「ココらでちゃっちゃ~とヤってよ! パァーッと帰ろうぜ」
「──は?」
困惑して立ち止まり、彼を唖然と見つめ、そしてハッとした。私としたことが、いつの間にか、坂の上のホテル街に連れてこられたことに全く気づいていなかった。
「んでよ! そのあとゆっくり、飲もうぜ。な?」
小五郎はヘラヘラと笑っている。ショートタイム90分、と屋外照明に照らされた看板と、その前での、大人の男性とは思えない下品な誘い文句。そしてさらに、彼の顔を見つめて唖然とする。
軽々しい誘い文句に似合わない表情。顔をかーっと赤らめて、つないだ手を強く握っている。全く不器用にも程がある。まったく不器用にも程がある。彼のこんな仕草、きっと私以外誰も知らない。
「あらあら。お上品でセクシーな誘い方だこと」
「お前だってしてえだろ?」
「はぁ?一緒にしないでくれる!?」
「意地張ってねーで、行くぞ。ホラ」
「あ、あのね!」
ぐいっと手を引かれても足を踏ん張った。小五郎は振り返り一瞬だけど、おどろいた、断られると思ってなかったって表情を見せるのは……ねえ、ダメよ。
「心配すんなって。今日中に帰してやっからよ」
「そういう問題じゃなーい!」
90分って、流石にそれはない。──結局のところ。コレを愛おしがれないから、私たちはうまくいかない。むしろ、愛しているからこそ、腹立たしくて仕方がないのに。
「英理?」
「絶対、イ、ヤ!」
「おいおい…」
「イヤよ!」
このひとは、私が今更ちょっとやそっとじゃ傷つかないと思っているからいけない。まあ実際鍛えられて、
そういうところころは少なからずある。けど……。それにしたってコレはない。
「んな怒んなよ」
「怒る? ただ呆れてるだけ。誠実に口説くこともできないのかしら、って」
そう言って、つないでいた手はぽいっと捨てた。彼の左手がスローモーションで宙を舞うとき、目を丸くしていた。ようやく本気で、自分の失態を悟ったらしい。
「お前が時間を気にしてるみてーだったからよ。……悪かったよ。いつもの軽いジョークみたいなもんで」
「そうね。センスが皆無なのも相変わらず」
「そんなにイヤかよ?」
「……いやよ」
「なんかあったのかね」
不思議そうに首を傾げるとんでもない鈍感男。それは大人には、色々あるに決まってる。だけど今は、深刻な問題なんて全部忘れ去って、……恋人だった頃のように手を繋いで……愛の尊さに心を濡らしながら、夜の街を歩いていたのにこれだ。
「ばか」
情けなくてシンプルな悪口しか出てこなかった。心が柔らかく解れたところをばっさりやられて、しかも彼にはその自覚すらない。鈍感男は迷わず私の額に手を当てた。
「熱はねえみてーだけど…」
「もう! あなたの手ひらの方がよっぽど熱いじゃないの!」
「そーか?」
「私が言いたいのは、たまには、甘えさせてくれてもいいんじゃない?って、こと!」
「エッ?」
手の体温が伝わって、私の顔がほんのり熱くなる。おでこに手を置かれたまま見つめると、小五郎の顔がガラリと変わった。まるで身内に殺人容疑が掛かったみたいな顔、されても。
「……妻の、正当な権利だったと、思うんだけど。その特権は知らないうちに消滅してたようね。それなら、ちゃんと言っておいてくれないと困る」
「正当な権利ねぇ」
「まだ放棄した覚えはなかったけど」
ひょっとして私は、弁護権を主張する被疑者みたいな顔をしているんじゃないかしら。眉尻はうまく下がってくれないし、こんな場面でも毅然としてしまう。……もうだめね、私は。愛嬌なんて、生まれたときから持ち合わせていなかった。ぶっきらぼうな照れ屋さんのこと、あまり責められない。
「放棄だの権利だのって。俺はよ、ただお前と…」
「そうね。ちゃっちゃ~と、ね?」
「…あのなぁ」
小五郎は頭をかいて呆れてる。もうわかってる。本当は今夜、意を決して食事に誘ってくれたってこと。私を求めて、さりげなくホテルの前まで連れてきたってことも。バレてる。知ってる。でもね。
「キザな口説き文句も、聞かなくなると恋しいものね」
「腕組みして仁王立ちしてる女、誰が口説けっかよ」
「ネタ切れなのね?」
「あーあーあー。さみーなァ!」
そうね。頭は熱くなるのに身体がどんどん冷えていく。さっさと身体の奥まで温め合えれば、話は早いのに。それってもしかして「ココらでちゃっちゃ~とヤってよ!」ってことだったりしたの?
「あっちこっちでペラッペラの口説き文句を、大安売りしてるくせに何よ」
「うるせーよ。ストレス溜まりまくってんのかお前は」
「かもね」
「──そんなの俺が、いったん忘れさせてやる」
「……」
「だから。お前は黙ってついてくりゃいーの」
そう言って、また指を取った。不思議と今度は、両足に力を入れ忘れてしまった。ステンドグラスもどきみたいな装飾がされた自動ドア。真っ赤な顔がふたつ、開くドアのガラスに一瞬だけ映った。