訣別(サンプル)

※サンプルは全12章のうちの3章までとなっております。



   1     


 
 小五郎はあえて言わないが、この部屋が苦手だった。
 まるで社長室のような、贅沢な空間の使い方をしている。普通の会社なら十人は仕事ができそうなスペースに、ぽつんと置かれた執務机。部屋をぐるりと囲むように、法律関係の書物が並べられ、家具には高級そうな木材が使われていた。この部屋だけで総額いくら掛けているのか、小五郎は怖くて聞いたことがない。
 たしか初めて来たときに、ずいぶんと羽振りが良いな。と彼は言った。高額な報酬をいただくためには、それなりの器が必要なのよ。部屋の主は、涼しい顔でそう言い返した。女のそういう可愛げのないところも、彼は苦手だった。
「ずいぶん満足げね、居眠り探偵さん?」
「居眠りじゃねぇ、眠りの、だよ!」
「そんなのどっちでも、大して変わらないでしょ?」
 女弁護士は、小五郎が渡した報告書をめくっている。素早い動きで本当にちゃんと読んでいるのか、疑わしいくらいのスピードだった。目線は落としたまま、真顔で、口だけが慣れたように、悪口を生み出している。
 女の背景には大きなガラス張りの夜景があった。あちこちの会社で残業が行われているのか、高層ビルの明かりが煌々と照っている。その正面に座った小五郎は、読み終えるのを待つあいだ、暇つぶしに女を値踏みしはじめた。
 ――まあ美人だが、若さはねぇな。
 女の着ているスーツの色に、個性がにじみ出ている。年の功なのか、自分に似合う色がわかっていて、自分をどう見せたいかというコンセプトが、はっきりしていた。鮮やかな紫色のスーツは、見る者に高貴で高潔な印象を与えるだろう。首元には重そうな真珠のネックレスと、耳たぶには揃いのピアスをしており、きっと思惑どおりの相乗効果をもたらすのだ。 
 アクセサリーといえば、書類を持つ左手の薬指は、銀色に光っている。いや、正確に言えば光ってはいない。かなり傷がついていて、年季が入っているように見えた。シンプルで飾り気のない指輪は、事務的なように素っ気なく、高貴な女と安っぽい指輪のちぐはぐさは、どこか哀愁を感じさせた。
 いったい、旦那はどんな男だ。結婚生活は長そうだが、稼ぎのない男だろうか。デキる女にありがちな、いわゆるダメ男好きってヤツかもしれない。
 小五郎はそこまで考えて、椅子にどっかりと腰を下ろした。
「……フン!」
 自分で始めた観察ゴッコの結末に、すぐに嫌気がさしていた。ダメな亭主をもつ、ヤリ手の女弁護士。小五郎の妻は、夫の目にすら、そう見えた。
「そうね。せいぜい及第点、ってところかしら」
 そう言った妻の声は、明らかに不満げだった。あまりの言い草に、小五郎は座ったばかりの椅子から立ちあがり、思わず語気を荒げた。
「せいぜい及第点、だぁ? そりゃ、口で言うのは簡単だよ! 忙しい売れっ子の私立探偵をつかまえて、よくもそんなことが言えたもんだな!」
 小五郎は最近、世間で名探偵と持てはやされている。なぜか最近、妙に殺人事件に居合わせることがあり、それを見事に解決することが報じられているからだ。けれど、そんなボランティアみたいな活動では、報酬はなかなか入ってこない。普段は人探しとか、浮気調査とか、弁護士に頼まれた調査をして、生活を成り立たせている。
 小五郎の今回の依頼人は、妻の英理だった。開業弁護士をしている妻は、業界じゃ名うての弁護士であるらしい。わざわざ聞きもしないのに、娘や友人、警察関係者や、新聞雑誌までもが、お節介にそう教えてくるのだ。彼はいちいち聞かなくても、英理が誰よりも優秀であることは、嫌というほど知っている。
 二人の歴史は長い。幼なじみとして、幼稚園からの付き合いだった。英理は幼いころから聡明で、常に人の期待や羨望を一身に集めながら、決してそれを裏切らない人間だった。小五郎はヤンチャな男子という立場から、その姿を一番近くで見守ってきた。
 優秀な英理と、不良少年の小五郎。一見噛み合わないように見える二人は、どうしてだか燃えあがるような恋をして、学生結婚をした。若さの勢いで乗り切った当時の生活は、いま思えば経済的にかなり苦しいものだった。それゆえ、質のいい結婚指輪を用意できなかったことに、彼は後ろめたさを感じて、未だに引きずっているのかもしれない。たいていの結婚指輪は、傷が付いてくすんでいるもので、誰も哀愁など感じはしないだろう。英理も、特に丁重に扱っている様子はない。それどころか、雑な扱いをしているくらいだ。
 たとえば、海水浴場で、うっかり砂浜に落として、なくしたり。
 そうだ。まるで捨てた夫と同じように、大切にしていない。家出をしたきり帰らない小五郎の妻は、家庭というしがらみから逃れ、仕事に生きることを勝手に選んだ。その成果が、このご立派な個人事務所だ。一流企業の顧問で高額な報酬を得て、裁判では負け知らずだという。ここまで綺麗に踏み台にされると、もう、あっぱれとしか言い様がない。
 そんな女弁護士は、最近、この部屋に小五郎を呼びつけるようになった。わざわざ自分の夫に仕事を頼むなど、よほどの事情がない限りしてこなかった妻が、なぜか急に豹変した。英理は細々とした案件を中心に、様々な仕事を小五郎に依頼するようになったのだ。収入の不安定な私立探偵にとっては、金払いのいい上級の客ではあったのだが、それはもちろん、彼の個人的感情を抜きにすればの話である。
「この程度なら、眠りの小五郎とやらを、わざわざ雇った意味は、なかったわね」
 期待はずれね。英理はきっぱりと言い切って、資料をバサリと机に投げた。
「なんだと? これでも少しは骨を折ったんだ。礼くらい言えねぇもんか!」
「ゴクロウサマ。報酬はいつもの所に入れておくわ」
 棒読みで言う声に、小五郎を労う感情はない。彼だって、妻にありがたがって欲しいとは特に思っていなかった。誰からの依頼であろうと、あくまでビジネスライクにこなそうと、小五郎は強く意識していたからだ。探偵という、人間の闇を請け負う仕事をするための、彼のもつポリシーだった。だから英理に渡した報告書は、端的で事務的で淡々としたものだが、ちゃんとオーダーには応えているので、その内容に不満を持たれるはずがない。期待はずれね、などと言われれば、プロとして黙っていられなかった。一介の探偵以上の特別な成果を求めているなら、あまりにそれは理不尽だ。
 ――奥さん。憂さ晴らしがしたいんなら、一晩じっくり付き合いますよ。 
 目の前にいるのが英理以外の女であれば、彼はそう言っている。昔から英理にだけは、甘い言葉が吐けない、諸般の事情があるのだ。代わりに小五郎はくるりと回転し、英理に後ろ姿を見せた。その背中は、高貴な女に、情けなく映っていることだろう。
 英理には決して言わないが、彼には妻の依頼だけでなく、色々と都合がある。実際に昨日は徹夜であったし、しばらく家にも帰れていない。くたくたに草臥れていた。
「この、高飛車イヤミ女め。あーヤダヤダ!」
 四十も見えてきた身体に、疲れが一気に降りかかってきた。英理は報告書を机に捨て、それはまるで、大雑把に読み流した、用済みの朝刊のようだった。
「ねぇ、あなた。他にも頼みたいことがあるんだけど」
「オイオイオイオイ、いい加減にしろよ……」
 完全なオーバーワーク。これ以上の労働は、命に関わりそうだった。まともに礼も言わぬまま、どんな顔で図々しいことを頼めるのかと、その厚顔ぶりを見てやりたいと小五郎は思った。思ったが、振り返らず背中で返事をした。
「ケチなこと言うのね。あなたは女性からの依頼なら絶対に断らないって、聞いてるわよ」
「お前は別だ。だいたい、弁護士として、そこらの探偵に仕事の依頼をしてるんだろ? それともなにか? 女房として、旦那に頼りたいって思ってんのか? そのつもりなら、もうちょっと可愛くお願いしてみろ」
「なんで私が! あなたに媚びを売らないといけないの? そんなこと言うなら、この仕事は、他の人に回しますからね」
「……あのなあ」
 英理の拗ねたような声に、つい振り向くと、膨れた顔と目が合ってしまった。英理の目は小五郎を睨んでいるが、問題はその下にある尖った唇である。小さくて真っ赤なそれを見て、小五郎は複雑な顔をした。英理の男勝りな仕事ぶりとは相容れない女の艶が、小五郎の疲労感を、ますます悪化させていく。
「あなたが断るなら、他人に頼まざるを得ないじゃない?」
 英理は腕を組み、椅子の背にもたれて、座りながら器用に小五郎を見下ろした。その態度は高慢なのに、他の人間に頼ってもいいのかと、男心をくすぐる発言をしている。
 こういうところも苦手だった。本人は、女を武器にしているつもりなど微塵もなく、むしろ極端に嫌う潔癖なタイプであることを、彼はよく知っている。
 これだから天然は始末に悪い。この性格とウンザリするほど付き合ってきた小五郎は、無駄だと知りつつも、たしなめる気持ちが、いつも芽生えてしまうのだ。
「それが、人にモノを頼む態度かよ? 普通に仕事を頼みたいなら、それ相応の礼儀があるだろ。偉い弁護士先生は、人に下げる頭も持ってねぇのか」
「あなた、仕事に困ってるんでしょ? 前に蘭が愚痴をこぼしてたわよ。暇そうだって」
「イヤイヤ! ぜーんぜん困ってねぇ! 仕事の依頼ってのはな、金さえ払えばいいってモンじゃない。親しき仲にも礼儀ありって言うだろ」
「フーン。報酬は、弾んであげるつもりだけど?」
 得意げな声で言う英理に、小五郎は力の抜けた顔をした。金のことを持ち出し、まるで見当外れなことを言う妻に呆れて、腹を立てるのも馬鹿らしくなっていた。だいたい、私立探偵の代わりなど、掃いて捨てるほどいるはずだ。
 小五郎には、英理の真意がわかりかねている。どうして余計な出費をしてまで、英理が小五郎にこだわるようになったのか。嫌なら断ればいい話だろうが、元々、彼に選択肢はない。
 ――ったく、仕方ねぇな。
 小五郎は、報酬につられるふりをして、英理の頼みを聞いてやる。昔からそうだった。周りから背負わされた期待のせいか、幼い頃から人に寄りかかるのが苦手な英理は、こんな可愛げのないやり方でしか、小五郎に頼ることができないのだ。不良少年は、独りで先頭に立つ優等生女をずっと見てきたので、本人以上に英理のことを知り尽くしている。いまだに、彼が英理の頼みを断らないのは、彼女が報酬を弾む上客だからでは、もちろんなかった。 
 小五郎がいつものように口を開きかけたとき、内線のけたたましい音が鳴った。
「……え、いま? まあいいわ。お通しして」
 そう言って英理が受話器を置くと、すぐにノックの音がした。英理の承諾の声と同時にドアが開き、濁りのない男の声が聞こえた。
「お疲れさまでーす!」 
 部屋に入ってきたのは、勢いのある若い男だった。夏仕様の細身のブランドスーツに、太いストライプの入ったシャツを着ている。若々しいカジュアルな出で立ちだ。胸元には、まだ金メッキの剥がれていない新人仕様の弁護士バッジが、誇らしげに光っている。
「英理さん、今日も美人ですね!」
 男は慣れた様子で英理を下の名で呼び、ニコニコと微笑んでいる。美人、などと軽々しく言う男は、高級感溢れるこの部屋に、不釣り合いすぎて浮いていた。英理は、もらい慣れた花束を見るような目つきで、男を見ている。
「そこ、座ってくれる?」
「こちらは?」
「そこらの私立探偵さんよ」
「……こりゃドーモ!」
 小五郎は営業顔を作って男に向かい合うと、男はニコニコしたまま挨拶を返してきた。夫である小五郎を、そこらの探偵だと紹介した妻は、ツンと澄ましている。夫と紹介できない仕事上の都合があるのかと、一瞬は考えたが、英理の意地悪い顔を見て、先ほどの続きだという意図をすぐ理解した。英理のわざとらしい挑発に、小五郎は素直に苛立った。
「例の件、この方に頼もうと思ったんだけどね。有名人はお忙しいそうで」
「有名人?」
「急いで、誰か紹介してもらわないと」
「よくわかりませんけど、英理さんからの依頼なら、引き請け手はすぐ見つかりますよ。みんなやりたがるでしょ。人気者だから」
「どうやら断る人もいるみたい。ね? 名探偵さん」
 英理は、赤い唇の端を持ち上げた笑みを、小五郎に向けた。その一見美しい微笑みは、彼の目には、魔女のように陰険に見えている。
「ドーセ、お高い報酬で釣ってるだけだろ?」
「せっかくだから、彼に名前くらい売っておいたら。機会があれば使ってもらえるかもしれなくてよ?」
 ふふん、と小バカにした口調は、相変わらず小賢しい。けれども彼は大人であるので、スマートに名刺を差し出して男に名乗った。男も堅苦しい縦書きの名刺を差し出してくる。『弁護士 桃園拓也』と書かれた名刺を受け取った小五郎は、ろくに見ぬまま右手を差し出し握手を求め、男の手を力強く握った。
「気軽な浮気調査から、難解な殺人事件まで、手広くやってますんで。ひとつヨロシク」
「毛利小五郎って。もしかしてあの、眠りの? うわあ、お会いできて嬉しいです!」
「あら。あなたの居眠り、有名ね」
「そりゃあ光栄ですな! 妃先生!」
 小五郎も笑顔を作り、男と握手をしたまま首だけをひねって英理を見た。英理は慣れない呼び名に心外そうな顔をしているが、若い男の前で喧嘩を売ってきた妻に対し、いつものように甘えさせてやる気が、すっかり失せてしまっていた。
「先生、ですって?」
「さすがは名高い女弁護士さんだ。周囲に男を侍らせ、囲ってらっしゃる?」
「なにその下品な言い方! 失礼極まりないわね!」
「いやー、羨ましい限りですな!」
「……毛利さん。もう話は済みましたから、とっととお帰り頂けるかしら?」
 英理は立ちあがり、人差し指で扉をさし、冷ややかに言い放った。五秒たっぷり使って二人は無言で睨み合う。部屋には空調の音だけがし、その沈黙を破ったのは桃園だ。まるで、火が付きそうな視線に挟まれた若い男は、ぽんと手を打ち、大きな目を見開いた。
「さすが! 英理さんは良いコネを持ってるんですね。毛利探偵に頼んだ依頼なら、絶対に間違いなさそうです」
「あなた、なにを聞いてたの? もう断られたのよ!」
「そうなんですか? それは残念ですねぇ」
 英理の苛立ちは男にまで飛び火し、声は鋭く矛先を変えたが、男は笑顔を崩さなかった。
 このピリついた空気に物怖じしないのは、若いのになかなか骨があると小五郎は感心したが、残念ですねぇという、ゆるい男の言葉は、ちっとも真摯に響いていなかった。人懐っこさを装った笑顔のせいかもしれない。まあまあ、と英理をなだめるような笑顔を向けている男の横顔を、小五郎は改めて観察する。

 この桃園という男、ずいぶん甘っちょろい顔をしている。顔は整っているが目がくりっと大きく、少し目尻が垂れて黒目がちだ。すらっとしていて、身長は小五郎と同じくらい。髪型はパーマを当てているのか、少し長めの髪の先をわざとらしく遊ばせている。その風貌は一見若く見えるが、肌の質感を見るかぎり、三十路そこらという気がした。
 鼻下と顎下にうっすらと生やした髭はいやらしい。自分の甘い顔をワイルドに見せ、ナメられないように演出をしているのだろう。その微妙な男心が、なぜか小五郎には、手に取るようにわかった。
 小五郎が、桃園に好感を抱く要素はひとつもなかったし、率直に言えば気に入らなかった。それは、桃園が妻の名前を軽々しく呼んだからでも、その目つきが妻を誘惑するように、甘ったるく蕩けていたからでもない。そんなことは断じてないと、小五郎は桃園から目を離して英理を見た。英理は桃園の肩越しに小五郎を見て、また意地悪く笑った。
「だれか若くて活きの良い、優秀な探偵さんを、探してもらおうかしらね」
 英理は目線だけで、見事に小五郎をくすぐった。その視線は、女の鋭利な武器にしか見えず、目を細めて流された視線に、小五郎は胸をかきむしりたくなった。 
 そこまでされて言われっぱなしでは、女をますますつけあがらせることになる。

 ――人前でそんな顔をするな、卑怯者。 

「まあ、妃先生がどうしてもって、頭を下げてお願いしてくださるなら? 考えてやらないことも、ないんですがね」
「……あらあら。どういう風の吹き回しですか」
「ユーメージンはね、気まぐれなんスよ」
 小五郎も桃園の真似をして、薄ら寒く笑ってみせた。



 ――ザマーミロ。
 小五郎は口元を緩ませて、細い煙を吐き出した。
 あのプライドが高い女の『お願い』を思い出し、煙が格別に旨く感じた。片顔をひきつらせながら、儀礼的に頭を下げた女弁護士の、ストレスフルな顔つき。英理は見た目のとおり、プライドが高い女である。当然小五郎と二人きりなら、頭など下げないで追い払っていただろうが、今日あの場には、後輩の弁護士がいた。常識的にそこらの探偵に向かって、そんな無礼な態度はとれず、英理はめずらしく悔しそうに、大人の皮をかぶってみせた。
 自業自得だろう。小五郎は、英理の不愉快そうに歪んだ眉毛を思い浮かべる。人の仕事にケチを付けたうえ、わざとらしく他人行儀に振る舞った代償は、きっちりと払わせた。

 小五郎は気分よく頭を切り替えた。
 二十一時までハッピーアワー!、と書かれた看板につられて彼が入った店は、たまたま事務所の一階にある店だった。店の奥にある喫煙席は、たまたまロビーとガラス張りでつながっていて、たまたま人の出入りがよくわかる位置だった。たまたま、たまたま。彼は自分に言い訳をするように、テーブルの上に置かれたジョッキを見下ろした。そこには、一杯だけのつもりで頼んだビールと、灰皿と、携帯電話がある。 
 電話は一向に鳴る気配がなかった。小五郎は手首を曲げて時計を見る。英理は、二十時という、その後の予定が織り込まれたかのような時間に、彼を呼びだしておきながら、亭主と夕食を共にしようなどとは、少しも思わないらしかった。
 さきほど英理は、小五郎をそこらの探偵扱いし、女房としてではなく、弁護士として仕事を頼む意思を明らかにした。ならば、仕事とプライベートは別だと考えるべきである。だから少しの期待があった。たとえばさっきのことなどなかった顔をして、ねぇあなた。今夜はイタリアンが食べたいわ。とねだるような電話を掛けてくることに、どうしても希望を捨てきれないのだ。
 まるで万馬券だ。あの意地の塊みたいな女に、ごくわずかな可能性をどこかで期待するのは、健気ではなくバカなのかもしれない。小五郎は自分を慰めるように、再び煙草を口にした。さっきまで旨かったはずの煙がすっかり苦くなっていて、灰皿にぐしゃりと押しつけた。
 手持ち無沙汰になり、英理から渡された『お願い』に目を通しはじめる。じっくり読んでみたが、わざわざ眠りの小五郎を招喚するほどの難事件でも、景気よく報酬を弾むような厄介な依頼でも、なさそうだった。英理がなにを考えているのか、彼にはまだ、察することができないでいる。
 頭の中で仕事の手順を練り固め、ジョッキは空になり、灰皿に煙草が溜まってきても、電話は当然のように鳴らなかった。十五分ほど前に、英理の秘書である栗山緑が姿を見せたが、彼女は一人で、ということはいま、あの事務所に彼らは二人きりでいるはずだった。

 ――大丈夫だろうな。

 小五郎が足をゆすり、気を揉み始めたころ、英理はガラスの向こうに姿を現した。その隣には、にやけた笑顔を張り付かせた若い男の姿があり、小五郎はため息をかみ殺しながら、重い腰を上げた。彼の悪い予感は、いつもよく当たるのだ。
 背後から見た二人は、なれなれしい部下に、仕方なく付き合っている上司、冷静に見るとそんな距離感のように、小五郎は思えた。先ほどああ言ったものの、囲っている、というよりは、大型犬に懐かれている、というほうがしっくりきた。
 小五郎は歩きながら、完全無欠の女弁護士の背中を見ている。英理の尾行は、相変わらず拍子抜けするくらい容易くて、楽々、というより心配になるくらいだった。顔に向けられた視線には人一倍敏感なのに、なぜか後方からの視線には、ほとんど気がつかない――。
 英理は、妙に自信を持っているのだ。それは紛れもなく、幼なじみの小五郎に責任があることを、彼だけは自覚していた。
 世話の焼ける妻の後ろ姿には、未熟な少女だった頃の、守りの甘さがうっすらと透けている。鋭い眼光とは裏腹な、華奢で柔らかな背中。このちぐはぐさは哀愁などではなく、ありていに言えば、隙、というやつである。
 夫の心配をよそに、二人は連れだって、地下にあるイタリア料理店に入っていった。



   2   


 
 彼にとって、最高に幸せな瞬間が訪れた。
 この店の名物は桃の冷製パスタで、彼は自分と同じ名前の果物を愛しており、楽しみにとっておいた最後の一切れを、いま口に運んだところだった。彼の母親は凝った家庭料理を人に教える仕事をしていて、その影響で小さい頃から、味にうるさい子どもだったと、彼の母親はいつも誇らしげに言っている。
 おかげで桃園は食にこだわる人間に育った。彼は料理が趣味で、独り暮らしのキッチンには多様なスパイスを揃えており、週末にはダラダラと酒を飲みながら、腕を振るって楽しんでいる。美味しい店を巡るという娯楽を覚え、平日は外食ばかりしていたが、彼は孤独を楽しむタイプではないので、一人ではなく、いつも誰かと一緒だった。彼は食を好み、酒を好み、そして美人を好んだ。その三つが揃うと、幸せは何倍にも膨れあがる。それが彼の、至福の時だった。
「英理さん。次、なに飲みます?」
 今夜の相手は、彼好みの美人な年上女性だった。彼はそれなりに計算ができるので、狙っている女性の職場に、仕事の終わる時間を狙って顔を出すことには、手慣れていた。 
 桃園は咀嚼をしながら、対面に座る女を見つめる。白ワインの入ったグラスを掴んだ指は、細く長くしなやかで、爪の先まで神経が行き届いていた。
 彼は特に年上が好みだった。それを彼は、需要と供給が一致していると常々考えては、この国の男達の偏った価値観に感謝していた。整った彼の顔は、目元だけに個性があり、そのぱっちりと大きな目は、彼を年齢よりも可愛く見せている。彼は母子家庭で、幼い頃から年上の女に囲まれていたので、女に甘えるのが自然と得意になったし、彼を愛でる周囲の女達から、のびのびと育てられた。
 いまワインを飲んでいる女は、彼の考えうる最上級の女だった。とびきりの美人であることは一目でわかるが、それだけではない。グラスを口に運ぶシャープな顎のカーブ。いくら飲み食いしても落ちない口紅。耳横から垂らされた後れ毛の一本一本までが計算されていて、まるで隙のない、正統派なビストロみたいに磨かれている。桃園は同じタイミングでグラスを口に運んだ。彼女の美点を語るには、一本のワインではとても足りなかった。
「今夜は、このへんで止めとくわね。帰ったら、少し仕事しなきゃいけないのよ」
 桃園は残念そうに眉を下げてみせるが、英理にそう言われることに、彼はすっかり慣れっこだった。
 英理との出会いは、もう七年も前になる。桃園は学生時代に、日本で有数のローファームでアルバイトをしていて、そこに独立前の英理が所属していたのがきっかけだった。当時、その事務所にいた数少ない女性弁護士の一人だった彼女は、この美貌の持ち主だったので、存在だけでなにかと目立っていた。だが、なにより彼女を他と違うと知らしめていたのは、仕事に魂を売ったような、生き様だった。
 ――おっそろしいな、すぐ追い抜かれそうだ。
 英理より年上の弁護士たちが、感心そうに、ときに畏怖を込めた目で彼女を評価していたし、実際すぐにそうなった。桃園はやがて弁護士になり古巣に籍を置いたが、彼女はとっくに独立して、個人事務所を軌道に乗せていた。その仕事ぶりを間近で見る機会はそうなかったが、彼女の様々な武勇伝は、相変わらず耳に入ってきている。彼女は有名人だった。
「英理さんは相変わらず仕事熱心ですね。僕も見習わないとなぁ」
「そう思うなら、こんなところで油売ってないで、帰って判例のひとつでも研究しなさい」
 英理の目は厳しく彼を見据えたが、その奥には後輩を気遣う愛情がある。
「そういえば、毛利探偵と仲がいいんですか? 僕も、彼と仕事がしてみたいですね」
 桃園はのびのびと話題を変え、先ほど名刺を交わした有名人のことを口にした。あのとき二人は、『妃先生』、『毛利さん』と呼び合っていた。それは、彼らが仕事上の付き合いであることを暗に示してはいたが、あの短いやりとりの中に、どこか遠慮のなさを桃園は感じとり、奇妙なことだが近くて遠い、親戚のように見えると思っていた。
 桃園は答えを促すようにゆるく微笑んだ。しかし英理は小五郎の名前を聞いた途端、目の色を変え、グラスの中身が波打つくらい、強くテーブルに置いたのだった。
「あの人! 嫌味で感じ悪いでしょ? 仲はすごく悪いの。腐れ縁ってヤツよ!」
 白いテーブルクロスに、黄色いワインがこぼれる寸前だったが、英理は瞼すら動かさない。手加減がわかっているような、慣れた怒りの表現に、桃園は少し驚いた。 
「腐れ縁? 学生時代の同級生とかですか?」
 そうね、と英理は器用に片眉を吊り上げる。
「仲が悪いのに、ご指名で仕事を頼むなんて、名探偵の手腕ってすごいんですね。ますます興味が湧きますよ」
「あんなの、大したことないわよ」
 英理は、自らの行動と矛盾したことを言っている。なにか複雑な訳がありそうだと、桃園は敏感に察知し、そこにひとつの可能性が浮かんだ。
「同級生って、もしかして元彼なんじゃないですか?」
 英理は桃園の言葉にぎょっとしたあと、感情の読めない顔で笑った。
「ハ……そのようなものかしらね」
「やっぱり! 毛利探偵と英理さんって、なかなか意外な組み合わせですね」 
 桃園は英理の男性遍歴のことを想像しながら、左手にはめられた指輪を見た。英理が既婚者であることを、彼はときどき本気で忘れてしまう。英理が夫の話を滅多にせず、家庭的な匂いも、男の匂いも、させていないからだ。
 英理は最近、『法曹界のクイーン』とひそかに呼ばれ、崇め恐れられている。クイーンとは、妃という彼女にぴったりの苗字からとったあだ名であったが、どうやらその知られた苗字は英理の旧姓であるらしく、その私生活の謎めきに、ますます拍車をかけていた。
「英理さんってご主人とは、まだ別居中なんですよね?」
「そうね、まだ独りでいるわ。気楽で良いわよ」
 桃園が知る情報は、英理が桃園と知り合った当時から、すでに独り暮らしをしていたことと、高校生になる娘が一人いることくらいだった。その長い別居期間と彼女の冷淡な態度で、子どもを理由に別れられない、形骸化した婚姻関係なのだと周囲は想像していたし、彼もそう考えていた。
 だから桃園は不思議に思った。彼は、『まだ別居中で離婚をしていない』という意味で聞いたのだが、英理はまったく逆の意味に捉えていたからだ。
 ――まだ、同居をしていない。
 謎は深まるばかりだった。 

「英理さんの高校時代って、セーラー服でした? すごく可愛かったんだろうなぁ」
 桃園はまたのびのびと話題を変え、英理は突然切り替わった話題に、怪訝な顔をした。桃園は、小五郎と付き合っていた頃と思しき英理の姿を、思い浮かべて楽しもうとしていたが、目の前の彼女から当時の面影を探すことは、とても困難だった。その質問に、英理は簡潔に答えた。
「ブレザーもいいですね。当時は彼氏になんて呼ばれてました? やっぱ、英理ちゃん?」
「やめなさい」 
「あれ、照れてる。可愛い」
 英理は最後の一口を飲み、無慈悲にテーブルの中央へ手を伸ばした。そこには黒革に包まれた伝票が置いてある。普通なら男性側に置かれるそれが、英理との年の差や、それ以外の格差を実に客観的に表していた。桃園がいつものように開きかけた口を、英理も同様に手のひらで制して言った。
「気を遣わないで良いのよ。いつか独立したら、たくさんご馳走してね」
 桃園は心のなかで溜息をついた。隙あらば英理を口説こうと考えているのに、英理は、二人の食事で桃園に会計をもたせたことなど、ただの一度もなかった。純粋な後輩に対する、彼女の線引きは、いつも明瞭で手際がいい。本音を言えば英理を二軒目に誘いたかったが、彼女は帰ったら仕事をすると、きちんと釘まで刺している。
 桃園が英理の指を見ながら考えていると、ふと、英理の伸ばした手が止まっていた。
 テーブルの上に浮かせたまま、英理の視線は桃園の頭上を突き抜け、固まっている。

「――さきほどは、ドーモ!」
 目線の先にいたのは、毛利小五郎だった。
「あらあら、どうも……。若い女性もご一緒で。デートかしら。奇遇ですこと」
「ええ、まったくですなぁ!」
 小五郎は、女を連れていた。二十代前半くらいの華美な女は、髪を華やかに飾っていて、夜の街の香りをさせている。この店は英理の事務所の近くで、銀座もすぐそこだった。中年男性と華やかな女の組み合わせはよく見かけるので、どこから見ても贅沢な大人の遊びだと、一目でわかった。
「フン!」
 小五郎と英理は、同じタイミングで同じように言って、顔を背けた。小五郎は彼らの脇を通り、女性を連れて奥の席へ案内されている。女性をエスコートする仕草はとても手慣れていて、大人の社交のように桃園には感じられた。英理は伸ばしかけていた手をしまって、やはり同じように彼を見ていた。
 小五郎は、彼らの視線が気になったのか、再び二人の元へやってきて、今度は弾けるような笑顔を見せた。
「やっぱり男を囲ってるじゃないっすか。お盛んで羨ましいですなぁ!」
「……そういう毛利さんこそ、ずいぶんと、羽振りがよろしいようですわね? あのバカみたいに高額な着手金も、払いがいがありますわ」
 桃園は彼らに挟まれて、交互に二人を見た。表情と言葉が噛み合っていない彼らは、かつて男女の関係だったという。それなら、この微妙な雰囲気も頷けるのだが、二十年くらい昔の話にしては、その怒りは生々しすぎるようにも思えた。
 表情は微笑んではいるが、目には輝きが失われ、不愉快そうに濁っていたし、声も穏やかではあるが、会話の中身はまるで喧嘩そのものだった。小五郎は腰に手を当てふんぞり返り、英理は腕組みをして、顎を上に向けている。 
 小五郎は突然真顔になって、ひとつ、咳払いをした。
「懐に入った金をどう使おうが、オレの勝手だろ」
「どーぞどーぞ! ご自由に!」
 言葉も急に砕けて、英理の顔色が、かあっと赤く染まった。
「そーいうお前こそ、人のこと言える立場か? いい年こいたオバサンが、若い男に入れあげてるの、端から見てると見苦しいぞ?」
「あら、気になる?」
「みっともねぇって、言ってんだがな?」
「ホホホ……」
「ハハハ……」
 二人は目を据わらせたまま、笑顔で笑い合っている。雷が落ちてきそうな険悪なムードなのに、顔にはお面のように張り付いた微笑みがあった。桃園は背筋が寒くなってきて、ブルッと身体を震わせた。
 英理は唐突に、笑顔を桃園へ向けた。
「桃園君、行きましょ? こんな人がいる店じゃ、落ち着いて話もできないわ。どこか雰囲気のいいところで、飲みなおしたいわね」
 英理は鞄を持って立ちあがり、今度こそ伝票を手に取った。その目はずっと小五郎を睨んでいて、桃園が見ていたのは、英理の背中だ。

 ――あ、隙あり。

 桃園は背後から英理の肩と手首を掴んで、手に持った伝票を、したり顔で取り上げた。英理は小五郎に気をとられすぎて桃園を見ておらず、突然伸びてきた手に戸惑って、大人しく黒革に包まれたそれを、手渡していた。
「たまには、ご馳走させてくださいよ」
「……あら、ありがと。じゃあね、名探偵サン。ごゆっくりなさって」
 英理はごく自然な流れで、桃園に腕を絡ませた。それを見て驚いたのは男二人で、英理は誇らしげに小五郎を流し見して、得意げに口角を上げている。 
 腕が――。と桃園の頭の中は英理の感触でいっぱいになった。戸惑いと喜びと、奇妙な感覚に包まれていると、そのままぐいっと強い力で引きずられた。英理は見た目より力が強いらしく、横を過ぎるとき指にギリギリと力がこめられ、捕まれた腕が痛かった。
 英理は不意に立ち止まった。クルッと小五郎に振り返り、手榴弾を放り投げるような物騒なことを、思い切り言い放った。
「彼はね、あなたなんかより若いしスタイルもいいし、凄く元気なんですからね!」
「元気だぁ!?」
「そうよ! 徹夜で仕事だって全然へっちゃら! フットワークだって軽いし、誰かさんみたいに、くたくたにショボくれてないの!」
「バーカ! 紛らわしい言い方すんな!」
 桃園も小五郎と同じように驚いていた。『若くて元気』なんて男に向かって言うのは、捉え方によっては誤解を招くものだった。流れからそうではないことがわかるが、その絶妙なワードに桃園は色めきだって、遠慮して閉じ気味だった口を開いて、高らかに言った。
「毛利探偵、お先に失礼しますね!」
 英理の元彼だという小五郎に対し、少しふざける気持ちがあったので、桃園の口調はからかうように響いていた。けれど小五郎はその言葉には動じずに、呆れたように眉をしかめただけだった。挑発に乗るどころか、彼の目は憐れんだようにすら感じられ、小五郎は小さく髭を動かして、ご愁傷様、と言った。その発言が誰に向けられたものなのか、発した本人以外には分からなかった。
 小五郎が英理に目を移すと、その瞳の色が深まったように、桃園には見えた。どこか世話を焼くような、心配するような、目つきは鋭いのに黒目だけが、静かに変化した。

 ――そうか、特別な関係なんだ。

 桃園は遅まきながら、ようやくそれを理解した。小五郎と英理は、過去に訳があった関係ではなく、現在進行で、こみいった訳がある関係なのだった。つまり、そういうことだった。
「チヤホヤされて図に乗ってると、痛い目みるぞ、オバサン!」
「はあ? あなたこそ毟り取られて泣いても、知りませんから!」
 英理は目をぎゅっと閉じて、舌を出し、まるで子どもみたいな表情を見せた。
 桃園が英理の表情に見入っていると、また腕を強く取られ、されるがまま蒸し暑い外界に連れ出されていった。




   3   


 
 英理は切れ切れの息を吐きながら、カウンターの向こうにいる、白髪交じりの男をじっと見た。手に鞄を引っ掴み、店を飛び出して歩いた明るい夜の街。こつこつこつこつ、と強く鳴らしたヒールの音が、足を止めた彼女の頭に、まだ聞こえている。英理はこのあたりで酒を飲むような店をあまり知らず、さしあたり、間違いなさそうな有名な老舗のバーへ足を急がせた。二階にある店への階段を登りきる頃には、喉の奥が引っついていたので、鞄を置くより先に、言い慣れない酒の名を口にしていた。
「英理さんって、お酒強いんですね」
「さあ、どうかしら」
 曖昧な返事をする。英理はどちらかといえば酒に強い方ではなかったが、自分の規定量をわきまえていたし、一軒目のワインなら三杯まで、二軒目のカクテルなら二杯までと、きちんと決めていた。けれど今夜はルールを無視したくなるくらい、とにかく強いアルコールを摂取したい気分になっていた。自分は自棄になっている。ヤケ酒、なんて言葉は、まさにいま使うべき言葉なのだと、英理は棚に並べられている様々な形の酒の瓶を、端から端まで眺めながら思った。
 今夜はまだ時間が浅いのか、昨今の景気のせいなのか、カウンターに客は一人もおらず、テーブルの蝋燭にさえ、まだ火が灯っていなかった。暇を持て余していた達人風情のバーテンダーはすぐにシェーカーを振り、目の前にマティーニグラスが差し出されてくる。英理は串刺しになったオリーブを脇へ除けて、くっと一息で飲んだ。強いアルコールで腔内から喉までがヒリついて、頭に上った血が少しだけ冷える気がした。
 前に立つ男が、目を丸くして英理を見ている。その道のプロが作った酒に対し、いささか無礼な飲み方をしてしまったことを詫びるように、少し困って微笑んだ。男性も意味ありげな微笑みを返してくる。同情されたかもしれない。
 気まずくならない程度に視線を外すと、そこには若い男の左手が置かれていて、あのとき英理が掴んだのは鞄だけでなく、この男の腕だったことをいま思い出した。彼の手は細いけれど骨が太く、色がちょっと焼けていて、サーフィンやフットサルのような、健康的なスポーツが趣味なのかもしれないと、話題の糸口になるようなことを、英理は探した。
 顔を上げると桃園も同じ酒を口にしていて、彼女はまた自分の無礼さに恥じ入った。英理はあの食事をしていた店で、女連れの夫に対抗するかのように、彼のことを利用したのだ。
 説明もなしに、まるでパワハラのように年上の女に無理強いされ、きっと嫌な気にさせただろうと英理は急に我に返り、謝罪の言葉を口にした。
「ごめんなさい。強引に連れてきちゃって……」
「そんな。嬉しいですよ。まさか英理さんと二軒目に来られるなんて。いつも誘ったってツレないんですもん。役得です」
「……ありがと」
 桃園は、いまどきの優しい子だと英理は思った。彼は英理に限らず、女性にはみな優しいことをもちろん知ってはいたが、その温水プールのように生ぬるい言葉でも、いまの英理には少しだけ染みた。けれど彼女の心のなかでは、優しさとは決して混じわらない、小五郎の厳しい言葉がぽかりと浮きあがるのだ。英理のことを『みっともねぇ』と言い切り、女連れで不敵に笑った小五郎の顔が、彼女の頭からずっと離れない。
 ――あのスケベオヤジめ。
「英理さんの、ご主人だったんですね。だったら、そう紹介してくれればいいのに」
「あのエロオヤジのこと?」
 桃園は英理に似つかわしくない『エロオヤジ』という発言に目をむいて、その言葉を呟くように復唱した。英理は手をヒラヒラさせる。意味のない言葉をわざわざ説明する気にもならなかった。
「紹介するほどじゃないと思ってね」
「変なの」
 英理が小五郎のことを夫だと紹介しなかったのは、本当に意味などない、ただの嫌がらせであったし、小五郎が売ってきた言葉を、言い値で買っただけだった。『女房として頼りたいのなら、可愛くしろ』そんな言葉に苛つかないでいられるほど、英理は素直な女ではない。
「ねぇ、女好きの男って最低だと思わない? あの悪癖は一度目覚めたら、生涯直らないみたい。救いナシよ」
「それは、耳が痛いなぁ。僕も女性が好きだから、気をつけないと」
 桃園は軽い感じで笑った。英理が彼に抱いているイメージは、健康的というほかに、まさに年齢に見合った軽快さを持っている人間で、その若さゆえの軽々しさが仕事のときは鼻につくとすら感じていた。顧客は自分によく似た弁護士に、自然と引きつけられるもので、彼の客は女性が多く、相談内容も、浮気された妻からの離婚相談ばかりだと、彼は語っていた。英理はもちろん納得した。
 桃園はどこで学んだのか、自分の武器をよく心得ていて、彼の甘い顔に似合った表情の作り方を見ながら、彼には弁護士なんかより、もっと天職のような仕事がありそうだと、常々思わされていた。それくらい、彼の口からは、半ば義務のようなお世辞が発せられるのだ。きっと女を喜ばせるような、華やかで浮いた仕事が向いているだろう。
「そんな、恋愛のエキスパートみたいな顔をして。あなたも彼女がいるなら、大事にしてあげなさいね。女遊びなんか絶対ダメよ」
「いやあ、いまは仕事一本ですよ。遊ぶ暇もなくって」
「使ってもらえるのはこのご時世、幸せよ。何事も勉強だと思って頑張りなさい」
「忙しくて吐きそうで、女の子と飲みに行く暇もないんですよ? だから弁護士同士の夫婦って、多いんですかね」
 ――まあ確かに、私は女の子ではないわね。
 桃園は間もなく三十路を迎えるくらいの、立派な大人ではあるが、三十七の英理から見たら、やはりまだ男の子だと、こういうときに感じさせられる。いくら彼女が年増盛りとはいえ、処理の甘い言葉の端に込められた本音に、女としては敏感にならざるを得ないのだ。桃園は疲れた顔で飲みに行く暇もないと言ったが、彼は顔を合わせるたびに英理を食事に誘ってきたし、渋る様子を見せても、強引に英理を連れ出すこともあった。まあ食事だけならと、仕方なく応じていたときもあったくらいなのに、女の子と飲みに行けないから、代わりに年増に付き合っていると言われれば、あまりいい気持ちはしなかった。
 桃園は黙った英理に向かって、自分の武器である甘い微笑みをぶつけているが、そんな青い男の戯れが、英理に効かないのは当然だった。
「弁護士同士の夫婦ねぇ。個人的には弁護士との結婚は、あまりオススメしないわ。どうしたってプライドの高い人が多いから、泥沼で悲惨な末路を迎えることになるわよ」
 桃園は乾いた声で無邪気に笑う。英理はふと、彼の笑い顔しか見たことがない気がした。彼はオンでもオフでも常に笑っていて、その顔はとても可愛らしく、女性達に人気があることを、情報通の栗山から聞いていたし、彼も満更でもなさそうに、いつも微笑みを絶やさなかった。
 英理は、桃園の自信に裏打ちされた笑顔を見ながら、自分の夫のことを思い出さずにはいられない。小五郎にも、確かにそういう時代があったし、彼は桃園とタイプは違うけれど、同様に年上の女に可愛がられるタイプだった。
「英理さんも『泥沼で悲惨』なんですか? いつから帰っていないんでしたっけ」
 その年月はたったの一言で済んでしまった。十年。英理は呟くように言った。
「え、そんなに? どうしてなんです?」 
 家庭の触れにくいような話題に、堂々と切り込んでくるのは、やはり若さだ。英理は幾度となく聞かれるこの質問には、いつも夫との不仲を語らざるを得なくなり、辟易として、溜息よりも重い言葉を吐くのがお決まりだった。
「腐った縁はね、中々切れないの。いいかげん嫌になるわ」
「なんか、複雑そうですね?」
「どこの夫婦にも少なからず、問題があるものなのよ。だんだんとわかってきてるでしょうけど、これからもっと身に染みてくるから。世の中には色んな夫婦の形があって、それだけの幸せと諍いがあるの」
「ふうん。人生は短いのに。サクッと別れて再スタート、ってわけにいかないですか」
「……いろいろあるのよ」
 英理が仕事の話題に逸らそうとしても、桃園はそれに食らいついた。英理はこういうとき、海よりも深い訳がありそうな顔を作って、曖昧に困って見せ、大人ならばそれで十分に意図は伝わるはずだった。
 桃園はなにも気がつかないという顔をして、グラスを口に運びながら英理を見ている。
「それでも、仕事上の付き合いはあるんですね。おもしろい。名探偵と弁護士の夫婦って、小説みたいですね」
「桃園君は? 好きな人とかいないの?」
 桃園はマイペースで遠慮がない。この押しの強さは仕事では必須だが、いまは仕事ではないし、英理は自分の話をすることがあまり好きではないので、話題をできるだけ自分から遠ざけようとした。
「いますよ、好きな人。いろいろ上手くいかなくて、結構悩んでて。英理さんくらいの年の女性って、どういう恋愛が理想なんですかね」
 桃園はまた年の話をした。恋愛、と言われても英理の周りには既婚者が多く、いい例が見つからなかったので、頭に仕事で知り合った女性達を、たくさん思い浮かべた。女はタフだ。
「早まった結婚に見切りをつけて、相談に来る人はたくさんいるけど」
「英理さんは年下の男って、どうですか。甘えられるのとか、経験あります?」
「甘える? そんなこと、考えたこともなかったわ」
 英理の夫は、年上に取り入るのが上手かったが、彼らは同い年なので、少なくとも英理に対して、そういう顔を見せたことはない。おそらく今後もないだろう。いまの自分達のあいだに、そんな甘い空気は流れるはずもないのだ。経験があるかないかと聞かれれば、なかったので、 男が甘えるってどんな感じなのかしら、と英理は思い浮かんだ疑問を、そのまま口にした。

「……ほしいな」
「え?」
 突然、桃園の声がワントーン低くなった。
「好きなんです」
 英理のグラスに残っているオリーブの実を指で差し、甘い表情で大きく口をあけた。
 ――なんだ、そういうこと。桃園が見せた突然の実演に、英理は包まれた妙な緊張を解いて、指でオリーブの刺さったピンを摘んだ。
「困った子ね」
 英理はやむなく手を彼の口元へ持っていく。丸い果実についた酒が、添えた彼女の左手を湿らせた。使い慣れた桃園の表情を見て、慣れというのは人の心を動かさないのだと、英理の心のなかは真顔だった。『痛い目見るぞ』などと言った小五郎の言葉は、英理にとって見当違いも甚だしかった。
 英理には、桃園の将来が、お節介ながら心配になるくらいだ。武器は相手を選んで振るいなさいと、厳しく忠告してやりたくなったが、きっと大きなお世話だろうと、大人らしく黙っておいた。
「早く結婚したら?」
「結婚ですか? 英理さんが旦那さんと、もし離婚したら、僕も考えようかな」
「は? 離婚? 私が?」
 その言葉が今日の桃園の言葉で唯一、英理の心を揺さぶった。英理にしても、つい先日まで、その二文字が頭によぎらないわけでは、なかったのだが。

 この夏、信じられないことに――英理は夫に、惚れてしまった。

 英理は激しく動揺しながら、自分の腿のうえに置かれた左手の指輪を触った。
 冷えた夫婦仲を取り持とうとする、一人娘の健気なたくらみにより、小五郎と英理は、久しぶりに伊豆の海で再会した。数ヶ月ぶりに会った夫は、水着の英理の後ろ姿に、浅ましい言葉を掛けてきた。相変わらずの軽薄な表情、妻の体型を忘れてしまう薄情さ、英理の顔を見た途端、不愉快そうに顔を歪めたことも、あのときの英理にはすべて腹立たしかった。
 ――帰ってきたくないのなら、もうしらない!
 八つ当たりのように、長年苦楽を共にした指輪を、真夏のビーチに置き去りにした。ビーチで身を隠したように出てこなかった指輪は、まるで英理を拒絶している、夫の心のように彼女には思えたのだ。
 ところが、その分身は、ちゃんと英理の元に帰ってきた。
「なくすなよ、大事なモンだろが」
 小五郎が、指輪を投げてよこしたとき、そんな声が、聞こえた気がした。
 二杯目のカクテルに口を付けながら、瞼の裏に思い浮かべるため、英理は目を閉じた。

「……なんだか、今夜の英理さんって、普段と顔つきが違いますね? 女の子っぽい」
「それって、普段がまるで可愛くないみたいに、聞こえるけど?」
「いつもはほら、キレイ、近寄りがたい、恐れ多い、って感じです。旦那さんのことと関係があるのかな?」
「やめなさい! せっかくのお酒が不味くなる」
 英理は桃園の言葉を食い気味に否定した。感情が顔からぼろぼろ漏れ出ているのを、自分でもはっきり感じていたからだ。慣れない話のせいか、強い酒のせいなのか、英理は首が痒くなってきて、グラスで冷えた指先を自分の首に当てた。いまの英理にとって、小五郎は唯一の弱点なのかもしれない。
「僕で良ければ、いくらでも聞きますよ。旦那さんの愚痴でも……のろけでも?」
「のろけ……」
 愚痴なら山ほどあるんだけど、と英理は言いかけて口をつぐんだ。その先の展開は火を見るより明らかで、この無遠慮な若者なら、きっと面白がってからかうに決まっている。むき出しの弱点を晒して、彼女は普段のように冷静でいられるか、自信がなかった。
「だっていま、すごく可愛い顔してますもん。それをじっと、眺めていたいです」
「もう! そういうイジりは今後禁止よ!」
 ホラね、と思いながら、英理は首だけでなく顔までも熱くなり、桃園を睨んだ。やはりいつものような厳しい表情は作れなかった。彼はちぇ、と拗ねたように言ったあと再びニコニコと微笑んで見せ、英理はさすがに呆れて言った。
「帰るわよ。そんな風に誰彼構わず愛嬌を振りまいて、女性問題でも起こさないように!」
 英理は、ずっと心にあった忠告をしたあと、勘定を頼んで財布を取り出した。
 感情にまかせて酒を飲み、正体をなくすような『みっともない』真似はすまいと、天から引っ張られるように、強く背筋を伸ばした。



 ――ただいま、と英理は小さな声で言ったが、出迎えはない。
 英理はいつもリビングの明かりを付け、エアコンを効かせたまま外出をする。留守番をさせている老いた家族のためだ。以前はよく事務所へ連れて行ったが、年をとったのか外出を嫌うことが増え、独りで留守番をさせることが、多くなっていた。
 ずいぶん長い月日が経ったと、もうすっかり老猫になった茶色と黒ブチの丸い背中を見ながら、英理は目を細める。英理の与えた名前のとおり、元々ゴロゴロしがちな仔だけれど、最近はもっと寝ている時間が増えたことに、英理は気付きたくなかった。
 英理は家を出てからずっと、仕事に身を捧げている。彼女が二十七歳で夫の元を離れたとき、人生ではじめての独りの部屋は、彼女を弱くさせるどころか、強くて頑固な女にした。
 独り暮らし、旧姓での活動、事務所の独立。ひとつひとつの根が伸び、太くなって、彼女は徐々に、小五郎の妻として、身動きが取れなくなっていった。 
 どうしようもなかった。英理がこの部屋に新しい家族を迎え入れたのは、困っていた友人を助けるためだったが、救われたのは、むしろ自分の方だったと、いまなら思う。英理には愛情の注ぎ先が必要だった。夫に愛情を注ぐことを、一度諦めたからだ。
 
 まさかこの年になって、夫に惚れ直すなんて、思ってもみなかった。
 英理がこの夏、小五郎を盛んに呼び出しているのは、単純に、好きな男に会いたいからだった。指輪が飛んできた瞬間から、英理には歩み寄りたい気持ちが芽生えていたけれど、彼女はいつの間にか、仕事の口実でも作らなければ、自分の夫に会うこともできない女になっていた。
 喧嘩をしている期間が長すぎたせいかもしれないし、しがらみが増えたせいかもしれない。最初は苦労した仕事にもすっかり慣れ、いまでは、夫を自分から食事に誘うことの方が、どんな不利な裁判よりも難しく思えるくらいだ。英理は、今夜のやりとりを思い浮かべながら、失敗の原因はあの一言だったと、眉根を寄せて考えた。
 ――期待はずれね。
 八つ当たりだが、そう言いたくもなった。小五郎の皺のよったスーツに、ぱりっとしない顔。全体的に草臥れたその姿は、彼から受け取った報告書の厚みに、まるで見合っていなかった。
「お父さん、昨日も帰ってこなかったの。仕事が忙しいみたいで、ちょっと心配」
 今朝、英理は娘からそう聞かされていた。英理が夏休みの宿題のように頼んだ仕事は、本当に山のようにあって、きっとそれに追われているに違いないと、思っていたのだ。
 泊まりで仕事なんていって、女のところにいたのかも――。
 報告書を読み終えたときに、英理が最初に思ったことはそれだった。一度そう考えたら、気を揉まずにはいられなくなり、英理は気づくと彼に酷い言葉を吐いていた。桃園に声を掛けられ、流されるように食事をしている間もずっと、心では鞄の中の携帯電話を握りしめて、ぐっとこらえていた。
 きっと若い頃なら、その場で問い詰めていただろう。けれど、素直にそれができたなら、こんなに拗れていないのだ。スケベな顔と女をエスコートする所作を思い、それを向けてもらえなくなった自分が憐れで、英理はいま拳を強く握って、独りでネクタイを締め上げている。
 腹の底が、どんよりとした。彼女は歩み寄りたいと思っても、若い女達に対抗できる武器を、もう持っていなかった。過ぎた時間と引き替えに手に入れたのは、色気でも寛容さでもなく、地位と名誉とお金である。そんなもの、彼の瞳の中では輝かないことを、英理は痛いほど知っていた。
 若い女の店にデレデレしながら通いつめ、若いアイドルのお尻を追いかけている男。女好きで、美人に簡単に目を奪われ、妻に背を向ける男。うるさい女房がいなくなって、清々したと言わんばかりに遊びほうけている男。 
 英理が強く握った拳を開くと、そこはカサカサに乾いていた。アルコールのせいなのか、心のすきま風のせいなのか、ともかく今夜は飲み過ぎたかもしれない。あの海で潤いかけた心も、同じように萎れていくのかと、英理はもう溜息すら出なかった。






――3章までのサンプルです(全12章)