RAIN RAIN RAIN



「おやすみなさい……」

 目の奥の熱いなにかをこらえて……こらえて笑いかけた。
 その後は、ただ無理矢理ドアを閉めて、早く落ち着きたい。
 人ひとり分の距離を保ったまま、彼はただ渋い顔をして、短く返事をしたきりだ。
 私の顔を見て、少し目を細めると、ぶっきらぼうに私から離れていくのだ。
 彼が何を思ったか、私には何も判らない。

 外は雨が降っていた。私の体はそれでも熱かった。



『先生……やっぱり警察に届けたほうが……』
『いいのよ。どうせこんなのハッタリだから』

 事務所には、ここ一週間無言電話が何回もかかってきていた。
 一日に一回から今では一時間に一回の割合で……
 2人は事務所に送られてきた一通の脅迫文らしきものを見ていた。
 なにやら書きなぐったようで、あいにく文字は読めない。
 そして強気に言い張った英理の顔は、何故だか少し青かった。
 英理の自宅にも掛かってくるのだ……無言電話が。
 『人に恨まれるのは……この際仕様のないことよ。
 ……こんなことでいちいち騒いでたら、この仕事は務まらないわ……』
 自身に言い聞かせるように、英理はか細く呟いた。








 夜道の街灯が、英理を浮き立たせ

 忍び寄る黒い陰。

 これは夢なのかもしれない……そう思いたい。







 どんなに自分の仕事をこなしても、誰かを救おうと、どんなにがんばっても
 ……恨みを買うことは仕方のないこと。

 誰かを救おうとしても、裏では誰かが傷を負って……
 常に自分の正しいと思うことが出来ない。
 私の心に住み着くジレンマが、日を重ねるにつれて大きなものになっていく。

 キレイゴトだけで、この仕事を続けていくのは、あまりにも辛すぎた。










 私だって平気な訳じゃない。
 一人で道を歩く時は、何故だか後ろを確認してしまうし。
 眠れない夜が、最近増えた。
 あの腕に、すがりつく事が出来たら
 私は楽になれるだろうか?

 彼はそんな私をどう思うだろう。


 小五郎の背中を見送りながら、英理は何度も何度もそう繰り返していた。


 自分らしくも無い考えだな、と思う。
 ただ、それを実行できない私は、結局普段と何も変わってはいないのだった。
 そういう性分なんだ。昔から。
 彼は、もっと自分に頼れと言うけど、私がそれに叶った事はきっと一度もない。


 ぞわりとした感覚が不意に私を襲った。
 振り返って、真っ暗な部屋を見ると、いままで熱かった体は急速に冷えていく。
 そして心までも。


 雨の音が、私の寂然とした想いをさらに助長していく。












一週間後〜


RRRR……RRRR……
「はい、毛利探偵事務所です。」

「……はい、毛利蘭は私ですけど……母に何か?」

「……えぇっ!?母が事故に!?」




米花総合病院


「栗山さん!!」
 集中治療室の前にうつむいて腰掛けていた女性が、はっと身を起こした。
「蘭さん……」
 蘭、小五郎、コナンの三人が、急いで駆け寄る。
「母は……」
「……軽い打撲程度で、命に別状は無いそうです。でも……まだ、意識が戻らなくて……」
「大丈夫なんですね!?……良かった……」
 三人はほっと胸をを撫で下ろすと、閉じられたままの、ドアをじっと凝視した。
「……事故って、一体何が……」
 先程とは幾分落ち着いた様子で、小五郎が聞いた。

「そのことで……ちょっと、お話が……」







「嫌がらせ?」
「はい……もう三週間も前から、ずっと……」
「ひき逃げした犯人はそいつって事か!?」
「そう……かもしれないです。先生、2、3日前から、誰かに付けられてる気がするっておっしゃってましたから……」
「どうして……警察には……?」
「前にも何度かあったんです……無言電話とか、嫌がらせとかは。だから、いつものことだから、気にするなって先生が……」
「目暮警部に連絡してくる……」



「……お母さん……」



 清潔な白い天井と、嗅ぎなれた何かの薬品の匂い。

 目覚めたのは、確かに病院のベットの上だった。

 何……?

「っお母さん!良かった……」
 蘭の声が聞こえる。しがみつく、この温かい温もりは、娘のものだろうか?

「……蘭?」
 途端、ゆっくりと子供の手が伸びてきて、手にそっと眼鏡を添えてくれた。
「どうして……」
 そうだ、私さっき車に……
「おい、一体どういうつもりだよ!!」
 静かに時が流れていた病室に、小五郎の大声が反響した。
「……っ何?」
 何?私、何かした……?
「……先生……」
 切なそうに視線を送る彼女にやっと気がついた……
 そっか……話したのね……
「一歩間違ってたら、こんなんじゃすまなかったかもしれないんだぞ!?」

 ……判ってる。
「…………」
 頭ごなしに怒鳴られても、いつものような苛立ちは沸いてこなかった。
 感情を露呈した彼の心情は、痛いほど伝わってきたから。

 あの時ひとこと言っておけばよかったのか。
 いつかの雨の日のことが思い出された。
「……毛利君。気持ちは分かるが……相手は病人なんだから……」




 ……なんだか惨め。

 私が一体何をしたというの。
 人を護ってばかりで、自分の弁護はまるで……詭弁すら浮かんでは来ない。


 胃の底で、正体の分からない何かがゆらゆらと陽炎のように立ち込めてくる。


「……御免なさい。少し、出てくれませんか……」
 英理は小さく握った拳を震わせながら、小さく呟いた。
「お母さん……」
 そんな呟きすら今は無視し、顔を伏せ人の気配が消えるのをひたすら待った。
 何人かの足音と、刺さるような痛い視線を感じ、それでもじっと耐える。
 ようやく人の気配が消えたと思い、俯いていた顔を起こした。






「……出て、って言ったでしょう?」
「…………放っておけるかよ……」
「放っておいて」
「英理!」

 彼女の体が小さく反応する。

「……言わなかったこと、怒っているの?」
「……っそうだよ!」

 なんて言ったら、いい?

「…………本当に一歩間違ってたら……こんなことじゃすまなかったかもしれないんだぞ……!」

 電話を受けて、病院に着くまで何度も頭をよぎっていた。
 ……英理に、もしものことがあったら、と。
 今考えても全身の毛が逆立つような感覚が襲う。
 自分の身が切られるよりも、それはもっと心がえぐられるような苦しさだ。

 だから、ただ無事を喜ぶ事なんて出来なかった。
 英理の不謹慎さを責めるべきなのか


「何に変えても……守るのに……」

 彼の声は、小さくだけれど確かにそうつぶやいてた。


 ……守る、という言葉は嫌いだった。
 自分は守られて強くなるほど、弱くは無い。

 彼が昔からそういう古風な事に身を置くのも、知っていた。

 ……それでも、こんなにも彼の一言は私の心に深く染み入る。


 嫌いだった……昔は。



 そう、
 ここに彼が居てくれることの、この安らぎは一体どういう事だろう。






……こんな時ばかり男に頼ろうとしてる。


私、最悪だわ。

 

 

 

 

 

 

 

おわり