屑籠にタバコの空箱




 






 毛利小五郎は基本的にやる気がない。
 ふらふらしている。
 けれど、稀にすごい能力を発揮したりする。

 柔道なんか最たるものだ。
 練習嫌いのくせに、敵なしの強さを誇っていた。
 天才には練習不要!
 そう自信満々に言い切っていた。
 刑事時代の射撃の腕も天才的…らしかった。(本人談。英理が小五郎の射撃の腕をみたのは一度きりだ)
 オレってまー天才だからよォ!
 彼の口癖だ。
 確かに変人で特殊である。
 能力をレーダーチャートで表すと一点が激しく突出しているタイプ。あっと驚く事をしでかし、ときに人の記憶にのこる伝説をつくる。
 並ではない、底が知れない。
 …常々思い知ってはいたが。
 まさかこんな日が来るとは想像もしていなかった。


 さきほど家族の食事会で訪れたレストランで、天才はサインを求められていた。夫のファンだと言う、よそおいの派手な女性は「応援してまぁす!」と甲高い声で、サイン色紙をおっぱいにぎゅうぎゅう当て抱えていた。
「…こういう事よくあるの?」
「そーねぇ。最近急にかな」
 英理が軽蔑の目つきで聞くと、蘭はすっかり慣れた事のように語った。
 小五郎はデレデレとだらしのない顔で、がっちりと握手をし、写真撮影の際には腰に手まで回していた。妻が横にいるというのに大した度胸である。
 しょぼくれた探偵であったつい先日までのことが、嘘のような状況だ。

 英理自身も変化は感じていた。
 家族で食事をする店が明らかに良い店になったし、着ているものも良くなった。借りるレンタカーもワンランク上のものになった。
 全体的に生活のクオリティがあがっていて、小五郎も蘭も上機嫌。
 おめでたいわね。…そうは思う一方で、英理の気持ちはモヤモヤとした雨雲のように晴れない。
 その気持ちを知ってか知らずか、その夜。
 巨大雨雲が米花町に突如発生した。


「雨宿りに、ウチでコーヒー飲んでいかない?」
 助手席にいる蘭が振り向いて、笑顔で尋ねた。
「コーヒーなら、もう飲んだわよ」
「じゃあ紅茶はどう?」
「やめておくわ。早くシャワーを浴びたいもの」
 後部座席に座っている英理は、耳上の後れ毛を摘んで答えた。雨に濡れた髪に煙草の匂いが染みつき始めていた。

 食事を終えてすぐに帰るつもりだったのに。
 若い女にデレデレと鼻の下を伸ばす夫を背にあきれて店を出ると、外は土砂降りの雨模様。英理は不本意ながらも仕方なく、小五郎のレンタカーに乗っているという訳だ。

「…何で喫煙車なのよ。気に入らないわね」
「他に空きが無かったんだよ。嫌なら乗るなっての」
「お父さん!」

 小五郎は運転席から低い声でこぼした。バックミラーからの視線をチリっと感じたが、英理は窓の外を眺めていた。喫茶ポアロは閉店の時間を過ぎたようで真っ暗だった。

「私もここで降ります。蘭、傘貸してくれる?歩いて帰るから」
「……」
「ま、またねお母さん。お父さん、ちゃんと家まで送ってあげてよね」
「ついで!レンタカー屋へ返しに行くついで!」
「あなたってホント私に優しいわよねぇー」

 英理はにっこりと笑顔でイヤミを言い、蘭とコナンはアハ…、と乾いた苦笑いを浮かべながら車を降りた。ドアがバタンと閉まり密閉性の高い車内は途端に静かになった。レストランでは蘭ばかりに喋らせていた。普段よりも一層気を使わせているが、自分から話す気になれなかった。

 無言のまま小五郎はハンドルを握った。スピードメーターを見るまでもなく明らかに、緩やかな速度。
 どしゃぶりの雨に気を使っている。…というより、虫の居所がわるい女房を腫れ物のように扱っているという感じがする。
 …うるさい。車内の雨音は心地よいが、バックミラーからの視線がとにかくうるさい。
「忙しいみたいだな」
「どういう意味かしら?」
 機嫌が悪いとでも言いたいのだろうか。
 その通りだ。でも理由は、忙しいからではない。
 
”あ~、別居中の奥様ですかぁ?テレビで言ってた!”




「なーに不貞くされてんだかな…」
 のんきな声で小五郎はぼやいた。車はまだ米花駅の高架下を通り過ぎたところで、自宅マンションへの道のりはあまり順調とはいえない。
「でなきゃお前が今さら煙草の文句なんかタレるか」
「私のこと、よくご存じみたいね」
「つきあい長いんでな」
「別居中ですけど?」

 英理のキツい口調に小五郎はあきれて沈黙を決め、緩やかなスピードで車は右折した。
 ──ムカつくが、一応話くらい聞いてやっかぁ。
 整髪料で黒光りしたご機嫌な後頭部が言っている。
 英理は車窓を眺めながら、いったい何を話したらよいのか途方に暮れていた。ただ漫然と、窓の外を眺めるしかないのだった。
 
 …まるで突然価値が与えられた骨董品よね。

 ある午後のワイドショー。
 英理は休日のザッピングのさなか、テレビ画面に夫の寝顔が映ってひどく驚いたのだった。芸能ニュースや政治家の不祥事やらを中心に扱う縁のない番組を目を丸くしてみつめていた。
 眠りの小五郎…?ね、眠りの…?あ、あはは!
 似合いすぎるその二つ名を聞いたとき、英理はソファ突っ伏して笑った。(自分が法曹界のクイーンなどと大げさな名で噂されていることは棚に上げる)
 小五郎は寝言が多かった。
 余談だが寝言で愛の告白をされた経験がある。
 普段なら口にしない歯の浮くような熱い言葉を喚いていた。当時の英理が心を掴まれたのは、いわゆるギャップというやつで、かなり若い頃の話だ。
 さらに余談だが、美容室などでこういったエピソードトークを披露するとウケがよく、寝言での告白も英理のネタのひとつだ。彼とのつき合いは話題に事欠かない。



 英理が人生の伴侶に選んだ男。
 テレビに映る寝顔はもちろん悪くなかった。
 …しかしこの推理力は…?
 小五郎が一流だったのは柔道と射撃の腕。頭脳を働かせて活躍するタイプでなく、もっぱら肉体派なのである。
 どこかに頭でもぶつけて眠れる能力が開花したのだろうか…。普通ならあり得ないことだが、彼の場合なにが起きても不思議じゃない。
 眠りながら推理する探偵なんて聞いたことがない。聞いたことがないからキャッチーで、メディアが食いつく。英理もいつの間にかテレビのRECボタンを押していた。
 格好つけで馬鹿げていてまるで意味不明。なのだが悪くないパフォーマンスだとも思った。計算されたものではなく感覚的なところも天才肌のなせる技。
 腑に落ちないことばかりだが妙に納得していた。
 はかり知れない男であることは、英理が誰よりも思い知っていたからだ。
  


 英理はシートから少し背を浮かせ、口を開いて指摘しようか一瞬迷って、やめた。
 今なめらかに直進した交差点は、左折すべきポイントだった。英理はずっと窓の外を見ていたので、車線変更を誤ったところから気付いていた。
 小五郎はこの街の警察官だった時期がある。英理にしても、生まれ育った街のことは熟知しているし、英理が気づくことも折込み済だろう。
 つまり、話聞いてやるぞ、と言う代わり回り道。
 本人は洒落ているつもりだろうか。本音で話したがらない小五郎の気遣いは、今夜の英理にはまるで不相応な料金を得る悪徳タクシーのように感じられた。
 車内はシンと静かで、バックミラーからの気配だけがずっとウルサイ。
 運転席からの不躾な視線を英理はよく感じるものだが、相手がタクシー運転手なら虫ほどにも気にならない。小五郎は特別なのだ。

 ──男なんて自由に遊ばせておけばいいのよ。

 以前からよく口にしていた。英理ちゃん余裕ねえ…と友に言われ、お父さんを甘やかさないで!と娘には理解されない。
 余裕でも諦めでもあり…少し、強がりでもある。
 複雑に混じり合っている感情を、娘に説明するのはむずかしい。

 ”女房?いーのいーの、どーせ別居中!今夜は熱い夜をすごそーねー♡”
  
 小五郎もメディアで宣言していた。
 (英理は街頭のテレビで偶々見かけ、開いた口が塞がらなかったが)
 不用意にこんな発言をするスケコマシに寄ってくる女は愚かだが、いまや彼は有名人であり、好んで遊ばれたがる人間もいるのだろう。
 ふるぼけたガラクタの価値を見出されて、どこぞのどなたかに勝手に持ち去られたとしても。いまさら持ち主が出しゃばるのは、お門違いも甚だしい。

「おい英理。寝てんのか?」
「…考え事よ。難事件を抱えていてね」
「やっぱ疲れてんじゃねぇのか」
「そうかもね」

 そうかもしれないし、そうではないかもしれない。
 暫くぼんやりしていると、車が停車した。
 わずか20分ほどの愉快なドライブだ。多少遠回りをしたところで、こんなにも近い距離に住んでいる。
 いったい何のためなのか。
 …何のための10年だったのか。

 マンションの前の路上へ小五郎は先に降り、後部座席のドアが開くとバチバチバチ!と激しい雨音が鼓膜をふるわせた。頭上に差された傘を見上げ、英理は眉をひそめた。
「…スーツが台無しになるわよ」
「こんなに降るとは思ってなかったぜ。ほら行くぞ」
「いいわよ、別に、ここで」
「傘が一本しかねぇんだよ」
 ウール生地でできたスーツは、あきらかに水に弱そうだ。今夜はずっと気になっていたが、小五郎が着ているスーツはかなりモノが良い。生地に光沢があり上質で手触りが良さそうで、なにより洗練されたラインが小五郎のスタイルの良さを際立たせている。
 英理はむくれる。
 惚れた男のスタイルの良ささえ気に障る。
 こんな事になるのなら…売れない探偵のほうがマシだったとすら…でも、だってあんな…。

 ──デレデレと女にうつつを抜かすくらいなら…!

 英理の感情に呼応するかのごとく、あたりが一瞬パッと白く光った。

「きゃっ」
 雷鳴がとどろいた。耳奥に直接叫ばれるような音。
「…すげぇ近いな」
「あなた、傘が危ないから一旦入った方がいいわ」
「まさか落ちてきやしねぇよ」
「ヘラヘラしてないでいいから乗りなさい」
 英理が強く言うと、小五郎は傘をとじて後部座席に乗り込んだ。
「大げさなんだよ」
「そのちゃらんぽらんな所。一回雷に打たれでもすれば治るんじゃないの?」

 あっという間に激しい雷雨のなかだ。
 あたりが白く霞んで見えない大雨になった。
「─あ、お母さん。そっち大丈夫?」
 蘭の心配そうな声にほっとする。
「ええ。でも雷がひどくて車から降りられないのよ。しばらくこのままやり過ごすことにするわ。あなたたちはどう?大丈夫?」
「─もう今夜は、動かない方がいいんじゃない?」
「え?」
「こっちはコナン君もいるし大丈夫よ。下手に動くとかえって危ないんじゃないかな」
「…。あなたこの期に及んで何か企んでない?」
「え。たまにはふたりで仲良く過ごすのもどうかなーって」
「冗談じゃないわよ。適当に帰すから戸締まりはしっかりとしておきなさいね。じゃあおやすみ」
「はぁい…」

「ったくもう、あの子は…」
「どうかしたか?」
 横に座る小五郎を見るとスーツの肩に水滴がついていた。英理はハンカチでそっと、撥水している水滴を吸い取った。
「このスーツ、染みが付いたら大変よ」
「…ああ、サンキュ」
 何も考えずにハンカチを取り出したが、こんな事、小五郎以外の異性なら英理はしない。たとえ別居中でもあっても、妻が身についてしまっているという哀れな話であるが、また別の件にもつながる。
 英理は「濡れてますよ」と言葉の指摘だけで留めておくように、きちんと注意を払って暮らしている。
 それは女の人生の学びである。若い頃は、親切心を曲解された面倒事がうっとうしいほど身に降りかかったため、その代償に得た教訓だ。英理にとって小五郎は、父親のほかに唯一その心配をしなくてよい異性であるという話。
 どうでもいい話だ。
 …別居中の夫は、妻の苦労など知らなくていい。
 ただひっかかるのは、対照的な小五郎のふるまい。
 男と女の違いがあるにせよ、納得できるものではなく、ヘラヘラでれでれと脳天気に喜ぶ男の気が知れなかった。
「…別に。蘭の為よ」
 それは変な言い訳のように聞こえたが、英理は咳払いをし窓の外に視線を移した。白く霞むマンションのエントランスを見て顔をわずかに曇らせた。


「降る降る、とは聞いてたが、こんなにとは聞いてなかったな」
「……え?ああ、そうね…」
「この分だと明日は中止だな」
「そうだ。さっき蘭に聞いたんだけど。明日、山桜を見に行く予定だったらしいじゃない?あなたレンタカーを返しに行くって言ってたけど、どーせ本当は借りっぱなしなんでしょ?」
「あ、いや…まぁ、ハハ」
「変わらないわね。その急ごしらえの雑なウソ」
 小五郎の悪いクセだ。
 外出の度にレンタカーを借りるのは不経済だと常々思っていたが、私立探偵という職業柄、固定車をもてない事情はわかる。だが私用なら二日まとめて借りた方が楽で経済的だろう。それならそうと言えばいいものを、わざわざ返却のついでだとウソまでつく。
「ただ妻を家に送る、と言いたくないが為だけにね」
「…………。傘持ってねえなんてバレバレな嘘つく奴に言われたくねーけどな」
 小五郎の予期せぬ指摘に英理はぎくりとした。
「雨の予報が出てるのに傘を持ち歩かないなんて、ど几帳面で濡れるのが大キライなお前に限って絶対ねぇだろ」
「……。なら名探偵さん。どうして私は傘を差さなかったのかしら?」
「こんなの推理でもなんでもねえよ。お前はオレの前でその傘を使うのがイヤだった。なぜなら貧乏性なお前は、オレが大~昔に誕生日にくれてやった折りたたみ傘をいまだに使っているからだ」
「誰が貧乏性よ、誰が」
「あんなの今のお前には子どもっぽいぞ」
「慣れてるから使いやすいの!放っておいて」

 ─送ってくれるの?ありがとう。
 ─いいって気にするな。

 それだけで済む話。
 そんな単純なやりとりすらできない。一緒に生活することなど無理な話だったのだ。だから別々に暮らしているわけで。
「物持ちが良いだけよ。嫌な人ね」
「別に嫌いじゃねぇけどな。お前のそういう所」
「わ…、私だって嫌いじゃないわよ。あなたのその不器用に優しいトコロ!」
「もすこし素直さがありゃ楽なんだけどな」
「人のこと言えないでしょ!?」
 とつぜん手のひらを返したような物言いで、英理を翻弄しようとするのも小五郎の悪いところだ。
 はげしい雷鳴をBGMに言い合いをしていると、無駄に迫力が増すようだった。



「すげえ雷。蘭のやつ、いまごろ大騒ぎかもな」
「そういえば雷が怖くて小さい頃よく押入れに隠れてたわね…。コナン君は平気かしら。男の子って強がってても意外と恐がりなところあるでしょ?」
「あのボウズは死体すら怖がんねえんだよな~…。肝が据わってるっつーか、場慣れしてるっつーか。可愛げもへったくれもねぇけどな」
「あなたまさか…、子どもを殺人現場に連れて行ってるんじゃないでしょうね?」
「え、いや…、はは。つーかお前も、ダメだったよな。雷」
「話そらして、もう!」
「ガキの頃手をつないでくれってよく言ってたろ」
「そんな昔の話忘れたわよ。やめてくれる?」
 実をいうと雷は今でもそんなに得意ではない。
 ただ雷の夜に一人でどう過ごしているかなんて、別居している夫は知らなくて良いことだろうと思っただけだ。
 英理はふい、と顔を背けた。それをどう捉えたのか、小五郎は英理の手をぎゅっと握ったのだった。
「…! べつに、こわくないわよ」
「だろうな」
 こういうところだ。
 なにもかも見通したように、すっぽり丸ごとくるんでしまうような所。性懲りもなく色めく自分の心が、時々たまらなく憎らしい。
「こういう手口で見境なく口説いてるってワケね」
「惚れた女にだけ、のつもりだがな…一応」
「一応ってなに?」
「一応だ、一応!」
 ”惚れた女”…そんな甘い戯言に絆されるのは若さ。まず惚れた女が横にいるのに他の女を口説くなんて言語道断。おまけにそれを指摘するのはまだ脇が甘い。
 なぜならそんなことを言うものなら「…何だぁ?お前、まさか」とニヤニヤと「ヤキモチならヤキモチって言えよバカヤロウ」と上位に立たれるのがオチである。
 想像だけでむかっ腹が立つ。

 英理は苦悩の表情で眉根を寄せ、窓の外を見た。
 惚れた方の負けとはいうが、雷で立ち往生しているように身動きがとれず、あまりにくやしい。
 こうして手を重ね合わせるのにすら、雷雨という事情が必要。
 次に身体を重ねる時には、どんな大義名分が必要になることやら…。
 そう考えて、英理は頬から耳を薄く染めた。
 自然と”次”や”先”の機会を考えてしまうあたり、まだまだ諦めの境地には達していないらしかった。


「…なぁ、いい加減話したらどうだ」
「え?」
「さっきから、何か気になってんだろ」
「べつに何も…」
「ウソつけ。さっきからチラチラ玄関の方見てんじゃねーか。誰かいんのか?」
 左側に座る英理の方にぐいと身を乗り出し、小五郎が窓の外をのぞき込む。
「ん?……男、か?」
 視力のいい小五郎はすぐに視認したらしい。
 英理はそんな”日常の些末なトラブル”よりも、急に近づいた非日常の距離感にドキッとしていた。
 そのせいか、普段よりも早口になった。
「あの人必ずいるのよ。ココとか、事務所のビルの入り口とかにね」
「ヘェ、なるほどな……って、あぁん??」
「勤め先とマンションが偶然同じなのかと思ったら、違うらしいのよ。直接話した事はないんだけど。道端とか振り向くとふと居たりとかね…」
「ストーカーじゃねえか!」
「警察には相談してるわよ。うるさいわね」
「~~~あのなぁ!」
 はーっ、と小五郎は大きなため息をついた。
「警察もいいが、まずはオレに相談しろよ」
「あら、どうして?」
「どうしてって…」
「名探偵さんはお忙しいから、”どーせ別居中”の女房なんかに関わってる暇、ないんじゃなくて?」
「…………。あぁ、わかった。それでか」
「何がよ?」
「アレ見たんだろ?お前いつもああいう番組見ねぇくせに…あんなのちょっとしたリップサービスみたいなモンで」
「別に、わざわざメディアで冷え切った夫婦関係をアピールするからこっちが迷惑被ってるなんて、だれも言ってなくてよ?」
「笑顔で言うな、笑顔で…。つーか先にこっちの話だ。警察はなにやってんだ…。現職の弁護士への付きまとい行為なんて警察もすぐ動くだろうが。場合によってはオレの名前を使って…、ああもう面倒だ。名刺あるか」
 英理はため息をついて手帳を取り出した。中に挟んでいた警察官の名刺を取り出し小五郎へ差し出す。英理はパリッと真新しい制服を着た若者のことを思い出した。
「新米さんのようだから、やさしくしてあげてね。誰かさんみたいにどうも不器用なタイプのようだったから、何か昔のこと思い出しちゃって。だからあまり厳しくも言えなくてね」
「……。ああ」
 小五郎は一瞬、自身の若い頃を追想するような表情をした。ゆっくりと英理の手から名刺を受け取ると、書かれた番号に電話をかけはじめた。


 雷が遠のき、雨足が弱まってきたころ。やってきた制服警官ふたりに男は連れられていった。車内にいたのは一時間ほどだろうか。様子を見届けて小五郎は運転席に移動し、車を動かした。
「ちょっとあなた。どこへ行くの」
「さすがに漏れそうなんでトイレくらい貸してくれ」
「…キリッとして格好悪いこと言わないで」
 





 …美人が好き。
 可愛い女の子が好き。
 セクシーなお姉さんが好き。
 ナンパが好き。
 キャバクラが好き。
 アイドルが好き。
 何もいまに始まった事ではないのに慣れない。
 いや、意地でも慣れてなんかやらない。

 英理はジャケットの前を開いて考える。
 ストッキングを丁寧に脱ぎ、考える。
 脱いだ下着まで丁寧に畳み、考える。
「…………」
 湯船につかりながらもずっと考えている。







 のぼせそうになるほど風呂に浸かり、ホカホカ状態の英理が浴室から出ると、小五郎はすでに退散済みだった。
 言いつけどおりに、きちんと帰ったらしい。
 特に期待もしていなかったが、英理はいつもよりも心なしか優しくない手つきでボディクリームを身体へ塗って、バスローブを羽織った。
 暑くて前を大きめに開いていたため、寝室に入ったとき、いきなり声をかけられて驚いた。
「おま、」
「きゃあぁぁっ」
 小五郎が我が物顔でベッドに寝ころんでいた。電気もつけていない。半身を起こして、目を丸くして英理を見つめた。
「風呂がなげーと思ったら…なんつー格好…。これから写真集でも撮るつもりか?」
「い、居るとは思わなかったのよ!お風呂にはいるから勝手に帰ってって言っておいたでしょ!?」
 慌てて胸元を合わせ、腕組をして英理は答えた。
「服のままベッドにあがるなんて信じられない。だいたい自分の家でどんな格好をしようがあなたに関係ないでしょう!?」
「…てめ~な。…今夜は何だ。さっきから何ぶすぶすぶすくれてんだ。おキレーなお顔が台無しですよー」
「あなたに関係なくてよ!」
「ねーわけねーだろォ?久しぶりに顔見たと思ったら感じ悪いったら。ちったぁニコニコできねーのかよ」
 パチパチパチ…と鳴る小五郎の手のひらに、英理は変な顔をした。小五郎は赤いグリップの工具を手のひらに叩いていた。それは引き出しの3段目に入れているはずのものだ。
「どうしてドライバーを?」
「ざっと盗聴器はなかった。一応な、一応」
「あ…そう……。一応、見てくれたのね」
 一応、というのは実は、以前に発見された事がある件を意味する。あの時は異変を感じて「探偵に頼むなんて変かもしれないけれど…」と依頼をした。小五郎は意外と丁寧な仕事をしてくれた(これは夫の仕事だと言い張って、報酬は頑として受け取らなかったけれど)
 だから小五郎はこの家のドライバーの位置を聞かずに把握していた。
 ふと思い出した。あの時もこの部屋で、小五郎は今夜のように英理の手を握ったのだった。「恥ずかしい寝言でも聞かれてたら最悪ね」と英理が一笑すると、拍子抜けしていたが。

 小五郎はベッドに腰をかけ、「あのよ、」と頭をぽりぽりと掻いた。これから言いにくいことを口にするのだとわかり英理も黙って隣に腰をかけた。
「そーいうつもりじゃなかったが…まぁ、悪かったよ」
「べつにいいわ。謝ってくれなくても。ただ私がちょっと煩わしくて…、八つ当たりよ。テレビの発言云々より以前からよくあるし、それに、」
 英理は目を細めた。
「冷え切っているのは、事実だしね…」
「事実?」
 小五郎はぴくりと眉を動かした。
「だいたい、どこぞのだれかと熱い夜を過ごしたってあなたの自由。…そうでしょ?」
 ……。
 ズキン、と心の深部がきしむ感覚がする。
 英理は本心は別にある事を自覚していた。けれど自分でした人生の選択。その代償に目をつむる。
「…………自由って、お前…」
「変な顔してどうかした?」
「……。フキゲンにぶすくれてると思ったら…」
「はいはい。ぶすくれてて悪かったわね」
「んなしょうもねえ事思ってたのかよ…」
「だってその通りじゃない?」
「あーもう…、人の気もしらねーで…」
 小五郎はがしがしと後頭部をかきむしる。「髪の毛抜けるわよ」と英理は心配で口にしたが小五郎は舌打ちをした。
「あ、ちょ…、え??」
 がばり、と小五郎は英理に覆い被さった。小五郎の感情ごとベッドへ押し倒されたようだった。
「と、とつぜん何」
「ベッドルームでふたりきりで?しかもこんなゆるい格好でいるくせに?何もねぇと思ってんのかよ?」
「…、私は事実を言っただけよ」
「誤解、されたくねーんだよ……お前にだけは」
「じっ自分で景気よくばら撒いた種でしょうに」
「だから悪かったって言ってんだろ。分かんねーヤツだな」
「だって、私は、」
「あ~わかったわかった!めんどくせぇ話はいったんナシだ。たまには、めいっぱい愛してやらねーとダメみてぇだな」
「……あ、あ、愛してやる?何様よ」
「毛利小五郎様だ」
「はぁ?」
 キメ顔まで作って口にした台詞があまりにバカらしい。バカバカしすぎて英理の身体からは力が抜ける。何の根拠も無い自信。なのになぜだか妙な説得力がある…小五郎にしか使えない強引なやり口だ。
「…まさか、この流れでする、つもりなの?」
「ああ」
「無理よ、できないわ。…それに、」
「さっき電話した」
「……はぁ?? これから女房と熱~い夜を過ごすとでも言ったわけ!?」
「そ、そこまでは言ってねえけども…」
「宣言したのと同じじゃないの!あなたって人はもうっ、信じられないっ…」
「そうかぁ?」
 小五郎は腹を決めたらケロっとしている。
 一方の英理は耐えられない。英理は照れくささに顔を覆いたくなる程だというのに。しかも、先に電話を済ませておいただなんて、こうするつもりだったというただの自白でしかない。
「あなたってそういうとこ本当…得体がしれない!」
「頭で理解できねぇなら、その身体に何度でも教えてやるよ。……観念しろよ?」
 小五郎のわざと低く抑えた声は、覚悟を決めた男のソレ…ではない。あきらかに英理の混乱をおもしろがって遊んでいるに違いなかった。実際、英理はあけすけな小五郎の言葉に顔を真っ赤にしていた。
「ば、ばかじゃないの…。せめてもうちょっと何とか、マシなこと、言ったらどうなの」
「言わなくても分かってンだろ?」
「嫌よ!どさくさ紛れに言うのもナシにして!」
「どさくさ、か。ハン!激しいの期待してんなよ、このムッツリめ」
「ムッ……!?」
 英理は小五郎をにらむ。だが意地の悪い言葉とは裏腹に、小五郎の手が英理の頭をやさしく撫でていた。
 その手は顔の輪郭を確かめるようになぞり進み、英理のメガネをそっとはずした。
 ぼやける視界のなか戻ってきた手は顎の下に置かれる。ちゅ、と唇が触れたかと思うと、髭が小さく動くのを感じる程の距離で…それはそれは腹が立つほど良い声で…、静かに愛をささやいた。






 人には向き不向きというものがある。
 生まれ持った性質は、そう簡単に変えられない。


 最初はほんの出来心だった。
 それは照明を落としたオレンジ色の寝室で、服を脱いで向き合ったときだ。久しぶりに見た小五郎の肌が健康的に艶めいて見えたのだ。
 英理は、蜜に誘われる蝶のように両手を伸ばしていた。厚い胸板に指先がちょんと触れると、弾けるような肉の固さに、瞬間的に顔を火照らせた。
「…もっと触れよ」
 小五郎は面白がるような表情で言う。命令口調に英理は眉を釣り上げたが、何となく攻撃的な気分になり突起をコリ…と引っかいてみた。小五郎は驚いた様子で目を開いた。
「…ココ、男の人も感じるのかしら」と思った疑問を口にすると「…開発してみるか?」と挑戦的に笑う。

 首の後ろに手を置かれ、求められて唇を重ねた。英理の指は小五郎の胸にあり、小五郎はその上から手を重ねて英理を誘導する。
 ”キスしながらこうやってするんだよ”
 そう教えるように人差し指が3本の指に支えられ、英理の意思とは関係なく指に突起が擦れる。柔らかいような、固いような感触に、胸を愛撫しているのか、指を愛撫されているのかわからなくなる。
 気持ちのよいキスに夢中になって、いつのまにか補助の手が離れても英理の指は惰性で動きを真似ようとしていた。ハッとなり(…私、何でこんな事を?)と我に返る。
「!」
 英理は思わぬ感触にぴくりと反応した。小五郎が同じように、英理の胸を刺激したからだった。
「ホラ、気持ちいいだろ?」
「……ん」
 小五郎の指は手慣れた触れ方で英理を優しく摘む。
「気持ちいいな」
 キスとキスの合間で言う。小五郎はこういうとき英理よりも素直で可愛いのである。この一面がまた、女心をあざとくくすぐる。
 英理は自分の中にくすぶる嫉妬心を否応なしに自覚していた。普段は(…といってもかなりご無沙汰だが)男のどこが感じるかなんて、考えもしないのだから。

 ──私にもっと夢中になってくれればいいのに。

 今さら愚かしい考えが頭をよぎる。
 唇を離し、じっと見つめたその頬はキスの熱気で少し赤らんでいるものの、瞳はいつも通りの平静だ。英理は自分の揺れる瞳をまぶたの裏へそっと隠す。
 額を小五郎の肩へ乗せた。こうして裸で触れあうだけで心地がいい。毎日こうして抱き合えば日常のストレスなど消えてしまうのでは…?そう思うほど。実際は全くそうではなかったが。
 夢中にできたら苦労はない。別居なんて現状に至っていなかっただろう。
 苦手なのだ。癒すことも。
 悦びを与えることも…。

 リードされて唇を重ね、英理の手は慣れない手つきで小五郎の胸を這う。小五郎はキスをしながら髭を揺らして笑った。
「やっぱ、くすぐってぇな」
「あら…お下手で悪かったわね…」
 英理の手は止まる。出来心で始まった辿々しい愛撫は、その言葉ですっかりやる気を削がれ、胸から小五郎の太股へ降りた。
「…悪い、調子に乗った」
 口調こそいつものように強気であったが、表情をしょんぼりとさせた英理に小五郎は珍しく真面目な声を出す。
「されるのも嫌いじゃねーが、やっぱ性には合わねーな」
 そしてあっけらかんと笑う。その優しさに英理は居たたまれない気持ちになる。
 いつもベッドの上で英理は、普段のように勝気になれない。小五郎も「お前らしくねーな」等とからかうことも絶対にない。持ち前の優しさを発揮する。
 英理の長い髪を撫でる小五郎の手が、同情からの深い慈愛の様に感じられる。強者は弱者に優しい。つまり、そういうことだ。

 小五郎には柔道や射撃の他に天才的な特技がある。
 それは…。
 英理は頭を抱えたくなる。
 それが、よりによってこんな事だなんて。

「触っていいか?」
 英理を気遣うように小五郎は聞いた。裸に触れるのに照れ、触られるのに許可を求められるなんて変な夫婦だ。だいたい、手を握るのも押し倒すのも無許可の癖に、こんなときだけ律儀に許可を求めてくるから「ダメ」と英理は答えるしかない。「どこならいいんだ」と小五郎は聞く。英理は黙って手を差し出す。
 小五郎は英理の結婚指輪をはめた手の甲にキスをした。手のひらを返し、敏感な部分を擽るように柔らかい唇と髭が撫でる。それだけで英理はわずかに表情を変えた。本当に天才的だと思った。
 唇は手のひらを撫で、前腕、二の腕から脇まで丁寧に這っていた。英理は呼吸が乱れないよう気をつけながら、その様子を目で追った。
 鎖骨から首筋へとジワジワ移動し、ゆっくりと迫る小五郎の身体に、両手を後ろについて身を支えた。
 耳の縁を舌でなぞられたとき、ついに息が少し乱れた。めいっぱい愛してやる…という先ほどの小五郎の言葉が頭の中でリフレインする。
「……ぁっ」
 唇で耳を甘く噛まれたとき、手は自然と胸の先をじれったいほどの弱さで刺激していた。
 こうすればいいんだよ、と教えられている気がしたが、英理は自分には到底出来る気がしなかった。
 人には向き不向きというものがある。

 先ほど押し倒した時の強引さはなりを潜め、これ以上ないほど丁重に、まるでガラスをマットへ下ろすかのように英理をベッドに倒した。
 キスをしながら、英理はさわさわと小五郎の腕に指先で触れていた。どこもかしこも彼の身体は固くてたくましい。胸を触ることは恥ずかしいのに腕ならば心が落ち着く。同じ皮膚なのにおかしな事だが。
 柔らかく細い自分の身体とは違う。いつから自分たちは男と女になったのか。いつからこんなに差がついたのだろうか…。
「また難事件のことでも考えてんのか?」
 小五郎は英理のしわの寄った眉間にキスをする。
「…そうよ」と英理は正直に言う。「今はただ、気持ちよくなりゃいいんだ」小五郎は優しく諭す。ムッして英理は答える。
「きもち、いいわよ」
 小五郎はシニカルに笑う。まるで、”そりゃーお前に合わせてやってんだ”とでも言うように。
 つくづく才能とは残酷なものだ。

 小五郎の手が英理の太股の内側をなでる。中心へ少しずつ向かっていくかと思えば、直前でじらされるように引き返す。すでに十分気持ちが良く、溶けそうである。これ以上の気持ちよさに襲われたらどうなってしまうのかとハラハラする。頭の記憶力は悪くないのに、身体はわりと忘れっぽい。
「ゃ……、ん」
 そこの形を確かめるように指の腹がなでると、かすかに液体混じりの音がした。英理が顔を赤くすると、ちゅ、と頬にキスをされる。ちゃんと感じられて偉いぞと、誉められているかのよう。
 小五郎の心の声はすべて英理の想像だが、そう的外れでもないと思う。察しがいいと言うより、小五郎のパフォーマンスがうまいことに起因している。

 ──このひと、本当は、もっと色々してみたいんじゃないかしらね…。

 小五郎との夜の営みはいつも穏やかで心地よい。性に奔放にはなれない英理に対して、変な要求をすることもない。英理はいつも十分に満足している。
 だが冷静に思うのだ。刀の切れ味がどれほどが試したくなるのが人の常。これだけの才能があるのに、それを使いたいと思わないはずがないと。
 張り合いが無く、だから女好きなのかもね…と変に納得もする。理解に苦しむが、欲求不満の解消法は人それぞれ。

 自分に魅力がない、とは思わない。
 その魅力が、通用しないだけ。

 英理は腕に触れていた手で頬に触れた。今夜はじめて自分から求めたキスだ。

 ”彼のキスがへたっぴでさいあくよ~!”
 大学時代の友人が、そんな愚痴を言っていたことを思い出す。英理はそのとき初めて、キスに巧拙があることを知ったのである。小五郎のキスは間違いなく巧みで、不満に思うことすらなかった。(所かまわずキスをするので、窘めるのに苦労はしたが)
 オメーはキスが好きなんだな。
 はにかんだ若かりし小五郎に嬉しそうに言われた。確かに否定はしないが(当時は全力で否定したが)それしか彼を悦ばせる方法を知らないのだ。
 そして進歩もなく現在に至る。

 小五郎の指は驚くほど優しく丁寧に触れる。
 一本の指でふちをなぞったり、敏感な箇所を小動物の鼻を愛でるみたいに転がしたりと。
 深い愛情を感じながら英理は安心して息を乱す。
「きもちいいわ」とうっとりとして言うと小五郎は珍しく欲情したような熱い息を鼻から漏らした。
”はやくいれたい”そう言われているように。

「…ねえ、あなた」
 小五郎の頬を撫で、寄り添って目を見つめた。
「ん?」と気遣うように見つめてくる穏やかな瞳。
 この目は意地悪だったり優しかったり、色々な表情を持っている。英理も好きなのか憎らしいのか本気で分からなくなる時がある。けれど常に、すべてを包むような安心感の中で自由に生かされている。
 英理はごくりと唾を飲み、意を決して、言った。
 小五郎は驚きに固まって手を止めた。英理の唇がそう動いたことを疑うようにじっと見つめている。
「…オイ今なんつった?」
 探るように、小さい黒目が英理を捉えた。

「──私を、乱れさせて」



















 美味しいわねぇ、と娘と話す笑顔。 
 雨の窓の外をみて、物思いにふける横顔。
 雷から目を背ける、不安を隠しきれない顔。
 手を握ってやると、ほんのりと染まる頬。
 
 気を抜くとつい、見つめていた。
 …なに女房に今さら見とれてんだ。
 そう我に返っては己をたしなめた。


「あなた?」
 ハッ…と気づくと小五郎は親指で英理の唇に触れていた。フニ、と柔らかい感触のそれが、発した言葉を確かめるように。
「ちょっと聞いてるの」
「…ああ」
 責める口調ではあるが赤らむ英理の目尻を見て、
(だよな、そういう意味だよな…?)と小五郎はやっと真剣な目をする。
 指を軽く舐め、思慮深い顔でベッドを降りた。
 ハンガーに掛けられたスーツから煙草とライターを取り出しまた腰を掛けた。
「ちょっと…」
「すまねぇ。一本だけ」
 英理は不満げな顔をしながらも、四つん這いになってサイドボードからガラス製の灰皿を出す。「灰を落とされたらかなわないもの」と毎回言い訳をするが、英理が常にこの場所に”準備”をしている事実にはグッとくる。喫煙者が大抵そうであるように、小五郎は必ず運動後に一服をするのだ。
 小五郎はベッドの上であぐらをかいて、シュボッと煙草に火をつけた。
 ゆっくりと煙を見つめる。まるで寝室が雨のなかであるような静けさに包まれ、普段この静かな部屋で眠りにつく伴侶のことを思う。

 ──何か、あったんだろうな。

 英理は裸の肩に灰色のブランケットを羽織った。
 先ほどの通報騒ぎに気持ちが疲れているのか、と思いきや英理はケロリとして気に止めていない様子だった。(それはそれで大問題なのだが…)
 詮索するつもりもなく、顔を背けている英理の耳に唇を近づける。口からふっとあまい吐息が漏れたかと思うと、
「たばこを吸った口で、私にキスしないで」
 そんな甘さとかけ離れたことを口にする。

 今度は英理が避けるように立ち上がった。尻がギリギリ隠れるくらいの羽織からすらりとした長い足が、スタスタと部屋を出ていく。小五郎は、この後ろ姿に英理と知らずに飛びついてしまった事がある。
 あれには参った。単に好みのスタイルだというなら納得はできる(情けないが)ただ…もし似た女を無意識に選んでいるのだとしたら、かなり良くない悪癖だ。
 これは、惚れた女が好みのタイプそのもの、という生半可な話じゃなく、小五郎の性癖を英理が造り上げたという事実だ。
 本当に、参ったな、以外の感想がない。

 男にどんな目で見つめられているかなど、何も知らぬ英理が無防備な格好でリビングから戻ってくる。
 その手には、赤いサテンの紐があった。英理は小五郎の前に立ち、それを差し出した。
「これね、たまたま家にあるのだけど」
「…?あるわな普通。紐の1本や2本は」
「ラッピングに使った余りなの。良かったら使う?」
「別にラッピングする予定はねぇけど…」
 キョトンとする小五郎を見下ろす英理の頬が、真っ赤になっている。その顔を見て、英理の突拍子もない申し出に気づき驚きの声をあげた。
「………はぁッ???」
 リボンを差し出す英理を思い切り顔を歪めて見つめた。照れてはいるものの、英理の瞳の意思の強さはいつものものだ。
「ちょっと待て。待て。頭が変に…」
「これしかないのよ。縛りにくいかしら」
「し、しば…? 使うって、やっぱそういう話?」
「赤か青かで迷ったんだけど、やっぱり赤よねぇ」 
「……いや、いやいや、バカか?しばらく会わねえうちに、変わったシュミにお目覚めのようで…?まず目覚めのキッカケから聞いてやるから、ちょい座れ」
「バカね違うわよ。たまにはあなたの趣味嗜好に合わせてあげようと思ってね」
「ど、どんなシュミだよっ」
 小五郎は英理の手から引ったくった。どうしたもんかね…と端を持ちひらり、とベッドに垂らす。幅は2センチ長さは1メートルというところだ。表面がツルツルで拘束具としては話にならない。
 ──イヤ、拘束具? あの堅物の英理が?
 小五郎は信じられない気持ちで、隣に腰をかけた横顔を見つめる。
 何があったか詮索するつもりはなかったが、この心境の変化に俄然興味がわいていた。
 …それは、ジリと心が灼けるような類の興味だ。
 英理がそっち方面には疎く器用な女でない事は誰よりも知っている(そうでなければ別居など許し難い)
 だがそれでもなお、煙草の残り火のように心を焦がす。


「執着するの止めたら。みっともないわよ」
 その言葉に現実に戻される。さすが核心をつかれた…、と降伏しかけると、英理は小五郎の手元を見て怪訝な顔をしていた。左手に持つ煙草が、いつの間にか短くなりフィルターぎりぎりのところまで来ていたのだった。
「……ああ、意外と執着するタイプなんだよな」
「そうだった?」
「身に覚え、ねぇか」
「いいえ? ……ねぇ、そんなに驚くことだった?」
「イヤ、ただの吸い貯めだ。長くなりそうなんでな」
「そう?」
 否定したものの、普段はイくのすら止めて欲しがる英理の口があんな事を言うものだから無理もない。
 まるで導火線のような手元の煙草。
 …時間切れだな。と小五郎は灰皿へ置く。

 ブランケットを羽織った肩ごと力強く引き寄せた。
 英理の長く細い指先が、小五郎の腕の筋肉の隆起を確かめるような動きをする。
 そこは英理が良く触れる場所だった。意外とフェティシズムを感じる部位なのかもしれない。直接聞いたことはないし本人も無意識のようだ。
 小五郎は、このことを日常でふと思い出しては、急に熱心に腕立て伏せなどして、我にかえり照れくさい思いをしたりする。

 ──なぁにが ”あなたの自由” だ。
 
 煙草ではイライラまでは消しきれなかった。
 小五郎は英理の後ろに足を伸ばして座り、背中を布ごと抱きしめた。英理の匂いをかぎながら耳の後ろにキスをする。
 後ろから胸を揉む手も普段より荒っぽかったようで、英理の手が小五郎の手の甲に置かれる。制止するような仕草に小五郎は静かに念を押す。
「乱れたいんだろ…?」
「…オジサンの言い方」
 英理はそう言いつつも手を小五郎の腕へ戻した。「嫌だったら、ちゃんと言えよ?」と言い、また耳元にちゅ、と唇を付ける。
 小五郎は英理の些細な仕草を注視していた。後ろからなので表情は見えないが(これも小五郎の気遣いである)息づかい、声、筋肉の柔らかさを注意深く観察した。一番感情が出るのが手である。好きな女の望みとはいえ嫌がることをするのは小五郎の本意ではない。

 そうか…と思いたち、小五郎は手に持ったままの赤いリボンをひろげ、英理の両手首を寄せる。そこへ巻き付けた。痛くならず、嫌ならば自分でほどける程度の強さで。こうすれば嫌がったときにすぐ分かる。
 蝶々結びが不格好だが、英理の白い手首に赤がよく映えていた。
「お前に、こんな願望があるなんてな」
「私の趣味ではないわ」
「オレでもない」
 じゃあ誰の?とお互い言わないのが大人の狡さだ。
 胸の突起を手の平でこねるように愛撫してやると、息が乱れる。それは手の中でツンと立ち上がる。
「お前は可愛いな。乳首まで気が強そうで」
「ばっ、ばか…!?」
「ピンピン」
「も…、うるさい、わねっ…!」
 小五郎は両方の突起を指先でいじる。英理は腕の中で快感を逃がすように身体をよじった。
「あっ、やっ…ん」
 英理は気持ちがよくなると、頭がどうにかなりそうで嫌なのだという。頭の良いヤツの考えることはわかんねーな、と小五郎は思う。こんな事、どうにかなっちまう為にするんだろうがと。面倒で手が掛かるが、それもまた可愛い。
「こうなっちまうともう、うちのツンデレ猫チャンは可愛いモンだよ」
 まるでリボンを巻いた猫である。もう一本あれば首にも巻けたな…、と小五郎は自らの想像に欲情を覚えながらも、茶化して巧くごまかした。英理は眉を釣り上げでジロリと睨んでくるが、唇は半開きでうっとりとしている。
「…気持ちいいな」
 髭を使って耳をくすぐり声でも駄目押しをする。そして目は冷静に、英理の指先の表情を見つめている。
 
 英理の太腿に触れた。開脚を促すように、内側の皮膚へお伺いを立てる。合わさった膝は、頭が一つ入る幅に遠慮がちに開いた。
「もっと、だ。いつもより開いてみろ。そうすりゃ気持ちいいから」
「え…」
「大丈夫だ。ほら」
 小五郎はグッと手に力をこめた。綺麗な脚が淫らな形になる。英理は正視に耐えない様子で、拘束した両手で顔を覆った。
「素直に気持ちよくなっとけ」
「……だ、だって…こんな格好…」
 ふるえる声に小五郎は笑みをこぼす。困惑しどうにかなってしまいそうな声。
 小五郎は楽しくてたまらない。昔から、英理の余裕のない所を見るのが好きなのだ。
「やっ」
 英理はリボンを揺らしながら、困惑と快感を順調に積み上げている様子が伺えた。健気で可愛らしいと小五郎は鼻から息を噴く。
「…んっ、……あぁ、ぁ…」
 英理の口から気持ちよさそうな声があがっている。だがこの可愛くあえぐ英理の口は先ほど耳を疑う事を言った。まったく今日は爆弾発言ばかりで参る。粘膜をこんな風に弄くる行為を、”自由”にほかの誰かとすることを、英理は許すという。

 …………。

 本当、何を考えているんだかわかりゃしない。
 指先が中心のトロトロとした蜜に誘い込まれ、中へくぽりと埋まった。中指の腹でコリコリと良いところを擦るように幾度も刺激してやると、ぴく、と英理の身体が固くふるえた。
「…っ……、ん、 んッ……」
「そもそも敏感なんだよ、お前」
「そ…、それは、あなたが、そうやって…」
「そりゃお前が感じやすいだけだ。だから手加減してやってんだよ。身体がエッチ過ぎるからな」
「あっ、ばか、…あっ、んぁん……!」
 英理はベッドで悩ましくつま先を立て、腰を浮かす。指を奥へ誘い込むような動きだ。小五郎は身体を前へ少し曲げ、中指を根本までいれる。もう片手は外側をこねるように刺激する。
「…それ、やっ、へんになっちゃう」
「まだイくな」
「…えっ?」
「ちょっと堪えた方が後で良くなる」
「ふ…ん、よく、ご存じね」
「お前のカラダならお前より知ってる」
「…ならわかるでしょ…?そんなにしたら、なっちゃうわ…、がまんできない、ほら、…ん」
「指だけでコレだもんな」
 普段ならここらで英理は「止めてちょうだい」と本気のストップをかける。そして「もういいわ」とゆっくり小五郎を受け入れる。穏やかなセックスを好み、本能的になることを望まないのである。

 小五郎は揺れるリボンを見つめた。
 英理とは長いつきあいになるが、小五郎が「イくな」と言ったのはおそらく今夜が初めてではないだろうか。この様子を見ていると、ひょっとしたら、禁じてやった方が効果的だったのではと思う。
「……ん、ん、あぁっ……っ」
 英理の身体が細かく震えている。鎖骨あたりに、快感の塊のような英理の熱い吐息を感じた。
 それを受け止めるように、キスで塞ぐ。優しいものではなく、ちゅくちゅくと音を立てるキスだ。英理は唇の端から唾液を垂らしていた。

 後ろから抱きしめていた背をベッドに下ろし、小五郎は英理の正面に回って英理を改めて見下ろした。英理は肘を天井に向け、クロスした手首を額において息を整えている。
 冷静に見てもなかなか扇情的な光景である。ラッピングの如く手首を巻かれ、まるで私がプレゼントだと言っている様だ。…あの英理がだ。 
 小五郎は英理の立てられた小さい膝頭に手をおいた。英理の合わさった両膝をゆっくりと開く。
「ちょ、ちょっと…!!」 
「力抜いて楽にしてろ」
「……っ」
 そこは蜜で溢れて唾液が要らないほどだった。小五郎は舌から筋肉のこわばりを無くし、執拗な愛撫へ没頭する姿勢となる。
 隠されているソコを開くと、一番敏感で性感帯が集中している粒は泣きそうに震えている。これを可愛いと思わないわけがない。
 下からべろりと舐め上げると、英理は唇を結んだまま短く声を上げて腰を浮かせた。刺激が強く、少し感じすぎているようである。
 舐める場所を変え、縁の部分を唇で挟むようにした。ちゅく、とキスのような音が鳴る。
「っ……!」
「声、ガマンすると辛いぞ」
 英理の両手が髪を掴む。見ようによっては小五郎が赤いリボンを頭に巻いているように見えるだろう。小五郎はニヤリとして英理を見上げる。
「似合うか?」
「~~~!!」
「コレ、お前の趣味だろう、やっぱ」
 ちゅ、ちゅ、と吸うほどでもない強さで刺激をすると、英理の腰がビクビクと跳ねる。
「あっ…、あっ…」
「…そう。いい感じだ」
 ほめてやると英理の強ばった脚からはフッと力が抜ける。恋人から夫婦となり、数え切れないほど身体を重ねてきているのだが、処女のように優しく丁寧に扱うと未だに安心するらしい。実際初めての時は余裕がなく、ここまで丁寧にはしてやれなかったのだが。
 片手でくぱっと開いて、もう片手の指でクリクリとなで回す。舌を回転させて舐めると腰を震わせ、下から擦って舐め上げると声をあげる。
「とろっとろ。気持ちいいな」
「…ん、」
「……で? 誰と誰が、冷め切った関係だって?」
「そ…………」
「ま。いいけどよ」
 事実と認識をすり合わせる必要があるようだ。
 黙りこくる英理から顔を離し、英理の身体の下に腕を入れてうつ伏せにした。腹部を下から上げ小さなヒップがくの字に持ち上がる。熟れて食べ頃の桃を半分に割るように手を添えると、しっとりと汗をかいた肌が手にぴたりと吸いついた。
「あっ…やだ、こんな格好……」
「ココ、こんなにしてて?」
「やっ、はっ……指、入れちゃ…!」
 ぐちゅぐちゅと潰れるような音に喉の強烈な渇きを感じた。小五郎は興奮しながらハッキリと思った。これは楽しい、癖になっちまう、と。
「入れてるっつうより食われてるけどな」
「あぁっ、ぁっ…へんに、なっちゃう」
「イくなって」
「むり、むり、なっちゃう……あぁっ、あっ──……」
 







 このベッドの主は、もはや煙草に文句を言う気力もなくグッタリしている。
 うつ伏せになった英理の丸いヒップを見下ろす。
 無茶をさせたが、痛いとか苦しい思いはさせていない筈だ。英理がどうして急にあんなリクエストをしたのか。どうして自らを拘束させたがったのか。小五郎には理解不能である。分からねえなぁ~と思いながらも、底意地悪く座らせたり壁に手をつかせたり、色んな姿勢で全身を舐めつくした。やはり後ろからが最も反応が良かった。
「……ん…もう……」
 英理の口からは抗議にもならない甘い声がして、小五郎は視線を英理の顔へ移す。
「良かったろ? 起きる気力もねえみてぇだな」
「いま、…触っちゃイヤよ…」
「水飲むか?」
「…ええ、おねがい」
 英理はまだ見かけ上は両手が使えないため、ペットボトルの水を口に含み、口でそれを移した。こぼれて少しシーツを濡らしたが、英理は素直に受け入れる。喉に指を置き、こくりと飲み下したのを確認して口を離した。
 
 寝そべる英理の耳を撫でた。横を向き、猫が懐くようなまどろみの姿勢になった。
「おいまて、寝るつもりか」
 慌てて煙草を灰皿の上に置く。ためらいのない一服の終わりに、英理は何かを察し反応をしめした。

「まさか。まだ、するつもり……?」
「まだって。まだ挿れてねえよ。これからだ」
「うそでしょう?」
「ウソって何だ」
 あんなものでは足りない。
 足りたと思ってもらっては困る。
 日常の不在にはすっかり慣れたが、いったん触れてしまえば渇きを自覚する。
「人のカラダ、こんなにしておいて…」
「女を何度もイかせたいと思うもんだろ、男は」
「……へぇ~?」
 英理は片頬を潰し、眉をぴくりと反応させた。
 無論とろとろに溶けさせるほど感じさせてやりたいと思うのは、この地球上で愛した女、ただ一人だけ。
 小五郎はその大事な部分をわざと端折っていった。この英理の恨めしそうな目が、実はそこまで嫌いではない。
 こういう所がこじれる原因だろうなと、小五郎は頭のどこかで他人事のようにあきれる。



 とろとろに出来上がっているそこへは、抵抗感など一切なく、ぬるりと吸い込まれた。
「…ったくどこが冷え切ってんだ。冷え性かよ。熱くて溶かされそうだってのに」
 そんな突っ込みをしたくなる程、小五郎を受け入れて熱くうねる。どこまでが自分なのか不明瞭になり、正面から英理を見下ろし、両膝に手を置いて浅めに腰を揺すり出した。
 英理の気持ちよさそうに半開く赤い唇を見ながら、小五郎はたまらず息を詰まらせる。悟られないように、うっすらと笑って見せた。
「はっ…、エロい顔」
 清廉な英理の快楽に浸る顔。これがなんとも形容しがたい。自分のモノでさせている表情かと思うと、いまだに血が駆けめぐるように高揚する。  
 益々、ぐんと血がみなぎった。
「あぅっ……!」
 英理は敏感に反応して、ベッドから背を浮かせてのけぞった。こんなに簡単に我を失ってしまう英理の首筋から鎖骨まで、赤い痕が散らばっていた。
 心が灼けた残骸である。
 英理の言う”自由”が小五郎にあるのなら、同様に英理にもある。本人にそんなつもりは微塵もなさそうではあるが。
「ったく、どんな拷問なんだかな…」
「……っ、はぁっ…、な、…ごっ?」
「なんでもねえ、よ!」
 小五郎はベッドに手をつき、より深く英理の中に沈めた。リズムをきめて、グリ、グリグリ、といつもよりも奥を意識的に刺激する。
「あっ、あっ、んぅ…、おく、おくは、だめ、」
「ダメじゃねえだろ?」
「だめ…だめよ…、へんになるの…っ」
「ああ、コレきもち、いいよな」
「あ、なた…ってほんとっ、…、天才的、ねっ…!」
「おう。ありがとよ!」
「ぁ、あぁ、ンッ──……」
 
 腰をくねらせてイく姿が悩ましくきれいだ。
 赤く充血した乳首にすべらかな腹部が輝いている。
 体力のもつ限り、ずっとこのまま突いてやりたい。
 小五郎は腕のなかの英理を身体ごときつく抱きしめ、腰だけを器用にゆさぶる体勢にはいった。
 体力の消耗を少なく、奥を刺激するためだ。本当にこのままし続けたらどうなるのか知れない。壊れてしまうのではないだろうか。そう思うほど、英理の口からとは思えない嬌声があがる。

 英理にすっぽりと包まれる。離すまいとするかの様に、きゅうと強く食いつき締まる。
 小五郎は笑うしかない。身体はこんなに素直。
 だがこの口は”自由”などと、もっともらしい事をのたまう。
「…だれが、するかよ」
 額から、汗が涙のようにたれた。
「どうせお前も、本音で思っちゃいないだろうが」
 返事もできない英理の唇を食べるように貪る。
 もし…、もしも。本気で他に女を作ったとしても、英理はツンと澄まして見ない振りだ。「─だって仕方がないんじゃない?」と冷めてそっぽをむく。だが、小五郎の知らないところで、ひっそりと悲しみに暮れてこの部屋で肩を落とすのだ。
 そういう面倒な女だ。英理という女は。
「…あっ、ぁっ……、ぁっ、ひ、ンっ」
「ちゃんと息吸え。失神するぞ」
「あぁ、だって…とめ、て、…だめ…、─…っ」
 快楽で身体が散るような英理を、まるで縦四方固めのように抑え込み、奥を意識しながらひたすらにいじめる。切れ切れにこぼれる悦びの声色はごまかしようがない。
 小五郎は耳元で細かい息をはく。
 ……全く。面倒すぎてどうしようもない。
 少々美人なトコロにだまされて、人生を狂わせるヤツなんか気が知れない。こんな女に惚れるのはやめておけと忠告したい。可愛いのはこうして抱いているときくらいなモンなんだから…。
 ─…ってそりゃ、オレが言うのはおかしいわな。
 小五郎は怒りと憂愁が混じりあった暗い灰色のような感情が、肉体的・精神的な快楽によって白く薄まっていくのを感じていた。
「ああ……、英理…」
 小五郎はどうにもたまらない気持ちだ。
 これは説明できない。ただ、夢中にさせるつもりがいつのまにかこちらがハマっている。いつも。
「……おまえだけ、だ…。ずっと……」
 荒い息とともに小五郎は吐き出した。そのあと自分で気づいてプハハッと堪えきれず笑った。確かに英理の言うとおりだ。”どさくさに紛れて”本音を口にする癖がある。
「ぁっ…、あ、なたぁ、…ぁっ…」
「気持ち、いいな、英理…」
「いい、……いいの…、ね…もっと言って…?」
「英理、お前だけだ。分かってんだろ…」
 英理は答える代わりに、中でぎゅうぎゅうに抱きしめてきた。その力強さに小五郎は満足し、腰が止まらなくなる。
「いや…、だめ、ダメ、だめだめ…だめよっ」
「はっ……、こりゃたまんねーな…」
 小五郎はナカの膨らみを感じて、ゆっくりと殊更深く奥を突いた。ぱちゅん!と快感が噴き出すような愛らしい音が鳴る。
「──……っ!!」
「っ…、えり」
 吸いつかれ、脳が溶けるような快楽に小五郎は腰を動かしながらぶるぶると震えた。英理の美しい両脚はこれ以上開かないところまで開き、もはや声も上げられないほど悶えている。いっそ苦しい様にすら。
 激情に飲まれ動物的に動きながらも、英理の手をちらと見る。赤い紐は解けて頭上に散らばっていた。だが英理の意思ではなく運動の衝撃なのは明らかだ。英理の両手は健気に、頭上に置かれたまま動いていない。
 美しい形の手を握る。英理も握り返してくる。
「コレも悪かねぇが、ぜんっぜん趣味じゃねぇ…。変な癖目覚めさせんなよな。……困るんだよ」
 呼吸の荒い英理の唇を貪る。舌が絡む度に英理の指先がピクピクッと反応する。
 まだイきたくねぇな…と粘りたい気持ちだが、この高まる射精感の大波は堪えられそうにない。動くことを止められない。目の前の女以外のものすべて、ベッドも部屋も雨も何もかもがどんどん遠くなっていく。
「あぁ、でる、……くそ…、だすぞ!」
 吼えるような声を上げていた。訳も分からず、名前を呼んでいたかもしれない。脳天を突き抜けて意識がどこかへ飛んでいく。ほとばしる快感とともに、痛みを覚える程勢いよく先から飛び出した。
 小五郎の分身はゴムの壁を叩くよう暴れる。英理は射精の動きに脚をぴくぴくと可愛く震わせていた。小五郎はあまい匂いのする英理の首に顔を埋めて大きく息を吸い、しばらく荒い呼吸を繰り返していた。


「……、すきだ…」
「……、すきよ…」


 聞こえてきた声に小五郎はハッとした。
 口にしたのは、まったくの同時だった。
 そしてこの耳でそれを聞いたのは、随分久しぶりのような気がした。とうの昔から、言わなくても分かっているとおそらくお互いが思っていて、わざわざ言葉にして確かめることもしなかった。
 首筋に埋めていた顔をあげると、英理も同じ事を思ったのだろう。
 寄り添うように、深くキスをした。
 なんだか照れくさかったのだ。




















 
 英理は後ろから抱かれて、時折ゆるゆると揺られていた。快楽ともいえない心地よさで、セックスの終わりの惰走的な動きだ。
 ナカのものもやわらかく、英理にじんわりと圧迫感だけを与えている。小五郎の指先も、英理の敏感な中心の場所をこねるようにやさしく愛撫している。
 右耳でサアサアと降る雨音を英理は聞いていた。規則的な音波に、まぶたがとろりと下がってくる。
「この雨じゃ、明日の予定はパァだな」
「……。ん、」
 シーツの中で脚を絡ませて、甘えるように英理は答えた。恥ずかしく照れくさく、でもたまらなく心地よい。その心地よさに、このまま眠ってしまいそう。英理はシーツに顔を擦り付けた。
「このまま、寝ちまえば?」
「……まだ、もうすこしだけ」
「?」
 眠気にあらがおうとする英理に、小五郎は不思議そうに首をかしげる。
 英理は身体を反らし小五郎に顔をむけた。長い前髪の隙間から目と目が合う。落ち着いて考えると、髪を下ろしている姿を久しぶりにみたことに英理は気づいてドキリとし、すぐにまた背を向けた。
「あなたは、ねないの?」
「ああ、寝るかな。ちょっとは」
「お先にどうぞ…」
「なんだよそりゃ?」
 英理が寝たくないのは、もっとセックスしたい、という意味ではもちろんなかった。小五郎もそんな誤解をしないほど、力を尽くしたようである。
「あなたは昼間に居眠りばかりで、眠れないんじゃないの…?居眠り小五郎なんてよく考えたものね」
「居眠り、って、おまえな」
「ふふ…」
 小五郎はお構いなしに腕で英理の頭を抱きかかえ、身体を愛撫していない方の手で英理の頭を撫でていた。体温のあたたかさで、まぶたがどうしても逆らえずに落ちてくる。
「……、あまやかさないでよ…」
「いま甘えねぇで、いつ甘えんだよお前は」
「ずるいわ、そういうこというの…」
「腕によだれ垂らしたって、文句ねぇから安心しろ」
「ばかね…、」
 英理はまたウトウトとし、ついに瞼がとじる。
「はいオヤスミ~…」
「いやよ、ねないわ…。次はいったい、いつ見られるか、わからないもの…」
「何の話だ?」
「…あ。」
 寝ぼけてうまく機能していない頭は、心の中の思考をそのまま口にしてしまったらしい。
「ン?何を見るって?」
「ええと。……な、…なんでもなーい」
 寝ぼけ眼で、英理らしくもなく、つい口走った失言をうまく誤魔化すこともできなかった。
「ンー?」
 見逃すわけのない小五郎は、イキイキといじのわるい声を出した。そして案の定、手と唇を使って悪戯をはじめた。
「ぁん、もう。やだぁ……」
「何が見たいって?またスケベなこと考えてんのか?」
「…ちが……、あなたじゃあるまいし」
「やっぱりムッツリスケベじゃねーの?」
「もう…! 私はただ…その…。画面越しじゃない寝顔でも、たまにはみておこうかなって、思っただけ」
「…………え。」
「それだけよ。文句ある? 別にいいでしょ寝顔くらい見たって…。これでもいちおう、妻なのよ」
「英理…。あのよ、」
 小五郎の低く落とした声に、英理は照れ隠しに閉じていた目を片目だけあけた。背を向けていて表情こそ隠せているが、小五郎の手が触れている耳が燃えるように熱く、暗くてもごまかせそうになかった。
「なによ?煙草はないわよ」
「お前さ…。……それ…毎日見る方法知ってるか」
 その低い声は真摯に響いた。
 ドキッと心臓の鼓動が激しくなる。自分の心臓なのか背で触れている小五郎のものなのか、判別ができないが。
「それは知ってるけど……あなたは?」
「お前の肌くらいにはな」
「…それは随分忘れていたようね」
「オレは記憶力がいいんだ。忘れたことなんてねぇ」
 語気も、英理を抱く小五郎の腕も力強い。
 英理は目を閉じ雨音と心臓の鼓動を感じながら静かに自分の心を見つめた。難しく複雑に絡み合ったふたりの糸は、サテンのリボンとは違い簡単には解けそうにない。
「…あなたの寝物語は全く信用できないわよ」
「寝物語ね。あぁ。そうかよ」
 フン、と小五郎は鼻を鳴らす。
 分かりきっていた。
 こんな人ほかに地球上の何処にもいないって事は。
 英理の心は欠けのない月のように満ちている。
 ただし、この瞬間だけ、という限定文句がつくことも思い知っていた。そう簡単にいかないのだ。

「そーいや明日、あの車持て余しちまうな」
「あらそう」
「…ニブいやつだな。誘ってんだよ」
「え?」
「デートしようぜってな」
 驚きの提案に、英理は体を起こし顔を向ける。小五郎の顔を見て目を丸くした。
 その瞳の湿度はただのデート誘いではない事は明らかである。まるで…。

   一緒に生きていく方法は無いか?

 ひたむきに、そう問われているようだった。
「…なんだよ」
「いえ…。あら、いいわね…って」
「嬉しそうにしやがって。デートぐらいで浮かれてんじゃねーよ」
 英理は朗らかに笑った。今夜はじめて小五郎へ向けた心からの笑顔だったように思えた。小五郎は眩しそうに、その顔を見つめていた。
 

「…すっかり目が覚めちまったな…煙草もねぇし」
「そうねちょっと吸いすぎね。この部屋もすっかりイイ香りで、おかげで安眠できそう」
「動くと吸いたくなるんだよ。オイオイ元気復活してきたんじゃねーか。ヨッシャもう一回戦いくか?」
 小五郎は体を起こし、英理にがばりと襲いかかる。
「むり、むりよ。もう、ばかね」
「さっき言ったろ。男は好きな女を何度でもイかせてやりたいモンだって。お前はそのあとでたっぷり、寝顔でもなんでもみりゃいいだろ」
「……あなた。明日デートする気ある?」
「助手席で寝てりゃいい」
「もう!ちょっと、ぉ!」
 

 ──毛利小五郎は基本的にやる気がない。
 ふらふらしている。
 けれど、稀にすごい能力を発揮したりする。
 並ではない。底が知れない。
 心も体も、常々、思い知っていた。
 そして改めて、思い知った。


 首筋に埋まる愛おしい唇。
 大切な言葉のように名前を呼ぶ声。
 明日への希望に胸を躍らせながら、英理は微笑んで、ゆっくりと目を閉じた。