胡蝶蘭のような女

 

 

「──俺だけど?」

夕刻を知らせる無線が、後を引くように耳に残っている。塾帰りのランドセル、部活帰りのジャージ、さまざまな色がこの道を行き帰る。それをいつものように眺めて、小五郎は大儀そうに受話器を持った。

コール音は3回で途切れ、返事を待たずに言った。──ああ、俺だけど。
端的な連絡は簡潔に、事務的に、素っ気なく。そうと決めている。意味もない小競り合いによってつい用件を伝えそびれてしまうのを防ぐためだ。経験から学んだ教訓、というのは大げさか。

「……ハァ」

ところが、そんな気遣いは徒労に終わる。憎たらしい電話の相手は、聞こえよがしな溜息と共に、電話を一方的に切りやがった。

「ちっ、……なんだよ」

小五郎は手に持った封筒を持て余し、ペラペラと扇いだ。それは、『毛利英理様』と書かれた封書。妻宛の公的な書類はすべて毛利家に届くことになっていて、届くたびに中身を開封せず、逐一連絡をすることになっている。
別居中の妻が、なぜ賃貸しているマンションに届けを動かしていないのか……聞けば、もっともらしい理由を並べるのだろう。けれど本当のところはどうだ。この別居生活があくまで『一時的なもの』であるというポーズなのではないか? もちろん、小五郎がそのことを詮索したことは一度もない。理解不能な女の考えることなど、悩むだけ無駄である。

例によって今日も、英理に電話を掛けてやったのだ。電話一本入れるくらい、親切にも入らない些細なこと。けれど、こうして雑な態度を取られると、つい恩着せがましい気分にもなるってものだ。相変わらず人を苛つかせるのは一流なヤツだと、煽られるまま受話器と封筒を「フン!」と机へ投げ捨てた。

──ピコリン!

まるで抗議のように鳴ったのは、メッセージを受信した知らせの音だった。
そこには妻の、億劫な声まで聞こえてきそうな、いつもの返事が『書いて』あった。

『なんの用?』

「あぁ?」

小五郎は眉を歪ませ、画面を見た。
書かれた文字をまじまじと見ると、疑問と、様々な言葉が透けて見えてくる。あの女の本心など、知りたくもないのに……。もはや性分というか、癖。探偵を名乗る前から、刑事になるずっと前から身についた、『特定の人物』にだけやたらと効いてしまう、忌々しい嗅覚だった。

「ただいまー。あれ、仕事中?」

学生鞄とスーパーの袋を下げた娘が、ドアからひょっこりと顔を出した。顎に手をやり思案していた顔を上げると、いつもどおりの声は、快活に耳に届いた。
……ああ、そんなことかと。ひとつの可能性が冴える。

「……体調が悪いなら、そう言えっつの」
「え?」
「蘭。今日は夕飯いいから、英理の所へ行ってやれ」
「お母さん? どうかしたの?」
「ぶっ倒れてる」

ええ!? と蘭は素っ頓狂な声を上げ、だいじょうぶなの!? どこにいるの!? と詰め寄るが、小五郎には答えようもない。手に持った封筒ごと娘に丸投げして、貝のように口も耳もふさいだ。

便りが無いのは元気な証拠、なんてうっかり放っておくとこれだ。手のかかる。
やれやれと一息ついて、傍にあった出前のチラシをパラパラと物色し始めた。今夜は外食でもいいかもなぁ、と側にいるボウズに目線を下ろすと、訳知り顔で薄笑っていたが、見なかったことにした。



おわり