斜めがけのビジネスバッグってどう思う?
オジサンがよく使っている、旅行鞄みたいに沢山入るタイプのものなんだけど。格好悪いかしら。けどこの鞄、もう限界みたいなのよ。最近、手荷物の量が増えすぎで、肩こりがヒドいのよねぇ……。
カーブを切ると、助手席に置いてあるトートバッグが遠心力で扉にぶつかった。電車通勤なら間違いなく、満員電車で舌打ちされそうな大きさのバッグだ。
有希子と会話をしながらの帰宅。片耳のヘッドセットを用いたハンズフリー通話は、運転中でも会話ができて便利でいい。プライベートな空間なので話の内容も他人に聞かれる心配がない。
華やかで可愛らしく、よく通る声をしている彼女は元芸能人で、その近況報告はまるで、彼女のラジオ番組を拝聴しているかのように感じられた。だからつい相づちをうち忘れてしまいがちだ。
「ちょっとー。英理ちゃん聞いてるのー? 誰もバッグの話なんて聞いてないんだけど?」
「あら、そこまでは酩酊していないのね」
「だーかーら、酔ってないってぇ!」
「有希子。あなたそれ、酔っぱらいの常套句よ。赤と白一本ずつってとこじゃないの?」
「さっすが英理ちゃん。お見とおし? おかしいなー。声には出ないはずなんだけど」
確かに声には落ち着きがあり、酔っぱらいのそれとは違ってはいた。ではなぜ、有希子の飲んだ量までが正確にわかったのか? それは簡単。話の内容が、かなり赤裸々だからである。
誰もが羨むような旦那との甘い生活についての報告。のろけ話だ。小説家の男性と電撃的な恋に落ちた少女は、もう二十年近く、当時の情熱を保ち続けている。友の幸せを聞くのは喜ばしい。ええ勿論、喜ばしいけれども、深夜ラジオでこんなトークが流れてきたら、迷わずチャンネルを変えるタイプでもある。
「英理ちゃんは、週に何回するの? ていうか、最近どう?」
こちらの薄い反応を察したのか、突然そう話を振られて、英理がしたのはバッグの話だった。面倒な酔っぱらいをあしらうための誤魔化し。……にしても、あまりに色気がないのが切ない。かつて帝丹高校のミスコンを騒がせた自分達の未来がこうも対照的であるとは、当時誰が予想しただろう。
なにしろ別居中の身なのだ。別居中の夫との性生活について、たとえ人のいない車内であっても、それを語り聞いてもらいたいと思ったことはない。リスナーとして匿名相談のはがきを、送るつもりなど毛頭なかった。
「英理ちゃんって奥ゆかしいのね。そういうところが、いまだに小五郎君をひきつけて離さないのかしら」
「別に、相変わらずよ」
「どーせこんな遅くまで仕事してるんだから、ろくに会ってもないんでしょ? たまにはさ、やさし~く抱いてもらってさぁ」
「はぁ?」
「そうすれば仲直りなんてすぐなんだから。ね?」
「あのオヤジを自分から誘えっていうの? 冗談やめて。そんなことより私は、エプロン姿の可愛いコが出迎えてくれたほうが千倍嬉しいわよ。こうして遅く帰ってきたとき、おかえりー。ご飯できてるよー。なんて笑顔で癒やされたいものね」
「性欲より食欲ってこと?」
「食事は大切って話」
「疲れすぎなんじゃない? ホラー疲れて帰ってきたときって、あー! 無性にしたーいって、思うでしょ?」
「あのね……」
「気軽に電話しちゃえばいいじゃない。普段喧嘩してたって、愛し合ってるんだから。二人きりなら自然とそういうムードになるでしょ? あ。電話かけてあげよっか! 私が小五郎君に」
「ちょ」
ちょうど車庫入れでバック駐車をしていたため、勢い余って車止めに乗り上げそうになった。有希子は異常な行動力で周囲をたびたび仰天させる。こんな冗談のような申し出にしたって、からかい半分、もう半分はきっと本気だ。酔っぱらいの暴走につき合わされて、もらい事故は勘弁願いたい。
「学生じゃあるまいし、悪ノリはやめて」
「優作なんてね。徹夜明けはねぇ」
「……」
「あ。噂をすれば帰ってきた。それじゃあ、またね♪ ちゃんと電話するんだぞ」
そう言って唐突に電話は切れた。言い表せない疲れを感じて、盛大にハンドルに突っ伏した。
***
小五郎は英理からの電話に驚いていた。確かに、別居中の妻からこんな夜更けに電話が来たら、何かあったと思っても不思議ではない。
「どうしたっ」
いきなり部屋に飛び込んできた真剣な顔に、玄関先で呆気にとられて英理は目をパチパチさせた。「どうしたって、言われても……そっちこそどうしたの?」そう聞き返すほどに息も荒くシャツもヨレヨレで、全力でダッシュしてきたとすぐにわかる佇まいだ。小五郎はどうやら急病や事故の、緊急事態を想定したらしい。
小五郎は、思いこむと突っ走る暴走癖がある。用件も聞かずに電話を切って10分、飛ぶようにやってきた。英理に何かが起きたときには、全速力で駆けつけるのだ。別居をしていても変わらない情が存在するらしい。
どうした、の問いに「ええと……」 と英理は言葉に詰まり、困っていた。普段はおちゃらけているはずの小五郎の緊迫した瞳に向かって、呼び出した本当の事情など、明かせるものではなかったからだ。
──欲求不満なんじゃないのー? たまにはやさしーく、抱いてもらってさあ♡
(言えないわよ。このムードでそれは……)
有希子からの提案は失敗だ。小五郎の誤解は、自分たち夫婦が普段いかに連絡を取り合っていないのか、という証拠である。沈黙する英理をハテナ顔で見つめる小五郎は、ガサガサと音を立ててポリ袋を差し出した。
「一応これ、買ってきたんだけどよ」
コンビニエンスストアのポリ袋だ。飲料水とゼリーがたくさん入っていて、ずっしりと重たそうだった。
「あ、ありがと。でもね」
体調は悪くないのよ。英理は真実を言い出そうとして、受け取った袋底の冷たさにハッとする。それは、小五郎に電話をかけたことを恥ずかしいと感じさせる冷たさだった。ちょっと頭を冷やしなさい。そう諭されているかのように。いくら愛し合っている夫婦とはいえ、ピザ屋のデリバリーみたいに気軽に呼びつけるなんて、あまりに身勝手すぎやしないか、と。
羞恥心から顔が、かあっと赤くなった。だから小五郎がまっさきに手を伸ばしたのは、英理のおでこだった。
「寝てなくていいのかよ?」
熱い指が疲れた頭と瞼に触れ、神経まで浸透するようだった。高熱を確認する首のリンパ節に沿う指も優しい。
(……気持ちいい……)英理は心地よさに目を閉じつつも、その繊細なタッチに身体がゾクゾクと震えた。
「寒気か? 熱は、ねえみたいだけど……。どうした、どこか痛むのか?」
いいえ、と目をつむったまま英理は答えた。どこも痛くはないが、体はおかしい。体温を確かめるだけの触れあいで、少しも変な触り方ではないのに、甘く疼く身体の奥。有希子から指摘されたあの四字熟語が頭の中をぐるぐると回る。欲求不満なんじゃないのー? その解消方法を三十代の女が知らないはずがないのだが。
「……そう素直に言えたら苦労はしないわね。ねえ私が、体調不良であなたに看病を頼むと思うの?」
「へ?」
「あなたって、バンジージャンプ飛んだことある?」
「は? バンジー? ある……わけねーだろ。あんなモンまともな人間のすることじゃねーよ。それが一体」
「あれを飛ぶときってこんな気分なのよ。きっと」
「?」
「えい」
ドサッ、と手から落ちたポリ袋が床を打つ音。息をのむ小五郎。汗で湿ったシャツの背中に触れ、英理は小五郎の心臓の音に耳を傾けた。鼓動がとても早い。
「……すごい音よ。どれだけ急いで、走ってきたんだか」
「お……、おいどうした。大丈夫か? つーか、なんでバンジージャンプ??」
「相変わらず元気なひとね」
こうして触れるといまだにドキドキする。顔を見ると苛立つことばかりなのに、触れると全部忘れてしまう。
「ええ、えぇぇ……?」
混乱した様子で小五郎の両手は、バンザイの状態になっている。痴漢冤罪を恐れるサラリーマンが、電車内でするあのポーズだ。ただ妻が、夫に抱きついているだけだというのに。
「そんなにおびえなくても。取って食べたりしないわよ。ねえ、背中が寒いんだけど?」
「お前、全然大丈夫じゃなさそうだな……」
「どうして?」
「そのまま、つかまっとけよ」
そう言うと小五郎は英理を力強く担いだ。身体が浮いて心も高揚し、年甲斐もなく、きゃあきゃあと、はしゃぎたい気分になっていた。行き先が寝室であることに心が躍る英理だったが、小五郎の目的はまるで違っていたらしい。
「スーツ、さっさと脱いじまえよ。後ろ向いとくからよ」
そういって小五郎はくるっと背を向けた。ベッドに下ろされた英理はきょとん、とした。こういう場面で自ら服を脱ぐことには慣れてはいないのだ。いい歳して純情すぎると思うが、しないことに慣れるのは難しい。
静かな衣擦れ音しかせず、英理はいつぞやの身体検査を思い出していた。肌を晒すのは、あの日以来の事だ。少しムッとしながら「脱いだわよ」と言う英理の声に振り返った小五郎の顔は、みるみる険しくなっていった。
「おい着替えは! お前だいぶおかしくなってんな!」
小五郎は怒鳴り、今夜着る予定でベッドの上に置いていたパジャマを広げた。バサっと羽織らせ下着姿の英理に着せていった。英理はただ唖然と、小五郎の怒りの手つきを眺めていた。
「きゃあ!」と英理は叫んだ。急に足を掴まれ、ベッドに転がったのだ。仰向けになり天に上がった足に、ぐいぐいとズボンをはかされている。望みとは真逆の強引さに、天井を見つめ茫然とした。(何コレ? ベッドルームで服を脱いだのに、何故着せられてるのよ)全部着せ終わると「寝ろ!」と小五郎は鼻息荒く腕を組んだ。
「私、そんなに具合悪そうに見える? 探偵さんは少し、人の様子を観察した方がいいんじゃなくて?」
「お前が俺に電話してくるぐらいなんだからよっぽどシンドかったんだろ? だからホラ、さっさと寝ろって」
あまりにムードがない。結婚して子供までいる自分らに、今更こんな悩みが出てくるとは驚きだ。いかに普段から、色気のないやりとりばかりしてきたのか。急激に疲労を感じて、恨めしげに小五郎を見上げた。
「眠れねえか? なら目を閉じればいいんだよ。ハハ。添い寝でもしてやろーかぁ」
小五郎の冗談めいた言い方に、英理は脱力して素直に頷いた。小五郎はそれが思いがけなかったのか、目を丸くした。そんな眼で見つめられると、本当に熱が出そうな程に顔が熱くなり、掛け布団で顔を隠した。
小五郎は戸惑いながらも「しょーがねえな」と言い、「よいしょ」と服のまま隣へ横になった。触れたい気持ちから自然と、スッと小五郎の手に指を絡めてみた。言えないならこうして、行動で示せば良いのだ。
「……お前、今日、かなり変だよ」
ぼそりと呟く小五郎を見る。その頬がほんのりと赤くなっていた。何かまずいのかと、英理は聞いた。
「イヤ、なんでもねえ……。俺が、おかしい」
小五郎は片手で額を押さえて、自分に言い聞かせているようだった。長年見てきた英理にはわかるが、小五郎におかしなところはない。無駄に格好つけで優しくて、実は心配性で頑固。英理を病人と思い込んだまま、触れてはまずいと自制している真っ当な神経。英理は調子に乗って、低い声で甘えた。変なのは明らかに、小五郎の顔に滲んだ汗を見て、胸の奥に小さな快感の炎が点った英理の方だ。「いいから寝ちまえ……」と小五郎は相手にしないように、そっぽを向いた。この鈍感頑固男には、どうやらハッキリ言わないと伝わらないらしい。
「……なんか。したく、なっちゃって」
「支度ぅ? 明日は土曜で休みだろうが。とにかく今は寝てろっつーの。お前はそのやせ我慢がいけねーって、子供のときから俺は散々注意して、」
照れ顔をしつつ「あの小3の時なんてよ」と説教をしだしたので、英理はポカンとしてしまう。胸のあたりをぽんぽんと叩くので、本当に子どもになった気分になる。愛し合っていても、異性としてどう魅力的に見られているかといえば、実はまったく自信がない。
「それから、中2の時なんてなー」と小五郎の記憶は腹が立つくらい鮮明だ。英理はペラペラ動く唇を見つめながら、ぼんやり思い出していた。中2の頃の事ではなく、普段はどのように小五郎が触れはじめるのかを。
語りに夢中になると、いつも目をつむる癖がある。この隙だらけの唇にそっと近づき、短いキスをするのはさぞ簡単なことだろう。(こんな風に、他の女に奪われたら嫌ね……)英理はそう思いつつ目を閉じた。
ちゅ、と耳懐かしくて心地よいリップ音がした。驚いて固まる小五郎に構わず、英理は二度目のキスを仕掛けようとした。けれど小五郎はすごい勢いで、ベッドから転げ落ちた。
「だ、だいじょうぶ? あなた」
「お、おま……。何して。いや、俺、まったくそういうつもりじゃ……」
「何よそれ。大騒ぎして。分からないの?」
「む、無理無理、無理だって」
「はぁ……? なんで無理なのよ? いまさら私とは、したくないってコトかしら?」
英理はにっこり微笑んだ。キスを避けられる事態は、尻餅をついている小五郎に、にじり寄るほど悔しかった。
「わ――! 来んな! ちょっとタンマ! トイレ貸して!」
「ダーメ。これでしてくれなきゃ、向こう三年は根に持つわよ」
「無理だって! そんな状態のお前、抱けるかよ!」
「バカね。もう……本当バカ。気にしなくていいの。私はあなたと愛し合いたいんだけど、ダメ?」
小五郎はダラダラと滝のような汗をかきながら、生唾を飲み込んだ。大人なムードからは尋常ではなく遠いが、頑固なこの男を耽溺させていくのは、きっと快感だろう。だから英理はその肩に、しっかりと手を掛けた。