濡れた髪の匂いを思い出した。
髪、体、指先……
濡れた睫毛の感触。しっとりと水気を含んだ冷たい髪の毛。
風呂上がりに、大きな窓から見える景色を見下ろした。
見下ろしてはじめて、雨だと分かった。水の形がどこと無く雨だと。
それは雨に濡れたのだと錯覚させるような、十分な説得力を持っていると思う。
「ねぇ、雨」
「朝からずっとだ」
この部屋には窓際に佇むもう一人の男がいた。
彼女の夫、毛利小五郎。
「まだ5時よ」
「夜通し起きてたんだ。だったらずっと朝じゃねぇか」
確かに、落ちついたころには暗闇も薄らぎ始めていたけれど…昨夜降った雨は夜中には止んだ筈だったのに。
そもそもこの体のけだるさは何?歳?
「寝るわ。疲れたの……そうね、9時まで寝させて」
「一緒に寝たらまた寝れなくなる、か?」
「……言ってなさい」
小さく笑う音が聞こえた。
「……なによ」
この男に満たされるどころか、逆に生気を吸い取られた気がする。
頬に赤みがさしているのが、自分でも良く分かった。何を照れているんだろう。
男は笑っていた。
「………まだ起きてるの」
小五郎と目を合わせはしなかった。そっぽを向いて、それでも隅に彼の顔が見える。
男は笑っていた。……ように見える。
「例えばの話だが――」
英理は無関心の振りをして男の声にそっと耳をそばだてた。
けれど聞こえてきたのは別のものだった。
聞き覚えの有る携帯の着信音。
「あら、携帯どこにやったっけ…」
「……ほらよ」
携帯電話が小五郎の手から離れて宙を舞い、私の手の中に収まった。
どうして貴方が持ってるのよ?
「もしもし」
『あ、お母さん?』
「……蘭。いくらなんでもこの仕打ちは無いんじゃない?」
『ちゃんと会えた?』
「ちゃんとじゃ無いけどね……代わりましょうか?」
『起きてるの? 珍しい。またなんか事件に巻き込まれでもしたの』
電話の向こうから蘭の嬉々とした笑い声が響いてくる。
「まさか。まあ私にとってはある意味事件ではあるけれどね」
そう言って小五郎のほうをチラリと見た。
ホテルの一室、ガラス越しに見える一面の青い海。
すべて蘭の謀だった。いつもと違うことといえば、ここに蘭が居ないことだ。
『でも良かった……二人一緒に居ないかもしれないと思ってたの』
「そう。でもこういうのは今回限りにしてちょうだいね」
『ごめんね』
悪いのは蘭じゃない。
「それじゃあもう寝るから……はいはい、行ってらっしゃい」
ピッ
電話を切って、英理はそっと小五郎を一瞥した。
「おやすみ」
極限を超えた眠気がそこにはあった。だって外がもう明るいんだもの。
目を閉じると朝凪が聞こえるような気がした。
あの人に出くわしたのは、外に見えたあの浜辺でだった。
蘭の謀ではあったが、出くわしたのが浜辺というのは偶然であろう。
季節外れの海辺には人が居ない、なにしろ風が強かったから。
佇む人影をみて、疑いもしなかった。
遠くからでも彼だ、という確信がなぜかあった。
驚きもしなかった。
やはり、と思った。
昔、海辺に佇むあの人をよく見ていたからかもしれない。
小五郎は風にあたるのが好きだったし、風のよく吹く海辺も好きだったから。
「…………えり?」
一方、あの人はひどく驚いていたようだった。咥えていたタバコが落ちそうになるほどに。
「お久しぶり、ね」
硬い砂をなんとか踏み潰しながら言った。
「蘭かと思ったぞ……」
それでそんなにビックリしていたの。
「あら、そんなに若い子に見えたの?光栄だわ」
「は、相変わらず口がへらねぇな」
「ところで蘭は?」
大体の察しがついていた。
鉢合わせする=蘭の謀。いや、鉢合わせする前から…蘭に誘われたときから今回はそうじゃないかと少し思っていた。
蘭は謀をカムフラージュするするために、よく私を二人きりの旅行や買い物やお茶に誘う。
毎回謀ってばかりだと、私が誘いに応じなくなると考えているからだろう。
いつもは土壇場で「やられた」と思うのだが……今回はなぜかその予感がしていた。
そしてその予感は、海辺に佇む人影を見たときに、確信へと変わった。
「……」
「一緒じゃないの?」
「オレは仕事でだな」
「ふぅん。仕事で伊豆ねぇ。三月に避暑地に呼び出すなんて随分奇特な依頼人なのね」
「いいんだよ。もう片付いたから」
二人はどちらとも無く浜辺を歩き出した。
波の音、潮の香り、軋む砂。
「蘭はコナン連れて東京に帰ったぞ」
「えぇ?」
「世話になった教師が退職するとかでな。鈴木財閥のお嬢様と学校でなんかやるんだと」
「…………」
家族3人+αのいつものパターンだとすっかり思い込んでいたが……甘かった。
「つーかなんでお前はココに居んだ?仕事か?」
「…………」
どうしてあなたはそんなに落ち着いてられるの?
「私、蘭に呼ばれてきたのよ」
小五郎はふと英理を見た。
「女二人でツインの部屋を取った筈だったの」
ホテルは用意周到な娘が手配したものだった。おそらく小五郎が泊まるはずの部屋もそうだろう。
ピタリ、と小五郎が足を止めた。
「結果が判っていて二人しか泊まらない部屋にツイン二つも取っているかしら?」
「まさか」
フロントに確認するまでもなかった。
毛利蘭、の名前で予約してあった部屋はツインルーム一部屋のみ。
「あなた、どうする?」
フロントを経て先に歩き出した英理は後姿でそう言った。
「どうするって……どうしようもねぇだろが」
それは否定なの?それとも肯定?
どうしようもないから帰る?どうしようもないから私と泊まる?
「……だから?」
「いや、だからな」
言いにくそうに小五郎が口ごもる。英理の顔が無表情ながらに曇ったのは小五郎の位置からではうかがい知れない。
「……別にいいのよ無理しなくたって。帰りたいなら帰りなさいよ」
自分でも驚くぐらい声が冷たく響いてしまった。
「そんなこと言ってねぇだろーが……」
「じゃあ何なの?」
小五郎は少しの間をおいて、小さく吐き出した。
「あるんだ」
英理はピタリ、と立ち止まる。
「……話があるんだ」
聞きたくないわ。
肩が震えそうになる。いや、もしかしたら抑えられずに微かに震えているかもしれない。
「……そう」
声がいつも通りに響いたのは、きっと仕事で場数を踏んだせいだ。
どうしようもなく動揺していた。
突然すぎて、不意打ちを食らってしまったみたい。
何の……ハナシ?
私が一番恐れていること?
「英理」
「待って」
英理は突然振り向いて、小五郎の目を見つめた。
驚きで見開かれた彼の目。
耐え切れなくなり、英理は目を伏せ床に視線を落とした。
「大事な話なの」
「まぁ、そう言っちゃそうかな」
「だったらもっと……ちゃんとしたところで切り出しなさいよ。雰囲気ってものがあるでしょう? 探偵のくせにそういうことに気が利かないのね」
小五郎はムッとした顔になり、
「なんだよ、やけに絡むじゃねーか」
「別に、いつもと変わらないわ」
確かにその通りだ。
それから二人は会話も無いまま近くの喫茶店へと入った。
「生ビール、ジョッキで」
「じゃあ……私も同じものを」
小五郎を咎める気にはなれなかった。私も飲みたい気分だった。飲めば、現実に浮いたまま曖昧に留まっておける気がした。
仕事のためか小五郎はスーツ姿だった。もちろん英理はそんな無粋な格好ではなかった。なにしろ休日なのだ。
そのせいもあるのか、何だか現場の空気は硬かった。
「なんだよ、らしくねぇな?」
真面目な顔してからかっているのだろうか。私の緊張を読み取っても、小五郎なら不思議は無いだろう。
「……」
なんと返答したら良いのか分からず口を閉ざして聞き流した。
「お待たせいたしましたー」
場の空気をぶち壊して女性定員がグラスを二つ、それぞれの前に置き去る。
「……乾杯」
何も考えずに、英理はそう口に出していた。
英理はベッドに横たわったまま、上手く眠りを呼び寄せられずにいた。
ホテルの部屋はどうしてこう開放的なんだろう。せめて二部屋くらいあれば良いのに。
英理は窓際のベッドを陣取って小五郎に背を向けたまま横たわっていた。
煙草の匂いがする。
目を瞑ると感覚が研ぎ澄まされて、匂いとか音とかで動きがおおよそ特定できるような気がする。
彼はいま、ベットに腰掛けてサイドボードに置いてある灰皿で火をもみ消した。
体はこっちを向いているが、見ているのは私じゃない。雨と海の黒い景色。
「なぁ……起きてんだろ?」
「……眠れないだけよ」
英理の声にはいつもの覇気がまったくといって良いほど無かった。
穏やか、とは違う。無気力といったほうが良いかもしれない。
「ひとつ聞いても良いかしら?」
英理の背中が問いかける。
「何だよ」
「さっき言ってたハナシって、何?」
確かに、小五郎はホテルのロビーでそう切り出していた。
「ああ……分かんねぇか?」
「分からないわよ」
ふうっと小五郎は煙草の煙を吐き出した。
「……あんだけ態度に示したってのに……このニブ女」
態度?
「なんであなたにそんなこと言われなきゃ……!」
英理は振り向いてベットから上半身を起き上がらせた。
目に映ったのは、小五郎の……むず痒い顔。
え?
小五郎が頭を掻いた。照れたときにする、変わらないこの人の癖。
「もう、許してくれねーかな……」
「…………」
そんなこと、本当は全然怒ってなんかないのよ。
「……お前と一緒に居たいんだ」
照れた顔からいつの間にか、真面目な凛々しい顔をしていた。
お前と一緒に居たいんだ――
ああ、ベッドとベッドの間の空間。この距離感がもどかしい。
表情が固まってしまう。
「……何とか言えよ」
小五郎は窓際の英理のベッドに歩み寄った。
この男の体重でベッドが軋む。
「……えーと」
「あん?」
「あの……ただ、ちょっと驚いちゃって……」
英理は唇をほとんど動かさずにそう言った。
「話があるって言ったろが?」
あなた、言い方が暗いのよ。
「私……ちょっと、疲れたの」
ベッドに倒れこんだ。
「……寝んのかよ」
小五郎が溜息と共に立ち上がると再びベッドが軋んだ。
私たち、まだまだ終わりじゃないわよね?
英理は寝そべりながら表情を曇らせて、恨めしそうに小五郎を見上げた。
「……私一人で寝かせるの?」
こんなこと絶対言うつもり無かったのに。
二人は再び海辺を歩き出した。
チェックアウトを済ませ、幾分小ぶりな荷物を抱えて、穏やかな風に打たれながら。
何もかもが艶やかで、愛しいと思った。
「で、どこまで話したかしら?」
「昨日言ったろが。戻って来いよ、お前」
「……私が居なくて寂しいんでしょ?」
「バーカ。茶化すんじゃねぇよ」
「やっと私の有難みが分かったのかしら?」
英理は小五郎から見えないように顔を背ける。
「普段なら、そんなこと絶対口にしないくせに」
英理はからかう様な口調を作って茶化そうとしたが、寧ろ自分が照れを隠していることにも気がついていた。
「あのなぁ、オレは……」
さっきまで降っていた雨で固まった砂を踏みしめる。
「……ほらっ早く歩きなさいよ! 置いてくわよ」
照れ隠しに、後姿で言った。
おわり