IF in軽井沢




「私、上で少し飲んでくるわ……」
英理は怒りを含めた声三笠達にそう告げると、レストランをさっさと出て行った。
ビールを飲みまくっていた小五郎は一瞬横目でちらりと英理を見る。


「妃さん今日はなんだか様子が変ですねぇ……・」
真っ先に英理の異変に気がついた佐久は心配そうに英理の通っていった廊下を見つめていた。

「機嫌悪そうでしたね。いつもはこんなことないのに…」
「毛利さん、行かなくていいんですか?」

「え? ええ…・いいんですよ、あんな奴ほうっておけば…・」
小五郎はさらにグラスを口に運ぶ。

「でも本当に変でしたよ…なんかあったのかな…」
「う〜〜ん……」
「俺、少し見てきますよ」
佐久はそう言うと英理のたどった道に沿って走っていく。







「毛利さん、いいんですか?」
佐久が行った後を見計らって律子が口を開いた。
「何がです?」
「彼、絶対…狙ってますよ。」
小五郎の肩が微かに反応する。

「狙ってる?…そういえばそんな気も…」
「そうですよ。…でも絶対に妃さん、気づいてないだろうなぁ…」
三笠もため息混じりに加わる。
「そうよねぇ…・妃さん…こういうことになると鈍いんだから…」
三人は頷く。

「危ないですよ、毛利さん。 酔った男は何するか分かりませんからねぇ…・」
塩沢ニヤリと笑いとどめを刺した。

「…分かりましたよ。行ってきますよ。」
小五郎は面倒くさそうに廊下を走り出した。

「お父さん…・」
蘭はうれしそうに呟く。

      
小五郎の顔に青筋が立っていることは誰も気づいていなかった









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英理は一人バーのカウンターでひたすらグラスを口に運んでいた。
グラスに映る彼女の瞳はいつものとは違い、やはりどこか寂しげな気もする。

あの後の彼の行動が理解できていたからこそ、彼女はあの場から去った。
とにかくあの場から逃げたかった。


私らしくもない。



「( 私もそろそろ限界かしら……… )」
彼女らしくない弱気な考えが浮かぶ。



「妃さん」

英理はゆっくりと振り返った。
彼は走ってきたのか、肩で息をしている。
本当は一人にして欲しかったけれど、そんなこと言える訳もない。

「どうしたの?佐久君……」
彼の瞳が真剣な色に変わっていく。
「どうって…・妃さんこそどうしたんですか!?」
「なにが?」

「なにがって……………泣いてるじゃないですか」







彼女の瞳はいつもの気高い英理のものとは信じられないほど、か弱くて。

 英理はふとグラスに映った自分のことを思い出す。

寂しかったのは



泣きたくても涙の流せない自分自身の弱い心だったのかもしれない。



素直に涙を流すことなど、私は忘れていたのかもしれない。











その頬を伝っているものが何なのか分かるまでには
















 少し時間がかかった。














英理は何も言わずにその場を立ち去った。

佐久は追いかけようとしたが


あの彼女の瞳を見て……









  自分は彼女の壊れそうなほど苦しい想いを知った。



あんな彼女に見て自分は何ができるんだろう。



  彼は奥歯を痛いほど噛み締めた。

…・言葉が出てこなかった。



















なぜか、無償に海が見たくなって、英理は浜辺へと向かった。



 夜の黒い海は今の彼女にとって、切なすぎる。


ただ、思い切り泣きたかった。 泣けばこの気持ちもすっきりするかもしれない。

分けも分からず溢れ出る涙をただ素直に流したかった。

誰にも気づかれずに、溜まった涙を今のうちに流したかった。


そもそも自分がなぜ泣いているのか
…なぜ泣きたいのかも分からなかったけれど。









どんなに寂しくても…・どんなに切なくても

一人で耐えなければいけなかったから。





寂しくて寂しくて寂しくて寂しくて……




身を切り裂くようなこの想いを断ち切れたら


どんなに楽だったろう。



私は思わずその場に座り込んだ。




「英理……」


英理は弾かれたように振り向いた。

「どうして…・?」


小五郎は何も言わずに口元だけで微笑んでくれた。



 ……・彼を私は精一杯見つめ返したが、


 小五郎の優しい瞳に見つめられたら、


私は涙が止まらなくなってしまった。


一本の糸のようにピンと張り詰めていた感情が


痛みに耐えられなくなって切れてしまったように




後から後からとめどなく流れ出る涙。



やがて二人の影が重なった。



私は涙がかれるまで彼の広い胸の中で泣きつづけた。








しばらくぶりの彼の胸の中は


とても暖かくて。



とても懐かしくて


心地よかった。



どれくらい時間がたっただろう。




私達は薄暗い中、夜明け前の海を見ていた。



英理は長い静寂の中、口を開いた。

「今日。何の日か、知ってる?」





「ああ……」



「ほんと?」



英理は潤んだ目で小五郎を見上げる。
この瞳には昔から弱かった。


「結婚記念日。」

「あら、ホントに覚えてたの?……私が家に居たころは毎回忘れてたのに。」

    

「ホントは記念日なんて無くても良いんだけどな。
       この生活に終止符を打つには、丁度いい記念日だな」

小五郎は視線を英理に移すと、奥歯を噛み締めて笑った。


「あなた…?」


「……本当は お前に折れて欲しかったんだ…
だけど…・俺はもう…限界なんだ……」

小五郎の瞳は真剣な色に変わって英理を見据える。



「………・そんな顔するなよ」



「…・私達、一緒にいたら…喧嘩ばっかりじゃない」



「……・そのほうが俺達らしいだろ?」

英理は泣きながら穏やかに笑う。


英理は長年もとめていた答えを彼の微笑みから見つけたような気がした。


冷めた胸が暖められていく。


「そうね。」
小五郎に向けられたその笑顔は今までに無く

愛しさで満ち溢れていた。


小五郎は英理の細い肩と腰をその長い腕で抱くと、唇を重ねた。




その長い年月を埋めるように、

        


お互いの存在を確かめるような…………




長く深いそれが終わる。





夜がもう少しで明ける。









そして数日後

毛利探偵事務所からは、生き生きとした怒鳴り声が響いていた…らしい。


おわり