※『温泉旅行と、牡丹餅のワナ。』のおまけ話です。
【前作のあらすじ】
英理が客から貰い受けた一泊の温泉旅行。
小五郎と蘭とコナンを誘い、家族で向かいました。
ところがその旅行にはある思惑があり、英理と蘭は露天風呂で暴漢と遭遇……。その後なんのかんのあって、小五郎と英理は甘ーいムードになったものの、すんでのところで犯人に邪魔をされ、悶々と帰路につきました。そんな2人のその後の話です。
恋なんて、よしてくれ
「ダメよ」
ぴしゃりと言ったのは、助手席に座る妻。
「栗山さんの家に、ゴロちゃんを迎えに行かなきゃいけないし。レンタカーの返却時間だって、ある。だから、ダメ」
「……道を間違えただけだ」
ハンドルを左に切った。俺たちは一泊二日の家族旅行から、都内へ帰ってきた。自宅の前で蘭とコナンを降ろし、通り道だから送ってやるよ。と英理を車に乗せたまま、車を発進させた。自宅と英理のマンションは、車で二十分の直線なのだが。右折レーンに入ったことで、なにかイカガワシイ所へ連れ込まれると、勘違いしたらしい。
「じゃ、目的地は栗山さんの家だな。ナビしてくれ」
「いいえ」
「いいえ?」
「一人で行くから大丈夫、ってことよ」
「んな遠くねえだろ?」
「まさか。あなたに彼女の自宅なんて、教えられないわ。私には、従業員を守る義務があるの」
「あのな……」
英理は冗談を言わない。つまり本気で言っている。
「俺が彼女に、なにかするって言うのかよ? よりによって、妻の秘書に?」
「ありがちでしょう」
「バカだね」
「どーだか」
俺はこう見えて、理性のコントロールが上手いのだ。そう言ったら、英理は鼻で笑うだろう。
一方この女。理知的、理性的な涼しい顔をしているが、とんでもない。これを剥けばどんな顔になるのか、俺は知っている。もうすでに、外れそうなタガを必死に押さえている。そんな感じだ。匂いでわかる。
「あなたは、車を返す。私は、ゴロちゃんを迎えに行く。それから……」
「それから?」
「……」
「言えよ」
「……あなた」
「ハハ! お前、その顔! いいね」
「ばっ……」
眉は、ふざけないで! と釣り上がり。目は、いじめないでよ、と潤んでいる。
「バカにして……!」
英理は隠すように、ツンと外を向いた。あーあ。どこが高飛車な法曹界のクイーンだよ。なんも変わってねーじゃん。俺は英理の変化の無さを見るたび、どこか後ろめたく、そう思う。浮気をしているから? まさか。俺は本当に、理性的なのだ。自分でも、可哀想になるくらい。
頭から視線を下げていく。赤い耳、小さなピアス、細い首、ツンとした胸、そして脚を見る。太ももは、黒いタイツに厚く覆われている。少し強めがちょうどいいか。爪を立て、引っ掻いた。
「ひゃっ!」
え。そんなに? 反応の良さに気をよくする。余程、昨夜のお預けが辛かったと見える。どれどれ、しゃーねーな。とスカートの中にある、タイツの縫い目を探りはじめた。
「ちょ、ちょ、ちょ!」
「言っとくが、レンタカーだからな?」
「バカ! こんな往来でっ、信じられない!」
「借り物だからな? 汚すなよ」
「や、やだっ、……爪、いたいわよ!」
開きかけた脚をスカートの裾で必死に押さえている。なるほど、それが理性の皮か。クソ食らえ。ああ、早く舐めてやりてえなあ、と思う。丹念に執拗に、許してと泣くまで。音で辱めるくらい……。四つん這いにして後ろから?
仰向けにして前から? 俺は真剣に悩んでいる。
「最っっ低!!!」
バシーン!バターン!と思い切りドアを閉めて、プリプリ歩いて行く後ろ姿。地下鉄の駅へ降りていくが、あの顔で、電車に乗るのかね……。俺は頬に平手の跡を付けているが、面白くなって声を出して笑った。可愛いヤツ。今夜はどうしてやろうか。
──あれ、いつだっけか。前回は。
そうだ。アレこそ、思い出すと笑いが止まらない。英理がなにをすれば喜ぶのか、俺は知っていて、あえて避けている。そして思い切り、楽しんでいる。
そのブツをくれたのは、古い麻雀仲間だった。
「毛利ちゃん、好きだろ? これオススメよ」
行きつけの雀荘の、窓際角の席は、昔からの指定席だった。レジの向こうでは、一緒に卓を囲む仲間が、夜食のカップラーメンに湯を入れている。俺は煙草を弄びつつ、小うるさいメッセージに顔をしかめているときだった。
──ふーん。いい歳して、徹夜で麻雀?
拗ねんなよ。と思いつつ、ほっとけ、と返信して画面を消した。
「……オイ、まさか変なもんじゃねえよな?」
枝島という男から手渡されたのは、茶色い紙袋だった。枝島は袋を指差し、開封を促した。
「毛利ちゃんの大好きな人に、そっくりだからさ」
得意げな顔から視線を下ろすと、そこにはDVDが一枚入っていた。
「なぁに、これ?」
「映画」
英理はプリントのない白い円盤に、顔をしかめた。
「やめてよ。違法コピーじゃないでしょうね?」
「とある筋から手に入れたもんで。検証したい」
「検証? まさか、なにかの証拠物件なの」
俺は無言のままソファに腰を下ろした。
英理は言葉を失っていた。長ったらしい、思わせぶりな導入部分を、最初は真剣に見ていた。被害者のインタビューかなにか? そう言って。俺の悪戯に気づいたのは、画面の中の女が服を一枚、一枚、脱ぎ始めたところだ。みるみる瞳孔を開かせていた。
ウェーブのかかった栗色の長い髪の毛、知的な顎、おまけに眼鏡ときた。たっぷりと焦らして晒した身体つきは、語るに及ばないな……。そう思っていると、震える手がリモコンに伸びてくる。俺は待ち構えたように、先手を打って取り上げた。女が男の性器を口にしたところで、英理はうつむいた。真っ赤に染まったうなじ。あー面白い。
「……コレな、お前に似てるっていうんで、預かったんだけど。まさか本人じゃねーよなぁ?」
「そ、そ、そ、そ」
「そんなわけないって? ほんとかね?」
「み、見ればわかるでしょう!? どう見ても別人じゃない!」
「女は化粧で化けるって言うし、なんとも」
「私より、全然若いし……」
「お前も、若く見える」
「……付き合いきれない」
──そのまま、ソファへ押し倒しひんむいた。ああ。あの夜は燃えたなぁ、とニタニタ思い出す。ほら、こうされてただろ……? とか、こういうの、好きなんだろ……? とか。オヤジ台詞を、芝居がかり多用したところ、意外にも凄く悦んでいた。もう何ヶ月前になるだろう。あの女があの身体を、普段どう持て余してるのかは、ちょいと気がかりである。だって英理は、俺なんかと比べものにならないほど、身体が感情に逆らえないのだ。あのDVD、そういや返したっけ?
「早かったな」
「ちょっと! 赤く跡になったじゃない!」
「お前、この顔見てそれ言うか?」
「自業自得!」
「爪切り、貸してくれ」
「……い、いいけど」
玄関で出迎えた英理は、頰を赤らめて言う。爪切りくらいでそんな顔、やめてくれ、と思う。少しの照れと、食傷。パチン、パチン、パチン、パチン。なあ、お前はどう思う? 俺は隣にいるゴロに、目で問いかける。英理は正面に腰を掛け、黙って俺の指先を見ている。
妻は恋をしているな、と思うときがある。特有の瑞々しさ、悪く言えば湿っぽさを、時折感じるのだ。ああコイツ女だな、と思うとき。
相手は誰か。そんなの、俺と決まっている。本人がどんなに否定しても、わからなきゃただの愚図だ。妻が向ける熱い視線。その意味が未だにわからないなんて、あまりに哀れだろう? ──そう昔の俺に言う。英理は視線に気がつき、切ったばかりの爪に、勝手にヤスリをかけ始めた。
俺は英理に、恋愛感情など、もう持っていない。この特別な感情は、もっと品がなく見苦しいものだ。だから、そんな純な目で見てくるな……、と言ってやりたい。もっと深く。そう望む。俺はもう、恋愛ごっこをしたくはないのだ。茶化すことでしか、それを伝えることができないが。
「あとは、なんだ。すね毛でも剃ればいいのか」
「結構よ!」
俺だって本当はな。おふざけなんかじゃなく、お前を。
「可愛い声、出しちゃって」
結局は仰向けにした。舌の力をできるだけ抜いて、ゆらゆらと快感を支配する。普段よりも高い声は、枕では殺しきれずに口と鼻から漏れ出ている。セックスは労働に近い。それも、好きな類の労働である。羞恥心を煽り、高慢な女を屈服させるのが楽しいなんて、俺もオヤジになったものだ。あれ、高慢ちきなのは昔からか。俺は若いときからオヤジ趣味ってことか? 若さと自信は比例するはずだと思っていたが。
「イイ顔」
あれだけ文句を垂れていた妻は、腰をビクつかせ、快楽にむせび泣いている。
嬉しそうな声を上げて、俺を飲み込んでいく。求めかたが、全然足りねえなぁ、もっと苦しめ、と思う。膣を撫でるように動きながら、きゅう、と締める溶けそうな心地よさに包まれ、俺は真面目なことを考える。女を満足させるための、昔からの習わし。
これは、量ではなく深さの違いだろうか? (バカにすればいいじゃない……。)だと? 未だに? 本当にバカだ。体型のコンプレックスを抱えてるなんて、俺は、浅く見られているというか……。可愛いという呑気な感想と、少しの失望を、同時に覚える。英理は、浅瀬だけを海だと思いこんでいる。俺は、浮かび上がることができない滑稽な深海魚のようだ。きっと一生、追いつくことはないのだろう。
口説かれたという類の話を何度か耳にしたことはあるが、本当にイイ男からは、きっとモテないだろうな。と思う。もちろん、俺を除いての話だ。運が良いね、お前。いろんな意味で……。何度目かの収縮をしたところで、英理は理性を完全に無くしているようだった。ここまでが前戯。俺は奴隷としての務めを終え、ようやく本能に従うことができる。
「倦怠期の夫婦なんて、こんなモンだろ?」
「……おだまり」
乱れ髪もそのまま、崩れたマリオネットみたいな様子で、英理は言う。……色気とは。この女、決して口にしないが、本当は腕枕だのピロートークだのを欲しがっていると俺は知っている。避妊具を処理する俺をぐったりと追う視線で、そうとわかる。もうそんなの御免だと、俺はやはり無視をする。本当はお前と繋がったまま眠りにつきたい。だが、乙女はそれを許してくれない。
ほんの少し自分を殺して、指を絡ませ眠りについた。これでは激情など、生まれる隙もないか。ハハハハ……。胸に顔を擦り付けて眠る、貴重な姿を見て笑う。
妻の不在。それがどうした。居ないと生きていけないなんて、思ったことはない。それなりに楽しく生きていく術を知っているし、実際にそうしている。でもそれは、俺の好んだ人生ではないだろう?
「女房には、似ても似つかねえな」
本当の麻雀会が開催された日、そう言って俺は、枝島に例のDVDを返却した。
「女房?」
「まったくよ。似てるだの、似てないだの、程度が低いね」
「マジで? このコ、嫁さんに似てたっけ?」
「だから似てねーけど。そう言ってたろ」
「なんだよー。バカみたいじゃんか」
「なにが?」
「毛利ちゃんがノロケるなんて、めずらしー」
「ノロケじゃねえ。ただの事実だし、褒めてねーし」
「毛利ちゃんの好きな、沖野ヨーコに似てると、思ったんだけどなぁ」
「はぁ!?」
そのとき俺は思い出した。この枝島がなんと言って、このブツを流してきたかを。──毛利ちゃんの大好きな人に、そっくり──俺は自分の無意識を目の当たりにし、胸が焼けるようだった。
「全っ然、ちっとも、似てねえ! だいたいね、俺はそういういかがわしい目で、アイドルを見たりしねーのよ?」
「そりゃご立派な。ファンの鏡だねぇ」
「そゆこと」
「じゃ、女房はどうなんだよ」
「……」
「なに。エロいの?」
「……」
「よろしくやってんの。うらやま」
「……想像すんな」
「なんで、別居なんてしてんだっけ?」
黙って千点棒をぽいと投げた。話は終わりだ。俺の気苦労なんて、誰も知らない。
おわり