新婚、ママゴトの崩壊

 

 

 

 

 昔々、夫婦ごっこをしてよく遊んだ。

「おい、えり。しごとにいってくるぞお」
「ハイあなた。くるまにきをつけてね。こんやはあなたのすきなハンバーグよ。よりみちしちゃ、ダメよ」

 それは、幼稚園の園庭や、近所の公園で繰り広げられた。小五郎はオトコノコらしい遊びを好むタイプだったが、箱に納められた鍋やプラスチックの野菜を抱えて手招きする英理に、ぶつくさ文句を言いながらも、毎回ちゃんと付き合った。思えば英理の旦那役は、当然のように小五郎が務めていた。小五郎はそのことを、疑問にすら思わなかったし、他の男子が英理を誘おうものなら、割って入って邪魔をするくらいだった。男も女もない時代からの付き合いで、いつ英理に、特別な感情を持っていることに気づいたのか、小五郎は記憶にもない。


「この、ぐうたら学生! 掃除や洗濯くらい、ちゃんとしなさいよ! まったく、私が居ないと、ダメなんだから!」

 時は過ぎ、大学に入りたてのころである。1人暮らしをしている小五郎の部屋を見るなり、英理は腕まくりをし、生き生きとしながら言った。彼女として、というより、幼馴染の世話焼きというヤツらしい。英理は定期的に、小五郎の部屋にお気に入りのエプロンを持ち込んだ。
 潔癖な英理は、布という布を洗濯機に放り込み、台所を磨きあげ、毛の一本も残さぬくらい執拗に吸い尽くした。
 小五郎は、自分の城をせわしなく動き回る英理のポニーテールを、それはそれは微笑ましく眺めた。まるで新婚夫婦だと、ニヤつく笑みを噛み殺して、新聞や本や漫画を読んで過ごす日々。それは幼少のころ、しぶしぶ英理に付き合っていた、ママゴト遊びのようだった。

 最後に、はためく洗濯物を清々しい顔で英理は見上げた。小五郎はそれを見届けてようやく腰を上げ、大事な幼馴染を後ろから包みこんだ。

「お前も大変だなぁ。できの悪い幼馴染の面倒を、一生みなきゃいけねえなんてよ」
「いっ、一生って……。どれだけ、コキ使うつもりなの」
「誰が手放すかよ」
「だ、大事にしなさいよ!」
「してる」
「その言葉、忘れたら許さないわ」
「愛してる」

 小五郎がいたずらに笑うと、英理は真っ赤な顔で振り返り、照れ隠しに小五郎の胸を叩いた。そんな無邪気なじゃれあいが、あの頃は楽しかった。英理は通い妻みたいなことをしていたくせに、小五郎の部屋に、一度も外泊をしたことがなく、そこだけが本物の新婚とは違うなぁと、小五郎は思ったものだ。
 結婚前に素肌に触れさせることも許さない英理のポリシーは、厳格な父親が色濃く影響している。厳しい躾けの甲斐あってか、英理はたいそう頑固でお堅い女に育った。
 そんな彼らが学生結婚をしたのは、二人が一つになるための、ケジメだったのかもしれない。一般的に見て早すぎる決断に、彼らの両親は諭そうと骨を折ったが、英理は父親譲りで頑固だったし、小五郎は英理が欲しかったので、周囲の反対を他所に、夫婦になった。

「今夜から、よろしくお願いします」

 堅物の英理から、結婚して初めての夜に、改まって言われた。三つ指こそ付いていなかったが、照れて見上げるあまりの可憐さに、つい千切れんばかりの抱きしめてしまい、我武者羅に求めてしまった。初めてなのに優しくできなかったのは、男としては苦い思い出ではあるのだが、英理もそれに応えてくれたし、愛おしげに自分を受け入れ、涙を浮かべながら微笑む顔を見たとき、絶対に幸せにすると、小五郎は自らに誓いを立てた。

 そういうわけで、あのころ、小五郎も英理も寝不足だった。小五郎は大学でもアルバイト先でもあくびばかりをしていた。新婚だし、周囲にそれとなく察されて、アルバイト先の店長には、「お盛んだねえ」なんてオヤジらしさ満点のからかいで気遣われた。小五郎は幸福を隠せない顔で照れ笑って、返事をした。

「いやあ、結婚っていいモンですねえ」

 我ながら、無邪気な子どもだったと思う。結婚という契約の重さがわかっていなかったし、実際、ママゴトの延長みたいな、現実味のない新婚生活だった。
 要は浮かれていた。長年待ちこがれたものが手に入ったのだ。正直、大学の退屈な講義なんかよりずっと興味深くて探求のしがいがあったし、愛を注げば注ぐほど、英理は女として華開いていった。

 本当に、夢中だったのだ。だから、英理の目元に、年の割には不自然なくらい目立つ窪みが刻まれている原因に、小五郎はすぐに気づくことができなかった。

 二人は自然と子どもを望み、すぐにその夢は叶った。小五郎は妻とお腹の子をますます愛しく思い、ひもじい思いをさせるものかと、夜中までアルバイトに精を出した。そのころから、二人は少しずつスレ違って些細な口喧嘩が増えていたのだが、元々喧嘩が通常運転だった時代が長かったせいで、小五郎はその意味を深く考えなかった。
 英理は寝不足の原因が解消されたはずなのに、可愛い目元に似つかわしくない隈が、消えなかった。睡眠不足のせいか、ホルモンのせいか、日に日に機嫌が悪くなる英理を見かねて聞くと、英理は怒り心頭で言った。

「眠れてないの!! あなたのイビキ、なんとかならない!?」
「ま、まあ、すぐ慣れるって!」
「すぐっていつよ! だいたいね、慣れるって、誰かに実際言われたんじゃないでしょうね! 鈍感な女と、一緒にしないでよ!」
「はぁ? お前がいるのに、浮気なんて……」
「嘘おっしゃい! 取っかえ引っかえしてるって噂、耳に入ってくるのよ!」
「喚くなよ。そんな暇もねえって、お前にだってわかるだろ。勘弁してくれ……」
「……あなた、どうして変わっちゃったの? ……こんなはずじゃなかったのに」

 英理が眠れないのは、いびきが原因ではないことくらい見通せた。確かに英理の言うとおり、小五郎はいい意味で変わったのだ。結婚し妻子ある身で責任感が増したのか、年の割には落ち着きが出て、余裕があるように見えたのかもしれない。そのせいか、大学でもアルバイト先でも、異様にモテるようになったのである。

「まー、男は結婚するとモテるようになるってよく言うじゃんか! 旦那がモテた方が、お前だって嬉しいだろ?」
「バカじゃない!? 鼻の下伸ばしてデレデレしちゃって、あの顔、だいっきらい! なんで結婚した途端にモテ出すのよ! 興味なさそうなフリして、本当は満更でもないくせに! こんなの、理不尽っ、詐欺よ!」
「あーあーうるせえ! くだらねえ妄想も大概にしろよ!」

 小五郎がつい怒鳴ると、英理はさめざめと泣いて、手が付けられなかった。当時は彼も、英理の不満を可愛いと思えないほどに疲れていた。なにせ学生結婚で金がないうえ、妻子を養わなければならないのだ。いくつかのアルバイトを掛け持ちしてクタクタで帰ったところで、愛する女に疑いを持たれ、真剣に応対をする気にはなれなかった。

「……で、今日は、どの子とデートなの?」

 それからというもの、「行ってらっしゃい」の挨拶がわりに、英理はときどきそう言うようになった。もう喚くようなことはなかったが、その笑顔の静けさが、かえって怒りを表しているようだった。小五郎がどんなに否定をしても、英理は納得しなくて、小五郎は否定するのをやめた。そして開き直って、ついに英理をからかいはじめた。

「オウ、楽しんでくらあ。先に寝とけよ!」

 小五郎はこのときの失策を、のちに、死ぬほど後悔することになる。これは小五郎なりの不器用な気遣いというか、暗い雰囲気を明るくするための、ほんの軽い冗談のつもりだったのだ。妊娠中は精神が不安定になりやすいのだと聞いていたし、そのうちに元に戻るだろうと、小五郎は呑気に構えていた。
 だが英理の目下の隈は日に日に濃くなっていき、さすがに放ってはおけなくなった。

 そして、あの夜が訪れる。小五郎がいびきもかかずにタヌキ寝入りをしていると、英理は布団から脱け出して、静かに小五郎を見下ろしていた。初めて見る英理の表情に、小五郎は心底びっくりして、金縛りにあったように動けなかった。

 マヌケなことに、そこで初めて知ったのだが、英理には不眠の気があったのだ。なにを考えているのか、聞くのも恐ろしい顔が暗がりに浮かんでいて、実際に聞くことができなかった。英理は目を覚ました小五郎に気がついて、ぼそりと呟いた。

「どうしてだか、眠れないのよ……」

 英理の悩みがここまで深刻だったことに、いままでどうして気がつけなかったのか。
 枕が変わったせいかしらね、と英理は取り繕うように言ったが、あの顔を見てしまったら、英理の不眠の原因が小五郎にあることは、疑いようがなかった。それから小五郎は英理の不安をできるだけ取り除くように尽力をしたが、英理は殻に閉じこもった。小五郎はとにかく、英理を安らかに寝かせる方法を真剣に考え、とても単純な方法に落ち着いた。

 小五郎は英理の枕になり、あやすように背中をひたすら叩いた。英理は凄い力で小五郎にしがみついて不安を吐露し、小五郎を驚かせた。理性の塊だと思っていた女は、心の中に、自分でコントロールできない激情を飼っていて、それと戦っているのだと、意外すぎる事実を知ったのだ。
 英理が新しい習慣に馴染むころ、自然と目下の隈は消え、小五郎はようやく訪れた平穏に、胸をなでおろしていた。

 けれどその方法は、英理の悩みを根から解消するには至らなかったようである。一度芽生えた不安事は、長い年月をかけて英理の胸をじわじわと侵食していった。生まれた娘が小学生になるころ、英理は生来の頑固さを正しくない方向に発揮し、心に曇りを持ったまま、小五郎の元を去った。

「もう限界なのよ……。愛想が尽きたわ」

 英理は最後に言った。愛想が尽きたのは、小五郎に対してなのか、英理自身に対してなのか。おそらく、どちらにもなのだろう。だから小五郎は、英理を引き止めることができなかった。
 小五郎と英理の昔話は、こうしてバッドエンドで幕を閉じる。小五郎は朝起きて、不自然に片側が開かれた寝姿に自ら気づいたとき、声を上げて笑ってしまう。すると隣で寝ていた居候の坊主が、昔の娘と同じセリフを、呆れたように生意気に言うのだ。

「おじさん、朝からご機嫌だね……」
「まーな、イイ夢見たからな!」

 ナハハ、とスケべを装った笑顔を見せる。英理が「だいっきらい!」と言ったこの顔は、いまでは彼の十八番だ。一家の大黒柱は、こうして天下泰平であるべきなのだと、常に明るさを忘れないことが、昔から彼の取り柄で、優しさだった。

 依頼のない暇な平日など、ときたま、小五郎は考える。小五郎の枕に慣れていたはずの女は、あれから、どうやって眠れぬ夜をやり過ごしているのか。
 英理は小五郎の元を去ってから、自分の人生を手に入れた。金もあるので、正気の沙汰とは思えない値の枕に頭を埋めているのかもしれないし、ひょっとしたら、若くてハリのある腕に、頰を擦り付けているのかもしれない。
 小五郎は愛する女を失ってから、その想像にタバコを何百本も費やしたが、結局のところ、悟りを開いた。

 ──もう、それでもいい。

 いま、暗がりに浮かぶ妻の顔を手繰り寄せられる、怖いもの知らずの腕があるのなら。英理がそれを選んだのなら、小五郎には、どうすることもできない。力づくで連れ戻したところで、なんの解決にもならない。独りで思い悩み、眠れない夜を過ごされているよりは、いくらかマシであると、自分に言い聞かせるしかないのだ。
 あの夜のことを思い出すと、小五郎の胸はいまだに軋んだ音を立てる。あのとき幸せを感じていたのは、まさか、自分だけだったのか。どうしてあのとき、英理の心の闇に気づけなかったのか。あの駆け抜けた時代の記憶を思い出そうとしても、浮かぶのは、英理の幸せそうな笑顔ばかりだった。
 能天気にもほどがあると、小五郎は自らの苦い記憶に蓋をするように、英理の置いていった古いアルバムを閉じた。





(マジかよ……)

 久しぶりに妻の顔を見て、小五郎はギョッとした。

「お久しぶりね。二人きりで食事なんて、明日は雪かしら? しかも、あなたが選んだにしては……いいお店じゃない。昔はこんなお店、連れてきてくれなかったわよね。例の彼女とのデートにかまけて、洗練されちゃった?」

 目の前の妻は、ひどい顔で、辛辣な長セリフを吐いた。例の女とは、先日、街で偶然居合わせたときに小五郎が連れていた相手のことである。別に男女の関係でもないが、わざわざ弁解するのも馬鹿らしく、だいたい英理の方こそ男を連れていた。お互い様だ。

 メインの魚料理が、皿の上で寂しそうに尾を上げている。英理は食欲がないのか、疎ましそうに見ただけで、ワインを口に運んだ。久しぶりに食事に誘ってみれば、このザマだ。
 小五郎は心の中で盛大な溜息をついた。
 とにかく、ひどい顔だった。睡眠不足特有の、乾燥して浮腫んだ顔が、傾けたグラスの奥に見えている。小五郎はその話題に触れたくなかったが、さすがに、そういうわけにもいかないのだろう。タバコを口に咥え、仕方なく、煙たらしい言葉を投げかけた。

「んなカッサカサな顔してよ。男と別れでもしたのか。ざまあねえな」
「……まだ、別れてないわ」
「みっともなく、捨てられんなよ?」
「……ご忠告どうも」

 およそ夫婦の会話とは思えないが、これが、長い別居期間の末にたどり着いた境地だ。
 本当に、妻には男がいるかもしれない。今夜はこのとおりひどい顔をしているが、普段ときたら、文句なく美しい。相応しい男が寄ってくるだろうし、英理が助けを求めれば、救う手は数多に伸びてくるはずだ。
 もう使い古しの枕など、必要がない。

「なんなら、相談に乗ってやろうか」
「この……、へっぽこ探偵」
「なんだって?」
「へっぽこって言ったのよ」
「ケッ! いまさら、改めて言うことかよ」
「相談に乗ってくれるの? 優しいのね」

 少し微笑んだ英理の顔を見て、小五郎は久々に、胸の底がざわついた。今夜の英理はいつもの英理ではなく、はっきり言って憔悴をしていた。あの連れていた年下の男と本当に揉めて、思い悩んでいるのかもしれない。本気で相談されでもしたら、どんな顔で叱咤すればいいのか、わからなかった。

「お前をそこまで悩ますなんて、たいしたヤツだよ」
「たいしたヤツ、よ。それって、自分が原因だとは、あなたは思わないの?」
「あいにく、そこまで自信過剰じゃないんでね。捨てた亭主が原因なわけないことくらい、ちゃんとわきまえてんの」
「夫なのに?」
「おい、どうしたよ。変な顔をすんな。まさか本当に、古びた枕が恋しいか」

 小五郎は冗談めかせたが、英理は笑わなかった。

「枕が変わると、眠れないの」
「……それは、いま枕にしている男のことだよな。まさか昔のことじゃねえよな?」

 小五郎は嫌味ではなく聞いたが、すぐに後悔をした。英理が、真顔で小五郎を見ていたからだ。その視線に居た堪れなくなり、目を背けるように、ガタッと席を立った。

「……あなた」
「愛想が尽きたんじゃなかったか」
「……あなた」

 英理は表情を変えぬまま、小五郎を見上げた。
 いまの小五郎にできることは、愛した女が安らかでいられるよう、英理のやりたいようにやらせることだけだ。
 そうして英理は自由になった。常識とは程遠い、とんでもないやり方だと小五郎は思ったが、英理なりに悩み抜いた末の行動だったのだろう。
 物理的な距離が必要だということだ。そうして自らの感情を制する方法を、英理は選んだのだ。だから、ここで手を差し伸べることが英理のためになるとは、とても思えなかった。
 だからこれは、愛情ゆえの行動だ。小五郎は英理に背を向け、立ち去ろうとした。
 英理はすぅ、と息を深く吸い込んで、吐き出した。


「バッッッッッカじゃないの」


 小五郎が驚いて振り向くと、英理は目を据わらせて、立つ小五郎を睨んでいる。バカ、という単純な悪口が、刃物のように鋭く小五郎に刺さった。

「ん、な」
「あのときの女はだれ? ……なぁんて、いまさら聞くと思って? あなたの女癖の悪さなんて、蚊とも思ってないわ。いつまでも惚れられてるなんて思ったら、大間違いよ。男って、自惚れ屋で打たれ弱いバカばっかり。だいたいね──」
「ちょ、ちょ、待て。まさか、もう酔ってる?」
「むしゃくしゃしてるのよ! 言っときますけど、仕事のことでよ? 私は誰かさんと違って忙しいの。寝る暇も無いのよ。私、モテるの! 仕事でですけど!」
「ブッ」

 小五郎は英理の酔いに任せた言葉に、つい噴きだしてしまった。

「お前って……」
「突っ立ってないで、お酒くらい付き合えないの? 冷たい人ね」

 こんなに情が深い男もそういないだろうと小五郎は思ったが、英理の迫力に押されて、つい黙った。小五郎が大人しく腰を下ろすと、英理は満足げにうなずいて、また酒を口に運んだ。

「相変わらずパンチ強えなあ……。さめざめ泣いてたオレの可愛い嫁さんは、どこ行ったよ? ひとの感傷をぶち壊しやがって!……心配して、損したな」

 小五郎は呆れつつも、英理の睡眠不足の原因を知り、ほっとしたように顔の緊張を緩ませた。彼は彼なりに、先日の男連れの妻に動揺して、らしくもない感傷にふけっていたのだ。そうしてなんとか、自分を納得させたつもりだった。
 その心配が杞憂だとわかると、小五郎は晴れ晴れとした顔になり、店員を呼んで、新たな酒を選びはじめた。


 

(あの女性、どうだった?)

 英理は小さく唇を動かした。
 店員と話す小五郎の横顔から目を逸らさずに、呟く。その声は、英理の意図どおり、店の喧騒にかき消されて散っていった。
 本当は、小首を傾げて、意地悪く聞いてやりたかった。英理の頭には、得意げに自分の夫と腕を組む若い女の顔が、フイルム写真のように焼き付いている。

(相変わらずおモテになるのね。羨ましい)

 皮肉のように、そうも言ってやりたかった。内心では皮肉でなく、本当に思っている。自分が惚れ込んだ男だ。モテないわけがない。英理がそう言えば、「まあな」と小五郎は事も無げに言うだろう。その予想どおりの返答は、英理の髪の毛を逆立たせるほど、イラつかせるのだ。
 英理は、自分が惚れた男がモテているところなど、見たくなかった。得意げに妻に自慢する夫など、張り倒したいと思っている。こと小五郎に関しては、英理を形作っている理性という土台が、泥のように溶けて淀むのだ。

(……苦しいのよ)

 この男を閉じ込めやりたい。そう思ったことすらあった。できることなら、溢れ出る魅力に蓋をして、独り占めしたかった。
 だがもちろん、そんなことはできない。望みを口にすることも、英理のプライドが許さなかった。だから、小五郎を手放さないまま、英理は家を出た。

 赤く充血した、燃えるような瞳で、英理は夫を見つめる。小五郎はブルッと身体を震わせて「冷房、効き過ぎじゃねえか?」と天井を見上げながら言った。

 ──誰が、手放すもんですか。

 いつもの呑気さを取り戻した小五郎の顔を見て、英理は微笑んだ。






おわり