「もう病院出たのか?」
「ついさっきね。何かあったの?」
電話口で取り澄ました妻の声が聞こえる。
毛利小五郎は杯戸中央病院のロビーでキョロキョロと人を探しながら妻の携帯電話に電話を掛けていた。
「……蘭が渡したいものがあるから持ってけって言うんで病室行ってみたら、居ねーしよ」
「来るなら来るって先に言ってくれる? 私にも色々都合があるんですから」
妻の体にメスが入ったと聞かされたときには心底驚いたが、何てことはない、ただの盲腸。
いつものキツい物言いの妻にすっかり調子が良くなったようだと小五郎は一安心した。
ただ、その妻の口調が2人きりのときの砕けた感じではなく、よそ行きの固いものだと気付き、相手の近くに誰かがいることをなんとなく察してしまった。
「んで? 今どこなんだ?」
「ゴロちゃんを迎えにちょっと獣医さんのお宅へね。まだ車の中だけど」
「……ハァ?」
「ちょっと事情があって入院中に預かってもらっていたのよ。今日は休診日だそうだから、ついでに病院まで車で迎えに来てくださったってわけ」
「その獣医って……絶対男だろ」
「あら、どうしてわかるのよ」
「……男の勘」
「なによそれ」
「まー悪いことは言わねぇ。猫をピックアップしたらすぐ帰るんだな。待ってっからよ」
「待ってるって、どこで……」
「おまえの家」
「ちょ……」
「早く来いよ。俺も暇じゃねーし。じゃあな」
小五郎はぶっきらぼうにまくし立てて電話を切り、
ああ、またか……と深いため息を吐いて、怠そうにスーツの胸ポケットからタバコを取り出した。
「何なのよ、渡したい物って」
「ん」
退院祝いだそうだ、と小五郎はぶっきらぼうに差し出した小箱には、英理の好きなジゴバの黒い包紙が巻かれている。
「たかが一週間くらいの入院で、大げさねぇ……」
可愛げのない口調とは裏腹に、英理は両手でそっと受け取った。
「なにも他人に頼まなくとも、いつもみたいにウチに預けりゃよかったじゃねぇか」
「だって……一週間ずっとは流石に迷惑じゃない。蘭とコナン君は学校だし、あなただって時々は働いてるんでしょ? 戸部先生の病院は近くのペットホテルとも提携してるから安心だしね」
英理は昔から自分の正当性を主張するときには、いつも早口気味に順序立てるような話し方をする。
「ま、面倒押し付けられずに良かったけどよ」
「......そう?」
英理は片眉を上げて不愉快そうな表情を作る。
「んじゃ、帰るわ」
「え?」
「言ったろ。俺もこう見えて忙しいんだよ」
「ふうん……だから見舞いすら来なかったってわけね」
「へー、待ってたのか」
「暇だっただけよ。あなた相手だって退屈しのぎくらいにはなるでしょ」
英理の目が泳ぎ、目線の先を探して部屋を見回すとリビングには書類やら写真やらが所狭しと並んでいた。雑然としていて普段の英理らしくなく、余程のオーバーワークだったのだろうと察しがついた。
「1人だからって気ままに不摂生してっから盲腸なんかになったんじゃねぇの?」
「あなたに生活習慣をどうこう言われたくないわね!」
英理の眉毛がますます釣り上がるのを見て小五郎は安堵すると、言葉に少しの呆れを込めた。
「ったく口が減らねぇヤツ。じゃあな」
それだけ元気がありゃ大丈夫だと踵を返して玄関に向かう小五郎の腕を英理は力任せに引っ張った。
「ねぇ!」
「なんだよ」
「……」
振り返ると、英理は片手に握られたチョコレートの小箱を見つめていた。
「なんだよ。まだ調子悪いのか?」
「……」
「おい」
英理は口をつぐむ。
部屋にしばしの沈黙がながれる。助け舟を待つ英理に何も言わず見守る小五郎。
英理は沈黙に耐えきれなくなり、こわごわと口を開いた。
「……どうして」
途絶えそうな小さな声でつぶやく。
「……どうして……いつもみたいにしないのよ?」
「いつもって……」
「迎えにきてくれたんでしょう?」
「……」
「蘭に頼まれたなんて言って……あなたが買ってきてくれたんでしょう?」
「……」
「早く来いなんて、戸部先生にヤキモチ妬いてくれたんじゃないの?」
「……」
「ねえ!」
「……」
「いつもみたいに……してよ……」
英理の瞳がゆらゆらと揺れるのを見て、小五郎は頭を掻いた。
「……困らせるなよ」
「……バカ……」
英理の涙がフローリングにポトリと落ちる。……らしくない。
突然の手術に、この女も人並みに不安だったのだろうか。
「ワザワザ言わなくたってわかるだろ……長い付き合いなんだからよ」
英理はブンブンと頭を振る。
「わからないわよ……あなたが何考えてるかなんて!いつも言葉足らずだし!
それに何よ!パチンコだの競馬だの麻雀だのって!あなたっていつも昔っから……!」
しかめっ面をしながら涙をこぼす英理の顔を両手で挟み、黙らせるように唇で唇を覆う。
素直に甘えればいいものを、不安を隠すようにキツい言い方をする英理に小五郎は隙間から笑みをこぼした。
「……ほら、またごまかす……!」
「もーいいだろ。いいかげん分かれ」
小五郎は再び気持ちのこもった甘い口付けを降らす。
長い長いキスのあいだずっと、部屋の時計が規則的に時を刻む音が聞こえ、その1秒が平常の何倍も重たいものに感じられた。
身をよじる英理の体を離すと、息を切らして真っ赤に染まる耳を小五郎は口髭でそっと触れる。
「いつもみたいに激しい運動は、まだできねーだろ?」
「……できないわ」
「んじゃ、傷口だけでも見て帰るかな」
小五郎はそういって英理の体をひょいと抱き上げた。
「舐めたら治りが早いかもな」
「バイキンの癖に」
いつもの悪態が戻った英理の体を小五郎はゆっくりとベッドに沈めた。
END