記念日の魔法


  1  

 金曜日の夜らしく、高層階行きのエレベーターは、密度が高い。箱の隅に押しやられ、目の前には、大きな身体が壁となって立ちはだかっている。

(どうして、こんなことに……)

 頭をもたげ、スカートを見下ろした。そこには、できたばかりの、黒いシミが無残に広がっている。よりによってクリーム色の、今朝おろしたばかりの、オーダースーツである。英理は男の背中を、恨めしく睨んだ。

 今夜。食事に誘ったのは英理の方だが、このホテルを指定してきたのは、小五郎だ。
 待ち合わせの時間よりも少し早めに到着し、ラウンジで珈琲を飲みながら、手持ちの書類に目を通していた。まあ、通していたというより、頭の中では、まったく別のことを考えていたのだが、ともかく、目は文字を追っていた。

──たまには食事くらい、付き合いなさい。

 たったそれだけのことを言うのに、どれだけ勇気がいったかわかるまい。英理は何日も前からシミュレートし、久々の刑事裁判で昂ったテンションを利用して、裁判所を出るなり意を決して電話をかけたのだ。

「じゃあ、7時に、米花ホテルでな」

 ところが、綺麗な返り討ちにあった。

「……む、無理しちゃって。べつに、居酒屋でも構わないわ? たまには、あなたに合わせてもよくってよ」
「いちいち嫌味しか、言えねえのかよ!」

 バカだの見栄っ張りだのと、下らない捨て台詞を吐いて電話を切ったが、動悸はしばらくおさまらなかった。たかがホテルの食事くらいでなにを。深読みのしすぎだと他人は笑うかもしれない。けれど英理の夫は、常に二手三手先を読む男なのである。
 このあとすぐに事務所へ戻ったが、様子のおかしい英理の様子に、秘書はズバリ原因を当てた。要らぬ勘繰りをされたが、彼女が聡いからなのか、自分が分かり易すぎるせいなのかは、もう考えないことにしている。

 まあそんなわけで、平常心とは程遠い心境で、ソワソワと夫を待っていたわけだ。時間より5分遅れで現れた顔を見て、英理は手に持っていたコーヒーカップを盛大に落とした。

 ガッシャーン! ダラダラダラ……

 割れはしなかったが、残った液体が英理のスーツを無残に汚した。英理は時が止まったようにフリーズしたまま、夫の顔から目を離せなかった。

「バカ! 火傷するぞ!」

 血相を変えて駆け寄ってきた顔を見て、ようやく惨事に気づいた。火傷に至らなかったのは、待ちわびて、珈琲が冷めるくらいの時間は充分に経っていたからである。小五郎は英理の服にハンカチを当てたときに一瞬手が止まったが、なにも言わなかった。
 布巾を持って現れた店の人間に謝罪をし、素早く片付け、有無を言わせずにエレベーターホールへ促された。そして、汚れたスーツを隠すように、こうして目の前の壁となっているというわけである。


 10階にあるレストランについても、小五郎はエレベーターから降りなかった。乗り合わせた客たちはぞろぞろと連なり、小五郎が『閉』ボタンを押すと、とたんに二人きりになった。上昇する密室の閉塞感に耐えかねて、英理は今夜初めて、口を開いた。

「しょ、食事をするハズでしょ?」
「んなナリで行けるか。部屋で食えばいい」

「……部屋、あるの?」
「……ああ」

「……」
「……」

「……その顔。なんの冗談かしら?」
「言うな」

 英理がなにに狼狽えたのか。
 それは、小五郎のトレードマークである口髭が、綺麗さっぱり、剃り落とされていたからだ。つるん、と妙にさっぱりした顔に動揺し、英理は手に持ったカップを盛大にひっくり返したのである。

「コ、レ! あなたの所為なんですからね。クリーニング代を請求したいくらいだわ!」
「なんでそんな驚くんだよ? 髭一つだぞ」
「仰天するわよ! だって──」
「……変か、やっぱ」

 小五郎は手で口元を隠して、とても珍しい表情を見せた。英理は釣られて惚けそうになるが、慌てて呆れ顔を作って腕を組み、脚を開いてなんとか踏ん張った。

「ヘンよ、ヘン! どうせ、寝ぼけて焦がしたってところでしょう? うっすら、赤くなってるわよ」
「うっせ」
「ドジなんだから! 元々無い威厳が、さらに地に落ちたって感じね。ま、ちょっとは若く見えるのかしら?」
「……蘭たちにも、そう言われたよ」

 指をさして笑う2人を想像し、英理はぷぷ、と噴き出した。小五郎はますます照れたように眉を歪ませて、また背を向けた。

(……嘘でしょう?)
 
 少し落ち込んだような背中に、笑いを引かせ、眉をひそめて問いかけた。本当はあの顔を見たとき、全身が硬直したくせに。良くもまあ、口からでまかせがベラベラ出てくるものだと、英理は自分で感心する。嘘も方便、嘘八百、これは職業柄、鍛え抜かれた訓練の賜物ではあるのだが、いくら経験を積んでも、身体はとっさに嘘をつくことが難しい。

 あの顔。昔のように誠実さを隠せない、装飾のない素の顔は、英理が最近密かにファンでいるジャガーズの選手と、瓜二つだったのだ。ラウンジに現れた顔を見て、一瞬本人かと見紛いそうになるくらい、とてもよく似ていた。
 あの選手、かっこいいわよね、とふと秘書にこぼしたとき、『先生の好みって、ふふ♡』と含み笑顔で言われたことを思い出す。あのときは意味がわからず聞き流したが、彼女の言いたかったことは、きっとこういうことだったに違いない。

 好みのタイプが、小五郎なのか。小五郎に似ているから、タイプなのか。それ以上は本当に、知りたくもなかった。幼なじみで別居中の夫に、いまだに骨抜きだなんて、笑い話にもならない……。


  2


「もうっ! 勘弁してよ……」

 英理はシャワーの水を、バスタブに叩きつけた。勢いのある水圧で、頭に浮かぶ男の顔をかき消すように、泡立つ水面を見下ろした。

『すぐ脱いで出せば、落ちるだろ。クリーニング呼んどくから、先に風呂入れ』

 ──先に、風呂、入れ。
 あっさりと、こともなげに。まるで別離などなかったかのような、寝食を共にする夫婦のように。もちろん返事に窮したのは、言うまでもない。

 今日は、特別な日だった。
 あの顔のことを抜きにしても。だから、持てる根性を総動員して、らしくもない誘いの電話を掛けたのだ。夜景のキレイな店で食事でもして、その後の展開に身を任せてみようと、槍でも降りそうなことを考えた。英理なりの、最大の歩み寄りだ。
 なのに……、そんな過程をすっとばして、なぜもう、裸になっているのだろう。ムード? 流れ? そんなものに期待を寄せた自分がバカだった。二人が、そう簡単に上手くいくはずがないのだ。相性が悪いのかなんなのか、この巡り合わせの悪さには、昔からペースを乱されっぱなしである。

 浴槽に浸かり、頭の代わりに膝を抱えた。
 あのとき、駆け寄ってきたときの、差し迫った表情。冷静さが売りの自分が、髭を落としたドジな中年男の顔くらいで、どうしてあそこまで狼狽えてしまったのか。
 これ以上は、わからないフリをしたかったが、優秀な大脳は、実に正直に記憶を引き出して、英理に突きつけた。


『……優しく、するからな』


 20年前の今日。あんな顔で、彼は言った。
 そのころ英理は恋する純な乙女であったので、葛藤しつつも、好きな男に肌を許した。あれは、今日のように暑い夏の日だった。
 蝉の声が聞こえなくなるくらい、不安で怖かった。幼なじみに畳へ身体を押し付けられ、鬼気迫る顔で『優しくする』なんて、説得力が無さすぎると思った。英理の顔にまで落ちた額の汗。小五郎は苦く笑って、自ら舐め取った。
 意外なことに、宣言どおり彼は優しかった。ぶっきらぼうな普段からは、想像もつかぬほどの甘い言葉を、何度もささやいては英理を驚かせ、優しい手つきで身体に触れた。そして、別の意味で、聴覚は遠のいていった──。

(だめ! のぼせる!!)

 ざばぁ、とまとわりつく感傷を振り切って立ち上がった。滴る水を吸い込む優しいタオルは、荒れた心を撫で付けるような、上質な心地よさだった。英理は考えまいとしていたことを、気にせざるをえなくなり、ふとあたりを見渡した。

 ここは、ずいぶん高そうな部屋である。部屋に着くなりバスルームに直行させられたが、このスペースだけで充分わかる。浴槽は、三角の広々とした形をしているし、アメニティもややランクが高いようだった。
 単なる食事の誘いに、どうして彼がホテルを指定してきたのか。どうして急な誘いにも関わらず、こんな部屋が用意されていたのか。その意味を、バスローブに袖を通しながら真剣に考えはじめたとき、ドアの向こうで声が聞こえた。

『では、お預かりしますね。お仕上げは、割り増しの2時間仕上げと、翌朝仕上げとございますが、如何なさいますか』
『……翌朝で頼みます』

 ドアに耳を張り付かせ、英理はまた、固まってしまった。一体どんな顔をして出て行けば良いのか、わからなかった。


  3


(……痛々しいわね)

 英理はかれこれ1時間、さまざまな話題に手を付けては、喉を潤すためにグラスに口付けた。弁護士なんてものは、いわば聞き役のプロである。それが自ら話題を提供して熱弁を振るうなど、よほど分が悪い状況であるのだと、わざわざ暴露しているようなものだった。
 小五郎は、多分話を聞いていない。ソファに深く腰掛け、バスローブの合わせも気にせず脚を組み、煙草と酒を彼のペースでのんでいる。時々様子をうかがうようにこちらに視線を寄越してくるが、動揺を見透かすような瞳に、さらに口調は早く、声は高くなった。
 壁に掛かった時計を、ちらりと見る。どうするべきか、英理は迷っていた。小五郎もつられて時計を見上げ、2人は顔を見合わせた。

「なあ、やりにくいぜ」

 小五郎は煙草を灰皿に置き、英理の手からグラスを取り上げる。助け舟を出すように、開いた口元に、皿の上に残った一切れのパンを強引に当てた。英理は、ようやく口を閉じることができた。

「……もう、いいな」

 そうなのだ。言わなくてもお互いに、わかっている。彼がなにを考えているのか。なぜ、自分がこんなに追い込まれているのか。わかっているなら、素直に身を委ねればいい話なのだが、それが簡単にできれば苦労はしない。思えば、彼は英理に触れようと、何度も試みてはいたのだ。だが、タイミングという天災のような言い訳によって、これまで先延ばしにされてきただけだ。

「いいな」

 掠れた、ギリギリ聞き取れるくらいの声だったが、目には、ハッキリとした意思がある。王手をかけるように被さってくる手に、少しの迷いもない。
 その無骨な手が触れたとき、英理の耳には幻聴が聞こえた。


『……愛してる』


 予期せぬ現象に、また時が止まった。まるでいま、耳元でささやかれたような生々しさだった。ためらいながら彼を見ると、声の主は表情も変えずに、英理を見据えたままだった。
 懐かしい顔のせいだろうか。蘇った甘い声の記憶に顔を落とすと、あの日と同じ色に塗られた爪が、英理の背を優しく支えている。
 ソファに身体を倒され、覆いかぶさる大きな身体。小五郎は手の甲に唇を落としながら、伏せた睫でまた語った。

 どろどろに溶けそうな、あの、窓を閉められた部屋を思い出させる、熱い唇だった。唇は手の甲から腕、腕から首へ、ゆっくりと這い上がってくる。
 英理はそこで、小五郎の計画を思い知った。この男が考えそうな、キザなやり口だ。昔よりもずっと慣れた手つきだけれど、あのときと同じ手順で、彼は英理に触れているのだ。


『英理……愛してる』


 記憶に愛を囁かせるなんて、ロマンチックというより、卑怯だと英理は思った。けれど心と身体は素直に蕩け、吐息が漏れてしまう。なんて他愛ないのだと言葉を失うが、すでに力が抜け、視界はぼんやりと霞んでいる。

「もういい加減、黙って……」
「まだ、なんも言ってねえ」

 小五郎は笑って、今度は本当に、耳元でささやいた。弱点を確信的に突いてくる鋭さに、感情が零れてしまったかもしれない。ざらりとした舌が頰を舐めたので、きっとそうに違いないと英理は思った。

「バカ……、もう、信じられない……」

 照れたように微笑む男は、一体どこからどこまで、織り込んでいるのだろう。今朝、髭を剃り落としたところから? 数日前、この部屋を押さえたところから? 英理は自分の上をいく用意周到な夫に、考えるほどに呆れてしまった。

 そしてこの計画には、大きな穴があるような、ある予感が頭をよぎった。


  4


「ねえ、あなた。覚えてるの?」
「あん?」
「……母さんのこと」

 あの日。小五郎が衝動的にコトを運ぼうとしたのは、あろうことか、真っ昼間の、妃家の客間だった。予想よりかなり早く帰宅した母親は、床に娘が組み敷かれているのを目の当たりにして悲鳴をあげた。そして、暴漢と思しき男に向かって、木刀を持ち出したのである。

「ハハ、あれには参ったよなぁ…」

 殺気をまとう母親が、木刀を振り下ろした。柔道で鍛えた反射神経がなかったら、今ごろ無事でいられたかはわからない。焦げたような藺草の香りがし、青ざめる小五郎を見て、母親はハッと我に返った。真っ赤な顔で乱れた着衣を直す娘の姿に色めき、アラアラアラ、と手のひらを返して2人を冷やかした。──仲が良いのは結構だけど、場所はちゃんと選びなさいね♡──まあその後、英理の父親の耳に入り、小五郎が呼び出されることになるのだが、またそれは別の話だ。

 結局2人は、そそくさと場所を変えた。行くあても、欲望の逃し先も知らない小五郎が連れ込んだのは、街のはずれにある、寂れたホテルである。英理はあのとき、こんな場所は嫌だと散々文句を言ったが、もう聞き入れてはもらえなかった。だから、今日のこの部屋は、その当て擦りなのかもしれなかった。

 そして。英理の予感どおり、あの日のような女の悲鳴が、本当に聞こえた。


『キャ――――――!!』

「ひ、悲鳴!?」
「廊下からね。何事かしら」
「様子を見てくるから、お前はココにいろ! 念のため、ちゃんと服着とけよ!」

 小五郎はそう言ってソファから飛び降り、あっという間に部屋を後にした。はためくバスローブの残像だけがのこり、英理は言いそびれてしまう。
 服を着ておけと、言われても……。クリーニングに出していることを、すっかり忘れているのだろうか?
 ドアに近付いて外の様子をうかがうと、警察を! 近づかないように! と盛んに仕切る小五郎の声が聞こえた。
 もう、ため息も出なかった。知り合いの刑事たちに会ってしまうことを考え、する必要もない言い訳を考えながら、下着を身につけ、バスローブを脱いで、浴衣に着替えた。

 小五郎は飛び出しは早いが、帰りはいつも遅い。壁の時計を見上げると、残された時間は、あとわずかだった。
 今日という特別な日が終わってしまえば、もうあの空気は、作れない気がした。口実を探さなければ、会うこともままならない2人に、また戻ってしまうのだろう。

 英理は乱れた髪を結い直して、ドアの握りに手を掛けた。時計は、早いスピードで回り始めている。タイムリミットまで、あと3時間を切った──。


おわり