旦那様には敵わない

 

 

 

 







 



 斜めがけのビジネスバッグってどう思う?
 オジサンがよく使っている、旅行鞄みたいに沢山入るタイプのものなんだけど。格好悪いかしら。けどこの鞄、もう限界みたいなのよ。最近、手荷物の量が増えすぎで、肩こりがヒドいのよねぇ……。
 
 カーブを切ると、助手席に置いてあるトートバッグが遠心力で扉にぶつかった。電車通勤なら間違いなく、満員電車で舌打ちされそうな大きさのバッグだ。
 有希子と会話をしながらの帰宅。片耳のヘッドセットを用いたハンズフリー通話は、運転中でも会話ができて便利でいい。プライベートな空間なので話の内容も他人に聞かれる心配がない。
 華やかで可愛らしく、よく通る声をしている彼女は元芸能人で、その近況報告はまるで、彼女のラジオ番組を拝聴しているかのように感じられた。だから英理は、つい相づちをうち忘れてしまいがちだ。

「ちょっと~。英理ちゃん聞いてるのー? 誰もバッグの話なんて聞いてないんだけどォ?」
「あら、そこまでは酩酊していないのね」
「だーかーら、酔ってないって!」
「有希子。あなたそれ、酔っぱらいの常套句よ。赤と白のハーフボトル1本ずつってとこじゃない?」
「さっすが英理ちゃん。お見とおし? おかしいわねぇ。声にはあんまり出ないはずなんだけど」

 確かに声には落ち着きがあり、酔っぱらいのそれとは違ってはいた。ではなぜ、有希子の飲んだ量までが正確にわかったのか? それは簡単。話の内容が、かなり赤裸々だからである。
 誰もが羨むような旦那との甘い生活についての報告。のろけ話だ。小説家の男性と電撃的な恋に落ちた少女は、もう二十年近く、当時の情熱を保ち続けている。友の幸せ話を聞くのは喜ばしい。ええ勿論、喜ばしいけれども、深夜ラジオでこんなトークが流れてきたら、英理は無表情でチャンネルを変えるタイプでもある。

「英理ちゃんは、週に何回するの? ていうか、最近どーお?」

 こちらの薄い反応を察したのか、突然そう話を振られて、英理がしたのはバッグの話だった。面倒な酔っぱらいをあしらうための誤魔化し。……にしても、あまりに色気がないのが切ない。かつて帝丹高校のミスコンを騒がせた自分達の未来がこうも対照的であるとは、当時誰が予想しただろう。

「……ったく。あのオヤジとは週に何回どころか……」
「え、週2?」
「いえなんでもないわ。こっちの話……」

 なにしろこちらは別居中の身なのだ。別居中の夫との性生活について、たとえ人のいない車内であっても、それを語り聞いてもらいたいと思わない。リスナーとして匿名相談のはがきを、送るつもりも毛頭なかった。

「んも──♡ 英理ちゃんって奥ゆかしいのね。そういうところが、いまだに小五郎君をひきつけて離さないのかしらん?」
「別に、相変わらずよ」
「こんな遅くまで仕事してるんだから、最近会えてもないんじゃない? ちょっと欲求不満なんじゃないのぉ? たまには、やさし~く抱いてもらったりしちゃったりして♡」
「はぁ?」
「そうすれば仲直りなんてすぐなんだから。ね? 良い考えだと思わなーい?」
「あのオヤジを自分から誘えっていうの? 冗談はやめて」
「演じちゃえば簡単よ。かわいく、うーんとセクシーに迫っちゃえば男のコなんてイチコロなんだから~」
「男のコって……。相手は幼稚園からずっと一緒の腐れ縁オヤジなんだけど。そんなことより私はね、エプロン姿の可愛いコが出迎えてくれたほうが千倍嬉しいわね。こうして遅く帰ってきたとき、おかえりーご飯できてるよー。なんて笑顔で癒やされたいの。オホホ……」
「性欲より食欲ってこと?」
「食事は大切って話」
「疲れすぎなんじゃないのォ? 何か声も疲れてるみたいだし。疲れて帰ってきたときって、あー! 無性にエッチしたーい♡って、英理ちゃんだって思うでしょ」
「あのね……」
「お気軽に電話しちゃえばいいのよ。普段喧嘩してたって、ラブラブで愛し合っちゃってる二人なら自然とそういうムードになるんだから。あ! 電話かけてあげよっか! 私が小五郎君に」
「ちょ」

 ちょうど車庫入れでバック駐車をしていたため、勢い余って車止めに乗り上げそうになった。有希子は異常な行動力で周囲をたびたび仰天させる。こんな冗談のような申し出にしたって、からかい半分、もう半分はきっと本気だ。酔っぱらいの暴走につき合わされて、もらい事故は勘弁願いたい。

「学生じゃあるまいし、悪ノリはやめて」
「優ちゃんなんてねぇ。徹夜明けはねぇー♡」
「……」
「あ。噂をすれば帰ってきたみたい。それじゃあ、またね♪ ちゃんと電話するんだぞ」

 そう言って唐突に電話は切れた。言い表せない疲れを感じて、盛大にハンドルに突っ伏した。



***



 と、いうわけで英理は有希子に先手を打って、電話を掛けてみたのだった。小五郎は久しぶりの英理からの電話に驚いていた。確かに、別居中の妻からこんな夜更けに電話が来たら、何かあったと思っても不思議ではない。けれど──。

「どうしたっ」

 いきなり部屋に飛び込んできた真剣な顔に、玄関先で呆気にとられて英理は目をパチパチさせた。

「どうしたって、言われても……そっちこそどうしたの?」

 そう聞き返すほどに息も荒くシャツもヨレヨレで、全力でダッシュしてきたとすぐにわかる佇まいだ。小五郎はどうやら急病や事故の、緊急事態を想定したらしい。
 小五郎は、思いこむと突っ走る暴走癖がある。用件も聞かずに電話を切って10分、英理のマンションへ飛ぶようにやってきた。英理に何かが起きたときには、全速力で駆けつけるのだ。別居をしていてもそこだけは変わらない情が存在するらしい。
 どうした、の問いに「ええと……」と英理は言葉に詰まり、困っていた。普段はおちゃらけているはずの小五郎の緊迫した瞳に向かって、呼び出した本当の事情など、明かせるものではなかったからだ。

 ──欲求不満なんじゃないのぉ? たまには、やさし~く抱いてもらったりしちゃったりして♡
(言えないわよ。このムードでそれは……)

 有希子からの提案を真に受けたのが大失敗。小五郎の誤解は、自分たち夫婦が普段いかに連絡を取り合っていないのか、という事が証明されたのだ。沈黙する英理をハテナ顔で見つめる小五郎は、ガサガサと音を立ててポリ袋を差し出した。

「一応これ、買ってきたんだけどよ」

 コンビニエンスストアのポリ袋だ。飲料水とゼリーがたくさん入っていて、ずっしりと重たそうだった。

「あ、ありがと。でもね」

 体調は悪くないのよ。英理は真実を言い出そうとして、受け取った袋底の冷たさにハッとする。それは、小五郎に電話をかけたことを恥ずかしいと感じさせる冷たさだった。ちょっと頭を冷やしなさい。そう諭されているかのように。いくら愛し合っている夫婦とはいえ、ピザ屋のデリバリーみたいに気軽に呼びつけるなんて、あまりに身勝手すぎやしないか、と。
 羞恥心から顔が、かあっと赤くなった。だから小五郎がまっさきに手を伸ばしたのは、英理のおでこだった。

「寝てなくていいのかよ?」

 熱い指が疲れた頭と瞼に触れ、神経まで浸透するようだった。高熱を確認する首のリンパ節に沿う指も優しい。
(……気持ちいい……)英理は心地よさに目を閉じつつも、その繊細なタッチに身体が震え、ゾクゾクと寒気がした。

「寒気か? 熱は、ねえみたいだけど……。どうした、どこか痛むのか?」

 いいえ、と目をつむったまま英理は答えた。どこも痛くはないが、体はおかしい。体温を確かめるだけの触れあいで、少しも変な触り方ではないのに、甘く疼く身体の奥。有希子から指摘されたあの四字熟語が頭の中をぐるぐると回る。欲求不満なんじゃないのぉ? ──図星である。その解消方法を三十代の女が知らないはずがないのだが。

「……そう素直に言えたら苦労はしないわね。ねえ私が、体調不良であなたに看病を頼むと思う?」
「へ?」
「あなたって、バンジージャンプ飛んだことあったかしら」
「は? バンジー? ある……わけねーだろ。あんなモンまともな人間のすることじゃねーよ。それが一体何だって」
「あれを飛ぶときってこんな気分なのよ。きっと」
「?」
「えい」

 ドサッ、と手から落ちたポリ袋が床を打つ音。息をのむ小五郎。汗で湿ったシャツの背中に触れ、英理は小五郎の心臓の音に耳を傾けた。鼓動がとても早い。

「……すごい音よ。どれだけ急いで、走ってきたんだか」
「お……、おいどうした。大丈夫か? つーか、なんでバンジージャンプ??」
「相変わらず騒がしいひとね」
 こうして触れるといまだにドキドキする。顔を見ると苛立つことばかりなのに、この大きな胸に飛び込むと全てのイライラを忘れてしまう。
「ええ、えぇぇ……?」

 混乱した様子で小五郎の両手は、バンザイの状態になっている。痴漢冤罪を恐れるサラリーマンが、電車内でするあのポーズだ。ただ妻が、夫に抱きついているだけだというのに。

「そんなにおびえなくても取って食べたりしないわよ。ねえ、背中が寒いんだけど?」
「お前、全然大丈夫じゃなさそうだな……」
「どうして?」
「そのまま、つかまっとけよ」

 そう言うと小五郎は英理を力強く担いだ。身体が浮いて心も高揚し、年甲斐もなく、きゃあきゃあと、はしゃぎたい気分になっていた。行き先が寝室であることに心が躍る英理だったが、小五郎の目的はまるで違っていたらしい。

「スーツ、さっさと脱いじまえよ。後ろ向いとくからよ」

 そういって小五郎はくるっと背を向けた。ベッドに下ろされた英理はきょとん、とした。こういう場面で自ら服を脱ぐことには慣れてはいないのだ。いい歳して純情すぎると思うが、しないことに慣れるのは難しい。
 静かな衣擦れ音しかせず、英理はいつぞやの身体検査を思い出していた。肌を晒すのは、あの日以来の事だ。少しムッとしながら「脱いだわよ」と言う英理の声に振り返った小五郎の顔は、みるみる険しくなっていった。

「おい着替えはどーした! お前かなりおかしくなってんな!」 

 小五郎は怒鳴り、今夜着る予定でベッドの上に置いていた黄色のパジャマを広げた。バサっと羽織らせ下着姿の英理に着せていった。英理はただ唖然と、小五郎の怒りの手つきを眺めていた。
「きゃあ!」と英理は叫んだ。急に足を掴まれ、ベッドに転がったのだ。仰向けになり天に上がった足に、ぐいぐいとズボンをはかされている。望みとは真逆の強引さに、天井を見つめ茫然とした。
(何コレ? ベッドルームで服を脱いだのに、何故着せられてるのよ)
 全部着せ終わると「寝ろ!」と小五郎は鼻息荒く腕を組んだ。

「私、そんなに具合悪そうに見える? 探偵さんは少し、人の様子を観察した方がいいんじゃなくて?」
「お前が俺に電話してくるぐらいなんだからよっぽどシンドかったんだろ? だからホラ、さっさと寝ろって」

 話がまったく通じない。それにあまりにムードがない。いかに普段から、色気のないやりとりばかりしてきたのか。急激に疲労を感じて、恨めしげに小五郎を見上げた。

「はぁ──……」
「眠れねえか? なら目を閉じればいいんだよ。ハハ。添い寝でもしてやろーかぁ」

 小五郎の冗談めいた言い方に、英理は脱力して素直に頷いた。小五郎はそれが思いがけなかったのか、目を丸くした。そんな眼で見つめられると、本当に熱が出そうな程に顔が熱くなり、掛け布団で顔を隠した。
 小五郎は戸惑いながらも「しょーがねえな」と言い、「よいしょっと!」と服のまま隣へ横になった。触れたい気持ちから自然と、スッと小五郎の手に指を絡めてみた。言えないならこうして、行動で示せば良いのだ。

「……お前、今日、かなり変だよ」

 ぼそりと呟く小五郎を見る。その頬がほんのりと赤くなっていた。何かまずいのかと、英理は静かに聞いた。

「イヤ、なんでもねえ……。俺が、おかしい」

 小五郎は片手で額を押さえて、自分に言い聞かせているようだった。長年見てきた英理にはわかるが、小五郎におかしなところはない。無駄に格好つけで優しくて、実は心配性で頑固。英理を病人と思い込んだまま、触れてはまずいと自制している真っ当な神経。英理は調子に乗って、低い声で甘えた。変なのは明らかに、小五郎の顔に滲んだ汗を見て、胸の奥に小さな快感の炎が点った英理の方だ。

「ホラいいから寝ちまえ……」と小五郎は相手にしないように、そっぽを向いた。この鈍感頑固男には、どうやらハッキリ言わないと伝わらないらしい。

「ね……なんか。したく、なっちゃって」
「支度ぅ? アホ! 明日は土曜で休みだろうが。とにかく今は寝てろっつーの。お前はそのやせ我慢がいけねーって、子供のときから俺は散々注意して、」

 照れ顔をしつつ「あの小3の時なんてよ!」と説教をしだしたので、英理はポカンとしてしまう。胸のあたりをぽんぽんと叩くので、本当に子どもになった気分になる。いまだに夫婦を続けているとはいえ、異性としてどう魅力的に見られているかといえば、実はまったく自信がない。
「それから、中2の時なんてなー」と小五郎の記憶は腹が立つくらい鮮明だ。英理はペラペラ動く唇を見つめながら、ぼんやり思い出していた。中2の頃の事ではなく、普段はどのように小五郎が触れはじめるのかを。

 語りに夢中になると、いつも目をつむる癖がある。この隙だらけの唇にそっと近づき、短いキスをするのはさぞ簡単なことだろう。
(こんな風に、他の女に奪われたら嫌ね……)
 英理はそう思いつつ目を閉じた。
 ちゅ、と耳懐かしくて心地よいリップ音がした。驚いて固まる小五郎に構わず、英理は二度目のキスを仕掛けようとした。けれど小五郎はすごい勢いで、ベッドから転げ落ちた。

「だ、だいじょうぶ? あなた」
「お、おま……。何して。いや、俺、まったくそういうつもりじゃ……」
「何よそれ。大騒ぎして。分からないの?」
「む、無理無理、無理だって」
「はぁ……? なんで無理なのよ? いまさら私とは、したくないってコトかしら?」

 英理はにっこり微笑んだ。キスを避けられる事態は、尻餅をついている小五郎に、にじり寄るほど悔しかった。

「わ──! 来んな! ちょっとタンマ! トイレ貸して!」
「ダ~メ。これでしてくれなきゃ向こう3年は根に持つわよ」
「無理だって! そんな状態のお前、抱けるかよ!」
「バカね。もう……本当バカ。私はただ、あなたと愛し合いたいだけなんだけど?」
 小五郎はダラダラと滝のような汗をかきながら、ごくん!と音を立てて生唾を飲み込んだ。
「あ、愛し……って。お前、アタマ相当キテるぞ……?」

 その言い草には流石にムカッときた。妻がここまで言って迫っているというのに、鈍感オヤジは分かろうともしない。にじり寄った手前やけっぱちになって、その身体に馬乗りになった。

「もうっ」
「おっおい、バカ!」
「いいから四の五の言わずに抱いたらどうなのよ」
「はぁ? 何を言って……わっ、コラ! 脱ぐなって」

 小五郎を見下ろしながら、着せられたばかりのパジャマのボタンに手早く指を掛ける。身体をすこし揺らして脱ぐと、慌てたように小五郎は顔を赤らめる。
 英理が着ているのはセクシーさの欠片もない猫柄のパジャマだった。どんなに扇情的に迫ったところでお間抜けで、色気がないのはどうせ同じ。

 きっと有希子なら……、セクシーでキュートなランジェリーを身にまとい夫を誘惑する事だろう。瑞々しい夫婦関係を保つには、妻側の努力がかなり大事ということ。
(かわいく、うーんと、セクシーに。ねぇ……)
 英理はパジャマ姿を脱皮して下着姿になり、改めて小五郎を見下ろした。鈍感オヤジの額に滲む油汗を前にしたら、どう頑張っても素敵な夜になる気がしなかった。

 だが英理もランジェリーは好きだ。それなりにこだわって良いものを付けているし、その日のピアスの色と揃いの色をチョイスしたりと楽しんでいる。自分(あるいは夫)にしか知り得ない遊び心だが、当の夫が気づいているかといえば、おそらく気づいていない。ただ英理の自己満足だ。
 英理にとっては夫を喜ばす為では無く、自分の機嫌を取るための装いだ。今日は、深い緑色をしたエメラルドの一粒ピアスを付け、下着は、清澄の海のような独特の青さをしたエメラルドグリーンを選んでいた。バストカップの上の部分には羽をモチーフにした細かなレースがあしらわれている。誰にも見せる予定はなかったが、膝立ちになり、小五郎の両肩に手を掛けた。

「ハハ……俺なんか誘惑したって、しゃーねーだろ……」
「なら私、どこのどなたを誘惑すれば良いのかしら?」
「まて、いつものお前らしくねーって事をだな、俺は」
「ほら見なさい。私だって女なのよ」

 ぽかーんと間抜けに開いた小五郎の唇を見て、(言ってしまった……!)と視線に耐えきれず、英理は思い切って、えーいと二度目のバンジーを飛んだ。
 自分の唇を被せた。もう後には引けなくなり舌を滑り込ませると、タバコのにおいは気にならないが、小五郎の口腔内はカラカラに乾いていた。走ってきた為だろう。

「ン……、♡」
「……んぅ~……」

 バストの重みを小五郎に預け、小五郎の頭を抱えて情熱たっぷりのキスを仕掛けていく。けれど小五郎は対照的に、戸惑いそのものな呻き声を漏らした。さすがに抵抗はせず控えめに舌を差し出してきているものの、まったく燃え上がる気のないキスに、英理はひとり焦れていた。
(もう! 本当に頑固なんだから!)
 拒否されればされるほど、普段は巨大水門でせき止めているこの男への感情が、とめどなく押し寄せてしまう。いつの間にか性欲と恋愛感情の境目がぼやけている自覚が英理にはあった。本来はそれが、恋の醍醐味であるはずなのだが。英理の場合、ただの負けず嫌いの感は否めない。この熱情は、思いきり欲情して組み敷いてくれなければ満足しそうになかった。
 小五郎の首に腕を回し、キスで濡れた唇を動かして聞く。

「ムード作りが相変わらず下手ねぇー……」
「ったりめーだ! そんな状態のお前の事をどーこーできると思ってんのかよっ」
「この私がどんな状態に見えるっていうのかしら」
「フン! いーから大人しくしてりゃいいんだよ」
「身体が、熱くてたまらないのよ?」
「冷えピタでも貼ってろ!」
「病人じゃないって言ってるでしょう!」
「ハ! だーから酔っ払いと病人はタチが悪ぃんだ」
「あ、あなたがそれ言うっ……⁉」
「へーへー、どーせ朝になったら全部忘れちまうよ」

 聞く耳を持たない小五郎はきっぱりと言い、興味なさげに英理から目をそらす。むー。と英理は恨めしく睨む。
 有希子なら……とまた友人の顔を浮かべ助けを請おうとした英理だが、あの子の真似をしたところでムダだと気づいた。自分たち夫婦は、あの小説家と元女優のラブラブ夫婦とはまったく真逆ではないか。結婚した当初から分かりきっていたが。
 ──やさし~く抱いてもらったりしちゃったりして♡
(私じゃ抱いてもらえないんだもの。無理なのよ。いまさら)
 英理はメガネの奥の表情を曇らせ、小五郎の胸に手を突き、ゆっくりと身体から降りた。床に放ったパジャマを拾い、悲しみのオーラと共にその身に羽織った。見方によっては怒りのオーラに見えるかもしれない。

「お、おい、英理……」
「……帰って頂戴。もういいわ」
「ん?」
「あなたには金輪際!もう二度と!頼まないからッ」

 英理は立ち上がった。あなた“には“と思わせぶりに言ってみせたところで、まさか他に頼める男が居るわけもない。この期に及んでわざと後ろ髪を引かせようとする自分に呆れて果て、英理は早足で玄関へ向かう。
(いつもみっともない真似をさせて。あなたなんて嫌い)
 立ち上がった英理を見上げる目が腹立たしく、英理は無視をした。この鈍感男を我城から追い出すためである。ムキになって歩きながら早口でまくし立てる。
「どーせ私みたいなオバサン相手にしたくないんでしょ鼻の下も伸ばしてくれないしこっちを見ようともしないしここまでして頼んでるのに指一本触れようとしないじゃない!」
「お、おい、待て」
「いいって言ってるでしょ! 何よ私ばっかりみっともなくて馬鹿みたい」
「あぁ? 何の話だ?」

「──会いたくて電話したって思ってもらえないんでしょ⁉」

 英理は玄関まで追いかけてきた小五郎に背を向け、ようやく本音を叫ぶように吐露した。下着姿にパジャマを肩だけ掛けた状態の、その肩を小五郎の両手が支える。

「あのなぁ英理」
「帰ってよ。嫌い。あなたなんて」
「会いたいなんて、言われんでも声聞きゃわかんだよ……」
「あっそう? そのくせ気が利かないみたいですけど」
「わざわざこうして駆けつけてやったろが」
「そのお礼に、この私がシてあげるって言ってるのよ」
「おいおい……」
「この鈍感オヤジ」
「なんだと?」
「…………ばか。諦めて抱きなさいよ」

 なぜだか、普段言えないような本気の言葉がスルスルと出てくるのが不思議だった。背を向けているからだろうか、自分でも英理は解らなかった。
「お前なぁ……。金輪際もう二度と頼まないなんて言って脅してきやがるんだからホント、タチが悪いったらねーぞ?」
「脅してなんかないわ」
「諦めて、抱けだぁ? お前の身体のことは俺が一番知ってんだ。お前がこんな欲しがるときは、いつも──」

 小五郎は言いかけ、鼻から面倒くさそうに「はぁ~あ……」とため息を吐く。はだけている胸の豊かな膨らみを見ないようにしている小五郎だが、実は、そこから気を反らせない情けない自分へのため息なのだった。

「えっ」

 突然、小五郎の右手が左の乳房を鷲掴みにしてきた。突然の乱暴な手つきに驚いた英理は顔を上げた。
「ま。言ったって分かりゃしないのも、いつものことだがな」
「あっ……ちょ、急に!」
 指がブラジャーの上からその頂点に触れる。突然の刺激に、英理は敏感な反応を示して首を左右へ振った。指で乳首を布越しにカリカリと刺激され、声と吐息を漏らした。

「あッ……」

「いっつもそうだ。オメーがサカって欲しがるときはこれからすっげぇ~馬鹿高い熱が出る予兆なんだよ」

「さ、盛るだなんて、……それに、熱なんて私別に!」
「オメーはブッ倒れていつも覚えてねーんだろーがよ」
「そ、そんな事あったかしら⁉」
「アーホ! 俺が言うんだから間違いねぇ」
「なぁによあなた偉そうに!」
「うるせぇな! あんな風に脅されちゃ、悪いがコッチも燃えてくるんだよ」
「あンっ……もう、やっ、ばかっ……!♡」

 首の後ろを吸いながら性急な愛撫を与えられ、胸への切ない快感に英理は身をよじらせる。

「んん……ッ♡」
「ほらもう汗ばんでんじゃねぇか」
「これは、ちが……はぁ、いや、熱い……」
「首も、ココも、あそこもか?」
「ばっバカね……!」
「サクッとして満足させてやっから」

 小五郎の手が乳房や鎖骨、首筋をなで回すと、英理はうっとりして頭がぼーっとしてきた。片手を乳房の形を確かめるように優しく、もう片方の指では英理の唇に触れる。これは変な気分にならない方がおかしい。目をつむると身体の奥が男を欲しがって疼くのをはっきりと感じていた。

「ヤなのか? 欲しがってたんじゃねぇのかよ」
「……だ、だけど……」

 優しく乳房をなで回していた手の力が少しずつ込められ、先に行けば行くほど薄くなる皮膚を絞るような動きに変化する。人差し指の爪が英理の好みのスピードで先端をコリコリコリ、と刺激する。

「や…それ、だめ……あン」
「いらねぇのかって」
「……も、そういうの、いいから……」

 英理は唇と舌を愛撫している指先とキスをしながら、ふるふると声を震わせる。胸の先がジンジン疼き、下着の中が不快に濡れそぼっていることを自分自身にはごまかせなかった。早く触って欲しい、と言わんばかりにヒップを揺らした。

「おいおい。やっぱり待てねーのかよ」
「いいから……、あなた」
「サカってんじゃねーか」
「熱いのよ…、なんとかしなさいよ……」

 英理が視線を背後の小五郎へ向け、命令口調のおねだりをすると、その発情しきって上気した表情に小五郎は息を飲んでいた。英理自身はそうとは知らず、可愛さの欠片もないおねだりに(違う、違うでしょ……)と素直になれない自分を戒めていたが。
 片手が英理の身体から離れ、カチャカチャ…、コツン! とフローリングに小五郎のズボンがベルトごと床を叩く音がした。
 英理は胸がときめいて、その顔が見たくて後ろへ身体をひねる。

「欲しいか」

 声を落とした真剣な顔に見下ろされ、目が合った英理は頬を染め、何と言おうかと黙考して──あの有希子のアドバイスを、熱に浮かれて思いだしていた。

「ええ…。うーんと、気持ちよくしてあ、げ、る……♡」

 小五郎は英理の発した言葉に目を見開き、「な…⁉」と顔を沸騰した湯に入れた蟹みたいに下から赤く染めていった。英理は仕返しが上手くいった事に満足し、フッと照れ笑った。

「もちろんベッドでね?」
「…………。オラッ」

 喧嘩を挑むような声を上げ、小五郎は英理の脱力した身体を一気に抱きあげた。あっという間に再びベッドへ舞い戻った。
 仰向けに寝かせた英理の脚を開かせ、中心が固くなったそれを自ら掴み、いきなり英理のそこにあてがう。
 英理は小五郎の様子がおかしいとそこで初めて感じた。どんなに急いでいても、小五郎はいつも英理の身体を気遣うのを忘れない為、丹念にしつこいくらい指を使う。だが、今夜は指での慣らしも無く、いきなり自身を挿入しようとしている。
 その表情よりも、あてがわれた性器の怒気を英理は粘膜で敏感に感じ取っていた。

「あ、あなた……」
「フン……今更気づいても遅い」
「ひょ、ひょっとして怒ってる?」
「バカヤロォ……俺が正気な訳ねぇだろ」
「何よソレ……」
「あぁ? どこのどいつの入り知恵だぁ?」
「ァッ……ァ! あぁッ!!」

 待ち望んだ圧迫に、英理は抑えられない声が口から出てしまい、玄関のままではなくて良かったと思った。身体を深くまで遠慮無くこじ開けられ、すぐに何も考えられなくなったが。

「────ッ!」
「……ほら、すんげぇ、あっちい」
「あ、……んっ、まって──……っ!」
「あ──、きんもちいい……」
「やだっ、それ、やっ……あんっ♡」
「うんと、きもちいいぞ、英理♡」

 小五郎は上機嫌そうに言いつつも、その目の奥は笑っていなかった。英理は涙目で小五郎を見つめると、二人は暗黙の了解で手をつなぎ、いつものように動き始めた。

「んっ♡、んっ♡、んンッ♡」
「あー、すげぇグチョグチョになっちまって」
「んッ、ン……、ぁぅ……はぁ、っ」
「気持ちよくしてあげる、だと?どこでそんな文句覚えてきたんだ。このエロ弁護士がよ……」
「ちょっ……とぉ、♡」

 密着した粘膜に摩擦も加わり、燃えそうなくらい熱くなっていた。結合する水の高音が寝室に響き渡り、奥に押し込まれるたびに口からはあえぎが絞り出される。気取りも高慢さも無くした英理が没頭してあられも無いことを口にする。

「あぁ、すご、い…きもち、いい…いい…ッ──…♡」
「……フ」

 先っぽを吸い上げるような貪欲な動きと、英理の乱れぶりも相まって小五郎は脂汗を浮かべて笑い、さらに腰の動きを早めた。奥の方で細かく動かすと、ズレた下着からはみ出た乳房がぷるぷると柔らかそうに揺れている。

「いい喘ぎっぷりだな。たまにゃいい」
「や……イイの、もっと、」
「オメーもまだまだかわいいもんよ……」
「いやぁ……♡」
「……何がいやだ。もっとだろ。ホラ」
「はぅ……キモチイイの、こすれちゃう……、そこぉ…っ」
「……こうかぁ?」
「あぁ…ッ────!」

 英理は握った手に力を最大に込めて仰け反った。追い詰めるようにソコばかりを責め立てると、ダメぇダメぇ、と可愛く泣くような声を漏らす。英理の知的な細い眉がこれ以上も無く寄った。

「変なこと吹き込まれてきやがって。クソ……」
「は、ぁ……、そんなんじゃ、…っ」
「だいたいずりぃんだよ、オメーはよっ」
「ソコ、だめぇー、……♡」
「ダメじゃねぇだろ……オラ。今日は、無理をさせすぎてもいけねーって、思ってやってんのになァ……、」
「ばか……、ばかぁ…、」
「気ぃ遣ってやれなくなるだろ……」
「すきよ、…ぁんっ…、それ、すき……」
「あーもー……オメーはよ!!!」

 英理は奥を押される快感に理性を完全に溶かしていた。見つめ合っているのに目が合わないような蕩けた目をして小五郎を見上げると、小五郎は降参だとばかりに笑みを浮かべた。

「オメーにゃ敵わねぇよ……」
「ぁあ…、あなた……♡」
「えり……っ もうちょい、がまんだ」

 英理の額からどっと汗がこぼれ、身体中の筋肉をこわばらせて英理は達する。

「ッ──―!!!」
「はぁっ……、すげえ締まる……、えり、」
「あっ…や、ンっ──────」
「っ…、いくぞ」

 小五郎は低いバリトンで言い、いよいよ射精の体勢に入った。イッているのに容赦なく、ごりごりと中へ押し込み重たい突きを何度も送り込むと、きゅうっと英理の中が激しく締め付け、快感がせり上がってくる。
「だめェッ……、きもちいいの、おわんないっ」

 英理の爪が小五郎の手の甲に思い切り食い込んだのを合図に、小五郎も真っ白く弾けた。

「は──―ッ…………!」




***




「38.75℃……」
 小五郎は体温計を見て不機嫌そうに顔をしかめている。体温計の小数点以下の桁数がひとつ多いのは、英理が寝室に置いている婦人体温計だからである。
「──ったく。だから言ったろ」
 小五郎の呆れ声を、英理は汗だくで果て、ぼうっとする意識の中で聞いていた。事後直後でただ体温が高いだけではないかと思ったが、どうにも身体が動きそうに無い。
「み、水くれる……?」と荒い息で切れ切れに呟くと、小五郎は買ってきたコンビニエンスストアの袋を取りにいき、しばらくして濡れたタオルも持って寝室へ戻ってきた。袋の中身はすっかり常温になってしまっていて、英理は苦笑いをする。

「……ありがと」
「な? 役に立ったろ」
「……得意そうに言っちゃって……」
「いーから大人しく寝てろ」
「……ええ、そうね」

 先ほどと変わらない声と表情に、英理は布団で顔を半分隠しながら、見つからないように瞳を潤ませる。
(お前の身体のことは俺が一番知ってんだ…──か。
参っちゃうわね。ほんと)

「ン? なんだよ。変な顔して。顔赤いぞ?」
「……熱でも出たんじゃない?」
「プッ。蟹みてーに赤いな。お前の顔」
「あのねぇ」

 自分も小五郎を茹で蟹に例えた事は棚に上げ、英理は顔を赤くしたままジト目をする。そんな英理をかまわず、「よいせ」と小五郎は介護するように起き上がらせた。殆ど脱ぎかけている乱れた衣服を顔色を変えず小五郎は脱がせ、英理はされるがまま身体を拭かれ、猫のパジャマを再び着せられた。ベッドに横にして布団を掛け、英理の胸のあたりをポンポンとするまで3分もかからなかった。
 その手際の良さに小五郎の確かな父性を感じた英理は、自分が出て行ってからの父娘で過ごさせた十年間の事を思いを馳せ、素直な気持ちを口にした。

「あなた、今日は来てくれてありがとう……」
「これくらいどってことねーよ」
「ねえ今、家にあの子たちだけでしょう? 私は平気だからもう帰っていいわよ」
「平気ってお前、熱これから上がるぞ」
「そのくらい大丈夫。買ってきてもらったゼリーもあるし、それにひとりに慣れてるから」

 ひとりに慣れてる、と英理の口から聞いた小五郎の顔にふと陰が落ちて英理はハッとした。迂闊な発言だったが、わざとでは無かった。

「あ……その」
「このまま帰れっかよ」
「けど、そんなにじっと見られてると眠れないし」
「添い寝……、して欲しいんだろ?」
「いいわよ。あの子たちが」
「気にすんな。俺が放っておけねぇだけだ。それに、熱出たお前を放っぽって帰ったって言ったら、蘭は怒る所じゃ済まねぇからな」
「……もう」
「ぷっ。お前の顔、蟹っつーより、タコだな」
「タコって……」
「ハハハ!」

 少年ぽく笑う小五郎が、英理の頭を撫でる。
 この大きな手はもう自分の物だけではなく、色々な物を抱えている大人の男性の手なのだった。これがついさっき、英理の身体をめちゃくちゃにしたのと同じ手なのだから、顔を赤らめない方がおかしい。タコかどうかはともかくとして。

 この小五郎のギャップが、男女問わずあらゆる人間を惹きつけるのだということもよく知っていた。この優しい瞳を先程の様に嫉妬の炎でゆらめかせる事ができるのが、この世で唯一自分だけであるという事も。

「あ。ねぇ……さっきの事なんだけど」
「さっき?」
「だからその…、っぽくなかったでしょ? 今日の私」
「まーな」
「あれは別に、……。気まぐれというか」
「わーってるって。有希ちゃんだろ? 俺の携帯にさっき留守電が入ってるのに気づいてな……。『英理ちゃんがきっと珍しく甘えてくるだろうから、う~んと甘えさせてあげてねー♡』ってな。お前ら、相変わらず仲いいな」
「そ、そう……」
「別に疑っちゃいねーよ。不器用女の浮気なんて」
「ぶ、不器用な浮気性男はよく知ってるけど⁉」
「うるせぇよ」

 小五郎は笑い顔を引っ込めて、まっすぐ英理を見つめた。

(ああ。やっぱり、私────……。)

 誰よりも英理を知り尽くしている男。この曇りのない真っ直ぐなまなざしが、好きだと思った。どんなに離れていたって、心は彼から離れることはできない。

 やっぱり、この人には敵わない、と。英理は悟りを開いたように微笑んで、瞳をそっと、見つめ返した。