御褒美と罰







 毛利小五郎 38歳
 探偵事務所を経営 
 妻は開業弁護士
 高校生の娘がいる
 10年前に妻とは別居中




 ――面白くない。


 英理は立ち寄ったコンビニで見かけた芸能雑誌を引っつかみ、コーヒーと一緒に買い求めて出勤した。
 夫の名前が表紙にデカデカと書かれている。
 
 こんな雑誌が些末なことを面白おかしく書き立てることは周知のことだ。
 夫は女が好きで、チヤホヤされるのが好きで、美人に目がないすけべなオヤジである。
 
 どこまでが本当のことなのか。
 恋愛関係があるのか。本当に体の関係を持ったのか。
 
 英理が家を飛び出てから、いつの間にか長い月日が経っていた。
 判例上は、いつでも離婚ができる十分な実績だ。
 仕事でも相手方が離婚に応じなければ、まず家を出なさいと、そうアドバイスをしているくらいだ。

 夫は、昔は硬派だったのだ。
 蘭が保育園に行きだすようになり、英理が仕事をし始めたころくらいから。
 夫は急に女好きになり、美人の尻を情けない姿で追い回すようになった。
 同僚と水商売の店に出入りし、帰りが遅くなることもしばしばあった。

 弁護士として駆け出しの仕事をし始めてから、英理は夫に手を掛けることを忘れるくらいに毎日が目まぐるしく。
 それに当てつけるように、夫は変わってしまった。
 夫に対して怒りをぶつけることが増え、それを夫はどこか面白がっているように見えていた。

 そういうところが嫌いだ。
 いつも回りくどいやり方で、自分を試そうとする。

 今は彼の素行が目に入らない良い距離を保って、日々を平穏に過ごしている。
 今回のことは、交通事故みたいなものだった。


 朝から着信が数件入っている。大嫌いな夫からだ。
 こういうとき、そ知らぬ顔をしてとぼける性格の彼が、こう性急に連絡を寄越してくるところをみると、よほど身にやましいことがあるのかもしれない。
 夫とは30年以上の付き合いだ。
 英理はその月日に思いを巡らせて、自然とため息がこぼれた。

 怒鳴ってやりたい気持ちがないわけではないのだ。妻としてのプライドは、まだ少しだけ残っていなくもない。
 しかし、いまの自分の立場を冷静に見つめると。
 咎めたところで、彼から離婚を突きつけられたら、それに逆らうことはできない。
 それ故に、英理は電話を取ることができないでいた。





 イソ弁時代の弁護士仲間の1人が、すぐに飲みに誘ってくれた。
 有名人の妻は何かと面倒なものだが。今回は諸々の説明をしなくて楽だと開き直って、さして強くもない酒を煽り飲んだ。

 司法修習時代の同期は年上ばかりだった。
 今日飲みに誘ってくれた彼も、その例に漏れず年上の40代半ばで、しかもバツがひとつ付いている。愚痴をこぼす相手にもってこいだった。
 同情されると辛くなる。
 こういうときには気心知れた女友達よりも、隙があれば口説こうとするくらいの男の方がありがたいものだ。

 
 深夜のタクシーは順調に流れ、あっという間にマンション前に滑り込んだ。
 
「付き合ってくれてありがとう。またね」
「電話するよ」

 夫からの電話は出ないままだ。会いたくないが、会わずには居られないだろう。

「こんな時くらい酔っ払ってくれればいいのに。全然つけ入る隙もないな」

 英理は声をあげて笑った。
 結構な量の酒をハイペースで飲んだにもかかわらず、ちっとも良い気分にはならないのだった。

「……もし離婚することになったら、ソッチをお願いするかもね」
 
「得意分野だ。その時は立派に代理人を務めてみせるよ」

 悪戯っぽい笑顔をみせるお茶目な中年男。
 年を重ねても、キャリアを積んでも、人の本質はそう変わらない。

「運転手さん、少しだけ待っていてくれますか?」
 男は身を乗り出して、一万円札を運転手に手渡した。
「なに。家には入れないわよ」
「いいから」
 
 梅雨の湿り気の多い空気に満ちていた。
「明日は雨かな」

 男の手は英理の頭に置かれた。
 
「やっと…機会が巡ってくるかもしれないな」
 いい歳をして純粋でまじめな男だと思う。一途であるが、面白みはない。
 長年、夫と夫婦をやっていると感覚が麻痺してくるのかもしれない。

「今夜はあなたには御礼を言いたい気分だわ……それって変よね」
 
 くすぐったい気持ちで彼を見上げると。
 男は英理の奥を見ていた。頭に置かれた手はすぐに外される。
 英理は血が沸き立った。

「……じゃあまた」
「ええ、おやすみなさい」





「初めて見る顔だな」
 車が走り去ってから、夫の低い声が背後に聞こえた。

「そう?付き合いは長いわよ」

 くるりと振り返ると、街灯に照らされた夫の顔があった。
 いつもは固めた前髪がパラパラと乱れていて、苛立っているのが良くわかった。
 いい気味だ。
 
「ああやって自分に気のある男を周りにはべらせてんのか。無駄な気を持たせてかわいそうになぁ……」
「あら、無駄かどうかなんてわからないわ。この虫除け、なんだか効かないみたいなの。どうしてかしらね?」
 
 英理は指輪をはめた左手をヒラヒラしてみせる。

「フーン……予定はあるってわけか」
「やめて。大事な友人よ」
「……男だろ? 関係あるか?」

 カツン
 返事の代わりに英理はヒールを強く鳴らした。

「おい英理」
「また芸能記者に撮られたいの? とばっちりは御免だわ」

 まっすぐ歩こうとして少し足元がふらついた。
 
 





 部屋に入った途端に近づいてくる夫の唇にギョッとして、手のひらでグイっと押し留めた。
 触れた夫の息は生ぬるく、唇は熱かった。

「せ、説明!」
「ん?」
「しなさいよ!弁明とか! するべきでしょう!?」
 
 いつもこう。
 痴情話はより冷静になるべきだと、職業柄よく分かっているはずなのに。
 この男に急に踏み込まれると、その考えはいつもどこか彼方へ。
 こういうところが苦手で大嫌いなのだ。
 
「後にしようぜ……」
「嫌よ! おかしいわ!!」
「あんなもん見せるからだよ。舐めてんのか」
「あなたね! どの口が言うのよ!」

 血色の悪い唇をギュッと強く摘むと。
 夫の髭がモゾモゾとくすぐったそうに動いた。

「……そういうトコ、良いよな!」
 
 そう言って、夫は嬉しそうな顔を隠さない。
 喜ばせるつもりなどないのに、夫はいつも予想の斜め上を行く。
 だからこそ余計に苛立つのだ。

「勘違いしないでよ!」 

 夫の手をパチンと振り払うと、反動で足元がフラついた。
 夫の顔をみて血圧が上がったからか、アルコールが全身を駆け回っていたが。
 襟を整えて背筋を伸ばし、夫の胸に指を突き立てた。

「まだ籍は入ったままだってこと忘れないで。こっちにも色々影響があるのよ」

 ここ一年の間に、夫は急に有名人になった。
 女性関係のだらしなさを面白おかしく書き立てられる側に回ったのだ。
 それは英理にとってうれしくもあり、迷惑なことでもあった。

 ゴシップは弁護士妃英理のイメージとあまりにかけ離れすぎている。
 周りに英理が既婚であることは知られていても、余計な情報は一切話さないようにしていた。
 職業柄、自分自身のプライベート管理に人一倍気を使っていたからだ。

「それは悪かった……迷惑かけたな」

「……それじゃ足りないわ」

 珍しくちゃんと反省のポーズをとる夫。英理の心に甘い顔が覗くが、両手で押しとどめお引取りいただく。
 こんなもので許していたら、この男は益々調子に乗るだろうと思った。

「あれは仕事上の知り合いでな……」

「それで?」

「確かに誤解されるような素振りは、まぁすこーーーしはあったかもしれないが、実際はなにも起こっちゃいねーよ……」

「それが、弁明?」

 腕を組み青筋を立てて睨み付ける英理と対照的に、小五郎の口元はうれしそうにほころんだ。

「……お前がそうやって怒ると思わなかったぜ……少し安心したっつーか……」

 つられて英理の顔も熱くなる。

「妬いてなんかいないわ……迷惑だってだけよ……」

 だんだんと夫との距離が分からなくなる。本格的に酔いが回ってきたようだ。
 近づいてくる夫の唇が、もどかしく遠くに感じた。

「なんでも言うこと聞くぜ? 今夜はな」
 甘ったるい声で囁かれた言葉は、それはそれは……魅惑的な申し出だった。

 英理は少しだけ考えて、夫を部屋へ招き入れた。





















「……もう、いいだろ」


「ダ・メ」



 英理は妖艶に小首を傾げ、乱れた髪を耳にかける。
 チッと夫の舌が鳴った。

 ソファに深く座らせた小五郎に跨り、逞しい首にしなやかな腕を巻きつけて唇を寄せる。
 小鳥が啄むようなキスも。
 角度を変えて舌で絡め取るようなキスも。
 久しぶりすぎて明日は唇が腫れそうだと、まぶたの裏で考えていた。

 ――今夜は手を触れるな。

 その条件のみを突きつけて、英理は小五郎をソファへ押し付けた。

 悔しそうにゆがむ夫の表情が、たまらなくそそるが。
 スルスルと太腿に伸びてくる熱い手に、英理はピシャリと言い放つ。
 
「……何もしちゃダメよ?」
 
「この……この……! 酔っ払いが!!」
 
 夫の怒気はまるで泣き言のように聞こえて、英理は濡れた唇を吊り上げる。
 アルコールのせいで頭の中が淀んでいた。

 もっとだ。
 もっと懲らしめてやらないと気がすまない。
 

「ちゃんと約束守れたら、信じてあげるわ。あなたのこと」

「……クソ!」

 跨る足の間に熱気を感じて英理は意地悪く微笑んだ。

 これは手の早い夫への罰。
 そして希望を捨てないで居る夫へのすこしの御褒美だ。
 

 英理は酔いがさめるまで、夫に甘い罰と褒美を与え続けた。
















♡おわり♡






酔いがさめたら……♡
ご想像にお任せします♡
読んでいただきありがとうございました!
リオ