1
「最近さぁ………なんか思うところがあるわけよ」
私はソファでコーヒーを美味しそうにすすっている彼女に向かって話かけた。
「さっさとより戻しちゃえばいいのに。………ねぇ〜ゴロちゃん」
彼女はそう言うと飲みかけのカップを置き、毛づくろいをしていた猫を抱きかかえる。
「そんな簡単な問題じゃないのよね。………それにいまさら………」
「そうかしら?小五郎君はは結構待ってると思うけど?」
彼女は屈託のない笑顔を猫に向けている。
「有希ちゃん。男はねぇ、みんな優作さんみたいな人じゃないのよ……?……まったくあの人とは正反対だわ」
「あげないわよ?」
有希子の目の色が妖しげに光る。
「別に取りはしないわよ。ただちょっと言ってみただけ。」
軽く談笑する英理は何となく寂しそうに笑った。
英理がこんなことを言い出すのは珍しい。
有希子はそれが英理の危険信号だと知っていた。
人にめったに頼らない、弱みを見せない英理はどこかにきっとストレスが溜まっているのだ。
けれど英理は人に当たったりしたことはなかった。
そんな英理を長年見ている有希子は思う。
甘えられない彼女はもう限界を超えてるのかもしれない、と。
「ねぇ、英理ちゃん。本当に家に帰るつもりはないの?」
「?ええ………」
「どうして?」
「…どうしてって………」
「…あの人のこと、関係あるの?」
「………は?」
「……だって急にそんなこと言い出すから」
英理の顔が曇る。
「分からないわ。」
「………これからどうするのよ?」
「分からない……」
「小五郎君………知ってたわよ」
英理の瞳が一瞬揺らいだ。
「…そう………」
英理の横顔が月明かりの中、また寂しそうに笑った。
肝要な仮面
2週間前
英理は仕事の付き合いで、お偉いさん……の息子の誕生パーティに出向いていた。
漆黒のドレスを着た英理は周りよりもひときわ際立っている。
あまりの美しさにため息を漏らす者もいた。
本人は気づくはずも無い。
「はぁ…………」
英理は大きなた溜息をついた。
人の溜まり場をあまり好まない英理は広い会場の壁際に一人寄りかかっている。
本当はあいさつに出向かなくてはいけないころだが、あの人だかりに入っていく気には、とてもじゃないけどなれなかった。
「ここよろしいですか?」
「ええ……どうぞ」
男は英理の隣に寄りかかる。
さっきとは打って変わりにこやかな表情で答える英理。
男はそんな表情に一瞬心を奪われた。
…………いつもの事だ。
「退屈ですよね………こういうの」
一見紳士的なこの男の意外な言葉に英理は意外な印象を受けた。
歳は30ぐらいかしら?
職業柄つい人の観察をしてしまう。
「ええ……そうですね。」
「こういう堅苦しいのは苦手ですよ」
男は苦笑いをして見せた。
「どうです?向こうにいって少し話しませんか?」
「ええ。」
……どうせ特にする事も無かったのだ。
その男の好意には知らない振りをしよう。
二人は建物の外側の縁に入っていった。
「結婚……されてるんですか?」
男は英理の左手をそっと手にとる。
「ええ……一応」
男の行動に少し躊躇しながらも、英理のしなやかな指を優しく包み込むその手に嫌な気はしなかった。
………男の手が彼の手とどこか似ていたから?
「一応……ですか?」
「ええ、………」
今日はじめてあった男にこんなこと話すのはいささかどうかと思ったが、
この男の反応が見てみたかった。
「別居?なんでまた…………意外ですね」
「………?」
「あ、すいません。悪い意味じゃないんですけど……その、離婚とかは考えてないんですか?」
離婚という言葉に英理は小さく反応する。
………この話は正直、あまりしたくない。
「私のことより、……あなたのことが聞きたいわ」
「わたしですか?」
「ええ。」
英理はにっこり微笑む。
「何が聞きたいんですか?」
「まずは名前……教えてくださる?」
「秋元です。秋元洋一といいます。 」
英理は名前を聞いて愕然とする。
「秋元って………秋元グループの!?確かこのパーティの主催者の………」
ステージにでかでかと書いてある看板に目をやる。
「ええ。驚かれました?」
「それは………何でこんなところにいるんですか。他にすることがあるんじゃ……」
「今日は弟の誕生日なんでね。御呼ばれしただけなんですよ。それに…………」
「それに?」
「好みの女性を見つけたんですよ。」
「……お世辞が上手ね」
英理は軽く鼻で笑う。
沈黙。
「…………そろそろ時間だ。もう少し居たいところなんですけどね。あいにく仕事が残ってましてね。」
「そう、ですか。」
「よかったら…………連絡先、教えてもらえませんか?」
「どうして?」
「あなたのことがもっと知りたいから」
それは、彼が英理に興味と何らかの好意を抱いているという気持ちを伝えたのと同じだった。
それは……英理も承知していた。
「………」
英理は小さくため息をつき、優雅な手つきで名刺を取り出すと、洋一に手渡した。
「弁護士?」
「ええ。」
「あなたにピッタリだ。」
「ありがとう。」
英理は優しい微笑を向ける。
「今日は楽しかったわ」
「こちらこそ、また連絡しますよ。英理さん」
そう言うと、洋一は、
英理の唇に優しく触れた。
「………!?」
動揺している英理を尻目に洋一は人ごみの中に消えていった。
英理は置いてあるベンチにストンと腰をおろし、
そっと深呼吸して気持ちを落ち着かせる。
「似てるわ…………」
英理はそっと唇を左手で隠した。
2
英理は有希子が帰った後一人静かにベランダに佇んでいた。
彼女の頭の中にいろいろな想いが駆け巡っていく。
あの人が彼のことを知っているのなら、どうして何もしようとしないの?
私の気持ちが変わらないとでも思っているのかしら?
「冗談じゃないわ。」
英理の心にわずかな怒りが込み上げてくる。
………私はそんな女じゃない……
それとも…………私のことなんてもう…………
「………不安…………なのよ………」
英理の体が小刻みに震えだす。
溢れそうな涙を唇を噛んでこらえると、
見上げた月がぼやけて見えた。
あなたは私が悩んでいるのを知っていて何も言ってはくれないの?
「もう、疲れたわ…………」
彼女はこの悲しい恋を忘れたかったのかもしれない。
英理は静かに顔を伏せた。
5日前
洋一は横になると先日もらった名刺を見上げた。
彼は今までにこんな感情が湧いたことなどない。
……それどころか人を好きになったことすらない。
今までに何度か見合いをしたが、どんな美しい女性でも彼の目にかなうことなどなかった。
しかし彼女は違う。
彼女は今まで出会ってきた、ただ見てくれだけ綺麗なだけの女ではない。
見かけはとても強硬そうで、
でもとても、儚くて………
いつも何かを我慢していて、強がっていて。
どこか苦しげな
……まるで陸に上がった魚のような
そんな気がした。
彼女の反応から、きっと原因は彼女の……彼女の夫にあるのだろう。
彼は彼女のそんな想いに気づいているのだろうか。
彼女のうちに秘めるその想いを打ち明けて欲しかった。
彼は何かを決心したように、座っていたソファから跳ね起きた。
子機を取る。
「あ、私だ………ちょっと調べて欲しいことがあるんだが………」
彼が英理の夫の名前を知ったのはその翌日のことだった
3
「ねぇ、優作………」
有希子はベットの傍らで目を閉じていた夫に語りかけた。
「………なんだ?」
「今日、英理の所に行って来たわ」
優作はそっと目を開く。
「…………それで?」
「英理………すごく辛そうだったわ」
「…………だろうな」
「ねぇ、 あの二人このままじゃ……」
「…それは本人達次第だな」
「………なんか冷たくない?」
「…………有希子。お前が考えたってどうにかなる問題じゃないだろう?」
優作は目を閉じた。
「でも……あの時小五郎君の顔見たら、ほっとけないわよ。」
「そうか………」
「私……小五郎君のあんな顔初めて見たわ」
有希子は3日前の出来事を思い出していた……
三日前
どたどたどた ばたんっ
「小五郎君っ!!大変なの!!」
有希子は「毛利探偵事務所」と札の掛かった扉を勢いよく開け放った。
「ゆ、有希ちゃん!?」
突然の来客に小五郎も思わずたじろぐ。
「何だいきなり………いつ帰ってきたんだ?」
「ええ、一昨日ね。ってそんなことはどうでもいいのよ! 大変なの!!落ち着いて聞いてね。
………秋元グループって、知ってる?」
「秋元グル—プっていやぁ………あの秋元か?」
「そうよ。それでね、英理の知り合いがそこの顧問弁護士をしててね、
そのよしみで、そこの会社のパーティに出席したらしいの」
英理の名前が出て、顔がこわばる小五郎。
「なんだ、英理がらみか…………それで?」
小五郎はわざとらしくため息をついてみせる。
「それでね、そのパーティには、あのやり手で知られる秋元洋一氏も出席しててね。……惚れたらしいの」
「………へ?」
「へ? じゃないわよ。私も最初は信じられなかったわ。 でも、あの英理のことですもの、そんなのさらリと交わすはずでしょ?
…………でもね、いまいち英理もはっきりしないらしいのよ。」
「……はっきりしないってどういうことだ?」
「だからっ 英理はその人のことが嫌いじゃないってことでしょ!」
そんなことは分かってる。……認めたくないけど。
「その、秋元何とかって奴はどうするつもりなんだ?」
「さぁ……無理矢理にでも口説き落とすかもね。
…あの秋元洋一ならやりかねないわ」
「ひどいなぁ……いくら私だってそんなことはしませんよ」
小五郎と有希子は声のする方向にとっさに振り向く。
そこに立っていたのは。
「秋元……さん?」
「ええ。お初にお目にかかります。」
声の主は慣れた手つきで丁寧にお辞儀してみせた。
そのまま小五郎のほうに歩み寄る。
「初めまして毛利探偵」
「なんの御用ですか。」
小五郎は内ポケットから素早く煙草を出した。
「これは手厳しい……ただ私はあなたと話がしたいだけですよ」
そういうとちらりと有希子に目線を移す。
「私……外しましょうか?」
「ええ、すみません。すぐ済むと思いますから」
有希子は部屋を出て廊下の壁にもたれかかった。
「さて……話というのは他でもなく彼女のことなんですが……」
無論、彼女というのは英理のことである。
「……で?」
小五郎は煙草に火をつけた。
「単刀直入に聞きます。……あなたは英理さんとは別れる気は無いんですか?」
まっすぐな瞳で小五郎を見つめる。
小五郎も目をそらそうとはしなかった。
「なんでそんなこと赤の他人に話さなきゃならんのだ?
これは俺達の問題だ。」
「……つまり、私には入る余地がないと?」
「そうだ。」
「しかし……まさかずっとこのままでいいとは思ってないんでしょう?」
「………まあな」
小五郎は目を細める。
「将来的にはどうするつもりなんです?結局いつか決めなければいけないんです。
………あなたは英理さんのことをどう思っているんですか?」
「あんたには関係ない」
「関係あります。………聞かせてください」
二人視線が交わる。
「あんたは……どうなんだ?」
「私には………彼女しかいません。もう彼女以外の女性は考えられないいんです。
彼女を誰よりも愛しているつもりです………」
「悪いな……」
「え?」
「俺もだ」
「…………」
「俺は譲れない」
小五郎はあくまで冷静に煙草を灰皿に押し付けた
小五郎の思いに洋一は思わず圧倒される。
「………あなたのお気持ちは、よく分かりました。なら……なんでよりを戻そうとしないんですか?」
「世の中には、離れていたほうがうまくいくこともあるんだよ」
「英理さんはそうは思ってないと思います」
「英理がそう言ったのか………?」
洋一は首を横に振った。
「違います。でも、彼女は……辛いんです。まるで何かから耐えているような………
そういう事じゃないんですか?」
「……………」
「…私は諦めませんから…………」
洋一は初めて小五郎から目を離すと、勢いよくドアを開けて事務所を去っていた。
途中、有希子の痛い視線を背中に感じながら。
開いたドアから小五郎の姿が確認できた。
有希子が事務所の中の小五郎を見る。
小五郎は普段のあの姿からは想像できないほど哀しい眼をしていて………
小五郎の想いを有希子は理解できなかった。
4
「……そういうわけなのよ、蘭ちゃん……」
蘭は子機を持ち自室にこもって、静かに相手の話を聞いていた。
電話の相手は、工藤有希子。
この前の一件で有希子は黙っているはずも無く、
夫の忠告も聞かずにあの二人のことについて対策を練っていた。
「そんなことになってたなんて……知らなかった……」
まず有希子が思いついたのは、蘭に協力してもらうことだった。
「私も途中から閉め出されちゃったから話の中身までは分からないけど、
絶対そうよ!あの男が身をひくなんて考えられないもの」
秋元の顔が脳裏にはっきりと浮かぶ。
思い出すたびに腹が立った。
「そういうわけだから………蘭ちゃん協力してくれる?」
「もちろんです!私にできることだったらなんでもしますから!」
蘭は意気込みたっぷりに受話器を握り締める。
「本当!? じゃあ早速お願いしたいことがあるんだけど……」
有希子はこの4日間練っていた計画をひそひそと蘭に明かした。
「分かりました。こっちは何とかしますから。じゃあ明後日ですね」
「ええ、お願いするわね。 じゃあまたそのときに会いましょう」
有希子は電話を切ると早速また受話器を握り直した。
そして明後日。
「……………」
「…………謀られたわね……」
小五郎と英理は都内のホテルの一室にいた。
しかも二人っきりで。
しかし、そこには異様な空気が張り詰めていた。
緊張とも緩和とも取れない………異質な空気。
「今回も、してやられたわね」
英理は諦めたようにため息をつき、そのほっそりとした肩を撫で下ろす。
「あぁ。蘭も急に言い出すから、なんか変だとは思ったんだけどな」
「まさか、有希子までグルになってるとは思わなかったわ」
二人は珍しく軽やかな笑みを浮かべている。
「あなたはどうするの?このまま泊まってく?」
「あぁ、金もったいないし……………お前に丁度聞きたいこともあったしな」
突然まじめな顔をした小五郎に英理は無条件に鼓動が早くなる。
硬くなる顔を抑えて必死に笑みを作った。
「聞きたいこと………?」
あくまで冷静を装って。
「………お前分かってんだろ?アイツのことだよ」
アイツ………とは紛れもないあの男の事だった。
「秋元さんのこと?あなたのトコに行ったんですってね。有希子から聞いたわ。
何を話していたかは知らないけれどね…………で?彼が、何?」
「あいつ………俺達に別れて欲しいんだと」
英理は自分の顔が強張ったのをはっきりと感じた。
彼をみていた目を床のほうに落とす。
「………どうしてそんなこと私に言うのよ……………?」
鼻がツンと痛んだ。
「英理。やましいことが無いんなら、ちゃんとこっち向けよ。
お前がそうやってはっきりしねぇからあいつも付け上がるんだよ!」
小五郎の意外な言葉に英理は素直に怒りを感じた。
「はっきりしないのはあなたのほうじゃなくって?やましいことならあなたのほうが沢山あるでしょう?」
「なんだと!?だいたいお前はなんでそうやって昔っから話をそらすんだ?」
小五郎は英理の二の腕とそれと反対の手首を掴むと自分の方に引き寄せた。
「ちょっ………痛いっ!!」
英理の顔が苦痛で歪む。
その顔を見た小五郎はとっさに手に込めていた力を弱めた。
「っ………勝手にしろっ!」
パンッ!!
英理の右手が小五郎の頬に舞った。
「…………勝手に………するわ」
一言呟くと、英理は顔を背けて逃げるように去った。
一人残った小五郎は乱暴にベットに腰をかける。
自分の手を見ると、さっき掴んだ英理の細い腕の感触が蘇ってくる。
頬がじんじんと嫌なリズムを立てて痛んだ。
5
英理は小五郎の頬に当たった右手をドアに寄りかかりながら見つめていた。
今にも溢れんばかりの涙を目いっぱいに溜めて。
生まれてはじめて人を殴った。
その相手があの人だなんて…………
でも耐えられなかった。
あの人の口からあの言葉が出るのが怖かったの…………
英理はその場にずるずるとしゃがみこんだ。
「英理?」
ドアの前でうずくまっている英理に背の高い男が話し掛けた。
英理はゆっくりと顔を上げる。
「………優作?」
2人は今いた所のちょうど上の階にある部屋へと移動した。
優作は英理にソファへと勧める。
「で、話ってなに?」
「話があるのは、君の方だろ」
「………知ってたの」
「まぁ、一通りのことは有希子から聞いてね。……偶然あの場にも出くわしてしまったし」
「………可笑しい話よね」
「まぁ、一般的に見れば普通の話だと思うが………君にしては非常に珍しい話だな」
優作は英理にとって学生の時からの相談相手だった。
恋愛のことにしても、進路のことにしても、小五郎や有希子ではろくな答えが返ってこない。
そのうち、似た物同士の2人がどこか親友的な関係になっていた。
それは小五郎と有希子も同じ事だったけれど。
「………まぁ、英理の場合、初恋の人とダンナが同じ人なわけだ。たまにはこんな経験もいいんじゃないか?」
「ちょっと。それってどういう意味?私が浮気してるってコト!?」
「一歩手前だな。」
「っ………違う!」
「違わないさ。……いいか?君はただ小五郎に似てるあの男に惹かれているだけなんだ。
………秋元洋一は私の知り合いでね………。何度か会った事があるが、私も最初は驚いたよ………。」
「……………」
「ああいうタイプが君の好みなのかは知らないがな……。向こうの方が素直だし、条件もいいと思うが?」
「!?ちょっと!何が言いたいのよ!!あなたまでそんなこと言うわけ!!?」
「何度でも言うさ。どうせこのまま関係が変わらないよりは、秋元の方がいいんじゃないか?」
「やめて!」
「そのほうが、小五郎も自由になれるだろうし。」
「やめてよ!」
「君だってそんなつらい思いをする事なくなるじゃないか!」
「お互いの事を思うのなら、いっそのことここで別れ…………」
「やめて!!!!」
英理はそれまでの否定の声とは比べ物にならないほどの、……悲鳴にも似た声を上げた。
「……それ以上、言わないで……」
「英理……」
「……分かってたわよ、似てることくらい。………最初は、そりゃ気になったわよ。
でも……………今日、あの人に会ったら、そんな気さっぱりなくなったわ。」
「………勝手になんて………できるわけ無いじゃない………どんなに嫌われてても………あんな事言われても……やっぱり、やっぱり好きなのよ…………」
さっきはいったん抑え込めたはずなのに、どうして涙が溢れてくるの。
英理はポケットに入っているハンカチの存在も忘れ、泣きつづけた。
「………だそうだ、小五郎。」
優作は英理の肩越しに見える一人の男に話し掛けた。
英理ははっとして振り向く。
その一直線上には、有希子と小五郎と……そして秋元洋一氏が玄関先に立っていた。
間。
どうして今まで気づかなかったんだろう………
英理は涙に濡れた頬のことなどまったく気にせずにただ唖然とするばかりだった。
「………どうして………」
「…………優作、ちょっと外してもらえるか?」
あくまで視線を英理に置いたまま小五郎の唇はそう告げる。
………真っ先に部屋を出たのは洋一だった。
「…………分かった」
2人だけになった部屋で重い空気が流れる。
小五郎は頭を掻きながら一歩一歩英理に近づいた。
英理がそれに気づき、顔を上げた時にはもう————
小五郎は彼女をすっぽりと包み込んでいた。
顔を埋めた英理の涙が小五郎のワイシャツにいくつか染みを作っている。
何故だか悔しくて唇をぎゅっと噛む。
……………今日も涙が止まりそうにない。
「秋元さん…………帰られるんですか?」
部屋から追い出された三人は行く場所も無く、ただ廊下に立っていた。
「……………ご婦人にあんな顔されちゃたまりませんよ……」
有希子は苦笑いをすると、黙って哀愁漂う30男の背中を見送っていた。
「ところで優作。」
「ん?なんだ」
「全部あなたが仕組んだ事だったのね!」
「仕組むだなんて心外だな……作戦といってくれ作戦と」
「………結局私はあなたの手のひらで踊っていたという事ね…………まったく」
「は、ははは……」
「なんでもっと早く言ってくれなかったの?言ってくれれば協力したのに……」
「お前が出てくるとハナシが余計ややこしくなるからな」
「悪かったわねっ!………どうして私はこう、いつも空回りなのかしら」
「いや、でも今回は結構役に立ったぞ?特に最後とか」
「最後?……あぁ、あれは偶然英理のあとつけてたら、偶然秋元さんに会ってね。
丁度部屋の鍵も預かってたし。
……………そうだ。部屋といえばココの部屋…………今日、どうするの?」
「まぁ、今日は夫婦水入らずに仲良くやってもらおうじゃないか………。
俺達は、小五郎のいた部屋にでも泊まればいいだろ。」
「ふふ……そうね♪」
彼に抱かれながら私は思う。
いつか、この温もりが冷めてしまわないかと。
……彼に抱かれながら私は願った。
いつまでも、この温もりが冷めてしまわないようにと。
こんな気持ちは久しぶり……
この暖かさが冷めないかぎり、私の涙はとまらない。
昔のように、冷えきってしまった気持ちの哀しさが分かるから
捨て身で人を愛したりできない。
………あなたのように。
だから
私はあなたの愛情なんて信じない。
………でも
今だけ
一瞬だけでいいから、私だけのあなたになって欲しいの。
…………今の温もりだけで私は満ちたりたから
……もう少し、もう少しだけこのままで……
「英理?」
もう、………いらないから、何も言わないで
英理はすがるように小五郎のシャツを握り締めた。
また一人になってしまっても、今度はこの温もりを覚えていられるように。
孤独に耐えて一人の寂しさにも打ち勝てるように
なんて儚いんだろう
なんて脆いものなんだろう
こんなに狂おしい想いも明日になったら冷めてしまうのかもしれない。
曖昧な気持ちは余計に人を傷つけるものなのよ。
嫌いなら嫌いってはっきり言ってくれたら少しは楽になれるのに。
もう今は何もかもが疑わしい。
この温もりも愛しい囁きも、私を包んだ大きな手も。
「……あったかい」
……なぜか笑みがこぼれた。
慰めとか、謝罪とか、そういうのは言葉にしてしまえば簡単だけれども。
私はそういうのはあっさりと信じてしまっていたから
痛みがまだ残ってる。
だけどこの温かさだけは、いつまでたってもかわらないでいてくれるから。
この時だけはいつもの自分ではない本当の自分に戻してくれる。
私が還れるのはこの場所だけ
捨て身でアナタを愛したら、私を受け入れてくれる?
こんな歪んだ気持ちでもいいならいつでも
いくらでもあげるわ。
隠してた私の気持ちを知ってしまった分
……今度はあなたの仮面を引っぺがしてみせる。
私は彼の背に回した手に力を込めた。
おわり