薫る水場での豊かで艶やかな風と空

 

 

 

 

 こんなとき、よくあなたの夢を見たわ。
 その夢から覚めたとき、
 何か懐かしい温かさに包まれて、体中が悲鳴を上げて叫びだす。
 その叫びが喉を通り、それを言葉に変換しようと頭でいろいろ考えてみるけど
 唇からこぼれるのは言葉ではなく、いつも嗚咽。
 細い糸を切れないように切れないようにと辿っていくように気持ちの欠片を追っていくと、
 行きつく所にはいつもあの笑みがあって……。
 彼のその笑みを鮮明に思い出そうとした瞬間、私は現実の世界に戻されてしまう。

「……生、先生?」
「え?」
 頬杖を突いたまま何も無い空間に目を泳がせる英理に、彼女の秘書が声を掛けた。
「まだ御帰りになりませんか?」
 英理のデスクに置かれたまま一口も口つけられていないカップを盆に下げた。
「え。えっ……もうこんな時間!?」
 弾かれたように立ち上がる。
 後ろを振り返ると真っ暗で見事な夜景が目に飛び込んできた。
 腕時計をみるとすでにハリは九時を回っている。さっき御昼を食べたばかりだったのに……。
「ごめんなさいね……こんな時間までつき合せちゃって」
「いえ」
 彼女は正しく量られたような完璧な微笑を返した。
「……後は私閉めるから、先帰って?」
「先生?まだいらっしゃるんですか」
 そう言われて、英理はハッとした。
 今日はもうここに残す用事なんて何も無いはずだ。残業してまで済まさせなければいけないような、急ぎの用事があるわけではない。
「いやだ。家に帰りたくないのかしら……」
 無意識である、というのが余計にタチが悪いではないか。なにか家に帰りたくない理由でも有るというの?


 有るけどね。大事な理由が。
 あの男の顔を思い出して、英理は自嘲した。


「(明り点いてる……まだ帰っていないの?)」
 車を置いて、マンションのエントランスの手前から自分の部屋を見上げた。
 目印となるベランダの植物は、しっかりと部屋の内部の明りに照らされて、その姿をはっきりと英理に誇示していた。
 鬱。鬱。鬱。
 その感情がしっかりと顔に刻まれている。
 一人になりたいというのに、あの男は無理矢理私の中に入り込んでくる。
 一晩帰らずに、あの人に厭味の1つでも言わせてみようか。
 (朝帰りなんて……ずいぶん元気あるじゃねぇか)
 なんて
 言うはず無いか。
 
 自分の鍵を使って部屋の重いドアを開けた。あぁ、鍵なんて渡すんじゃなかったな……。
 黒い男物の靴が1足あって、分かっていてもドキリとしてしまった。
 あの男が家にきて1週間くらい経つけど、この靴がきちんと揃えられているのをまるで見たためしがない。
 もしかしたら、1歩も外へ出ていないんじゃ無いかしら?
 いつも履いているスリッパは彼が何処かに脱ぎっぱなしにしてしまって玄関には無かったので、仕方なくストッキングのままリビングへと向かった。
 冬のフローリングは信じられないほど冷たくて、つま先立ちになってしまう。
「遅かったな」
 ソファの上であぐらを掻いたまま、じっと英理の方を見ていた。
「ただいま……あなた、暖房ぐらいつけなさいよ」
 当の本人は湯上りで、きっとそんな必要は無かったのだろう。外から帰ってくる冷えた私のことも考えていて欲しかった、なんていうのは我が侭かしらね?
「今日も残業かー?」
「さぁね。どうでしょ」
 英理はわざと意味深な口調を作ったが、毛利小五郎と言う男はこんな挑発に乗るほど、甘くは無かった。それは良くわかっていたのだが、わかっていても割りきれないことだった。
 英理は台所からミネラルウォーターを出し、なみなみとコップに注いだ。
 ひどく喉が渇いていた。
 歳を重ねると、本当に体中が渇く気がする。そのうち干からびるんじゃないかと思うほどに。
「今日も帰らないのー?」
 英理はキッチンからリビングの小五郎へと声を張った。
「そんなに邪魔か?オレは」
 別にそういう意味じゃないわよ、と英理は小五郎の座るソファへと歩み寄った。
 手にはブランデー用の大きな氷の入るグラス。無論、中は水だけ。
「……そろそろ話してくれても良いんじゃないかしら?」
「だから、ねぇって言ってるだろ。それとも、理由が必要なのかよ……」
 小五郎が英理の家を訪れた理由。
「必要よ。あなたが居たんじゃ、誰も家に呼べないでしょ?」
 カツン、とガラスのテーブルにグラスをそっと置いた。中の水はすでに空だった。
「フッ……男か?」
 かぁ、っと頭に血が上りそうになった。
「あなたには関係が無いわ」
「……有るだろ」
 仮にも夫婦なんだから、と小五郎はどうでもいいように付け足した。
「仮にも?あなた自分の事棚に上げて、よくもそんなことが言えるわね……」
 ため息のように、言葉が自然と吐き出されていくのを感じていた。
 渇きすぎて、心までささくれ立っている。
「どういう意味だよ?」
 可愛く云えば、やきもちというものなのだろうか。それともただの罵り合いか。
 お互いにお互いが見えなさ過ぎて、見えもしない不安の対象に怯えているのだろうか。
「……やめましょー。ね、もうこんな話は。シャワー浴びてこようっと」
 英理はスーツのまま脱衣所のカーテンを勢い良く閉じた。


 バスルームから勢い良く水を打ち付ける音が響いて、もう結構な時が経つのではないだろうか。
 小五郎は英理の置きっぱなしのグラスの一点を、あぐらを掻きながら見つめていた。
「(最低だー……オレ)」
 素直に言えばいいじゃねぇか。
 たった一言だ。
 たった一言じゃねぇか。
 ……お前に戻ってきて欲しいんだ、って。
 不規則な動きを見せる煙草の煙を、根元から灰皿で消し去った。
 匂いがつくから止めろといわれたが、止めるのなんてアイツが見てる前でだけだ。
「(そう云えば灰皿……灰皿だよな?コレ……)」
 皿でもなく、透明に美しくカットされたありふれたもの。よく凶器とかに使われそうな感じだ。
 吸わねぇ女の家に何であんだよこんなモンがッ!
 ここにはオレ一人っきりの筈なのに、その灰皿のせいで不穏な空気が流れていくのを感じた。いったんそう考えてしまっては、その疑いは自己では晴らすことができないんじゃないだろうか。
 改めてそういう風に考えてみると、挑発通りアイツには別に男がいたって不思議じゃねぇって
気がする。
 仕事上、人(男)と知り合うこともきっと多いだろうし。
 金持ちのエリートの同業者(男)もいるんだろう。
 どいつもコイツも昔っから……なんだってあんな気の強ぇ女好きなんだ?
 もっと柔らかい感じのかわいくて優しい女の方がいいじゃねぇかよ。
「(…………)」
 って、オレがその代表か……。馬鹿みてぇ。
 あーあ。
 閉じ込めていた足を伸ばして立ち、大きく背伸びをした。
 無駄に広すぎる部屋はとても静かで、アイツの立てる水音しか耳には入らない。
 絶えないその音を聞いていると、ここにいることが絶えられなくなってくるのは何故だ?



 熱いシャワーを喉に叩きつけながら、先ほどの会話を思い出していた。
 あの人の顔、声、動作……すべてが曖昧で、ぼんやりとしてしまっている。
 喉から跳ね出される水の粒は、大方飛び散ってしまって……残りの欠片が体のラインをゆっくりと伝い、やはりやがては床に落ちて排水溝に滑り込まされる。
 そういった一連の動作、いっけん何の意味も無いようなことをじっと飽きるまで眺めている事が昔からよくあった。
 例えば、車の窓ガラスに落ちる雪だとか雨だとか……ワイパーで拭われていく様だとか。
 ガスコンロの火だとか、澄んだ川とか海とか。
 人間の手が直接加えられない、そういうとても小さな世界を頭の中だけで作り上げていく。
「(優しい言葉って、もしかして私には向いていない?)」
 掛けようにも、どういう言葉を掛けたら優しく響くのか……いまいち良く分からないのだ。
 おまけに素直にすらなれない。
 でも一体、素直に振舞うってなんなのよ?
 キュ、と絞ってシャワーを止め、ギリギリで出された水が、名残惜しそうに滴り落ちた。



 いつのまにかシャワーの音が止んでいたことにふと気がついてから、少し経って英理は脱衣所から姿を現した。
 熱気が冷めるような空間に出てから、部屋が異様な雰囲気に包まれている。部屋の明かりは落ちていて、目に見える光はすべて青とか白とか赤とか黒に場面転換するテレビの画面のものだった。
 てっきり険悪なムードでしかめっ面しているかと思っていたのに……
 今度はカーペットに腰を下ろしてテレビの画面に顔を向けていたのだ。
 裸足で静かに小五郎へと近づいていき、自然に声を掛けた。
「なに観てるの?」
「ん、映画。おまえこういうの観るんだな」
 ビデオの空箱が不規則に幾つか転がっていた。けれど、不規則でも規則的に見えるような景色だと思った。
 M・ミッチェル。相当映像も古くて、画像も痛んでいたがこういう雰囲気の映画がとても好きだったことを思い出した。最新の技術を駆使しているモノとか、目が疲れそうなモノは好きにはなれない。
「これ、続編じゃない?」
 出ている俳優はヴィヴィアンでは無い。
 続編、しかもかなり後半の法廷シーンだ。途中で飽きて見るのを止めてしまったのだろう。
 巻き戻しもせずにそのままであったのだ。
「観るんだったら最初から観ましょうよ。私も観たいし」
 両手と腰で躰を支えてソファへ浅く腰を掛けた。
 少し湿り気のあるバスローブがソファの生地に吸い付くことも、少しも気にはならなかった。目に映るのは照らされる男の横顔だけだ。
「ねぇ、聞いてる?」
「聞いてねぇ」
「何よそれ。聞いてるじゃないの」
 顔は少しも動かない。
 いや。顔のパーツは伸びたり縮んだりするけれど、表情そのものが変わらない。
 興味があるものにしか集中できない男なのだ。それが振りだかどうだかはしらないけど。
「…………」
 相変わらず応答のない小五郎を見限って、英理は寝室へと消えていった。
 きっと彼女が重々しくため息をついたとしても、彼はきっと気がつかないのだろう。カーペットから少し離れたところに脱ぎ捨てられた不揃いなスリッパを、片方ずつ足で履いた。妙に悔しい気持ちに包まれる。
 寝室のベッドが目に入ってから、英理はすぐさまそこへと狙い済ましたように倒れこんだ。
 ぼふっ、と空気のたくさん入ったような羽毛が体の形になぞって変形した。
 息がつまる。
 あの人がいる部屋は。
 あの人の存在感が……。
 言葉して上手く説明できそうに無い虚しさが、たくさん通り抜けていくのをずっと感じている。これが消えない限り、素直に振舞うなんてことまるでできる気がしなかった。
 ゆっくりと仰向けになって深呼吸をする。大きく吸って、ゆっくりと吐き出す。
「(嫌がらせなわけ?これは……)」
 脳に酸素が行き渡っていく、規則的な動き。
「(何でも良いからハッキリ言ってくれればいいのに……)」
 閉め切った部屋の、空気の動きが見える。
「(私の出方次第だと言いたいの?)」
 呼吸が、ため息が、唯一この部屋の空気を移動させる。
「(こんな駆け引きじみたこと、仕事だけで十分……)」
 黒に掛かった、白い天井には何も浮かばない。光も、音も漏れない。実際何処から何処までが天井なのかも良く分からない。
 あの人とのやり取りを心の中で反芻してみる。
 ……。
 暖かい柔らかさに包まれて、そのまま夢へと堕ちていくのを感じた。




おわり