そう言われて、夫をチラリと見上げた。
「いいだろ。別に」
夫婦なんだから、と彼は言う。
そしてなんでもない顔をしながら、宿帳にサインをし始めた。
オカシイと思ったのだ。
夏のレジャーを好む娘が、真冬に温泉に行こうなんて言い出すから。
娘から発案の旅行は、いつも明確な目的がある。私は娘の健気な努力を無下にはできないと、乗り気じゃなくても極力参加するよう心がけていた。夫の参加は伏せられていても、どうせ、と淡く呆れつつ。
けれど。
2人きりにさせられるなんて聞いてない。
こんなこと別居して以来初めてのことだ。
「あなた、知ってたの?」
「いや」
宿帳の項目がスルスルと埋まっていく。職業欄に『探偵』と書くのが見えて、サスペンスドラマみたい、と私は言った。
探偵と弁護士の夫婦。
事件に巻き込まれなきゃウソだ。
***
けれど事件は起きなかった。こんなことはとても珍しい。
最近の彼らとの旅行は、常に殺人事件がセットになっていたからだ。
よって私たちは客室で向かい合って、刺身を摘んでいる。
アマダイ美味しいわね。
ああ。
とか言いながら。
食べきれないわね。
無理に食うと太るぞ。
とか笑いながら。
まるで熟年夫婦みたいに、浴衣姿で。
雪でも降るんじゃなかろうか。
私は夫に勧められるがまま、チビチビと酒を飲み。夫は私の酌が追いつかないほど、しこたま飲んでいる。
まるで競うみたいに。
今夜は先に酔った方がきっと勝ちなのだ。
食事が済むと、仲居さんが二人がかりでテキパキと布団を敷いていく。
仕上がった途端、夫は吸い込まれるように横になり、すぐにイビキを響かせた。
破壊的な音を立てている。
お猪口を片手にその姿を見る。
なぜか私は、思うように酔えなかった。
たぶんリラックスしていなかったから。
いつものように酔っ払った夫が恨めしく、羨ましい。相変わらずマイペースで、平和な男。
私は溜息を一つ落とし、気晴らしに一人で温泉へ向かうことにした。
***
そうしてかれこれ1時間。
露天風呂に人が居なくなっても、私はずっと考え事をしている。
「今日はもう、ひと部屋しか……」
受付で言われて、私はビクッと身体を強張らせた。
踵を返して帰ろうかと思ったとき、夫婦だろ。と夫は言ったのだ。
このままで、いいのか。
夫は私に触れようとしない。家を出てからずっと。
だから今夜は緊張していた。
娘も大人になったのだろうか。親をこんなシチュエーションに追い込むなんて。
こんなことは初めてだ。
婚姻関係において、性生活は重要事項だ。求められたら協力する義務があり、応じなければ立派な離婚事由になりうる。
では、夫が求めてこない場合は?
私は肩までお湯に浸かりながら、真面目なことを悶々と考える。
女はともかく男はシステム上、しなければならないことがあるのではないか。
プロにお世話してもらっているのか。
あるいは。
私は目の前が暗くなる。
そこで思考はプツリと途絶えた。
***
そよそよとした風を感じて目を開けると、私は夫にうちわで扇がれていた。
「あれだけ飲んどいて、長風呂するやつがあるか」
呆れたように言われた。
頭に乗せられた冷たいタオルで、のぼせたのだとわかる。
「迷惑かけた?」
重かった、と夫は短く言う。
私は恥ずかしくて、ますます血が上るようだった。
「気分はどうだ」
「頭が熱いわ。あなたのせいでね」
お酒のせいと、温泉のせい。もとを正せば、全部夫のせいだ。
なんだそれ、と彼は笑う。
「ねえ、どう思った?」
「間抜けなヤツ」
「そうじゃなくて。見た?」
「見たよ」
「……スケベ」
バカか、と癇に障ったように言うけれど、彼の手は私を扇ぎ続けている。
呆れたような顔なのに、目の奥が心配そうに私を見ている。実際はよく見えていないのだけど、そうだとわかる。
「なにを今更。夫婦だろうが」
そうだけど。
だって普通の夫婦と違うから。
今日はやたらと『夫婦』を強調してくる。あなたも何か感じたの?
私は、横であぐらをかいている夫をとろりとした目つきで見る。
浴衣の合わせが甘くて、少し乱れている。
今頃酔いが回ってきたのか、なんなのか。
私は自分らしくないことを言った。
「一緒に寝る?」
「そうだな。夫婦だからな」
「……大事件ね」
そう。ある意味では立派な。
夫はうちわを床においた。
夫の身体が覆いかぶさってきて、私に影を作った。目と目が合い、大丈夫なのか、と彼の瞳が心配そうに問いかけてくる。
わからない。
だって10年も、あなたの身体に触れていないのに。
どうなるか、自分でもわからない。
私は、自分の身体を作り変えていた。
人は環境に慣れるものだ。性欲以外の欲望で、ちゃんと満たされるようになっていた。だから、わざわざ男に抱かれなくても、平気なのだった。
そんな不安げな色を拾ったのか、私の耳を優しく撫でてくる。
輪郭をなぞる柔らかい指づかい。
彼も迷っている気がした。
ソフトな愛撫の繰り返しに、くっと眉をしかめると、彼の目は嬉しそうにほころぶ。
変わらないな、と。
ドクドクッと心臓が変な脈打ち方をした。
あ、どうしよう。ひょっとしたら。
初めて抱かれたときと同じくらい、緊張している。
もう20年も前の話。
あの時の小五郎は、生きるか死ぬかくらいの、決死な表情をしていた。
なのに目の前の男は、慈しむような余裕の微笑みすら浮かべている。
人は変わる。
けれど私はきっと、同じ表情を浮かべているのだ。
それに気がついて、耐えられないほどの羞恥心がこみ上げてきた。
頬がかぁっと熱くなり、両手のひらを彼の顔に向け、私は拒んだ。
「ま、待って……」
やっぱり無理、と言うのと同時に彼の頭が落ちてくる。ひゃ、と私は口から声を漏らした。
彼の生ぬるい舌が私の耳を這っていった。耳の軟骨を優しく舐めあげられると、身体全体がブルっと震え、制止の声が喉の奥で溶けていく。
耳裏にべろりと舌がまわり、私はゾワゾワと身体が痺れた。
懐かしい感覚?
ううん、もう思い出せない。
私はこんな愛撫を覚えていない。
ゆっくり唇が下りてくる。
首の筋を触れないくらいのタッチでなぞられて、私はあえぐ前に泣き言を漏らす。
弱々しく響いた。できない、の声。
首に息がかかり、夫の低い声がした。
「つらいか?」
つらいと言えばつらい。
でもそんなことは、無論ない。
首筋にキスをされると、これからこの人に抱かれるのだとハッキリ感じた。スイッチみたいなものだ。夫はそこに何度も吸い付きながら、気遣うように頭を撫でてくる。
私は混乱する。
あなたと喧嘩しかしてこなかったのに。いまさらこんな、夫婦みたいなこと。
できない、と私がもう一度小さく言うと、彼は顔を上げて私を見ながら困ったように言う。
「抱かせてくれよ……いい加減、きつい」
ずるい、そんな顔で素直なこと言うの。
どうやったって拒めないじゃない。
私だって本当は抱いてほしい。
でも、恥ずかしいのよ。
この期に及んで、あなたにオンナの声を聞かせるなんて。オバサンなのに生娘みたいな反応だって。
どうせバカにするでしょう?
私は泣きそうになりながら夫を見上げる。
夫はますます困ったように、親指で私の唇に触れた。
「ギャップがあるにも程があるだろ……お前から誘ってきたんじゃなかったか」
「だって……だって。どうしてあなたは平気なのよ?恥ずかしくないの?」
「恥ずかしいとか言ってられる、そういう段階じゃねぇし」
どういうこと、と聞く前に、彼の唇がちゅ、と口づけしてきた。
すぐに離れたけれど、気が遠くなるくらい、久しぶりのキスだった。
「……なあ。もう限界なんだよ」
以前にも聞いたセリフが、息の匂いがするほど近い距離で聞こえた。生々しい男の欲望の香り。
ねえ、限界ってそういうことなの?
まさか聞けなくて、私は黙る。
ここまで言われたらもう逃げられない。
「わ、笑わないでよ」
私が言うと、彼はバカだなぁ、と言って再び私の耳に唇を寄せる。
可愛いよ、という声が耳元で聞こえ、私は全身の力が抜けて、小さく吐息を漏らした。
私が覚えているのは、そこまで。
おわり