元日の夜



 固定電話なんて、いまどき要らない。そう思っていた。連絡はすべて携帯電話に入るし、自宅で過ごすのは一日のうち、ごくわずかな時間だ。だからこの回線は、災害時用に残していただけだった。
「ハン! てっきり、旅行にでも行ってるのかと思ったぜ」
 この電話は、ある意味で災いかもしれない。別居中の妻の家に電話を掛け、いきなり鼻で笑うなんて失敬だ。私も負けじと、無言で切ってあげようかと思った。
「おーい! 居るんだろ?」
「……ご存じでしょうか。今日はおめでたい元日ですのよ。明けましておめでとうとか、今年もよろしくとか、そういう挨拶はないわけ?」
「俺とお前の仲で、いまさら畏まらなくたって、いいじゃねえか!」
 私は溜息をついた。
「親しき仲にも礼儀あり、ってね。まあそうね。この期に及んで私と、よろしくしたくは無いわよね」
「新年会誘われたろ~? 蘭が来ねーっつーから、また優雅に海外かと思ってよ!」
 ああ、酔っているのだ。受話器越しに酒臭さが漂ってきそうな大きな声。しかも酔った勢いで、いったい何年前の話を持ち出すつもりだろう。 
 私は何年か前のお正月に、温かい南国へ旅行に行ったことがある。忙しかったのか、浮かれていたのか、うっかり伝え忘れた私に、落ち度がなかったとは言わない。帰国後、おみやげのチョコレートを届けに行ったときの、ぽかん顔。「アラ。言ってなかった?」と悪びれず言うと「……あのなぁ!」とさんざんイヤミを浴びせられたっけ。それをまだ根に持っているというなら、相当にネチっこすぎる。
「ハイハイ。今年もいい子にしてるわよ」
 新年の早々に、こんな言葉を吐くなんて。私たち、今年も相変わらずの一年になりそうだ。
「フーン?」
「あなただって、年がら年中旅行してるじゃないの。そのたびに私にいちいち報告していて?」
「聞いてんだろ! お前と蘭は毎日電話してんだから」
「毎日ではないわよ」
 持ちなれないコードレスフォンに耳を傾けていると、背後がザワザワとにぎやかだった。元日に珍しい電話を掛けてきた夫は、お正月の宴会の合間に、ふと気まぐれに、猫と暮らしている別居中の女房なんかが気になったらしい。
 いい心がけね、と思う。毎日顔を合わせるのは鬱陶しいけれど、きれいさっぱり忘れられるのも、ちょっとね。
 いいのは、熱くならず冷めない距離感。そのぬるさを保つのは、実はけっこう難しい。私たちが積み上げてきた、歴史が成せる妙技かもしれない。
「実は年末のレースで当たってよ! 豪華にパーッと飲んでてな!」
「聞いたわ」
 彼らの情報は私に筒抜けになっている。蘭とは頻繁に電話をしているし、しょっちゅう会っている。
 あの子は年末に、私の事務所の大掃除を手伝ってくれた。そのとき今日の新年会の話になり、お母さんも来てよ。と言うので、「嫌よ! あの男とお正月から怒鳴り合いなんてしたくないの!」と声を上げながらハタキ掛けをした。冷蔵庫内を丹念に除菌しながら「おめでたい雰囲気をぶち壊すのは遠慮したいしね……」とぼやいた。どちらも本音であり、大人の勝手な都合を目の当たりにして、コナン君まで苦笑いをしていた。文句を言いながらだと、掃除がやたらと捗るものだ。
「三日にでも遊びにいらっしゃいよ」と約束をした。年末に文具屋に行ったとき、来年の手帳とカレンダーと、ぽち袋を買った。男女用の色違いを選ぶことが、楽しいのが発見だった。
「そーか。聞いてたか」
「ええ」
「……ゴホン」
「そういえばテレビでも観たわね。あなた、競馬場でインタビュー受けてたでしょ?」
「あ、そういや、あったっけなぁ」
「すごかったみたいじゃない」
「ン? ああ! そりゃあすごいってモンじゃねーよ! あのレースは特別でなぁ……」
 呼び水のように話題を振ってあげると、喜々として語り出したので面食らった。私が彼の趣味に1ミリの興味もないことを、忘れてしまったようである。
 今夜は相応楽しいお酒なのだろう。酔っぱらっても、泣いたり喚いたりする事もないし、ただ楽しいだけなら、今日くらい目をつむろう。お正月だし。
 冗舌な語りから、彼のオーバーな身振り手振りまで頭に浮かんだ。「競馬番組のゲストの話でも、そのうち来るんじゃない?」と冷やかしの相づちを打った。まんざらでもなさそうな様子なので、予想は当たるかもしれない。
 電話機をスピーカーにして卓上に置き、ぐび、とワインを口にした。好きな馬がどうだとか、下見所での馬のコンディションがどうだったとか、一杯飲みきってもまだトークが止まらない。気がつくと、私の頬は、ゆるく微笑んでいた。いまは、この無邪気さを慈しむ余裕があるらしい。久しぶりに顔が見たい、と思った。
 ──このひと、どうしてこの番号に掛けてきたのかしらね……。
 ワインにくつろいだ頭で、ふと気になった。視界の隅にあったスマートフォンにタッチしてみた。通知は特になく、夫が電話をよこすときは決まってこちらなので、すこし不思議に思った。
 覚えやすい番号だから、だろうか。この回線の番号は、下四桁が5560。つまり、この男の名前になっている。偶然? そう、半分は。「こんな偶然あるかよ?」と本人もさすがに気付いて指摘したものの、「偶然に決まってるでしょ」と私は言い切った。ウソじゃない。でも、このひとは知っていたかしらね? 電話番号を取得するとき、いくつかの候補の中から、番号が選べるサービスを。
 十年前。五つの候補の中にこの番号を見つけたとき、若い頃なら運命にときめいたかもしれない。けれど家出した妻は、もうロマンスに浸ることはできなくて。むしろ、逃れられない因縁を呪っていた。
 じゃあ、なぜこの番号を選んだのか? ……それはね。
「なに溜息ついてんだよ。自分で聞いといて」
「……なんでもないわ」
 私はぬるい温度の息を吐いていた。それは、長話でうんざりした溜息ではないのだった。その温度の違いは、電話越しでは、伝わらないのだろう。
「ねえ。どうして、ココへ掛けたの?」
 柔らかく、うっとりとした声で、話を変えた。
 最近は、この電話が鳴ることはほとんどない。聞き慣れない呼び出し音が鳴ったとき、いったい何の音だったか、一瞬考えてしまったほどなのだ。
「だから自由奔放な女房に、気を遣ってやってだなぁ……」
 誰が自由奔放な女房ですって? だが、なるほど。私は、ずるい男の考えを理解した。つまり。このひとは、私の居場所を確かめるのに、直接聞く度胸がないらしい。
「ふぅん」
「……なんだよ」
「悪知恵が働くようになったじゃない」 
「悪知恵? 確かに大穴狙いだがよ。そりゃ戦略ってヤツで……」
「バカね。競馬の話じゃないわよ」
 私の考えすぎかもしれないけれど。いけ好かないわ。この臆病さと遠慮はまるで、私の心変わりを勘ぐられているかのよう。さっきまでの無邪気さは演技? ……いえ、そうじゃないわね。このひとも、オヤジになったということ。年を重ねて自然と身に付いた老獪さといえる。でもね。それなら私も同じだけ、年を重ねているの。
「私、いま服を着ていないわよ」
「──なんだって?」
 ワインのせいだった。素に戻った彼の、低い声が可笑しい。こんなの、誘惑とはとても言えない。
「あなたへのお年玉♡ ……なーんてね。上手に想像できたかしら?」
「バカが! 風邪引くだろ!?」
「だいじょーぶよ。ベッドにいるもの」
 私、自由奔放な妻ですからね。リビングで、おせちの数の子を箸で摘みながら、恍惚とした声でささやいた。あなたが好きで好きでたまらない、私の声。
「そういう問題じゃ……」
「だって、ゴロちゃんとふたりなんだもの。でも、お正月ってやっぱり少し、寂しいわね」
 クリスマスもバースデーもまったく平気だから、正月も休日と大差ないと思っていたんだけど。新年会。やっぱり喧嘩になっても行けば良かったかしらって、少し後悔してた。
 数の子を口へ運んだ。ぽりぽりと、ゆっくりしっかり咀嚼した。彼は探偵。この音で、私の嘘に気付いただろう。私がお布団で食事をするはずがないこと。すなわちリビングで、しっかり服を着ていること。
 だいたい、他人が入る余地が微塵もないことだって、知っているくせに。あなたと私の仲で、変な遠慮をされるのは、ちょっと切なかったわ。やがて、忌々しげな舌打ちが聞こえた。
「おい、オバサン」
「……。なによ、オジサン」
 今日の会話で一番距離が近づいた。けんか腰で鼻先を付けあってる、という感じだけれど、とにかく近づいた。けれどそのとき、電話の向こうから遠い声が聞こえた。
「おーい、毛利ちゃん!」
 同じく酔っぱらったオジサンの声だった。
「え? 何? もう、お開き? みんな付き合い悪くねーか!?」 
 どうやら宴会が終わるムードらしい。タイミングが良いんだか悪いんだか……。私の寂しい発言が、ぽっかり浮いて流れて行った。
 小五郎は飲み足りなさそうな様子がうかがえる。おせちを食べながらやり取りの収束を待っていると、やがて通話に戻ってきた。
「悪ぃ悪ぃ。で、何の話だっけ?」
「……。あーあ。そろそろ新しい男でも、作っちゃおうかなー。って話じゃなかった?」
「ハァ? お前にはせいぜい、古びた男がお似合いだっつーの」
「へー?」
「んなもん、必要ねぇだろうがよ」
 間髪を入れない返答は、まあ合格点。そう思いつつ、なんだか熱い。静かに箸を置いて、背後に喧噪が聞こえる受話器を握りなおした。
「うぬぼれないでくださる?」
「バーカ。知ってんだよ。うぬぼれじゃねえってな」
 静かで低く圧のある声に、酔っぱらいの真剣な表情が浮かんだ。ちょっと怒っているときの、目の据わったあの顔だ。その顔が見たい。……だって、好きなんだもの。私は急にお酒が回ってきたのか、熱い頬に手を当てた。
「それなら、確かめてみたらいかが? その目で。いろいろとね」
 私は、言った。すごく遠回りをして、ようやく言えた言葉だった。会いたい、の一言がどうしてこんなに難しいのかしらね。けれども一応はほっとして、通話を終えた。