フェロモンは記憶に馴染まない

フェロモンは記憶に馴染まない




 焦げた匂いが着物に染み付くのが嫌だった。

「零時にここの境内でって、あなたが言い出したことでしょう」

 ここは米花町にあるそこそこ大きな規模の神社である。麗しの女弁護士妃英理は、着物姿で喧騒を眺めながら一人娘の蘭を待っていた。
 立て替えて新しくなったのは一部だけで、外観は昔とほとんど変わっていない。思えば各種合格祈願も、英理の安産祈願も、蘭のお宮参りも七五三もここだった。懐かしさという言葉では表せない感情が、胸の奥にじわりと広がる。

 ポンポンと肩を叩かれ振り返ると、和装姿の愛娘の満面の笑みがあった。予感的中、娘のうしろから小五郎が苦虫を食い潰したような顔を覗かせる。
「あっれぇ〜〜?  もしかしてお母さんも初詣なの⁉  すっごい偶然!」
「おっかしいと思ったんだよ。こんな夜中に着物着て初詣行こうなんて言いだすなんてよ……。蘭、新年早々やりやがったな」
「いいじゃない! お母さんの着物姿、きれいでしょ?」
「んなモン若い頃に見飽きてるっつーの‼」
 こちらの感傷などお構いなしに彼らは極めて普段どおりだ。電話で約束を取り付けたときの蘭の様子と、この神社を指定してきたことで今夜のことはだいたいの察しがついていた。おそらく夫もそのはずだが、真相はいつもわからない。
 蘭の傍らに居る少年に気が付いて、英理はかがみ込み目線を合わせる。
「こんばんは、コナン君」
「こ、こんばんは」
「こんな夜中に付きあわせちゃってごめんなさいね。眠くない?」
「だいじょうぶ! 晩御飯たくさん食べてすこし寝ちゃったんだ!」
「そう。すごく混んでるから、はぐれないようにね」
「はーい!」
 少年の元気のいい返事に英理は満足そうに微笑むと、小五郎に一瞥くれてからスッと姿勢を正した。
「本年も、どうぞよろしく」
 英理は事務的に頭を下げた。小五郎はああ、とか、おう、とかハッキリしない返事をしている。懐かしく見慣れた光景であった。
 娘の着物は一昨年新調したものだ。新一君と初詣に行くというので、張り切って二人で選んだのはまだ記憶に新しい。彼はいま事件でどこかしこを飛び回っているらしいので、今年は家族そろって久しぶりの初詣というわけだ。
 夫の着物姿を見たのはずいぶん久しぶりだった。見覚えのある出で立ち。彼は背が高く体格がいいので、当時は合う着物を探すのに苦労したのでよく覚えている。
「しっかし、すげぇ人混みだな。ちゃっちゃと手ぇ合わせて早く帰ろうぜ」
「おじさん、神様の前でそんなこと言ってバチがあたるんじゃない?」
「んなもん知るかよ。さみーから早く帰って雑煮でも作ってくれよ」
「ねぇお母さん! お父さんが久しぶりにお母さんの作ったお雑煮が食べたいってー‼」
 ガヤガヤと騒がしい参道を並んで歩きながら、大きな声を張って蘭は言う。
「言ってねえよ! おぞましいこと言うな!」
「ちょっと、それはどういう意味?」
「たまには家族そろってさ‼ のんびりしながらお正月過ごすのもいいんじゃない? ね? ね? コナン君もそう思うよね?」
「そうだね、蘭姉ちゃん」
 コナンは冷や汗を掻いた笑顔で相槌をし、英理は不服そうに口を尖らせる。
 それよりも前から、英理は小五郎に腹を立てていた。





 四人並んでお参りを済ませ、ようやく人ごみから抜け出した。蘭と英理があーだこーだ言いながら賑やかにお守りを選んでいるのをコナンは小五郎と並んで遠くから眺めている。手に持った紙コップがジンワリと暖かい。
「おじさん、甘酒美味しいね」
「ああ、そうだな」
 小五郎は上の空な返事をする。普段も割とそうだが今日はいつもに増してポンコツだとコナンは思った。
「蘭姉ちゃんも英理おばさんも、着物姿きれいだね」
「んん、そうだな」
「……聞いてないね」
 実のところこのオヤジは、この一週間前くらいからちょっと様子がおかしいのだ。
 年末年始の準備に明け暮れる蘭を尻目に、ボケっと窓の外を見たりお茶をこぼしたり。この忙しいのに!と蘭に何度ハタキで叩かれていたことか。

「お待たせ~! はいこれコナン君の分ね。交通安全‼ スケボーが上手なのはいいけど、道路では気をつけて遊ぶのよ」
「あ、ありがと蘭姉ちゃん……」
「お父さんはこれね! 商売繁盛、千客万来‼」
「あ、ああハイ。セイゼイガンバリマス……」
「それ甘酒? わたしも飲もうかな」
「すげー甘ったるいぞ。日本酒で早く口直ししてーなぁ」
「ちょっと正月早々こんな時間から酔っ払う気? いい加減……」
 すかさずとがめようと英理は小五郎を見る。まともに正面から小五郎を見て、その首元に視線が釘付けになり、英理は慌てて目をそらした。
「なんだぁ?」
「あ、お母さんやっと気がついた? お父さんのマ・フ・ラー♡」
「……親をからかわないで」
 悪戯っぽく目を細める娘に頭の中を的中され、英理はさらにそっぽを向いた。小五郎の首に巻かれたそれは、クリスマスプレゼントに英理が一編み一編み時間をかけて編んだものだ。
「ねーねーお父さん知ってた? このマフラー、本当は私が編んだんじゃなくてね……」
「ちょっと蘭‼ 余計なこと言わないで」
「あぁこれか。どーせそのオバサンだろ? 匂いでわかる」
「「におい」」
 英理と蘭の声がハモり、二人は小五郎を見て目を丸くした。
「へーさすがおじさん! おばさんの匂いがすぐわかっちゃうなんて鋭いんだねぇ~!」
 コナンは冷やかし半分の目つきで小五郎をつつく。
「バーカ。わかるってことは嗅ぎ慣れてねぇってことだろ。寂しいもんだぜ」
「な……」
 英理の顔が引きつるのと同時に、蘭の顔がぱぁぁっと明るくなる。
「なになになに! ちょっといまの詳しく‼」
「うるせーなぁ」
「お母さん! お父さんが寂しいって‼」
「聞こえなかったわ」
「お母さん~~‼」

 パチパチとたいまつが燃える音がして、松脂の甘い香が焦げて漂っていた。

――匂いって、なに。寂しいって、なによ。
  人の気も知らないで……
 
 蘭は珍しく甘えるように、英理の腕にしがみつく。
「お母さーん、すぐ近くなんだから寄って行ってよ! 簡単だけど、おせちも作ったし……」
「……でもねぇ」
 英理はチラリと小五郎を見る。とぼけた顔をしているが、いつもと同じように見えて全然違う人間だということが英理にはわかる。

「英理」
 小五郎は自分の腰に当てていた手で、ビシッと英理の腰元を指した。なんだかよくわからないが威張って偉そうなポーズだ。なにもかもが癪にさわった。
「それ、自分で解けんのかよ」
「……それ?」
「その、複雑そーなヤツ」
「帯のこと? 当たり前でしょ。一人で着たんだから一人で脱げるわよ」
「可愛くねーな。昔はよく解いてやったじゃねーか」
「なっ……」
 ヒュッと蘭が小さく息を飲む音が聞こえた。英理はたまらず両拳をにぎる。
「なにを言うの! 子どもの前でっ‼」
 しどろもどろになりながら英理は顔を赤くした。蘭とコナンは、はにかんだ顔で押し黙っている。
「いーじゃねぇか。夫婦なんだからよ」
「もっ……モラルの問題です!」
「お前はホント昔っから、変なトコ気にすんのな」
 パチン‼ という破裂音がした。蘭が両手を合わせた音だった。
「お、思い出した~! ねぇコナン君、早く帰らなきゃ‼」
 蘭は低い位置でガッツポーズを作り、勢いよくコナンを見る。目がキラキラと輝いていた。
「えぇっ、もう⁉」
「見たいテレビがあったの! 大事な用事思い出しちゃった~!」
「ボクまだ甘酒全部飲んでない……」
 蘭はコナンの手から紙コップを取り上げると、それを一気に飲み干した。英理とコナンは呆気にとられていたが、小五郎は表情を変えないでいる。
「ふぅ。帰ったらおなべいっぱいに作ってあげるね! ほら、行くよ!」
「ちょ、ちょっと……!」
 蘭は履きなれない草履でコナンを抱え小走りで去っていく。去り際にこぼれそうな笑顔がちらりと見えて、英理の静止しようとした手が止まってしまう。
 お見合いの仲人ばりに気を遣う娘の背中を見ながら、英理はぽかんと口を開けたまま立ち尽くした。行動力がありすぎるのはきっと父親似だ。
「小恥ずかしいったら……」
「行くぞ」
 小五郎も紙コップの中身をグイッと一気にあおり、ポイとゴミ箱に投げ捨てた。
「行くって?」
「こんな近所の人混みでなぁ、すったもんだしたくねーんだよ。ほら」
 小五郎は右手を伸ばす。大きな手のひらを見て英理は身構えた。
「行くって……どこへ」
「どこってそりゃあ……オメーわかってて聞いてんだろ。意地悪い顔しやがって」
「わたし、べつに怒ってないわよ」
「見りゃわかる」
 これは甘い駆け引きなのか……いや、罠かもしれない。小五郎の低い声に英理の胸の底はザワついた。
「嘘よ。すごく怒ってるわ」
「それも見りゃわかる」
「相変わらず適当なんだから!」
 小五郎の罠に引っかかるまいと、英理は小五郎の手のひらと顔を交互に見て眉を吊り上げた。
「どっちでもいーよ。とにかく詫びればいいんだろ?」
「……」
 彼なりの不器用なやり方で、英理の腹の中を晒そうとしているのがわかる。新年早々悪態などつきたくないのに、このやり方は意地が悪いと英理は胃の中がモヤモヤするようだった。
「さみーから、早く取れよ。話はそれからだ」
「……」
 バシっと音を立てて英理は小五郎の手を掴んだ。掴んだというより、グイッと引き寄せた。その勢いを借りて、英理は口火を切る。

「イブの夜、どこで何してたの⁉」

 そう――クリスマスイブの夜。
 見た目に似合わず記念日を大切にするロマンチストな二人。あの日ばかりは何かと理由をつけて小五郎は英理の家を訪ねる習慣ができていた。別居していても守られていた暗黙の了解事で、例年のように英理は小五郎が訪ねてくるのをソワソワと待っていたのだ。

「それでプリプリ怒ってんのかよ……いい歳してかわいいオバサンだな」
「馬鹿じゃないの! べつにあなたが誰とねんごろな関係になろうと構いませんけど! でもそれならきちんと籍を抜いてからにしてちょうだい」
 小五郎は大きなため息をひとつ吐いてみせ、真っ黒な空を見上げた。
「……クリスマスなんてよぉ。つい先週のことなのにあっちゅうまに季節はずれって感じするだろ?」
「逸らしたわね、話」
「な。もう初詣で着物着てんだもんなぁ……」
「それで?」
 英理は視線を緩めない。小五郎の顔色に少しだけ影が差した。
「……悪かったよ。……いろいろコッチにも事情が」
「言えないわけね?」
「どーーーしてもあの日じゃなきゃならない金目のいい依頼でなぁ……」
 言いにくそうに小五郎は言う。
 クリスマスイブの夜に舞い込む探偵の仕事といえば浮気調査とかそんなところだと英理には察しがつく。そんな小さな仕事だと妻に一々言いたくなかったのだろう。英理も離婚事件で探偵を雇うことはあるから事情もわかるし、そんなことで笑ったり馬鹿にしたりするはずなどないのに。変な男のプライドに英理はますます苛立った。
「……くだらない男」
「んなことお前が一番に知ってるだろ」
「そうね。馬鹿なのはわたしよね」
 時間が不確定な仕事だし、間に合う可能性はあった。今回はその賭けに負けただけ。
 仕方のないことだとわかっている。しかし……英理はその日悲しみに暮れたのだ。年に数回の機会をいかに楽しみにしていたかという事実に愕然とさせられ、一人で飲み明かした。そして悔しい気持ちとむかっ腹が立つ気持ちがむくむくと膨らんでいったのだった。……そして今日に至る。
「もう来年から来なくて結構。清々するわ」
「次の日行ったが、居なかっただろ……」
 その日は朝まで起きていて、というより眠れなくて……用意していたシャンパンをすべて一人で空けて一日中ふて寝をしていただけ。だがそんなこと死んでも言わないのが大人の女の意地だ。
「私も忙しい身ですから。いつまでも待ってると思ってもらっちゃ困るわよ」
「そうかよ。てっきりヤケ酒して一日中くだ巻いてたのかと思ったぜ」
「う、自惚れないで!」
「図星だろ」
「嫌な人ね! わたしがあなたをいつまでも見てると思わないでよ」
「わかったわかった」
 小五郎は掴まれた手と反対の手で英理の腰を抱き寄せると、強引に歩かせて通りへ出た。ギャーギャー喚く英理を無視し、大通りでタクシーを捕まえ、ジタバタと抵抗する英理を柔よく制して後部座席へ押し込んだ。
「なにするのよ!」
「杯戸町方面へ」
 運転手に行き先を手早く告げた。英理のマンションがある方向だ。
 腰に回された腕の力強さに、英理は先ほどの帯のくだりの言葉を思い出して青くなる。小五郎の鼻息で髭が上機嫌そうにふわりと揺れた。

「乱暴なのはやめてよ……」
 暗い車内で英理は小声でつぶやく。
「なに言ってんだ。好きなくせによ」
 小五郎は意外そうな顔をして英理を見た。
「もう! 不愉快なのは私なのに、どうしてあなたが怒るのよ?」
「怒ってねーよ。今日のおれは割とヨユーがあると思うぜ」
「どうかしらね! 内心を見透かしたような顔して馬鹿みたい」 
「ハー……今日のお前、なんでそんなカワイイわけ?」
「はぁ⁉」
 突拍子も無いことを言われて英理の顔がこれ以上ないくらい朱に染まる。これがこの男の常套手段とわかっていても、平常心を保つことができない。
「お前こんなんでうろたえて、よくあんな仕事務まるな。普段の鉄仮面ぶりに感心するぜ、ホント」
「あのね! こんな卑怯な手を使う男はあなたくらい! ……人の気も知らないで……」
 ぼそりと言い捨てた英理の苦し紛れな本音に小五郎は笑う。
「……このマフラーよぉ、お前の匂いがまとわりついてて消えねーんだ。早くお前を抱いて、その違和感失くしときたいのよ。協力してな」
「馬鹿じゃないの……なにそれ」
 もう小さくて誰にも聞き取れないような声。
「もうこれ以上喋るなよ。おれだって恥ずかしい」
 そんなこと言われなくても、英理は二の句が告げなくなる。 
 久しぶりのキスは甘い酒粕の味がした。



おわり