名探偵はピエロか悪役か
1
この状況を見たままに捉えるなら、いわゆる三角関係だ。
女は男の手元を見ながら考え事をし、見られている男は不機嫌そうに眉をひそめ、もう一人の男である自分は二人の様子を観察していた。
「……なにか言いたいことがあるなら、早くして」
男二人に挟まれた女――切れ長な眼を細める美人は、凄みがあるなと感心する。
その女、弁護士妃英理は顎を反らし、一息で言った。
ゾワっと。
その気高い声色に、背筋に素早い快感が走った。
「……おまえこそ、言うことがあるんじゃねーの?」
相対する男は気の抜けたような声で言った。ベルフラワー色の個性的なスーツ姿だ。
着慣れた様子……というよりもはや草臥れている。その具合もよく彼に馴染んでいた。
男は胸からくしゃくしゃに潰れたハイライトを出したが、妃のすばやい視線が火花のように突き刺さると、舌打ちして、すぐに仕舞う羽目になる。
「あなた。ここは禁煙よ」
「わーってるよ」
さらに小言を重ねられた男は不機嫌に輪をかけ、持て余した右手をポケットに突っ込んだ。
自分はすっかり蚊帳の外だ。
妃は夫を あなた と呼ぶのかと、そんな些末なことに関心を寄せていた。
妃に夫がいることはもちろん知っている。相手があの名探偵だということも、彼女の名声に付いてまわる有名な話だ。
平日の浅い夜。香港系列の高級ホテル。
その無駄に息苦しい雰囲気のロビーを歩き、高層階行きのエレベーターを待っているときに、背後から男の声が飛んできた。
よー、何やってんだ、と。場違いに明るい声色がエレベーターの鏡張りの扉に反射した。
そこに写っていたのはオールバックにちょび髭という一見浮世離れした陽気な風貌の男。
しかしその気安さとは裏腹に、その目の奥は少しも揺れていなかった。
カツーン カツーンと
閑散としたロビーに響く女性客のヒールの長細い音がこちらへ近づいてくる。
平日の夜浅い時間帯は、人通りも少ない。
ふと後頭部に気配を感じて振りむくと、いかにも高級そうな宝石店の前に立つドアマンと目があった。
「場所、変えない?」
妃は気まずそうにでも気弱そうでもなく、強い口調でそう言った。
腕を組み、顎を引き、自分より背の高い相手でも構わず威圧するスタイル。彼女と仕事上の付き合いが長い自分にとっては、見慣れた姿だ。
「どこにだよ。このホテルの部屋でか? それともおまえんち?」
「ハァ? 部屋なんかとってないわよ。食事をしにきたの」
黙ってないで、何か……と不意に袖をちょいと引っ張られた。妃は静観を決め込んでいた自分に助け舟を求めたようだった。
その突然の女性的な仕草に、毛利小五郎の剥き出しの眉がピクリと動く。
おいおい、夫の前で怖いことするなと冷や冷やしながらも。
これは面白いことになったなと、実に倒錯的なことを思う自分がいた。
「ええ。残念ながらいつも食事だけですよ。
もっとも私はよく宿泊しますから、その気になれば、いつでも部屋は押さえられますが……」
残念ながら。いつも。その気になれば。
少しの悪意を込めて発した言葉を彼は当然察知する。そして言い終える前から仄暗い視線をこめかみに突き刺してきた。
一方隣の妃は、こちらを見て額に汗を滲ませている。
「ちょっと……」
「実際、無理強いしたことはありませんよね?」
そう言ってニコリと微笑みを向けると、彼女は絶句した。
彼女には自分の経営する会社の顧問に就いてもらって、もうかれこれ五年の付き合いになる。
彼女が弁護士として独立して、うちは初めての顧問会社だったそうで、当時とても気合を入れてくれていた。わが社のために文字通り身を粉にして尽くしてくれたことは記憶に新しく、裁判沙汰が耐えないこの業界で、いつしか困難を共にしてきた戦友のような感情が芽生えていた。
今でも彼女は仕事上の無理にもかなりの融通を利かせてくれるし、時々こうして飲みに誘えば付き合ってくれる。
確かに近寄りがたい雰囲気を纏っている女性かもしれない。
その姿勢は自分に対しても崩したことはなかった。たとえ酒の席でも。
……しかし、ふとした瞬間思うことがある。
どこか物悲しいのだ。
いつもより酒が進んだ席のあと、一人でタクシーへ乗り込む腰の深い傾きが。昼間よりもすこし零れた後れ毛が。
正面の隙のなさと、後姿の無防備さが際立ってちぐはぐで、そこに危うさを感じてしまう。
公では女王様と恐れられ、裁判ではどんなに不利な状況でも不敵に笑う肝の据わった女が、夫の前では一体どんな風になるのだろう。
そんなことを考えていると、名探偵がこちらに顔を向けた。
「……どーも! 女房がいつも世話になって」
毛利がポケットを探る仕草を見て、こちらも条件反射で名刺を取り出す。
差し出されたキラキラと金色に光る名刺に驚いていると、彼はニッと得意げな笑みを見せた。
「これは……実に個性的だ。一度見たら二度と忘れませんね」
「そうでしょう! インパクトあるでしょう!」
そう言って毛利小五郎は満足そうにうなずいた。
得体の知れない男だと思った。
「……こんなところで会うなんて。一体何なの」
男同士の社会儀式を尻目に、彼女は腕を組み、人差し指で腕をトントンと叩いている。
「地下鉄に乗り換えるのに通りかかったんだよ。このホテルの地下と繋がってるだろ?」
「これって偶然? ほんとうに?」
「自意識過剰。いやぁ、俺もこう見えて忙しいからなぁ」
毛利は彼女に対して話してはいるが、革靴のつま先が睨むようにこちらを見ている。
「んじゃ、女房頼みますわ。コイツは意外と酒ぐせ悪いんで大変でしょうが、ね!」
毛利は言葉尻を強めて、バン! と妃の背中を叩いた。
「痛いわよ!」
「シャキッとしろよ! お連れさんに迷惑かけるんじゃねーぞ」
「あなたじゃあるまいし!」
まるで異性の友人同士のような会話だと思った。
別居期間は十年以上だと聞いたことがある。しかしその割には仲が良さそうに見えなくもない。
「良ければ……ご主人もご一緒にいかがです?」
そう口にしたのは社交辞令ではなく、単純に興味が湧いたからだ。
「ハハハ……ちょっとこれから野暮用がね。ま、ほどほどに面倒見てやってくださいな!」
くるりと背を向けて、ヒラヒラと手を振りながら彼は歩き出す。
非難する妃を無視して、毛利小五郎は一度も振り返らずに去っていってしまった。
「……冗談じゃないわ」
毛利の靴音が消えたころに、妃は空耳かと思うほど小さな声で呟いた。
彼女は立ち尽くしていた。
自分の役割は、怒りとも消沈ともつかない美しい横顔を、彼女が口を開くまでただ眺めているだけでよかった。
そのあと我々は予定どおりの店で食事をしたが、彼女は最初に夫の非礼を詫びただけで、その話題に触れることはなかった。
そして明らかにいつもより酒がよく進み、口数も多く、明るかった。
今夜の彼女は、どこかおかしい。
その証拠に、タクシーに乗り込む姿は隠しきれないほど消耗していて。そのあまりの憔悴ぶりに、思わず呼び止めようと急く心をなんとか押しとどめるのが大変だった。
「じゃあ……気をつけて」
彼女は頷き、その固い笑顔を乗せた車は、信号待ちの車列へと向かっていった。
彼女のようにゆるぎない女性を崩すにはコツがいる。タイミングだ。
心が躍っていた。
自分と彼女とは、恋愛関係になることはないと思っていたのだ。
もしも運よくそういう関係になったとして、やがてそれが破綻したときのことを思うと、経営者の立場から、彼女の弁護士としての優秀さを失うことがあまりにも惜しすぎると。
……そう、逃げ道。今まではそれを用意しながら、密かに彼女を心に描くだけで十分だった。
時折こうして彼女を食事に誘い、顔を見て声を聞き、彼女を夢に見るだけで。
しかし今夜は毛利小五郎の道化の奥に隠された静かな瞳が、夢に出そうなのだった。
2
家庭的な匂いのする細い階段を、英理はしばらく見上げていた。母親を思い出させるような、懐かしい家族の香りが広がっている。
ワインのせいだろうか。足が重くてなかなか進まない。
「お父さん! 遅くなるなら連絡してっていつも……、ってあれ」
久しぶりに会う一人娘の蘭は、クリーム色のエプロン姿だった。
英理は自然と顔が緩む。
「ひさしぶり。元気そうね」
「お母さん? 突然どうしたの」
蘭は丸い瞳をさらに丸くしてこちらを見た。
「近くまで来たから寄ってみたんだけど……夕飯はもう済ませた?」
「一人だから簡単に食べちゃったけど」
「あのひとは?」
「きっと麻雀よ! 今月入ってもう三回目なんだから。お母さんからも何とか言ってよね」
「相変わらず困ったひとねぇ……」
まるで他人事のように英理は言い、手土産を小さく掲げて見せた。
先ほどのホテルで購入した色とりどりの高級ゼリーだ。
「わーすごい! 上がって上がって!」
「そうね、コーヒーでも貰おうかしら」
英理は玄関に重たい鞄を置いて、携帯電話に目をやった。夫にあのホテルで出くわしてから三時間が経っていた。
英理の目が黒く沈む。
小五郎は当然のように電話をかけて寄越さない。
自分の妻がだれと食事しようが、だれと酒を飲もうが、だれと寝ようが。
彼にはもう興味がないのだろう。
久しぶりに顔を見て、その事実を改めて突きつけられた日だった。
娘はもうすぐ二十歳の誕生日を迎える。
私と夫の宙ぶらりんになってしまっているあやふやな夫婦関係は、もうそろそろ清算すべきなのだろう。
英理はテーブルに置かれたホテルの紙袋に目をやり、ため息のような細い息を漏らす。
つれない夫とは対照的に、わざわざ弁解をしにココへやってきた自分がひどく情けなく、みじめだ。
こんなことなら。
自分が女として守ってきたもの、すべてを見限ってでも。本当にあのホテルで寝てみればよかったのかもしれない。うだつのあがらないこの状況も、変わるのかもしれない。
……少し飲みすぎた。
手のひらに付いた爪の痕を見ながら英理は目を細める。
ふと台所から楽しげな歌声が小さく聞こえてきて英理は顔を上げた。
幼馴染の新一君との交際は、きっと順調なのだろう。聞かなくてもわかる。そのくらい娘の背中は幸せ一色に染まっていて。見ているこちらが照れるくらいに、眩しかった。
その後姿に、ぼんやりとかつての自分の姿が重なる。あの頃は確かに愛し、愛されていたと今になって思う。
結婚当初の、甘くむせ返るような濃密な日々の記憶に、無条件に頬が熱くなった。
……バカね、私は。
一気に立ち上がるコーヒーの匂いで、鼻の奥がツンと痺れた。
3
植物園に行きませんか。
夕べ、例の社長からそんな電話が掛かってきた。
いつもの打ち合わせのあとにある食事会とは違って、休日に、仕事抜きで、個人的に会いたいという意思表示。
……つまりはデートの誘いだ。
英理が返事を言い淀んでいると、彼は言葉の角を丸くした。
「前々から造園に興味がありましてね。しかし、独りで行くにはあまりに寂しいもので」
「それは……お独りのほうが、お邪魔にならないんじゃないかしら」
印象としては正直、まるで興味がわかなかった。
植物園にも、男にも、色恋沙汰にも。
「美しい女性が邪魔になることなんて、この世にありませんよ」
歯がプカプカ浮くような台詞。自分の周りの男はこんなのばっかりだ。
そしてこれほど口説いているとわかりやすくされると、より神経を使わなければならない。
「もう……からかわないでいただけます? 若い娘じゃあるまいし……」
答えになっていないなと自分でも思ったが、冗談にするほかに返答のしようがない。
頭が痛い。
彼の会社との仕事のことが頭をよぎった。係争中の事件も、交渉中の案件も、いくつもあるのだ。
顧問契約は安定的で小さくない収入源であるし、人間関係などという職務以外の理由で失うのは望ましいことではない。
女というのはつくづく面倒なもので、こういうことは時々起こる。
彼らは気障な台詞を使って、こちらを動揺させ、探りを入れようとしてくるのだ。
なるべく変化球を使ってのらりくらりと冗談扱いしていると……いつの間にかどこかへ消えてしまう。
プライベートな知り合いならそれほど構わないが、仕事上の付き合いのある相手だと、何かと支障がでることもあった。まったく子供じみた男も居るものだ。
幻滅されるようなことをした覚えはないのに、勝手だなと思うくらいに留めているけれど。
「あれ、お幾つでしたっけ? 三十くらいかな」
「下手にオバさんをおだてると付け上がりますわよ」
「……経験豊かな女性に、甘えてもいいですか」
「……」
四十の男にそんなことを言われたのは初めてで、英理は答えに窮してしまう。
――ま、ほどほどに面倒見てやってくださいな!
先日の、小五郎の笑顔がまぶたの裏に浮かんだ。
ねぇ……本当にいいの?
私があなた以外の人デートをしても。
あなた以外の人と肌を重ねても。
あなたはもう何とも思わないの?
彼の背中は一度も振り返らなかった。
あのときも、あのときも、あのときも。
トンッ、と。真っ黒な悪者の手に背中を突かれ、深い奈落に落とされた気がして。英理は気が付いたら男の助手席に座っていたのだった。
4
「ちょっとお化粧室行ってくるね。まだデザートくるんだから、お母さんを怒らせて帰さないでよ、お父さん!」
「うるせぇなぁ……」
若い娘の好きそうなカジュアルイタリアンの店。
二、三ヶ月に一度開催される家族での食事会に来ていた。
一通りの料理を平らげたあと、娘は小さなポーチを持って喧騒の奥へと消えた。
先日、あんな事があってから、夫とはどうしても顔を合わせ辛かったけれど。
今回は娘の二十歳の誕生祝いを兼ねており、参加しないという選択肢はないのだった。
「……」
娘越しに会話をしていたから、二人きりにされると、どうにも気まずい。
沈黙のなか二人は同時にグラスに手を伸ばした。それに同時に気がついてピタリと止まり、そしてそっぽを向いて同時にグラスを口に運んだ。
そのシンクロ具合に腹が立つ。
腐りかけの夫婦でも、付き合いが長ければどうしたって似てくるものだ。
小五郎はその大きな手で小ぶりなグラスを掴んでいる。少しも英理のほうを見ようとはしない。
「……やめとけ。あの男は」
「……ゲフッ」
突拍子もなく、小石をひょいと投げられて。
口に含んだばかりのワインが絶妙なタイミングで喉につっかかる。
咳き込む英理を無視して、小五郎は言葉を続けた。
「……奴はどっからどう見ても、変態だよ」
「な……」
何を突然言い出すのだろう、この男は。
「何を知ってるっていうの?」
小五郎は堂々とタバコに火をつけ、ゆっくりと煙を吐き出していた。
美味しそうにも、幸福そうにも見えない、冴えない顔をしている。
「お前みたいなキツイ女は、どーしてもああいう変態虫を寄せつけるんだよなぁ」
英理はナプキンで口元を押さえながら、動揺を隠すように椅子に浅く座りなおした。
「ちょっと。悪かったわね、キツくて」
「いちおう忠告はしたからな」
「ねぇ、何を知ってるのよ……まさか、素性を調べたんじゃないでしょうね?」
「ま、男はみんな少なからずそういうトコあるけどよ」
答えになっていない返答にますます苛立ち。気を落ち着かせようとグラスに手を伸ばしたが中身は空っぽだった。
すかさずウェイターが寄ってきて、ボトルに手をかける。ウェイターはグラスだけを見ていた。
良い店だ。店員のモラルが高い店は居心地がいい。
おかげで動揺した頭がスーッと冷たくなった。
「あなたは……蘭に麻雀だなんて嘘付いて、一体どこでなにをしてるのよ」
「んなこと言えるか」
「やっぱりね」
小五郎の目が蘭の向かった方に向けられ、英理は身構えた。
「ったくよぉ、お前のせいで余計な仕事する羽目になっちまった」
「仕事? 頼んだ覚えはないわね」
「こっちは感謝して欲しいくらいなんだがなぁ」
「それこそ余計よ」
冗談めかせて小五郎は言い、軽い答えを返したけれど。どくん、と。心臓に圧力がかかった気がした。
夫は私と一緒に居た男を調べたのだ。
一応その道のプロだ。そんなのは容易いことだろうが。
普段から多くを語らない彼が、珍しくハッキリと、胸の深くに釘を刺してきた。
そのことが、英理にとっては大きな意味があった。
「タダより高いもんはねーぞぉ……」
今度は脅すような口ぶりで、英理を刺激してくる。小五郎は意地の悪い顔をしながら、フーっと煙を吐き出して、足を大げさに組みなおした。
まただ。
気の遠くなるような長い付き合いのせいで、夫が踏み越えたのが、はっきりとわかった。
埃まみれの、境界線を。
「……」
小五郎は英理の返事を待つように、人差し指でモミアゲを掻いている。
昔から変わらない。このやり口。
委ねているといえば聞こえはいいが、きっぱりと突き放している。
お前が選べ、と。
「……それは」
英理の目線はグラスに注がれ。軽く触れた指先とともに、中の液体が細かく震えていた。
「なになに? なんの話?」
娘の機嫌のよい笑顔がひょいと現れて、英理はかすかに開きかけた唇を結んだ。
――仕掛けるのにはそれなりの勇気がいるものだ。
受けてしまえば流されることもできず。逃げることができないし、自分に言い訳をすることも許されない。
小五郎が会計を済ませたあと、併設のワインショップで店員と会話する蘭の後姿を見ていた。
二十歳の祝いに新一君と二人で乾杯するのだという。恋人への土産を選んでいる姿は羽が生えたように軽やかだった。
娘の独り立ちは近いだろうという、確かな予感がしていた。
わたしたちも、夫婦としての在り方を見直すべきときが来たのかもしれない。
娘の姿に背中を押されたような気がして、英理は小五郎へと歩み寄っていく。
「あなた」
小五郎はポツリと置かれたスタンド灰皿の前で背を向けている。煙に包まれていている背中は返事をしない。
英理は手を伸ばし、グイと肩を掴んで顔の近くでささやいた。
「……ちゃんと払うから」
「んなもんいーよ。飯代くらい払える」
アルコールと煙草と整髪料の匂いが染み付いて混ぜこぜになった男の体臭が香ってきた。
その生々しさに英理は一瞬怯み、心が折れそうになるのを、ヒールに力を込めて踏ん張るのに必死だ。
「違うわよ……報酬の話」
「ほー……」
煙が近すぎて、目に涙がにじむ。いくら睨み付けても、彼の目は灰皿を見下ろしたままだ。
「めずらしく殊勝なこって」
「借りを作りたくないだけよ」
紙袋の音とともに蘭が少しずつ近づいてくる気配がして、英理は早口で言い捨てた。
「取りに来なさいよ」
「……言ったな?」
小五郎はゆっくりと振り返り、ようやく英理の目を見た。その顔の半分以上が笑っていた。
「なにコソコソ話してるの~ひょっとして……いい感じ?」
娘の冷やかしに、そんなんじゃないわ、とクールに言ったものの、じっとりと身体中に嫌な汗をかいている。
5
しかしその晩、夫は現れなかった。
自宅に帰り、部屋を軽く掃除し、風呂に入り、珍しくひとりで酒を飲みながら、ずっとソワソワしていた。
別に今夜と約束したわけではないと自分に言い聞かせ。ヤキモキした時間を返して欲しいと思いながら、英理は眠りにつく。
盛んに鳴く飼い猫の声で目を覚ますまで。
「ゴロちゃん? どうしたの……?」
部屋は暗く、何も見えない。
隣で寝ていたはずの愛猫はベッドに居らず、少し離れたところで鳴いている。
明かりをつけようとサイドボードにあるスイッチを何度か押すが、一向に明るくならなかった。
電池切れ……? そんなはずは……
「……!」
寝ぼけた頭が一瞬で冴える。
眼が、何か布のようなもので覆われているのだ。
それに気づいてあまりの出来事に動転していると、
ギシリとベッドが足元で軋んだ。
「……え⁉」
おぞましいことに。
居るのだ。誰かが。
慌てて目を覆う布を取ろうとした一瞬の間に、両手首を取られ、頭の横に押さえつけられる。
「い、いや……!」
殺される。
英理は恐怖で顔を引きつらせ、覚悟した。
そのとき。
ふっと、
覚えのある匂いがした。
つい先ほど嗅いだばかりの鬱蒼とした体臭が。
そこで英理は、唯一の合鍵保有者である小五郎との約束を思い出したのだった。
ゆっくりと体重が英理にかかり、熱い息がかかり、そのまま迷いなく唇を塞がれる。
クチュ、と小さく水っぽい音がした。視覚が閉ざされたせいで、やけに感覚が鋭感だ。
鼻下をくすぐる筆の感覚に、英理は全身の力が抜けるようだった。
ほっとして、自然現象的に涙があふれてくる。
口の筋肉が緩まると、ぬるっとした舌が、英理の舌の底に入りこんで、ゆっくりと回転した。
濃いビールの味がした。今夜はワインしか飲んでいなかったはずなのに。
――そんなに飲まなくちゃ、来られなかったの?
隠したがりの小五郎の本音が少しだけ見えて、英理は抵抗する気が失せてしまった。
それを伝えるため、自らの舌でツンツンとノックしてみせる。
すると彼は快感を与えるように、上顎の敏感な粘膜をゆっくりじっくりと舐めなぞってくる。快感を知り尽くした熟成されたキスだった。
キスの仕方もセックスの仕方も、忘れてはいない。
やがて強く押し付けられた手首が開放されると、手探りで流れるようにお互いの服を脱がせあった。
6
もう夜が明けたのかもしれない。目は見えないが、外の空気がなんとなく張り詰めている感覚がした。
愛猫の鳴き声なのか、自分の泣き声なのか、もはや分からなくなっていた。
声には伸びが無く、枯れているのがよくわかる。
片足を持ち上げられ、深くに差し込まれ、抵抗する力はもう僅かも残っていなかった。
「もう……むりよ……イかせないで……おねがい……」
熱い吐息に混じって切れ切れに情けない声がでた。
冗談でなく本気で死ぬかもしれない。殺されるかもしれない。
視界を隠されたまま続く行為に、どっちが変態よ、と英理は思った。
しかし自分の意思とは裏腹に、足の筋肉がどんどん強張っていくのを抑えられなくなり、これはまずいと激しく頭を左右に振った。
あまりに強く子宮が揺さぶられ、大きな何かが襲ってくる。
「……あぁぁぁっ」
緊張していた筋肉が一気に緩んで、今度こそ底のない沼に落ちていくようだった。
せめて仇の相手を一目見なければ……と、痙攣する指で目隠し布をグイとめくると。
そこには夫の顔があり、汗で濡れた顔で英理を見下ろしている。
静かに、目と目があった。
真剣な顔を見られて、気恥ずかしそうに小五郎は、笑ったのだった。
いつもふざけて上調子の夫とは思えないその表情に、子宮から感情が決壊しあふれ出してきて。身体がドロドロに溶け出していくのを止めることができなかった。
話したいことがあるのに、目の前の男がだんだん遠のいていく。
「お前には……幸せになって欲しいんだよ」
彼はもう笑っていなかった。キリリと真面目な顔をしていた。
ピタリと寄り添う体温には現実味がまるでなくて。これは夢かもしれないと、英理は思った。
7
目を覚ますと、あのいやらしい夜は跡形もなくなっていた。
シーツはきれいに整い、パジャマをきちんと着て、まるで寝返り一つせずお行儀よく寝ていたみたいだった。
ただ、体が熱を持って重く、まったく動く気がしない。
この気だるさだけが昨夜の行為が夢ではないことの唯一の証明かもしれなかった。
「しんどい……」
掠れた声で、英理はつぶやく。
「あのバカ……」
悪態をつこうといろいろ試してみる。しかし耐えられず英理は枕に顔を突っ伏した。
ニヤける頬が、おさまらない。
まるで好きな人と初めて結ばれた少女のように、胸がときめいていた。
「だれか弁護士を紹介してほしい。……できれば男がいいかな」
例の社長から、突然そんな電話が掛かってきた。
英理は引き止めなかった。残念ですと言ったけれど、それは本心ではなかった。
今回も例に漏れず、英理に言い寄った男は一方的に去っていってしまうのだった。
……密かに暗躍する小五郎を、英理は知らない。
日が暮れてから、英理は小五郎に短く、時間と場所を告げるメールを送り、土曜日の閑散としたオフィス街の喫茶店に小五郎を呼び出した。
通りを歩いてくる小五郎を見つけて、
昨日の姿とスーツの色さえ変わらないのに、彼の頭のてっぺんから指先までのすべてが違って見えた。
……浮かれている。いい歳をして、のぼせている。
小五郎は英理を見つけると、何も言わずに椅子を引いてドカっと腰を下ろした。
「あなたのワイシャツのアイロンをかけているのは、誰よ?」
「……唐突になんの話だ」
単刀直入。決死の覚悟だ。
「蘭はね、もうすぐお嫁に行くのよ。私わかるの。母親だもの」
小五郎はギョッと目を見開いたあと、拗ねたように唇を尖らせた。
「……ゆるさねぇぞ、俺は」
「蘭がお嫁に行ったら、わたしがするわ。どこに住むかは、まだわからないけど」
「オイオイ待てよ……結婚だのアイロンだのって話が早すぎる。おまけに……わからねぇだと?」
最後に小五郎の目が本気になった。怖い顔で英理をまっすぐに見ている。
あとは喉元まで出掛かった言葉を、吐き出すだけだ。
「あなたの言ったとおり、私も幸せになりたいのよ……。だから、できれば……」
英理はテーブルの上で握った両手を組みなおす。見下ろすと、手首は熟したイチゴのように赤くなっていた。小五郎は黙って言葉を待っている。
「できれば……」
用意していた台詞でも、英理にはその続きが言えなかった。十余年の時が詰まった、重たい重たい言葉だった。
「英理……あのよ」
コホンと小五郎は咳払いを一つして、言った。
「……俺が作るからな、飯は」
弾かれたように英理が顔を上げると、小五郎は昨夜のように照れた笑顔を見せた。
たまらず顔がかぁっと熱くなる。
「まだまだまだまだ、ずーっと先の話だろうがなぁ~!」
と小五郎はおどけて言い、暗い空を見ながら頭の上で手を組んだ。
英理はほっとして涙が浮かびそうになるのを懸命にこらえた。泣いたらせっかくの軽やかなムードが台無しだ。
「……さあね、どうかしら。でも私が居れば、あなたは寂しくないでしょ? そうよねぇ?」
人差し指を突きつけ、濡れた瞳でジロリと小五郎を見るが、英理の口元は堪えきれず笑っていた。
英理にとって小五郎は初めから二枚目のヒーローではなかった。
そういうところに、恋をしていた。
終