ると、英理は3メートルほど後ろでしゃがみこんでいる。小五郎は行き場の無い右手をにぎった。
「ったく、人がせっかく……。決めさせろよな」
 舌打ちして英理に近づいた。
「おい、拾い食いか?」
 ふざけて聞いたが、英理は黙って何かを覗き込んでいた。「まつい動物病院」と書いてある扉の前には、見るからに湿った段ボールが置いてあった。
 英理の頭越しに中を覗き込むと、ブルーのきれいな瞳がふたりを見上げていた。ブチ模様の猫だった。小五郎が顔を上げると、動物病院には定休日の札が掛かっていた。
「まさか捨て猫か?」
「……」
「にしちゃ、けっこうデカいよな」
「……」
「おい、英理?」
 英理は箱の隅に置いてあった小さな封筒からメッセージカードを取り出して読んでいた。後ろから見ると、「飼育放棄をしてごめんなさい。どうかよろしくおねがいします」という小柄な丸文字が見えた。小五郎は顔をしかめた。
 英理は黙って少しのあいだ猫を見つめていた。やがて傘を畳んで段ボールを抱えた。小五郎は慌てて、雨に濡れる英理と猫の頭上に傘を差した。
「甲州街道を新宿方面へ」
 タクシーを捕まえて、英理は通りの名を運転手に指示した。英理のマンションのそばに、動物病院があるのだという。
「おいおい……」
 窘めるように小五郎は言った。だが、何のためらいなく決断した英理の横顔はとても凜々しく映った。小五郎は黙って寄り添うことにした。

  3

 雨の日の動物病院はとてもすいていた。
 すぐに診察室に通された。獣医は捨て猫の状態を細かく検査した。動物病院の前に放置されていたことを見ても、あそこに置き去りにされて、そんなに時間は経っていなかったのだろう。少し空腹状態にあるくらいで、それ以外の健康状態は良好だということだった。
 オス猫で、歯の状態から推定する年齢は十歳前後だそうだ。長い間大事に飼われていたのかもしれない。しっぽをゆらゆらと揺らしながら擦り寄ってくる、人懐っこい猫だった。
 あっという間の出来事だった。気がついたら小五郎は、ペットショップの大きなカートを押していた。広々としたカゴの中がすぐにいっぱいになった。英理はどんどん商品を入れていった。砂の入った袋とか、トイレ砂を入れる容器とか、キャットフードとか、爪とぎとか、寝床用の布団とか、棒の尖端に羽のついた玩具とか……。荷物もちがいるのを良いことに、大きなキャリーバッグまで入れている。手は二本しかないのだが。
 英理の腕には猫、手には病院で聞いた必要物品のメモが握られている。
「ホントに飼うつもりかよ……」
「いけない?」
「ペットは苦手だって言ってなかったか?」
「動物は好きよ。それに、出会っちゃったんだもの」
「言っとくが、ウチでは飼えねえからな。蘭の仕事が増える」
「あら、渡さないわよ。このコは」
「……ったく、面倒見れんのかよ」
「当然よ。あなたなんかより、よっぽどうまくやるわ」
 その言外の意味をくみ取りかけたのだが、小五郎は言葉を飲み込んで「ヘイヘイ……」、とだけ返事をした。猫に誰かを重ねていようが、猫が猫である事実に変わりはない。
 母性を持て余しているのかもな、と思った。英理は元々人の面倒をみるのが好きなのだ。だから弁護士なんかをやっている。子どもひとりを育て上げるより、猫を飼う方がまだ手は掛からないだろうかと、小五郎は口を出すのをやめることにした。

 タクシーを降りて小五郎はトランクから荷物を降ろした。英理は猫を抱え、小五郎は山盛りの荷物を持たされて部屋まで上がった。傘を差せないので雨に濡れ、靴と靴を擦り合わせるようにして脱ぎ、部屋に上がった。英理はタオルを手渡しながら小五郎に言った。
「ペット可のマンションにしててよかったわ。届け出ればいいだけだから、引っ越さなくて済むわね」
「警察にも届けを出さなきゃなんねーか」
「そうね。置き去りにした飼い主が現れるかもしれないわ」
「期待はすんなよ」
 英理は部屋に入ると、買った物をとりだして床に並べだした。
「見て。このコの脚先って真っ白でしょう? スノーシューズを履いてるみたいだから『スノーシュー』って言うんですって」
「フーン」
「興味ないの? こんなにかわいいのに」
「そりゃ……出会っちまったもんはしょうがねーって感じで」
「フフ、なにそれ」
「お腹すいたニャー」
「ヤダ、もう! ふざけて!」
 しゃがんで猫の脚を持って言う小五郎に、英理は笑った。
「ね? 可笑しいわねぇ……」
 と言いながら猫の頭を撫で、無邪気な笑顔を見せている。
「……かわいいじゃねーか」
「あなたって、けっこう猫好きだったわよね」
 小五郎は英理の顔を見てつい呟いたのだが、当然のように英理は誤解した。久しぶりに見た英理の綻んだ顔に、胸は正直にときめいた。
 何十年の付き合いでバカみたいである。だがやはり、好きな女にはいつまでも笑っていて欲しいものだ。小五郎の熱っぽい視線に、英理は気がつかない。
「本当にかわいい。名前は何にしようかしら」
 英理はすっかり猫に夢中だ。
「あーあ」
 ふと、面倒なことにならなければいいなと思った。英理は不仲な夫と別居中の美女。この部屋に来たいがために、この猫を口実に使う男が、英理の周りにはウヨウヨしていることだろう。小五郎は英理を指差した。
「お前さ。猫飼ってますなんて、軽々しく人に言うなよ」
「どうして?」
「どうしてもだ」
「?」
 英理は不思議そうに首を傾げ、「よく分からないわよねぇ?」とまた猫に微笑みかけた。今日はずっと英理からのサインを待っているのに、英理はこちらを見なくなった。一方的に情欲を感じさせただけで、このまま放り出されるのはさすがにつらい。小五郎は猫を抱いたまま片手をフローリングにつけ、英理に顔を近づけていった。
「え?」
 英理は笑顔を引っ込めて小五郎を見た。ゆらめく英理の瞳からは、読み切れないほどの複雑な想いを感じた。小五郎はいつもの軽口を引っ込めて、英理の言葉を待った。
「あ、あの……」
 だが英理は戸惑うように一言呟いただけだった。小五郎はすっかりその気になっていたが、一応、「良いか?」と目で聞いた。
 ふたりの間には15センチほどの奇妙な間ができている。さすがの小五郎も、一年ぶりに触れるのには遠慮もある。
 英理は明らかに迷っていた。夫に触れることを躊躇っていた。
 ……単なる緊張? それともやはり……。
 しばらく答えを待ったが返事はない。小五郎は揺さぶりに顔を少し傾けてみた。鼻と眼鏡がぶつからないように気遣ってのことだ。すると、英理は瞼をやや少し下ろした。小五郎はそれをサインだと受け取ることにした。
 控えめすぎる動作を都合良く解釈しているのかもしれない。だがもう後にも引けない。ゆっくりと唇を近づけていくと、そのとき間にいた猫が「ニャア!」と鳴いた。ふたりはパッと離れた。
「お、お腹すいてるわよね」
「ニャ!」
「ちょっとまっててね!」
 英理はサッと膝を伸ばして素早く立ち上がった。照れ隠しに小五郎は唇を尖らせた。
 この猫。妙に目力があり賢そうで、言葉が通じているのではないかと思うほどだ。いたずらそうな目が、小五郎を見上げていた。
「オイ、じゃましたな?」
 小五郎は冗談で笑って聞いた。
「ニャー?」
「一年ぶりなんだぞ? わかってんのか?」
「ニャー?」
「コイツ……」
 とぼけたような鳴き声は、「なんのことだか?」とでも返事をしているように聞こえた。
 確かにこの猫の言うとおり、食事を与えるのが先だろう。いま止めなければ、あのまま止まれなかったかもしれない。膝に手を乗せて立ち上がると、手のひらにはフローリングのあとが深く刻まれていた。
 英理が猫の食事の用意をしに離れているあいだ、猫は縄張りを点検するように部屋を歩きだした。小五郎は猫の動向が気になって、その尻尾を後ろから追った。
 蘭は時々この部屋にも来ているようだ。猫を飼ったと知ったら、動物好きの蘭はよろこぶだろう。ペットというものは、常に悲しみがつきまとうことを小五郎は知っている。娘の悲しむ顔はできれば当分見たくないな、と思った。
 猫はゆっくりと行進している。2LDKの部屋は、一人暮らしにしては見回りがいがある。小五郎がこの部屋にくるのは何度も言うが、一年ぶりだ。インテリアの感じを見て、何となく全体的なグレードが上がっている気がした。余裕のある暮らし振りからは、英理の掴みかけている成功が見て取れた。一人前どころか、同じ三十歳頃の平均年収三人分の稼ぎくらいありそうだと予想した。
「こりゃ、肩身が狭いな……」
 小五郎は正直に苦笑いをした。わずかに残るプライドがそう思わせた。英理の成功を誇りに思う気持ちと、その裏にある感情は常にセットになっている。
 慣れていた。ふたりは子どもの頃から、いわゆる不釣り合いの幼なじみ、カップルであったのだ。その本質はずっと変わらず、年齢と共に格差が開いて、こうも明確な差になって現れているというわけだ。
 小五郎は英理のことをよく知っていた。どんなに気が強くとも、並外れた才能を持ったスゴい女といえども、時に弱ることがある。実際にそれを見てきたからこそ、いざというとき、英理には支えになる人間が必要なのだ。
 オレが支える。幼き日、体育座りで涙に暮れる英理を見てから、小五郎はそう心に誓ったのだ。その役目は自分だけのもので、今後一生、誰にも譲るつもりはない。
 今日の英理は小五郎に触れることを迷っている。その理由が知りたい。パズルのピースが足りない感じがするのだ。それもかなり大事なピースが。 
「……焦るなよ」
 左右に揺れる尻尾に誘われ、思わず本音を呟いていた。

「お好みに合うかしらねぇ」
 キャットフードを盛り付けた皿を持って英理は戻ってきた。小五郎はソファに腰をかけてそれを見ていた。
 カタン、と英理は床に皿を置いた。猫は近づき、最初に鼻で少し考えたのち、上品に口を開いて食べ出した。英理はホッとした顔でそれを見届け、ようやくこちらを見た。
「ねえ。ちゃんとご飯食べさせてあげてる?」
「蘭の料理、けっこう旨いんだぞ」
「……。それは義務にはしないであげてね」
「案外楽しくやってるよ」
「本当に楽しんでる? あの子は……」
「ダイジョーブだって」
「ちゃんと気にかけてあげてね。あなたは脳天気なんだから」
「うるせーよ」
 英理は文句を言いながらも、静かに隣へ腰掛けた。餌を舐める猫の頭を見ながら、微妙に触れそうな英理の脚を意識せずにはいられない。英理は小五郎の左側に座ったが、片側が大きく開いたスリットから覗く、白い太ももを見せつけているみたいに感じた。
 それを意図的だと感じるのは、願望なのかもしれない。普通の顔をして見せているが、正常な判断ができているのか自分では自信がない。自分こそ、らしくない緊張をしていた。ぎこちなさと慣れのあいだで、英理の手の上に、そっと手を重ねた。
 焦るなよ……、ともう一度念押しをした。英理の身体が強張っているのがわかったからだ。「……しおらしく緊張か?」と、英理をからかう文句が浮かんだが、言うのをやめた。冗談にしてもうまく笑える気がしなかった。
「手、冷てーな」
「……大切にしなさいよね。あなたを受け入れてあげるなんて、よっぽど愛があるんだから」
「おい、それ、自分で言うか?」
 小五郎は呆れて片眉を持ち上げた。英理のことは、これ以上大事にしようがないくらい、大事にしているつもりだからだ。
「一体、どう大切にされたいんだかな。言わなきゃ、わかんねーんだけど?」
 なあ、と畳みかけた。ホラホラ、助けてって言えよ。と意地悪く肘で小突くように。
「大丈夫だって。嫌な仕事ひとつ断ったぐれーで、仕事が無くなるわけじゃねーだろ? お前は優秀なんだからさ。ホラ、得意じゃないのは、料理だけだろ?」
 そう冗談めかせて励ました。英理を怒らせるだろうが、小五郎らしい励ましだと伝わるはずだ。
 ところが英理は、いじけるように首を振った。
「……どうせ、そうです」
「え?」
「……どうせ、私は」
「オイオイ、どうした? 半人前なのは料理だけだって!」
「もう! 料理料理ってうるさいわね! どうせ私は、蘭に料理も教えてあげられない母親ですよ!」
「……英理?」
 何か様子がおかしいと、小五郎は英理の顔をのぞき込んだ。英理の目に光るものが見えた気がして、小五郎はぎょっとした。
「オ、オイ。泣くほどのことじゃねえだろ?」
「泣いてないわよっ」
 英理は涙目で否定した。確かにこれは、英理の大きな欠点ではあるが、今さら気に病むことでもなく、もはや笑い話のはずだった。他では完璧なのだから、一つくらい不得意がなければ人間としてどこかおかしいじゃないか。
 顔を隠すようにうつむく英理の頭をなでた。英理は、どんどん気落ちしていくように項垂れている。どう励ませば良いのか困惑して、ただ頭を撫でた。なんだかよく分からないが、力加減をまちがえたら、潰れてしまうような気がした。
 焦るなよ……。強く言い聞かせた。自分だけに見せるこの様子は、昔から小五郎の弱点なのだ。
「なあ、どうしたんだよ」
「ひどいわねぇ。そんなに私の料理がきらいなの?」
 英理は冗談みたいに笑いながら言った。見当外れなことを言いながら、なんだか泣きそうに見えた。バカか? 料理の得意不得意なんて今さらなんだ? 好きな女が心から笑っていてくれればそれでいいに決まっているのに。
 英理の肩に手を置いて、その顔を見つめた。
「そんな目で見るなよ……」
 華奢な身体を強く抱きしめると、その柔らかさと頼りなさに身体の芯がジンとした。
「……私は、あなたの妻よね?」
「……当たり前だろ」
 英理の不安げな声に、心が強く揺さぶられて、ギュッと目を瞑った。英理が迷っているのはいつものことだ。一緒に迷うなんて、自分らしくないのかもしれない。ウダウダと考えるより、身体を先に動かすのが、毛利小五郎という男だったはずだ。
 抱きしめる力を緩めて、俯いた英理の顎を掬い上げた。開いた唇に自分の唇を押しつけた。……なんて柔らかさだ。目が眩みそうになり、柔らかいそこに、何度も何度も触れた。
 焦るな、と言い聞かせる声は、どこか遠くへ飛んでいった。ふにふにとした触感の唇に、葛藤の重りはガクンと一気に傾いていた。これはもう、正常な判断ではない気がした。
 まるでテストランのような、遠慮がちなキスもらしくない。じれったさに胸が痺れるばかりだ。……やめだやめだ!
 ソファに強く押し倒し、服の切れ目から手を忍び込ませた。ストッキングを纏った、すべすべとしたフトモモを執拗に撫でる手が止まらなかった。
 やっぱりオヤジ趣味なんじゃないの? そう思われたかもしれないが、そうだ。好きなものはしかたがないだろう!
 匂いと、柔らかさと、折れそうなか細さ。コレが英理だ。確かめるように、英理の鎖骨から上のあらゆる肌に、唇で触れまくった。英理は抵抗をしなかった。英理の両手は顔の傍で力なくゆるんでいただけだった。
 その顔。されるがまま、あなたの好きにしていいわ……、という表情。初めての時もこうだった、英理の顔が昔の表情と重なった。恥ずかしさに目を背けつつも、仕方ないんだから……、と小五郎を受け入れてくれる表情だ。小五郎しか知らない英理の身体を征服していく実感に、頭の何処かが焼け焦げた。
 そのとき背中に、ピン! と強い視線を感じた。小五郎は英理にのし掛かったまま慌てて後ろを振り返った。猫と目が合った。猫はじっとこちらを見つめ、何かを言いたそうにしていた。
 なんだよ、飯は食っただろ?
 思ったが、ちょっと待てよ……、と冷静になり時計を見た。大事なことを思い出し、その先の情欲に父性で急ブレーキをかけた。
「……電話、貸してくれ」
 鼻息荒く、そう頼んだ。

 英理が浴室へ消えている間、小五郎は二ヶ所に電話を掛けた。今夜、蘭をお願いできないか、という内容と、今夜は新一の家に泊まれ、という用件だ。
 シャワーを浴びた英理は眉尻を下げている。
「……大丈夫?」
「気にすんな。時々あるからよ。……仕事で」
 言い訳のように付け足した最後の単語に、英理は呆れたように微笑んでいる。言うまでも無いことだったかもしれない。
「猫ちゃん、寝てくれたの?」
「……寝たよ。信用してもらえたかね」
 猫の背をゆっくりと撫でながら、小五郎は声を絞った。ソファの上で丸まって背を上下させている猫は我が物顔で眠りについている。
「なんかコイツ、不貞不貞しいっていうかさ……」
「まるであなたみたいね」
「捨て猫っぽくねえって話だよ」
「そうね。後悔した飼い主が、現れてくれるといいけど……」
「期待すんなって。一度捨てたモンを手に入れるのは、なかなか勇気がいることだろ」
「それって」
「いや、深い意味はねーよ?」
 英理が小五郎の意図に気付きかけたので、その唇を塞いだ。お前はもうちょっと勇気を出してみれば? そう重ねていた。
 火が付いてしまえばあっという間だ。数え切れないほど身体を重ねた経験は伊達ではない。けれど負担があってはいけないと、小五郎は慎重に事を運んだ。一旦クールダウンできたのが功を奏した。小五郎はあの猫に感謝しつつ、初体験の時との大きな違いに自嘲した。
 こまかく震える瞼も、硬くなっている膣も愛おしかった。英理が震えていたのは、久しぶりの緊張だろうと思った。リラックスさせるのに苦労し、小五郎は柄でないと思いつつ、「好きだ」と「かわいい」を駆使して英理をほぐした。もちろん本音だ。言い慣れていないので、嘘っぽく聞こえたかもしれない。
「あなた、まるで別人みたいね……」
 そう英理は言った。うっとりと、どこか寂しげに。
「だって一年ぶりだろ? ……痛くないか?」
 英理は小さく頷いた。強い肉圧に、小五郎は英理を気遣った。
「キツイよな?」
「小五郎……」
「ン?」
 英理は、はぁ……と熱い息を吐きながら、「……小五郎」と、もう一度名を呟いた。その顔を見て目を見張った。英理の目は、網膜が溶け剥がれたみたいにドロドロに蕩けていた。「好きよ」と語るように、目がキラキラ輝いていた。そんな目で名を呼ばれ、英理の髪に顔を埋めた。懐かしい響きに、胸が一杯になった。
「……オレも好きだ」
 髪に顔を埋めた。顔が熱くなっていた。
 とことん甘やかしてやろうと思っていた。だが、そうできたかは自信がない。英理は声が枯れるほど甘く泣きじゃくって、小五郎の胸を甘く痺れさせ続けていた。壊れないように扱えたかどうか分からないが、愛情にだけは自信を持って胸を張った。



 日が落ちて部屋が暗くなり、テーブルライトの紐を引いた。寝室にある生成りのランプシェードの下には、伏せられた写真立てがある。
 家族写真だろうと起こしてみると、蘭の保育園の卒園式での写真だった。当時、娘の成長に涙した感情と、これを伏せたであろう直近の英理の気持ちに胸が詰まった。
 英理は一度だけ深く達した。繋いだ両手を、爪の先が白くなるほど握りしめ、感情を爆発させるように涙を散らしていた。

 雨は上がって、窓から月の光がうっすら差し込んでいる。
 英理はふわりと柔らかい羽布団を身体にかけている。ほっそりとした肩は汗をかいたせいか、よりきめ細かく、青白く感じた。吸い寄せられるように、そこへ唇を押しつけた。
「……このまま、溶けてしまえればいいのにね……」
 うっとりと、それでいて、何かを放棄するような、諦めの声色だった。いまふたりで激しく気持ちを確認し、その甘美さに魂が震えたばかりだ。
 溶けたいが、溶けることができない。……それはそれ、これはこれ。そういうことだろうか。
 それでいいんじゃないか?
 でもまあ、もうちょっと頻繁に会ってくれりゃーな……、とは素直に思った。蘭に掛ける時間の十分の一でいいから、自分のことも思い出してくれれば、小五郎に不満はないのだ。

「……なぁ、英理」
「……灰皿そこよ」
 ふたりは同時に口を開いた。短い言葉がかち合って、英理が何を言ったのかがよく聞こえなかった。英理は、寝そべったまま指でサイドボードを示している。
 なんだ? と不思議に思って、ひきだしを引いてみた。驚きのあまり、目をひんむいた。





 小五郎は見慣れた煙草と灰皿を掴んで取り出し、すぐにひきだしを閉めた。英理のやり方にゾッとして、冷や汗を垂らした。
 英理はハッキリとした口調で小五郎を呼んだ。
「あなた」
「ちょっと待ってくれ……」
 小五郎は煙草の封を切り、慌てて煙草をくわえた。ひきだし入っていた煙草で、そこには灰皿も入っていた。……何故?
 いや、それよりも問題は入っていた一枚の紙だ。三つ折りに畳まれた紙だ。小五郎はたまらず、おちゃらけて聞いた。
「……は、ドッキリかよ? カメラはどこだ?」
「私がふざけてこんなモノを用意すると思って?」
 英理のもっともな答えに、小五郎は冷や汗を掻いたまま、ただ黙った。沈黙で寝室はすぐに煙でいっぱいになった。英理は考えをまとめるのをじっと待っている。英理の考えを読むため、深くニコチンを吸った。禁煙していたので、頭が少々クラクラした。
「私、あなたの押しには特に弱いわよね。昔から」
「だから抱かれてやったと、そう言いたいのか?」
「いい思い出よ」
 それは初めての時のことか、それとも今夜の。
 確かにいま、魂が震えるような喜びを感じたばかりだろう。それを片割れだけが感じて、もう一方が感じないなんてことが、あるだろうか。
「……で、コレは誰のだよ」
 コレのおかげで、頭がしゃっきりしてきた。持ち主の分からない異物を灰皿にぎゅう、と押しつけた。小五郎は煙を追い出そうと立ち上がった。
「窓は開けないで」
「ハ? 煙いだろ」
「いいの」
 英理は思いのほか強い意思をこめて言い、小五郎は立ち上がったままベッドへ戻るきっかけを失った。窓辺に立ち、外を見つめた。
「思い出にするから」
「それでわかるか。ちゃんと説明しろ」
「私ね、もうすぐ独立しようと思うのよ」
「へー、そりゃよかったな。それで?」
「そうしたらもう、嫌な仕事を引き受けなくて済むのよ。テレビだって、苦手な依頼人だって断るし、自分の意思でやりたい事件も選べる。儲からないと文句を言われることもなくなるわ」
「フーン。お前も苦労してんだな」
「あなたの家のそばに、新しい事務所を借りようと思ってるの。慰謝料も、養育費も言い値を払ってあげるわ。……だから、一つだけお願いを聞いてくれる?」
「……ちょっと待て」
「蘭が好きなときに、いつでも会ってもいい?」
「……会えばいいじゃねーか。今のままでも。会ってるだろ」
「ダメなのよ」
 振り返ると、英理は見たこともないような冷ややかな表情をしていた。ふやけて柔らかくなった指がカサついていていた。
「……好きな人がいるの。……ごめんなさい」
 入っていたのは、夫婦を他人に戻す魔法の紙切れだ。
 どうやら、ようやく英理の長い魔法が解けたらしい。














   4

「……さん、おとーさんってば」
「ンあ?」
「火をつかいたいんだけど。上まできてくれないかな?」
「あ、スマンスマン」
 目の前のちいさな料理人が、エプロン姿で三角巾をかぶっている。蘭は、考え事をしていた小五郎の腕をグイグイひっぱっていた。
 小五郎は探偵事務所のデスクで考え事をしていた。しばらくやめていた煙草を再開し、持ち帰ったあの紙切れを思いながらそればかりを吸っていた。
 蘭はそこらの小学三年生よりしっかりしているが、ひとりで火は使うなと強く言い聞かせている。
「きょうはね。炊飯器でピラフもつくったよ」
「すげえな、うまそう」
「ふふふ」
 本棚には、いつの間にか料理の本が増えていた。『はじめてのキッチン』や、『こどもクッキング』と書かれたカラフルな本を誰が買い与えているかは聞くまでもない。本棚には他にも、レシピ本が数多く刺さっている。香草だのトルコ料理だのネパール家庭料理だの……。やたら本格派のにおいがしているのだが、この本の持ち主こそ、こどもクッキングを読むべきである。
 小五郎はキッチンの暖簾をくぐり、ガスコンロに火を付けた。
「ありがと」
 蘭は低めの踏み台に昇った。温まったフライパンに溶いた卵を流しているピンと伸びた腕を、小五郎は一歩うしろからながめた。ちいさな主婦みたいな背中は、愛らしさのかたまりだ。

「私、子どもが大好きなんですよ」
 このキッチンで言われた言葉を小五郎はふと思い出す。相手は、蘭の小学校の若い女教師である。
 一年前くらいだろうか。先生らしからぬフワフワのスカートを穿いた先生は、毛利家へ家庭訪問に訪れた。そりゃあ先生という職業に就くくらいだから、子どもは好きでしょうな、と小五郎は思った。
 先生は、蘭の学校での様子を話し、小五郎は家庭での様子を話した。話は弾んで、湯呑み三倍分のお茶で喉をうるおした。
「すごく頑張り屋さんですよ。頑張りすぎなところが、心配になるくらいです。見守っていきましょうね」
 そんな言葉で話は締めくくられ、先生は立ち上がった。フックに引っかけられたちいさなエプロンを見て、先生は同情的な表情になった。先生は生徒の家庭環境を把握しているはずなので、当然、毛利家に母親が不在であることを知っている。
「もしよかったら、私がお夕飯をつくりましょうか」
 いきなりの申し出に小五郎は両手を広げ、かぶりを振った。
「イヤ、そんな、申し訳ないっすよ!」
「帰っても、ひとりで寂しく食べるだけですから」
「そうなんすか。こんな美人なのにもったいない」
「こうみえて、料理は得意なんです」
 先生は控えめに腕まくりをした。頬がピンク色をしていた。
「そーっすか? じゃあお言葉に甘えて!」
 小五郎は遠慮せずに受け入れた。先生は若くて可愛らしく、とても素直でまっすぐに小五郎を見つめた。
 学校の先生と家で食卓を囲むという特別に、蘭は高揚していた。先生と蘭はキッチンで並んで、沢山の餃子を作った。
「つくりすぎたので焼かずに冷凍しましょうか」と言った分まで、小五郎は全部平らげた。餃子にビールは最高の組み合わせだった。
 先生に勧めたビールは柔らかく固辞された。蘭が風呂に入っているとき、先生は食器の後片付けまで手伝ってくれた。

 それから先生は、何度も毛利家に来るようになった。頻度でいうなら、週に二、三度。スーパーの買い物袋を下げて、
「一人分も三人分も手間は変わりませんからね!」
 そんな快活な笑顔を見せてくれた。それだけで食卓はパッと華やいだ。小五郎は蘭が笑顔になってくれさえすればそれでよかったし、三人の食卓は賑やかで笑いが絶えなかったのは、正直に言えば救われた。
 ずいぶんと生徒の面倒見が良い先生だな、そう思っていた。

「いつも楽しいです。とても」
 あの日、食器を洗う先生の肩は左右に揺れていた。感情が素直に身体に出るタイプなのだ。小五郎と同じだ。
「あの。毛利さん」
「はい」
 先生は蛇口を締めて、小五郎を見上げた。
「……私じゃだめでしょうか」
「ハ?」
「私じゃ、蘭ちゃんの母親になれませんか」
 ぽたり、と水滴の落ちる音がした。
「蘭の母親? なれるもなれないも、そんなものは……」
 小五郎はその可能性に気付いて固まった。先生の頬は、恥ずかしそうにピンク色に上気していた。
 まさか子持ちの自分が、こんな若くてかわいい独身の女性から、そういう目で見られているとは思いもしなかった。
 この人は、生徒の面倒見が異常に良いわけでも、女房に逃げられた憐れな男に同情していたわけでも無かったのだ。
「……申し訳ない!」
 小五郎は深々と頭を下げた。先生の優しさに甘えて、鈍感な自分に気がつかなかった。先生が毛利家に通ってくれるようになって、もう結構な月日が経っていた。期待を持たせた自分の愚かさを小五郎は恥じた。
「蘭の母親はこの世で一人なんです」
 ……そうですよね。と先生の肩は寂しそうに丸まった。胸が痛んだ。
 その後の展開は、「あがったよー」という、風呂上がりの蘭の声で救われた。
「すみません。私ったら急に……」
「本当に、すっかり世話になっちまって……」
「どうしたの? ふたりとも、ヘン……」

 卵の焼ける芳ばしい匂いが漂ってきた。
 このちいさな主婦には、できることなら、一緒に暮らす母親が必要なのだろう。本当に、寂しい思いをさせてしまって申し訳ないと思っている。蘭の母親が誰であるべきか、選ぶことができるなんて、これまで考えたこともなかった。
 小五郎も男なのでちょっと想像してみた。彼女となら、どんな結婚生活になるだろう? 格差なんて感じず、穏やかな生活、癒しのある日常が過ごせるだろう。男として常に頼ってもらえるだろう。それは、張り合いがあるというものだ。彼女に仕掛けるところもつい想像してみた。
「やめなさいよ、このスケベ!」
 英理が怒っていた。心の声というやつだ。なんでお前が頭の中にいるんだと、その声をシッシッと追いやった。
「ステキな人じゃないの。あなたになんて勿体ないわねぇ」
 うるせえ、どっかに行け。シッシッ!
「大切にしなさいよ? あなたみたいな人を受け入れてくれるんだから」
 ……だって大事にしたくても、お前はここにいねーじゃん。
 自分で送り出しておきながら、そんな恨みを持ってしまう。

「……好きな人がいるの」

 そんな残酷なことを言われても、小五郎の中にいる幻の英理は消えてくれない。幼き日に立てた誓いにならって、一生消えないのかもしれない。
 英理は新たな世界で、新たな人種と付き合っている。充実した日々を送り、魅力のある人間に囲まれていることだろう。
 人を好きになる気持ちを抑えることはできない。相手が魅力的な人間であれば尚のことだ。今までつなぎ止められていたのは、一人娘の存在だった。男としては、とうに見限られていた。
「おとうさーん」
 蘭の明るい声に、小五郎は顔を上げた。
「このまえ後藤先生にね、オムレツのおいしい作りかたを教わったんだよ~後藤先生って本当に料理が上手だよね」
「ヘー」
 先生はあの台所の告白以来、毛利家に来ることは無くなった。蘭にはその理由を、「大事な彼ができたんだ♡」と説明しているらしい。本当にいい子だと思った。彼女と付き合ってしまおうかと思うほどだ。だって自分はもうすぐ独身になる。心の中の英理さえ片付けば、小五郎は晴れて自由の身だ。
「オムレツ、おかあさんにも教えたら、すっごくよろこんでた。今度つくってもらおうね!」
「英理が?」
「あっ、」
 蘭は重大な秘密を漏らしてしまった顔をして、ハッと口を手で覆い隠した。
「……英理が? 何て言ってた?」
「ううん。おかあさんとは、たまたま、ばったり」
「別に会ったっていーって。コソコソしなくていーよ。ンなことで怒ったりしねーからさ」
「う、うん……」
「で、おかあさんは何だって?」
「いつも賑やかで楽しそうだねって。けっこう前から、ウチの前をよく通りかかるんだって。だから、よく先生が遊びにきてるよって言ったんだ。おかあさんも来れば良いのに、って」
「うん。そうだよな」
「蘭も賑やかなほうがいいの? っておかあさんが聞くから、それはおかあさんがいてくれたほうがうれしいよ! って言ったの。だって帰ってきてほしいから……」
「そうか……」
「これってもしかして、言ったらいけないことだった……?」
 蘭はオロオロしていた。自分の失言のせいで両親に何かがあってはいけないと、細心の注意を払っているのだ。
「え? 蘭は何も悪くないって」
「ほ、ほんとう?」
「あたりまえだよ。ほら、焦げるぞ」
 小五郎は何でもない素振りで言った。蘭は慌ててフライパンに向き直った。その背中を見ながら、あの日の英理との、噛み合わない会話が蘇ってきた。
「どうせ私は、蘭に料理も教えてあげられない母親ですよ!」
 今さらそれがなんだと小五郎は不思議に思ったのだ。欠点は料理だけだと励ましたつもりが、ピンポイントにコンプレックスを刺激したらしい。
「ハハハ……なんだよそれ……可笑しいなぁ」
 まったく可笑しい。会心の一撃だ。
 ──このまま、溶けてしまえればいいのにね……。
「……あのクソバカ女」


   5

 小五郎が英理の裁判に来たのは初めてだ。何となく近寄りがたくて、今まで見に来たことが無かった。
 どうやら刑事事件の「新件」であるらしく、その日は傍聴席が比較的混むらしい。小五郎はできるだけ、目立たない席を選んだ。
 どんな事件かを知らなかったので、詳しいことは分からなかった。だが傍目に見て、裁判はスムーズに進んでいるとは言いがたかった。
 とにかく英理の様子がおかしかった。「えーっと……」と何度もどもり、裁判官へ提示すべき書類をドサドサと書類を床にばらまいて、おろおろ狼狽えていた。
 あーあーあー……、あのドジ、何やってんだよ。
 小五郎はソワソワして、その腰が自然と浮いた。英理はしゃがみ込んで冷や汗をかきながら書類をかき集めている。もともと英理はドジなタチではあるのだが、公の場では上手く擬態することができるはずなのに。
 英理の焦る顔を遠くから見て、小五郎は放っておけずに手助けしてやりたくなった。だが、二人の間には木でできた柵があり、近づくことはかなわない。
 代わりに、英理の隣にいた若い男が英理をフォローしていた。書類を手際よくかき集め、愛しげな目で英理を慰めていた。小五郎はそれを見て、僅かに浮いた腰を静かに下ろした。
 甘ったるいな、と思った。男の目は蕩けていた。骨抜きにされていると一目で分かるような甘い視線だった。こんな公の場でけしからん! しかも他人の女房に! と窘めたくなるほどだった。
 それは片想いだとすぐに分かった。英理はその甘い視線に一切応えていなかったからだ。英理はただ、自分のことにいっぱいいっぱいで、オロオロしていただけだ。好きな女が恋をしているかなんて、わからないわけがない。

 この騒ぎで法廷は一分ほど中断した。次回の法廷の日取りが決まり、周りが起立したので、小五郎もルールに則って立ち上がった。退室する人々が、小五郎の前を通り過ぎていった。人波が去ると、英理が驚いた顔をしてまっすぐこちらを見ていた。
「よ」
「ど、どうしたの。びっくりした」
「お前さ。弁護士先生があんなドジ踏みまくって、大丈夫なのかよ? 資格剥奪とかされねーの?」
 小五郎は笑って英理をからかった。
「今日はたまたまよ、たまたま! いつもはもっとちゃんとしてるんだから。ね、佐久君、そうよね?」
 英理は焦って、隣に居る男に助け船を求めた。
「いや、結構抜けてますよ」
「ちょっと!」
「ははは、スイマセン」
 若い男は新人で、勉強がてら英理の手伝いをさせられてるそうだった。
「こんなドジの手伝いなんて、そりゃお気の毒に……」
「あのね!」
「妃さん、最近何やっても上手くいかないんで、お祓いにでも行ったらどうかって皆で言ってますよ」
「もー!」
 佐久君、と呼ばれた男と小五郎は笑った。英理の調子が悪いのは、今日の短時間だけでよくわかった。
「こいつがそうなのか?」
 英理に聞いた。端的な質問に、英理は驚いた顔をした。
「……よくわかったわね」
 すると男に腕をからめて見せ、わざとらしい微笑みを浮かべた。ぎこちなくて、遠慮がちで、全然そうは見えなくて、小五郎は英理の健気なアピールが切なかった。
 利用されている男には心の底から同情した。まあ舞い上がって、見てられない顔をしていた。詳しい事情は知らないが、惨いことを頼む鈍感女の愚行を、代わって謝罪したいくらいだ。
 英理の様子が変なのは、他でもない自分のせいだ。英理はいま初めて後ろ盾をなくし、本当の意味でひとりなのだ。
 男が小五郎を見て、疑問を持っている視線を投げかけていた。
「ええっと、この人はね……」
 英理は小五郎を紹介しようとして気づき、言葉を濁した。離婚届を渡した亭主をどう呼ぶべきか迷ったのだろう。小五郎はその顔に呆れつつ、明るく言った。
「女房がいつも世話になって。まー、このとおり危なっかしいので、助けてやってください」
「えぇっ? ご、ご主人?」
 小五郎は深く頭をさげた。
「よかったら一服どうです」
「僕ですか? いえ、あいにく嫌煙家で」
 英理はもの悲しい表情をしている。なめるなよ、と思った。

   6

 小五郎が所望し、ふたりは先日の蕎麦屋へ行った。
 夕方の開店一番の時間で、客はひと組もいなかった。先日と同じ店奥の席を選んだ。店内にはラジオが流れていた。
 端に立てられたメニューの上に、ポスターが張られている。一年中そこにあるように、寂しげに四隅が痛んでいた。
『年越し蕎麦、承ります。』
 小五郎がじっと見ていると、店員が話しかけてきた。
「年越し蕎麦は、今年一年の厄災を断ち切るという意味があるんですよ。特に当店の蕎麦は切れやすいから縁起物で」
「ヘェ」
「……」
 英理は黙ってメニューをながめている。どうせいつものだろうと思っていると、英理は「……今日は鴨せいろにしようかな」と言った。尻尾を分け合う関係ではないというメッセージだと受け取った。小五郎は別人のように冴え渡っていた。
 店員との会話のおかげで、もう一つ疑問が解けた。英理がなぜあの日、この店を指定したのか、今の小五郎になら、その心境をすくい取ることは容易かった。
「……洋食好きのお前がなんで蕎麦なのかって、変だと思ったんだよ」
「あら。あなたとお蕎麦を食べたいと思っちゃいけないの?」
 何故蕎麦なのか。何故家からも職場からも遠いこの店を選んだのか。それは人目を忍んでいるからではなかったのだ。
「本当に蕎麦だけか」
「……」
「愚痴だけか」
「……」
「英理。見くびるなよ」
 小五郎がすごむと、英理の瞳はゆらめいた。
 一体、いつから準備をしていたのだろう。この蕎麦屋へ最初に呼び出した日から? いいや、もっと前だ。役員を引き受けたいと言った春から? もっとずっと前だろう……。
 先生が毛利家に来るようになったのが一年前。
 英理が小五郎に身を委ねなくなってから、ちょうど一年だ。
 あの役員の話を持ち出したとき、「……私が関わると何か都合が悪いというわけね?」と英理は勘ぐっていた。小五郎は自らのいい加減さを責められて、英理の真意に気付けなかった。
 禁煙した理由を「恋人でもできた?」とも聞いていた。あのときは久しぶりに会った英理の新しい髪型に見惚れていて、小五郎はその質問をスルーしていた。
 もっと以前から、英理からのサインがあったのかもしれない。それに一切気付かなかった。一体自分は英理の何を見ていた?
「……大切にしなさいよね。あなたを受け入れてあげるなんて、よっぽど愛があるんだから」
 あれは自分自身のことではなかったのだ。

「お前、ゲンを担いだろ」
「……ひどいわね。私があなたの厄災だとでも言うの?」
 英理の口の端が僅かに持ち上がった。図星の合図だった。
 ……まったく……おそろしい話だ。あの日英理は自分との縁を断ち切るつもりで誘っていたのだ。そしてこの店で密かに願っていたのだ。新年のような、新たな門出を。そこまで考えが行き着くと、血管が膨れるほど、急に頭に血が上った。手に持ったコップを、水が跳ねるほど強くテーブルに置いた。
「……オレが愛する女の、どこが厄災だ。ふざけるな!」
 あのとき、旨い旨いと脳天気に蕎麦を啜っていた夫を、一体どんな気持ちで見ていたのか。これまで、気づかぬサインがどれだけあったのか。考えただけでおそろしく怒りが湧いた。
 沈黙が落ちているテーブル席に、遠慮がちに、湯気と蕎麦が運ばれてきた。小五郎は黙って蕎麦をすすりはじめた。苛ついてテキパキと箸を動かしたが、英理の箸はすすんでいない。
 あの日久しぶりに抱いた英理のことを思い出すと、またふつふつと怒りがこみあげてくる。「……小五郎」と呟いた英理のまぶた。あれが緊張で震えていたのではないと知って、怒りにまかせてエビの尻尾をボリボリとかみ砕いた。

 英理は早々に箸を置いていた。半分以上残した蕎麦を、何も言わずに小五郎が平らげた。そば粉だけでできた十割蕎麦はぷつぷつと良く切れて、ハッキリ言えば食べにくかった。クソったれと思いながら蕎麦湯まで入れてしっかり飲み干した。
「離婚届だと? 誕生日プレゼントに史上最低にかわいくねえモンをねだりやがって」
「誕生日プレゼント? ああ……本当。可笑しいわね……」
「覚悟しろよ。一生言うからな」
 一生、の言葉に反応して英理はまた瞳をゆらした。
「……別れた妻の思い出話として、是非ネタにしてよくてよ?」
「バーカ。別れた妻より悪妻に尻に敷かれてるほうが、ネタとしておもしれーだろが」
「……なぜ私が、あなたのネタのために。どうしてあなたって、私にも都合があるって考えないの?」
「都合?」
「……男ができたとは思ってくれないの」
 小五郎はテーブルの隅に置かれた灰皿を引き寄せた。ポケットから煙草を取り出して火をつけ、箱をテーブルに放った。
「嫌煙家の後輩がか?」
「あれは……」
「詰めが甘いな。お前、弁護士に向いてねーんじゃねーの」
 英理は黙った。確かにドジで詰めが甘いが、この女の用意周到さには頭が下がる。恋人役まで用意するとは……。あの寝室のひきだしに入っていた煙草と灰皿は、男の存在を匂わせ、小五郎を「捨てる」と思わせるための、単なる小道具のひとつだったのだ。
 小五郎は眉根を寄せ、煙を吐いた。
「認めろよ、英理。オレを舐めるな」
「……引き際が肝心かしらね。……そうよ、彼はただの後輩。あなたって優しいから、そうでも言わないと納得しないと思ってね」
「あーあ……憐れな後輩君……」
「あなた、折角禁煙してたのにね? 私のせいね。誰かに怒られないと良いんだけど」
「あのな……だからよ。あの先生のことは……、お前の早とちりだよ」
「早とちり? あなたの恋人でしょう?」
「あんな若い先生がオレなんかを相手にするわけねーよ。冷静に考えてみりゃ分かるだろ。あの先生は蘭を心配して……」
「酷い人。あなたの恋人なのに」
「しつけーぞ。見てたのかよ?」
「見たわ」
「は?」
 英理は小五郎の手元を見た。
「……煙草。私がいくら止めて欲しいって言っても、今まで禁煙なんてしたことなかったじゃない。彼女、煙草のアレルギーがあるんですってね……。妻には厳しいのに、恋人には優しいのね。そういう人よね、あなたは」
「会ったのかよ?」
「会ったわ」
「はぁ?」
 いつ、どこで? 流石にこれには小五郎も面食らった。
「……会いに来てくれたのよ、彼女。私の職場に。先生としてじゃなくて、ひとりの女としてよ? 私の目を見てそうはっきり言ったの。丁寧でまっすぐで、すごくいい子だなって思ったわ。私も好きよ。ああいう子。あなたには勿体ないわよ」
「……なんだよ、それ」
「あなた、彼女の料理は残さず食べるんでしょう? 私それを聞いて。あなたにも、蘭にも、……もちろん彼女にも、幸せになる権利があるんじゃないかって……」
「ふざけんな。オレと蘭の気持ちはどこいったよ? 不幸の塊みたいに言いやがって……。心配されなくてもジューブン幸せにやってるっつの。余計なお世話だよ……」
「彼女に悪いと思わないの?」
「悪いも何も……」
「あなたの行動が彼女に期待を持たせてるのよ。それが分からない?」
 諭すように言われていてムカムカした。お前が言うか?
 英理だって後輩男に同じ事をしているのだ。自覚がない分、余計タチが悪い。
「……オレはな、ちゃんと断ったよ。だって蘭の母親はお前だけだろ。英理」
「……」
「なぁ。もう、悩むの止めろよ。母親としての在り方なんて、人それぞれだ。お前のやり方で愛情を注いでやればいい。そうだろ。人に何を言われてもよ」
「……でも」
「でもじゃねえ。悩むな。悩むくらいなら行動しろ。行動を。喧嘩したっていいから、もっと会いに来いよ、お前はオレたちに。つーか、オレに!」
「え?」
「あ」
「……それが本音?」
 つい勢い余って漏らしてしまった本音に、頬をポリポリと掻いた。英理はそれを見て反省したように困って笑った。
「寂しかったの?」
「……」
「私、あなたにひどいことしちゃったのね」
「……ああ。本当に史上最低だった。あの引きだしを開けた瞬間、一生夢に見ちまうな。……オレはな。あの離婚届、お前に返さねーからな」
「どういうこと?」
「お前はオレに安心しすぎだよ。わかったろ? オレも結構モテるんだって! お前よりいい女が現れたら、すぐに別れてやる。いいか、よく頭に刻んどけ。お前よりいい女が現れたら、お前とはもう他人だ」
「なによ、それ……」
「今にわかる」
 小五郎は英理を絶対に手放したくないからこそ、強い意思を持ってそう言った。英理の性格などお見通しだ。
 捨てるのは良くても、あなたに捨てられるのはイヤ。
 英理はきっとそう思うだろう。そして、自分が誰よりもいい女になってやる! と奮起するだろう。負けん気の強い性格は、誰よりもよく知っていた。だからそれを利用してやった。
「お前はさぁ、料理以外は得意な、いい女だよ。今のとこは」
「もう、悪かったわねっ!」
 英理はいつもの調子で言い返してきた。それでこそだと、小五郎はニヤリと笑った。
 法廷で見た英理はあまりにらしくなかった。フラフラと頼りなげで、隙だらけに見えた。あんな状態ではどんな猛獣に喰われるかわかったもんじゃない。すでに危なげなヤツに目を付けられていた。
「お前さ。小道具の後始末はひとりでちゃんとできんのかよ?」
「煙草? なら……」
「そっちじゃねえ。男のほうだよ」
「佐久君? 彼は大丈夫よ。だって、」
 英理は言いかけて、首を振った。
「……やめとくわ。他人の秘密を漏らすなんて弁護士としてあるまじきよね。でも大丈夫。彼は私に興味が無いから」
 何言ってんだ、コイツは……。小五郎は呆れた。あの蕩けた目に気づかないなんて、あの男があまりに不憫すぎた。
「ちゃんと始末できんのかって」
「大丈夫だってば。もう、放っておいて」
「放っておけるか……。お前はオレの女房だろ」
 その言葉に、英理はポッと頬を染めた。小五郎がずっと見たかった、かわいらしい顔だ。
「なら……ね、我が儘かもしれないけど、ひとつお願いがあるの。……あなたの日曜日の午前中を、私にくれない?」
 すぐにピンときた。日曜日の午前中は、例の番組がある日だ。英理がようやく助けを求めてきたのだと分かった。
「……わかった。午前と言わず午後も空けとくからよ」
「ありがとう、あなた……」
 小五郎は英理の甘い視線に照れくさくなって、スッと立ち上がった。
「さ、話は済んだな。……行くぞ」
「どこへ?」
「決まってんだろ。運動会の埋め合わせだよ。オレはな、蕎麦だけじゃ腹が膨れねーんだ。なんか作れよ。全部残さず食ってやる。受けて立ってやるからな」

   7

 滑らかに走るタクシーが、また停まった。
 先ほどは蕎麦屋の出汁の香りがしていたが、今度は本格的なタイ料理の店から、ナンプラーの香りが漂ってきた。かなりキツイにおいで、小五郎は慌てて窓を閉めた。
 あのとき、料理のことで凹んでいる英理を励まそうとした。自分は本当に英理に甘い。本当にバカだ。
 どうして久々の家庭料理でタイ料理をチョイスしたのか、英理のセンスは本当に謎だった。

 あのあと、毛利家でちょっとしたバトルがあった。
「おかーさーん! どうしたの? どうしたの?」
 蘭は久々に毛利家の敷居をまたいだ英理に、ぴょこぴょこと飛びついた。
「お父さんがね、ど~~~してもお母さんの料理が食べたいって言うのよ? 泣いて頼むから来てあげたわ」
 英理は仕方の無さそうに言い訳しつつ、どこか嬉しそうに台所に立っていた。小五郎は隠れてこっそり胃薬を飲んだ。
 英理の作った本格タイ料理を前に、小五郎はこみ上げる嘔吐感を必死にこらえた。「う、うぷ……」と口元を押さえた。
 蘭は「がんばって! おとーさんがんばって!」と盛んに応援をした。聡い娘は、これを食べきったら両親が仲直りするかもしれないと期待していたのだろう。それはもう、運動会の応援のように声を張って、力の限り応援していた。
 ……なぜ、タイ料理だったのだろう。
 小五郎は胃の逆流にさからえず、口からふきだす噴水を見ながらそう思った。わざとマズく作っているんじゃ無いかと疑うくらいの強烈さだった。よく考えれば、最近は旨い料理に慣れすぎていて、すっかり耐性が無くなっていたせいなのだった。
 英理は怒るどころか自分の料理を棚に上げ、仁王立ちで勝利をよろこんでいた。
「修行が足りないわね! 出直してきなさいよ!」
「出直すのはソッチだろ!」
 そんな大喧嘩になった。これも、ネタとしては面白いだろう。


 そしてこの日以来、小五郎は英理と頻繁に会うようになった。
 必ず、日曜日の午前中「番犬役」として英理の収録を見学し、家まで送り届けることが日課になったからだ。
 その流れで午後も一緒に過ごした。主に英理のマンションでダラダラと休日を満喫した。そこはまあ……、不満はなかった。
 問題はそのあとだ。英理いわく、小五郎には「胃袋の修行」が必要なのだそうだ。英理の振る舞う食べられない料理を前にふたりは大喧嘩をし、翌日まで小五郎はひどく体調を崩した。
 英理はあの番組を結局三年も続けていた。番組が終わったあとも、夫婦の習慣だけは何故か薄らと残ったままだ。曜日の縛りは無くなって、やや流動的になったくらいで頻度的には変化はない。
 もう番犬は必要ないのだが、そのことにはどちらも触れなかった。小五郎が保管している離婚届のことも、忘れ去られたかのように話題にのぼらなくなった。
 蘭は何も知らない。小学生だった娘は、もう高校生だ。幼い頃と違い、もう真実を話してもいい頃合いだと思ってはいるが、何年も不仲を過度に演出してきた手前、照れくささもあったりする。

 佐久法史はおそらく、あのときから英理に片想いをしていた。
 そして英理が務め上げたあと、あの番組の後任を務めたのが、碓氷律子だった。彼女は前任の英理と何かと比較され、静かに嫉妬の火を燃やし続けていた。……らしい。

 線香の匂いと、出汁の匂いと、ナンプラーの匂いが鼻の中で渦巻いていた。匂いの記憶は本当に強く残るものだなと、小五郎は隣に座る、英理の手に触れながら思った。