夏の幻

 

 

 

 







 







「……そんなに嬉しいかよ。オレの情けねぇ姿が」
 夫の小五郎から言われた。大きな身体を、私のローバーミニの助手席で縮こまらせて、それが可愛らしくて可笑しかったのだ。普段オールバックで決めている髪は崩れてしまって、スーツもびしょ濡れ。
「後ろのバッグにタオルがあるから、良かったらどうぞ」
 笑いながら言うと、夫はキョロキョロとし、後部座席にある私のビジネスバッグに手をずぼりと突っ込んだ。
「ったくよぉ。ひでえ雨だぜ」
「どーせ天気の事なんてまともに聞いてないんでしょ? お天気お姉さんの事ばかり見てて」
「フン! 誰かさんと違って微笑みかけてくれっからな」
 車内に香った整髪料の匂い。オールバック用の水性ポマードは無香料だが、わずかに原材料の匂いがする。それと彼自身と雨が混じった香りが、鼻先をかすめた。
「まー助かったぜ。こんな浮かれた英国車で我が物顔して裁判所に来る女王様風情はお前くらいだからな。すぐわかった」
「じゃあなぁに? あなたはこの車を街で見かけるたびに、私だと思ってつい運転席を見てしまうという訳?」 
 気の毒ねぇ、とねっとり言うと、むすっとする顔に満足してギアを入れる。ブォン! とマフラー音をとどろかせて車は発進した。


「相変わらずやっかましい車だな! ……うわッめちゃくちゃ跳ねるじゃねーか。じゃじゃ馬な所も持ち主に似ちまって」
 愛車は衝撃を吸収するサスペンションにラバーコーンを使っているため、ゴムばねでピョンピョンとよく跳ねる。長時間の運転には向かないけれど、気分が弾むようで、乗っていて楽しい。その趣が解らない男の興ざめな文句に鼻で笑う。
「途中下車するならどうぞ? ご自由に」
「丁寧に運転しろよな。酔っちまうだろ」
「毎日懲りもせず酔っ払ってるくせに」
 加速するとエンジン音が鳴り、声をすこし張り上げた。
「それで? どこへ向かえば良いのかしら、名探偵さん!」
「敏腕弁護士先生はドコ行くんだよ。事務所か。客先か?」
「このまま家に帰るところだけど」
「家ぇ?」
「悪い? 寝ようと思ってたのよ。夕べは色々あってね」
「ホー。さては夜も寝かさないような男とヨロシクやって?」
「そうねぇ、かなり困り物なの。ヨロシク言っとくわ」
 くだらないやりとりだと分かっていて、乗らずにはいられない。か弱いヘッドライドが豪雨で暗くなった路面を懸命に照らしている。目に涙がにじんだ。おそらく寝不足のせいだった。
「男性ばかりで残念だったわね。検察側にも被告席にも、あなたが惹かれるような女性はいなかったはずだけど」
「フン! 冤罪事件なんてやめときゃいいのに……。周りが何を言っても聞きゃあしない」
「もしかしてこの裁判のこと、よくご存じなのかしら」
 気にしてくれて嬉しいわ、とは口が裂けても言えない性分だ。


「なぁ運転代われ。どおりで車がフラフラしてると思ったよ」
「フラフラ? あなた本当に酔っ払ってるんじゃないの」
「寝不足が運転に出てる。いったい何日寝てねーんだか」
「なかなか寝かせてもらえなくってね」
「……フン。そこまで仕事に肩入れできりゃ立派なモンだよ」
 陳腐な芝居に嫌気が差したのか、はたまた嫉妬でもしたのか。冷めた口調で言う勝手な男だ。
「この車、結構癖あるんだけど」
「知ってるよ。気の強い女に乗るのは慣れてる」
「覚えがないけれど」
「別にお前の事とはな。ホラ、どいたどいた!」
 ハイハイ……、と大人しく路肩に車を停める。少し待って外へ出ると、傘をさして私を見下ろす夫。乱れた髪の隙間から覗く顔に視界が揺れ、気取られないよう神経を注ぐ必要があった。
「チッ、左ハンドルってのは慣れねーな」
 レンタカー御用達の夫は様々な車種を乗りこなすが、わざわざ左ハンドル車は借りない。ウインカーレバーが左にある事。こだわったクラシックな内装や装備にも、彼は顔をしかめた。
「にしても蒸すなぁ。冷房ちゃんと効いてんのかよ? 何でわざわざこんな古い車乗るかねぇ」
「さっきから文句ばっかり」
「遠出もできねーだろ。セレブの考える事はわかんねーな」
「セレブ?」
「道楽だろ」
 器用にギアレバーを操作する。彼の骨張った手と細いレバーの取り合わせに妙な艶があると、昔も同じ事を思った気がする。

「好きなのよ、この車。悪く言うのはよして」
「元は親父さんの車だろ。癖が同じだからすぐわかる」
「嘘、あなた覚えてたの」
「あんな苦労忘れっかよ。金もねえのにワガママなお嬢さんがハネムーンに行きてー連れてけーって散々駄々こねてよ……。オレが親父さんに頭下げたんだぞ?」
「旅行に行く為に、この車借りたんだったわね」
「燃費悪いしハイオクだし結局めちゃくちゃ金掛かっちまったけどな。おまけに揺れるから尻は痛えのなんのって」
「たしかに苦労もあったけど。ね、この車に乗ってると昔の事を思いださない?」
「あぁ、伊豆に行ったっけな」
「よかったわよね、あの海。キレイで」
「キレイっちゃキレイだったけどよ。ド派手な水着女がいたせいで、のんびり海水浴どころじゃなかったぞ」
「愚痴しか言えないの? 何がド派手よ。色気がねぇオメーの水着姿なんか世間にお見せできっかよ! って煽ったのは誰」
「若気の至りだよ」
「でしょうね。でも、今思えば結構楽しかったわ。あの頃」
「まーな」
 ギアを操作する腕が擦れた。触れた手の先にある私の結婚指輪に、一瞬だけ、チリッとした彼の視線を感じた。
「岬に落ちる夕日がとてもロマンチックでね」
 屈託のない笑顔が夕日に照らされたあの幸福を、昨日の事のように思い出せる。不安なんて露ほども感じなかったあの頃。大好きだった大学生の彼に、何だか無性に会いたくなった。


「――きょう、私の情けないところを見に来たんでしょ? 近いうちに見られるんじゃないかしら」
「おい……。投げやりな言い方はよせよ」
 昔のことを思いだしたりして、ピンと張り詰めていた糸が、何かの弾みで切れてしまう寸前だった。ここが密室であることがありがたく、空が大泣きしている事も、今は恵みだった。
「難儀だな。他人の人生を背負うってのは」
「……大層なことじゃないわ。ただ立証する責任があるだけ」
「ま、そもそもオレになんて相談できない事かもしれんがな」
「そんな事、ないけど」
「そうか?」
「だって、他の誰の前でこんな事言えるのよ」
 何だか無性に悲しくなってきた。誰が投げるもんですかと自信満々に言えない自分が。彼の指先がトントンとハンドルを叩いている。注意深く言葉を選ぼうとしているときの、彼の癖だ。
「おまえは、弁護士バッジを付けるために生まれてきたような女だ。オレが保証する」
 大雨に降られた横顔の妙な艶っぽさ。正面をみつめて私の車を走らせる彼は、いつもこんなに安全運転だっただろうか。私はいま彼の目に、どれほど情けなく映っているのだろう。
「やめてよ」
「自慢の女房だ」
「やめてったら。少し感傷的になっただけよ」
「そりゃ雨も降るな」
「ええ、記録的豪雨ですって」
「らしくねぇ事言ってると、このまま連れて帰っちまうぞ」
 もう、いいのかもしれないわね。それでも。
 投げやりついでに喉元まで出しかけたとき、踏切で車が停車した。私の弱音は、甲高い警報音にかき消される。
 困って視線を送ると、彼は私の頭に手をぽんと置いた。
「少し寝てろ」
 まるで徹夜で課題を仕上げた大学生に向かって言う、軽い笑い混じりのトーンだった。後方から鳴らされたクラクションに、いけね、とアクセルを踏む言い方も。
 彼の指は、そこにある事を覚えていたのか、オーディオのスイッチを押した。
 純正の古いカセットテープステレオ。私のお気に入りだ。こもった雑音には独特の温もりがあって、涙を誘う。
「こんな昔の曲、いつも聞いてるわけじゃないわ」
 そんな拗ねた自分の口調も、どこか子供じみていた。
  

 まぶしい光を感じて目を開けると、汗のようなものが頬を伝った。指で拭うと指先が濡れ、メガネをいつの間に外したのかは、思い出せなかった。

 ――夏休みだし、旅行に行こうぜ。

 結婚した大学二年生の夏。あの夏の旅行を、新婚旅行だとは照れて認めたがらなかった青年が、ハンドルに上半身を預けて、気だるげに窓の外を見つめていた。
 雨はあがり、フロントガラスが日で白く光っている。どのくらい時間が経ったのだろう。
「……どこよ、ココ」
 まさかと思って聞くが、あの香りが鼻を刺激していた。
「おまえ忘れてんのか?」
 ニカッと笑いながら、メガネを手渡してくる。その手の中にあるフレームに体温を感じながら、平静さと共に装った。
 彼は車から降り、ポケットに手を入れて歩き出す。ドアを開けると、潮風がむわっと頬を撫でた。防波堤の簡易な階段を上るときに、彼は私にその手を差し出した。
「ありがと」
 微笑んで彼を見上げると、それに面食らったのか、さも言い訳のように「……フラフラして危ねーから」と言う。
「情けないところ、見せちゃったわね」
 そう言うと、私の手を力強く引いた。情けないところを、まるで歓迎するとでも言うかのように張り切っていた。
 私を無敗の弁護士として扱わない彼の手。そんな風に期待された事など一度もない。望まれているのはただひとつ。
 駆け上がると、彼の腕の中にすっぽりと身体が収まった。
「連れて帰るとか言っちゃって。……海ねぇ。名探偵さんは、学生気分がまだ抜けないのかしら」
「ま、その気になりゃいつでも迎えに行けっからな」
 なに強がっているんだか。私は、胸の高鳴りをどうにか沈めようと必死に潮騒のざわめきを追いかけた。けれども、その高鳴りは、彼の心臓の鼓動と区別がつかなかった。
 赤い夕日が、水平線上にぽかりと浮いて、あの頃と同じように沈んでいく。たっぷりと見つめながら、様々なことに、想いを馳せた。
 太陽が本日の役目を終え、少しずつモノクロになっていく景色に、帰りましょうかと、晴れやかに言った。
「え、泊まんだろ?」
 吸う寸前のタバコを持った指を止めて、焦ったように汗を滲ませる。その顔が可笑しくて、思いきり眉を歪ませた。
「……えー?」
「おいおい……三時間はかかんだぞ」
「それはあなたが勝手にこんな所に連れてくるからでしょ?」
「どーせ寝るだけならどこで寝ても一緒だろ。それに、あいつら今いねーし。このへん良さげなラブホテルもあるしな」
「ラ……。あ、あら、よくご存じなのね」
「見てくれはいいが中は古いってパターンかもしれねーが。入ってみないとわからん。……あんだよその顔。ヤなのかよ」
­ 拗ねたような言い方で気遣われ、私はとうとう噴き出して笑ってしまった。心をぴたりと通わせた男女がする事なんて、ひとつしか思い浮かばない程には、私も大人になったのだ。
「どん底にいる私を、世界一しあわせな女にするつもり?」
 強気な自分らしい声が出て、私は嬉しくなった。凜として胸を張り、迷わず運転席へと乗り込んだ。
「フン……泣いたり笑ったり、せわしねぇヤツ」
 呆れ声の彼の口角が上がる。たまには情けない大人同士、互いを労って、慈しみ合って、懐かしがって、懸命に抱き合うのも悪くない。
 アクセルを踏むと、車は海沿いを走り出した。ボイン、と車体が元気よく跳ねると、大きな身体を助手席で縮こまらせた夫の小五郎は、また文句を言った。