オトナの事情

 

 

 

 

 

お前のためになら、オレは悪者になるさ。

だからお前は好きなように生きろ。

本心のわからない声色で、彼は真っ直ぐな瞳で私を見つめる。

私はバツが悪くなり、思わず目を逸らしてしまう。


熱くて大きな手が私の頬に触れ、耳元で囁くのだ。




“でもお前はそれで満足なのか?”

恐ろしさのあまり、目を見開いて上半身を勢い良く持ち上げた。


 ・・・目が覚めたのはベッドの上で、吐き気がするほどの激しい動悸に襲われた。
 あの人の声が、耳に、頭に、体中に。膜を張ったみたいに、纏わりついている。
 

 たしかに私はこの10年、自分のやりたいことをして、思うがままに生きてきた。
 そんな我儘を受け入れてくれる夫と娘に心のなかで感謝しながら、自分の都合の良いままに利用しているということを忘れてはならないのだ。
 

 寝乱れて皺のよったシーツを見つめながら英理はひっそり笑った。




 



 夜風が気持ちいい日だった。
 酒を飲み少しだけ火照った顔に風を受けながら、満足げに小五郎は夜の空気を鼻から吸い込む。
 マンションの前でタクシーを降り、先に降りた妻の顔を横目でチラリと見るが、しかし明かりが乏しくてその表情を覗うことはできなかった。
 女は小さく深呼吸をし、まるで何かを決意したように無言のまま歩き出した。
 不思議と表情を見なくとも、女の考えている事が自然と伝わるような気がする。
 英理のマンションの近くにある、二人きりで会うときによく使う店で簡単な食事を済ませた後だった。
 娘のこと、仕事のこと、話は尽きず店では饒舌だったが、店を出た途端、二人は一言も言葉を交わさなくなった。
 柄にもなく、緊張したりして。と心のなかで小五郎は笑う。
 

 最後に英理と二人きりで会ったのは、3ヶ月も前のことだ。
 大抵の連絡は愛娘・蘭から伝わるため、本人がコンタクトをとってくることは普段はあまりない。
 そう、なぜだかあの女は滅多に電話をかけてこない。特に自分自身の用事では尚のことだ。
 それまでは月に2度、少なくとも月に1度はあった『大人の事情』だが、長期の厄介事に巻き込まれた所為でこちらから連絡を取ることを控えていた。しかしその事件が済んでからも放おっておけばどうなるか知りたいような知りたくないような複雑な気持ちになり・・・
 その間も英理からはなんの音沙汰もなく、それがあまりに予想内のことであったため驚きはなかったが、まあ端的に言えば不愉快であった。
 ストレスがたまる一方の自分とは裏腹に、英理は自分が来ようが来まいが、あまり興味がないのかもしれないのかと疑念が確信に変わりはじめたとき、無神経な時間に電話が鳴った。

 『・・・アナタが持ってきたアレの賞味期間、もうすぐ切れるわ』
 アレ、とは酒のつまみにわざわざ持参したサラミのことだ。
 英理はいつもの調子で俺に対する文句を散々垂れた後、短く、あっさりと、事も無げにそう付け足したのだった。
 
 

 とんでもない女だと思う。
 まるで自覚していないのだ。自分の振るう言葉の重さを。
 それでも、内心嬉々として出向いてしまう俺は、馬鹿だという自覚はある。
 まあきっかけはなんでも良かったのだ。
 


 人気がなく静まり返ったマンションの廊下を歩き、部屋の鍵が静かに回された。
 扉を開けると同時に、屋内の空気が押し寄せてくる。
 匂いや、雰囲気、生活感、そして心の葛藤すら。
 それらは一緒に暮らしている頃に感じたことはなかったものだ。
 毎度の儀式のように、それらを鼻から吸い込んで、小五郎は目を閉じた。

 英理の部屋で二人分のグラスに酒が注がれたとき、ようやく沈黙は破られた。
 「・・・帰らなくて平気なの?」

 英理の部屋はシンプルそのもの。整理整頓され一切無駄がなく、居心地は決して悪くない。
 しかし寧ろ、出て行った妻の住む部屋は居心地の悪い方が都合がいいのだった。
 琥珀色の液体が注がれたグラスを細かに振り、小五郎は酒を煽る。

 「お前、そういう口調やめろよなぁ」
 「『そういう』って?」
 

 「早く帰れ、って聞こえる」
 「あら、よかった」 

 一応ちゃんと伝わってるのね、と英理は一瞥もくれずに言ってのけた。

 

 「今日は、泊まりだとよ。」

 短く言い捨てて、テーブルにグラスを置くと中の氷が小さく鳴った。
 そう、と英理は小さく呟き、小五郎にはその言い方で彼女の了承を得たことが分かる。
 テレビの音がやけに耳障りだ。 
 うるさそうに首を振りながら、英理が不意に留めていた髪の毛を解いた。
 柔らかい栗色の髪がさらさらと首にかかり、透き通るように白い首がオレを呼んでいた。

 「たちが悪いな。」
 小狡いオンナになったなと思う。同時になんていいオンナだろうとも。
 「なんのこと?」

 「来いよ」
 欲望で擦れてしまった声で意図が伝わったのか、英理は怪訝そうな顔つきで見つめ返してきた。
 「何だ、めんどくせーな。余計な段取りは今日はいいだろ。」
 「あのね・・・」

 「お前が欲しい。」
 そう真顔で言うと英理は目を丸くした。
 「・・・馬鹿じゃないの。」
 英理は赤く染まった呆れ顔でそう言い放ち、視線をグラスへと落とした。

 「ちょっと・・・乱暴にしないで・・・」
 構わず英理に伸し掛り、乳房を鷲掴みにした。
 テレビでは彼の好きなアイドルが、可愛い笑い声を立てている。
 それを遮るようにして、透き通るように白い、女の首筋に噛み付いた。
 「っ・・・」
 噛み殺した声は、ワザとらしい喘ぎ声なんかよりずっと扇情的で。
 耳元に唇を寄せて囁いた。
 「ホントに期待してないわけないよな?」
 「さあね・・・どうだか」
 フン、と小五郎は鼻を鳴らした。

 「いい子にしてねーと後悔するぞ?」
 

 「もう後悔してるわ。」

 悪者になるのは昔から得意なのだ。


















――ここはどこ?

 カーテンの隙間からもれる薄明かりで、英理は目を覚ました。
 

 7時。いつもどおりの時間にキチンと目が覚めるのは、便利ではあったが寂しく悲しい独り身の習慣のような気がして、朝から私を虚しい気持ちにさせた。

 途切れた記憶は曖昧だった。
 眠りについたのは明け方で、眠りというより気を失ったといっていい。
 しかし忘れようもなく、記憶にしっかり刻まれていた。
 体中に残る、熱い唇の感触。汗ばんだ背中。欲望に染まったあの瞳を。
 思わず体に震えが走るほど。
 

 空になり、既にぬくもりも消え失せたベッドに手を沿わせ、微かに残るタバコの匂いを探しながら、思う。
 私はつくづく我侭なオンナだと。
 一人でここに取り残されるのは自分が望んだことであるのに、まるで不当な扱いを受けているように思うからだ。
 

 別居してから真っ先に購入したのはクイーンサイズのベッドだった。
 そのときの気恥ずかしさと妙な高揚感。
 

 
 もう化石となった思い出たち。
 そして変わらないわたしたちの関係。

  
 

 何もかもが愛しいのだ。

 

 

 

おわり