残り香



けたたましい機械的な鐘の音が部屋中に響く。
その激しい現実に、彼はめいいっぱい顔に苦痛の色を浮かべながら、のそのそとそれに手を伸ばした。




AM 11:32

「お父さんってば、いくら休みの日だからってこんな時間まで寝てないでよ!」
 蘭はエプロンをつけたままで家中を忙しそうに走り回っている。
一方俺はというと、寝巻姿のまませわしない蘭の姿を、何となく目で追っていた。
「もう、私午後から出かけるんだから、ここにご飯作っとくわね!」
かちゃかちゃと音を立てながら、自分達の朝飯の後片付けをしている。
今日の朝飯はチャーハンらしい。
「……………うどんの方が良かったな。」

 ぴた。

「…………………………なんか言った?」
怖いくらいゆっくりと振り返る蘭。
一変してダークな雰囲気を醸しだす蘭に、俺は全身を使って精一杯に否定するのだった。




「……………蘭?お前まさか新一の奴の所に行くなんて言わねぇよな?」
 ここのところ休日ともなると必ずといっていいほど出かけて行く。しかも洗濯やら掃除やらを済ませてからで。
…………俺が独自に調べたところ、どうやらあの工藤新一の家に行っているらしい。

「別にいいじゃない。新一、両親が外国行ってて今一人暮らしなんだから私が家の面倒見てあげてるだけよ」
 俺にはお構いなしにさっさと台所からリビングへ行ったり来たりしている。
「あいつだってもう子供じゃねぇんだから、それくらい自分でできるだろ。だいたいなんでお前がそんなこと——……」
「……………じゃあお父さんももう子供じゃないんだから、自分の事くらいちゃんとやってよね♪」

蘭は十分すぎるほどの捨て台詞を笑顔で吐く。
何が起こったのか分からないうちに家のドアを激しく開けて出て行った。
後に残ったのは、無情にも閉まるドアの音と—————……………何もない空のテーブル。


「あ゛〜〜〜〜〜〜〜!! 俺のメシは——————!!?」

苦悩する小五郎。そしてそれを尻目にドアの向こうから笑い声が聞こえた。




AM 11:50

小五郎は歯ブラシを口に突っ込みながら、洗面所に佇んでいた。
さっきの蘭の姿が断面的によみがえってくる。

 『もう子供じゃないんだから』

最近思う。蘭のふとした仕種や性格が、歳を重ねるにつれてアイツに似てきていると。

 『自分の事くらいちゃんとやってよね』

記憶にはないが、昔言われたのかもしれない。
ついさっきあった出来事のように小言を言う英理の顔が鮮明に思い出される。

それほど彼にとってつらいことはない。
  自分の育てた娘は出て行った妻の面影を。
  そして自分は蘭にアイツを重ねてる。

それは潔い生き方ではないと知っていても。
父娘で目には見えない心の隙間を、未だに埋めようとしている。





………………こんな生活いつまで続くのだろうか?






PM 1:00






休日の午後は何もする事がない。
特に仕事もなく、ただいつもぼーっとするだけだった。
 
 それはそれで別に悪くはないと思っていた。………………まだ探偵を始めた頃には。
 麻雀や競馬もただの暇つぶしだったのかもしれない。
 何もない空白の時間が嫌だった。ただ何でもいい、何かをしていないと落ち着かない。
 …いや、必然的に向かうその思考を、…英理のことについてを考えることを避けたかったのだろうか。
  
  いなくなって気づくその存在の大きさ。
  そして共通の時間。今までの人生の半分以上を一緒に過ごしてきたのだから、まあ当然といえば当然なのかも知れないが。  











『未練ね。』


未練?………… 嫌だな、そのコトバ。


『心当たりがあるのかしら?』


………ああ。だから嫌なんだよ。



『………そうね。私も嫌いだわ。その言葉。』



………………。


『そんな顔しないでよ。…他に私の気持ちを形容する言葉が思いつかないの
ただ後悔とか……落胆とか、そんなコトバとは違う
………今だにあなたを忘れられない—————ただそれだけ』





英理?





『私が悪いなんてこと、痛いほど良く分かってるわ
でも好きなだけじゃどうしようも出来ないのよ。
どんなに愛していても、言葉じゃ伝えられないの。…………私には出来ないのよ。』




『すれ違っているような気がするのよ
あなたはいつも私には無関心だから、気持ちが一方通行だって』



『だから私もこの気持ちを必死に隠そうとして……………
………でも耐えられなかった。
だから、だから離れたのよ、あなたから。』




『でも今度は…………離れすぎていて寂しい。
どうしようもなく寂しいのよ。

今更………後悔してる。


………自分で選んだ道なのに
・なんて自分勝手な女なのかしらね………』











英理…………

















 がばっ



コチコチコチコチコチコチコチコチコチコチ………………



部屋中に時計の音が響く。



 …………ここは………事務所?

目に呼び込んできたのはいつもとかわらぬ風景。




    夢だったのか?




PM 5:30



 夢ってあんなにリアルなものだったか?


……………せめてもう少しだけでも起きるのが遅かったらなぁ……………






     ……………寂しい………か。






あの見たこともない弱気な英理も、一人でないていた英理も
  すべては俺の中の本当のアイツの姿であって、
  それは………アイツの本音なのかもしれない。












事務所の窓からは夕日が差し込んできて部屋中を赤く染める。


真紅とは言わない。

これといって堅苦しくもない。



…………それはとても落ち着く色で。








 ガチャ。



「あれ、お父さんここにいたの?」


「………蘭?」
夕日に照らし出されている蘭の顔は柔和で穏やかな笑みを浮かべている。
「電気もつけないで何やってるのよ。
もうすぐ夕食だから、早く上に上がってきてよ?」

蘭の手には、近所のスーパーのビニール袋がしっかりと握られている。






















「…………蘭。こんなことしてて疲れないか?」

「なによ、いきなり。」


「いや……その毎日毎日さ、学校と家の仕事を両立して、
休みの日には家の家事だけじゃなくて、アイツの家まで行って………」


「高校生なんて、一番遊びたい年頃な筈なのに
お前は愚痴ひとつこぼさないでずっと………」



「……好きでやってるんだもの。嫌だなんて思ったことないわ」


「……………蘭。」



「正直、疲れたなって思うときもあるの。
でも、学校に行って友達と遊ぶのも、
家に帰ってお父さんのご飯作ったり、洗濯物したりするのも
………同じくらい、好きよ。」









『………そうね。』










「…………二人で、同じ顔して、同じことを言うんだな…………」

「ん?何か言った?」


「いや………なんでもない。
………そうだ。今日の晩飯はなんだ?」

「え?今日はカレーよん♪」





「……………うどん、食べたかったな………」


「何か言った?」


「いやいや、何も…………」















PM 7:00


 小五郎は湯船につかりながら、露で濡れている白い天井を見ていた。







「母娘か……………」



 それは紛れもない事実。
 似ないはずがない。


…………そう考える事にしよう。

 瓜二つだから。
 
 同じくらい愛しい存在だから。
 
たぶん俺達は、そうやってそれぞれの重みを増していくのだろう。
 ………それは二人で決めた事だから。










ほのかにカレーの匂いが漂ってくる。
小五郎は笑顔で台所に立っているであろう彼女の姿を
頭の中で思い描いて。







………これでいいんだ。



















PM 10:30



「お休みなさいお父さん。」


「……………ああ。早く寝ろよ。」




 寝る前の蘭が最近寂しく見えるのは、昔の居候のせいだろうか?
 新一が帰ってきたその日から、家の食事は再び2人分で済むようになった。













別にたいした事ではない。
前の生活に戻っただけだ。

……………頭の中ではそう思っていても、気持ちがついていかない。

きっと蘭も同じなのだ。



10年前のあの日…………英理が出て行ってからの生活と……今は似ている。

 
 二人いるのに、誰か足りない。
 一緒にいるのに、何か足りない。








時がくれば慣れるだろう。心の隙間を埋めあっているこの生活に。
昔そうであったように。 きっと。





『……………離れすぎていて寂しい…………』







それは俺の中の英理の本音。

 二人から三人の生活へと変わり、
  そして三人から一人への生活へと変わり。



俺の中の英理の強さ…………そして弱さ。

 すべて俺の中の話。
 たかが夢の話。












 
 …………されど夢の話。


 それは彼女の残り香なのかもしれない。
 その甘い香りが魅せた現実なのかもしれない。


  本当なのかもしれない。


 小五郎はおもむろに携帯を取り出す。
 今まではなかなか押せなかった、番号。  少しだけ戸惑って、一気に押す。









『もしもし?』


「あ、英理? 俺。」


『………あら、どうしたの?珍しいわね。 何かあった?』

「いや、何も。………今何してた?」

『今?ちょっと飲んでたとこ。』

「なんだ珍しいな………一人でか?」

『ふふ……そうよ? あまりにも月が綺麗だから』

「月?」

『ええ、そっちは見える?』

「…………いや」

『そう……あなたにも見せたかったわ……』



「行くよ」

『え?』

「今からそっちに行く」

『今から?』

「ああ。」




『………分かった。じゃあ待ってるわ』











彼女は『何故?』と問わなかった。
それは二人が思ったこと。


一人で見る月は寂しい。
それはお互い知っていること。


だから聞かなかった。





彼は『見えていない』と言った。

一人で見る月は美しい。


………そして物悲しい。


だから嘘をついた。




本当は月は見えていたのに。













ごく普通の日曜日のこと。

ただ今日は残り香を嗅いだだけ。


………ただそれだけの話。



でも。


今日は聞こうと思った。



アイツの本音を。

















FIN