むにゅ~う……、という愛猫からのキスで目覚めるのが、さいきんの朝の習慣になっている。
特に教えたわけではなく、どこで覚えてきたのか英理には見当がつかない。ホント、誰かさんにそっくりなんだから……と、目をつむったまま微笑み、いつものようにゴロの挨拶を受け入れた。
──まぁでも。その誰かさんには、目覚めのキスなんて、しばらくされていないけど?
英理は毎朝のように行われるゴロの習慣によって、別居中の夫、小五郎のことを思い出していた。英理にとっての朝は、愛おしい幸福感と、ほんのすこし切ない感情で始まる。
だがしかし、今朝は様子が違っていた。その小さい生き物が、口にするはずのない言語を呟いたのだ。
「えり……」
ぱちりと目を開ける。すると、その誰かさんが目前にいて驚いたのだった。
英理は小五郎の腕の中にいた。素肌の腕と胸のあたたかさに、昨夜の記憶が一瞬にしてブワワ~ッと蘇る。
寝起きの頭に、めくるめく夜の甘さを思いだして、ほんのりと頬を染める。
小五郎は英理の気持ちなどお構いなく、もう一度名前をよんだ。ほとんど唇を動かしていないが、じんわりと温かい吐息を感じ、頬には、チュッチュッ、と恥ずかしいキスが落ちてくる。
……寝ぼけている、らしい。
英理は左頬にキスの嵐を浴びつつ、左目だけを閉じ、それをおとなしく受け入れた。ん、もう、しょうがないわねぇ……と大型犬にじゃれつかれているような感覚になるのは、おひげの感触のせいだろうか。
眠りながら推理を披露するほどでは無かったが、小五郎は昔から寝言が多い。
これが、一歩間違えば大事故に発展するあぶない癖なのだ。もし呼んだ名前が他の女やどこぞのアイドルのものならば、ベッドから容赦なく蹴落とし、マンションから叩き出している所だった。
お腹いっぱいだよォ~、もう飲めないよォ~と、いつもは情けなくなるほど見ている夢がまるわかり。
そんな幸せな夢なら、バカねぇ! と呆れつつ、たしなめて終わる。だが、今朝は様子がおかしい。
「――えり、」
自分を呼ぶせつない声色にふいをつかれ、胸がぎゅうっと締めつけられた。
小五郎のしわの寄った眉間と、その声。愛しい妻の名を呼ぶにしては、ずいぶんと険しい。一体どんな夢をみているんだか……。英理は甘えるようなキスがやむのを見計らって、その堅い眉間へ指先をのばす。
昔はもっとゆるんだ寝顔で名前を呼んでもらえたものだ。その変化の意味に、気づかぬわけがない。
「ここにいるわ。大丈夫よ……」
まるで眠り姫の呪いを解く王子様みたいな気分で、英理はささやく。眠り姫と王子様って、オジサンとオバサンで馬鹿みたいよね、と自分の少女趣味なイメージがおかしくて、ドレス姿の夫まで想像して笑いつつ。
フクザツな男の葛藤を吸い取るように、おでこに唇で触れる。小五郎にとって英理は、呪いをかけた魔女そのものであるかもしれないのに。英理は頭のどこかで自覚しながらも、思ってしまう。どうせ憎まれるなら、魔女でも悪くないのかもしれない。このひとの心に奥深く居続けられるのなら、むしろ、そうありたいとさえ……。
「……なーんてね」
小五郎は昨夜からすこし変だった。
感情ダダ洩れ男だが、実のところ、悩みや苦しみは滅多に口にしない。だから些細なサインをくみ取るのが英理の癖となっている。知り尽くした自分の男の事。声や抱き方で心情が、手に取るように解ってしまうのだ。
「……愛してるわ」
起きていたらとても言えない事を口にし、そのままこっそりとキスもする。素直にフッとゆるんだ眉間のしわに、安心しておでこをつついていると、視線を感じて顔をあげた。ねずみ色の大きな瞳と目があった。
「!」
「ニャア!」
英理を見つめていたのは、愛猫のゴロだ。まん丸な瞳をくりくりとさせている。
そこでようやく思い出した。以前に小五郎がこの部屋へ泊まった時、こうして同じようにキスをするさまを、ゴロに見られていたのだ。いつもの朝の習慣は、飼い主のまねっこだったらしい。
「もう、おどろかさないで」
英理は困って笑い、眠り姫を起こさぬよう人差し指をたて「しぃー」のポーズをした。
ゴロは聞き分けよく、柔らかい頬ずりをくれる。両隣のあたたかい体温に挟まれて、むずがゆく照れくさく、けれども、しあわせな朝のひとときだった。