根がなくても花は咲く

『根がなくても花は咲く』





「ねえ、あなた。ちゃんと聞いて」
「聞いてるよ……」
「耳だけじゃなくて、目でもちゃんと聞いて」
「聞いてるっつの……」
「誤解だって、何度も言ってるでしょう?」
「フーン……」
「してないわよ。その、浮気、なんて」

 居合わせたのは、ショーウインドウが並ぶ、ケヤキの落葉樹が美しい通りだった。俺が見たのは、敷き詰められた斑岩をそろって歩く、カップル。スタイルのいい女だなー、美人かなー、と向こうから歩いてくる女から目を離せないでいると、なんとそれは──別居中の、俺の妻だった。
 隣に寄り添っていたのは同年代か、やや年下の色男。二人は休日にデートをしている恋人みたいに見え、似合いだねぇ、なんて遠目で思ってしまった自分に、奥歯を噛んだ。


 テラスの丸テーブル。センターに置かれた、罪のない紙袋。それを取り囲む、3人の男女。これっていわゆる、修羅場ってやつ? ハハハ、浮気? お前がそんなことできるわけないって、俺が一番分かってるけど。だからといって見過ごすわけにもね?

「そうですよ。英理さんに頼まれて、これを選ぶ買い物をご一緒しただけです。彼女の品行方正さは、ご主人もご承知のとおりで」
 そこらのぽっと出ヤローが、知ったような口を…。わかりきったことを赤の他人に言われると、神経を逆撫でされる。俺は『路上喫煙禁止』と書かれた、地面のシンボルマークによって、不機嫌をごまかす手段がない。
 ああ、苛つく。お前も、英理さん、なんて下の名前を軽々しく呼ばせて。

「どーだかな」
「だからこそ、僕は手も足も出なかったわけで」
「……手は、出てたろ」
「まさか!」
「やだ。友達とショッピングしてただけよ」
「腰に手を回してるよーに、見えたけど」
「もう、スケベね!」
「はぁ?」
「あなたの普段の行いが悪いから、色眼鏡で、そう見えたんじゃなくて?」
「友達とショッピングね……。お忙しい先生方も、休日をそんな風に使うんですかぁ」
「あら、悪い?」
「……なんでお前は、いつも」
 目的地だけを見て、肝心なことを見失う方向音痴。そして自分のことを、客観視できない。俺は英理をチラリと見て、胸元の白い肌に文句を言おうと思った。しかし、口からはため息しか出てこない。
「もういい、邪魔したな」
 俺はポケットから取り出した千円札を置いた。夫婦の話し合いに、部外者は不要だということだ。

「待って。ちょっと待ってよ!」
 後ろから駆けてくる声を無視し、俺は歩を進める。
「本当に誤解よ。あなたに喜んで欲しかっただけ」
「俺が、他の男と選んだモノを喜ぶと思うのか」
「だって……」
「お前って昔っからそーゆートコ無神経。だからいつも、素直に受け取れねーんだよ」
「初めて聞いたわ」
「気づけよ鈍感。一人で選べよ。デートの口実に利用されるのは御免だね」
「デートじゃないわ」
「その服で? なんだよそれ……攻めすぎじゃねえか」
「これは……」
「夜のデートで着るつもりならな、直前に着替えるくらいの手間をかけろってんだ……。デリカシーのねえ女は嫌いだ。俺は」
「あなた──今日で幾つになったの?」
「男心に、歳は関係ねーから!」
「お、おとこごころ……?」
「笑ってんじゃねーよ、バーカ」

 そう、今日は俺の誕生日。そこで最悪の鉢合わせ。俺は立ち止まって振り返り、英理の手にある、カラーストライプの入った黒い紙袋を取り上げた。

「コレだけ、もらってく。礼は言わねえぞ」
「待ってよ。プレゼントはそれだけじゃ……」
「手料理なんて、もってのほかだよ!」
「え……」
「んな顔してもな。今夜の約束はキャンセル」
「……」
「ぜってえ、行ってやらねえからな」
「……」
「その目、やめろ」
「……」
「やめろって」
「……」

 妻のやりたいように祝わせてやるのが、俺なりの思いやり。妻のマンションに呼び出され、胃袋を数日死なす羽目になったとしてもだ。俺の覚悟も知らず、ちょっと瞳を揺らして、困り顔をみせる英理。そうすりゃ、俺が折れると、経験上知ってやがる。そのやり方、卑怯じゃないか? ……くそ、可愛いツラしやがって。
「ハァ。お前なぁ……、こういう時だけ情に訴えかけるなんて、自己弁護はなんでそんな下手くそ?」
「……女だからよ」
「あのな。黙秘で、えん罪が晴らせるか? お前が弁護士なら、俺が好む証拠を提出してみろってんだ。話はそれからだよ!」
「あなたが喜ぶ証拠?」
 うーん。と英理は顎に手を当て考え出した。そうだ悩め。今日くらい俺のことで、うんと悩め。ところが英理はすぐに肩をすくめ、頰を染めて言った。

「だめ。エッチなことしか思いつかないわ」

「……オイ」
「でもねぇ、困ったの。こんな所じゃ証拠なんて、提出できそうにないわ。どこで証拠を調べてもらえば、いいのかしら?」
 そう言って胸のまえで腕を組み、首を傾げる。横髪の後れ毛が天真爛漫に揺れた。
「ウワァ…人妻の誘惑、えげつなー…」
「信じてもらえた?」
「疑っちゃいねーが、ただただ、タチが悪い!」
「ご機嫌とるわよ。だってお誕生日だものね?」
 特別よ、と言ってゆるく腕を絡ませてくる。行動は大胆なのに、頬を赤く染めるのも、タチが悪い。……というかそれに、俺が弱い。

「お前、裁判でも色仕掛けすんのかよ」
「知ってるくせに」
「言えよ。今日くらい」
「──あなただけよ」
 低い声。背の産毛がゾワッと、下から逆立った。
「……フン。俺のご機嫌取りたきゃ、邪魔の入らねートコ、連れてくんだな……」
「ふふ、もう前言撤回?」
「うるせー、タクシー止めるぞ」
「……材料買いたいのに」
「惜しいんだよ、時間が」
 つい口が滑ったが、我ながら名案だ。俺は大通りに向かって、ビシッと手を挙げた。胸を躍らせつつ、張り合いを無くして気落ちした英理の気配を、少々感じてはいるが……。
「……あるもんでいーよ。卵かけご飯とか、ラーメンとか、お茶漬けとかでよ……」
「誕生日にそれじゃ、あまりに可哀想」
「いいんだって。メインは他にあるし」
「あ、あなたがそれでいいなら……」
 英理はしおらしく頬を染め、呼ばれたタクシーへ乗り込んだ。俺は気の重いお役目から解放された安堵の表情で、シートに身を預けた。横から伺うような英理の目には、すっかり機嫌が回復しているように見えることだろう……。





 英理の部屋に入って早々。俺は扉を背にし、機嫌の良い顔を捨てた。後ろから英理のトップスの裾を掴み、一気に上へ引っぺがす。
「え? え!? ちょっと!」
 あっというまに抜かれた袖に焦ったのは一瞬で、迫る男の壁にぐいぐい押され、俺たちは4本の脚をもつれさせながら、部屋の奥へ進んだ。腰に手を回しファスナーを降ろすと、スカートは床に丸まる。スリップの紐を肩から落とすと、柔らかく腰にまとわりつく。
「きゃ!」
 と小さな悲鳴をあげてベッドの上に転がった英理。俺は構わず、スリップとストッキングとショーツを大雑把に掴んで、強引に引き抜いた。あっという間の出来事に、英理は、ブラジャーだけを残され、腕2本で上半身と下半身をそれぞれ隠し、唖然としている。
「ちょ、ちょっと……! 乱暴ね!」
「さぁ、早く見せて貰おうか。証拠ってヤツをな!」
「もう! せっかちなんだから……」

 英理は悩ましい息をひとつ吐き、親指で肩の紐をピンと上へ伸ばした。もったいつけるように、手首の内側を見せる。俺をちら、と見て顔を伏せ、紐をゆっくりと肘まで降ろしていく。露わになった白いデコルテ。早く喰らいたい気持ちをこらえ、唾を飲む。

「ねえ……、そんなに、見ないでくれる?」
「証拠なんだろ? 隠すなよ」
 英理は顔を落としたまま、腕で胸を隠し片手で下着を外した。
「隠すな」
「だって……、そんな目で見るんですもの」
「あぁ? どんな目だって?」
「ちょっと怖いわ……」
 それは俺がいま、最高に機嫌が悪いからだろう。そして機嫌が悪いのは、全部お前の所為だろう……。なのにそんな怯えた顔をされると、本気で襲いたくなってくる。にじり寄り、腕を身体から剥がし、手首をベッドに押しつけるように、英理を下敷きにした。ネクタイが垂れる。それが胸元をくすぐり、英理の眉がピクリとした。

「……ネクタイピンよ、あれ」
「フン!」
「あなたよく、付けるの忘れるでしょう? ちょっと遅かったみたいだけど」
「──どっちから誘った?」
「さあ、どうだったかしら……」
 とぼけた返事。煽りやがって、ふざけるな。首筋を舐めて濡らし、きつく吸い上げる。
「や……」
 何度か同じ場所を吸い、くっきりと付いた唇の痕をさらに舐めながら、聞いた。
「どこで待ち合わせして?」
「痕、つけないでよ……」
「昼メシは、何食った?」
「やめて……」
「もしかしてアイツにも買ったんじゃねーの。礼とか言ってよ」
「知って、どうするの……」
 否定もしない。カッとなり、柔肌に歯を立てた。英理は声をあげなかったが、捕らわれた10本の指がグッと強張った。
「簡単に、勘違いさせてんなよ」
「え?」
「隙を見せるなって事だ」
「あなたって相変わらず……」
 英理の薄い唇の端は呆れているが、少しの喜びの色が混じったのを俺は見逃さない。
「悪かったな! 嫉妬深い、ダメ亭主でよぉ……」
 それより心配を汲み取って欲しい所だが、この女にはどちらが効果的なのかを、俺はよく知っている。
「そこまで言ってないわよ……。あなたって自分の行いを棚に上げるの、得意よね……」
「うるせえ女だな」
 若い頃ならともかく。いまさら、男と女の違いを説明する気は起きない。俺は包み隠す必要のなくなった感情に従って、身体中に嫉妬の花を散らしていく。
「もう……。今日は特別よ……」
 英理は身体の力を抜き、芳醇なワインでも味わうように、目を閉じた。少し開いた唇のなかには、力の抜けた赤い舌が誘惑するように控えている。──ハイハイ。組み敷いたところで結局。支配されているのは、いつだってこっちだよ……。俺は手首の拘束を解き、そのままネクタイを外すよう、英理の手を促した。





 妻の細腰に手を回そうとした、男。あんなもの、見せられたこっちは、たまったモンじゃない! かき消すように燃え、激しく腰を打ちまくる。その情熱に英理は、日常とはかけ離れた、声、表情、裸体、そして動き、すべてにおいて最高の乱れ姿を披露した。俺は惚れた女のそんな姿に、興奮せずにはいられない。諸悪の根源をがむしゃらに揺さぶり、英理は益々乱れて俺を求め、俺は感覚の失われたペニスを、本能のままに擦りつけた。キリがなく、燃えに燃えた。

 ──あなたぁ、ぁぁ、すごい、いい、ソコ、いいの……。
 ──あ、あ、あ、っ、激しいっ、いくぅ、私、いく……。
 ──う、うぅ……! あぅ、あ、あ、あなたっ、あなたぁぁぁ……!

 そんな最後の悲鳴と共に、肉体は役目を終え……燃え尽きた。ため息が出るほどだ。
 いま、余韻という穏やかな肌の触れあいのさなか、俺の鼓膜は、英理の嬌声に震え続けている。数日はこのままだ。英理の身体に散る、数々の惨事のように。けれど、冷えた頭は容赦なく問いかけてくる。いつもはこんな風に鳴かせられないだろ? と。
 いつだって満足させている自負はある。だが今夜のような、叫ばなければ死んでしまうと言わんばかりの快楽、その境地にたどり着かせるのは稀なこと。つまるところ──英理は好きなのだ。嫉妬に狂う俺が。こうしたわかりやすい愛情表現が……。口ではなんと言おうが、腕と脚は蛇のように巻き付き、舌は吸い付き、ヴァギナはこれでもかと締め付けてきた。動かぬ証拠だ。普段はそんな執着を、ちっとも見せたりしないのに。ここぞとばかりにあらゆる武器を使って応えようとする。この女は純粋なようでいて、実は少し歪んでいる。誰のせいでそうなったのかは、考えたくない。

「腹減ったなぁ……」
 寝そべり抱き合った英理の額に、唇を寄せ呟いたのは、時計が22時を指したころ。
「……すぐに食べられるものなんて、何もないわ。果物しか」
「おい嘘だろ」
「お米も炊かないとね。だから言ったのよ……。今さらスーパーへ行っても、ロクなものないわ」
「コンビニでもいくか?」
「いやよ。もう眠たい……」
「おばさんは、体力作りが必要みてーだな」
 俺は英理を眠らせまいと、腕に乗った頭ごと起こして、腹の上にのせた。
「あのねぇ……。女は本能的にそう、できてるのよ。そもそも……見てよ。こんな身体じゃ、外へ行けないわ」
「隠せばいいだろ?」
「プールも行けない。海にだって」
「……そんな予定、初耳だな」
 英理はしまった、という顔をする。おい、海だと? せっかく苦労して消した火種に、また火をつけたいのか。この、強欲女は……。
「もちろん、グループでよ? 女性もいるし」
「お前、付き合いイイね……。同窓会だの懇親会だの。忙しいって言ってる割りに、ほいほい行くよな」
「あなただって好きでしょ、旅行」
「俺は家族とだ……」
「家族って、私誘われないけど。こっちだって、ただの慰安旅行よ。断る理由もないわ」
「いつ行くんだよ」
「なぜ?」
「挑発してねーで、吐け」
「……いちいち覚えてないだけよ。手帳を見ないとね」

 嬉しそうに揺れる英理の瞳に、俺は呆れ黙るしかない。こうしてまた、起きもしない浮気問題に翻弄される羽目になるのだ。まったく……。真っ赤な花びらが散った、英理の身体を見上げて思う。この花には根っこがない。それをいかに咲かせ散らせるか。この遊びは、どうやら女を美しく甘やかすらしい。
 わざとやっているのか、ただの天然か……それこそ考えたくもない。どちらにせよ、拗れきった俺たちの夫婦生活は、英理をこんなにもタチの悪い女に育て上げてしまった。
 唐突な家族旅行を娘に提案する苦労まで考え、自業自得かと、俺は身体を起こした。向かい合う英理に触れるだけのキスをして、ひとり立ち上がる。長い夜の、腹ごしらえが必要だ。まずは米でも炊こうか。フルーツを切ろうか。カクテルでも作ろうか。忘れかけていたが、今日は俺の、誕生日だ。