『復縁契約書』~夫が可愛すぎる問題~

『復縁契約書』~夫が可愛すぎる問題~






「離れていたほうが上手くいくのに、どうして一緒になりたがるのかしら?」

 昼下がりのカフェ。蘭はソーサーにカップを置いて、窓の外を見ながら呟いた。黒のタイトスカートから伸びる脚は、私にはとても愛着がある。この子の骨格は私に似ているからだ。小さな頃から空手を習っている実力者なので、より筋肉で引き締まって、とてもキレイ。代わりに、四十を過ぎた自分の脚は、お役御免とばかりに、パンツスーツに仕舞われている。
「それって、蘭と新一くんのことよね?」
「違うに決まってるでしょ」
「私たちのこと……そんな風に思ってたの?」
 蘭は伏し目がちに、フフ、と微笑んだ。鋭い口調が自分に似てきたと思う。蘭は、ちょっと私に厳しくなった。あの日から。
「そりゃ子どもの頃は違うけど。仲直り、イコール、お母さんが帰ってくることだって、思ってたよ? でもねぇ~」
「もう! 言わないで……」
「まさかね~。あんな派手に喧嘩してるくせに、お母さんのマンションに通い夫してるなんて、だれも思わないじゃない?」
 蘭はニタリ、と含みのある視線をよこす。
「……悪かったわよ」
「ねー♡」
 両頬に手をついて微笑む顔が、昔の蘭の笑顔に重なった。私は一人娘の蘭が小学校に上がったころ、夫である毛利小五郎と仲違いをし、家を出た。離婚を前提とした別居ではない。好きであるのに、好きだからこそ、離れることを選んだのだ。
 夫とは、しばらく娘の事務連絡を往復するだけだったのだが、元々は好き同士である。歳とともに丸くなったのか、たまには食事でも、という誘いから、たまには飲みに、に変わり。そして、たまには家に……と色気のある誘いに発展して、距離が縮まっていった。
 そして、別居して十五年経とうとする頃には、当然のように、週に一度の頻度で会うまでになっていた。解消するキッカケも特に訪れず、別居はもはや形骸化した、恋愛のスパイス。いい歳をした、子の親だというのに。長年振り回された娘の立場からしたら、ふざけるなと言いたいだろう。

 娘にソレが発覚したのは、彼女が就職先を決めた大学四年の秋。記念日のサプライズとやらでマンションを訪れた蘭と、マンションで一晩を共にした夫が、鉢合わせしたのだ。
 思い出すと、今でも死にたい気持ちになる。いきなりのアポなし訪問に焦った私は「い、今は、ちょっと。立て込んでて……」と下手に渋った。「……アヤシイ!」と言って蘭はシャンパンを片手に、部屋へ踏み込んできた。小五郎はシャワーを浴びているし、私は朝食を作っていた。テーブルにある二人分の食器とコーヒーカップを隠滅する間もなく、
「だれか、いるんだ……」
 と、怒りよりも悲しみを露わにして、蘭は部屋をウロウロ。ハンガーにかけられた大きなシャツ。灰皿とタバコ。脱ぎ捨てられたねずみ色のスエット。所かしこに男の気配を察知して、蘭は涙目で恨めしげに私を見た。私は匙を投げた。そこで、彼専用のバスローブを羽織って出てきたところで、二人は出会ったのだ。

「…………うそ」

 客観的に見て、実に奇妙な出来事だと思う。小五郎は、風呂上がりに咥えていた歯ブラシを床に落とし、沈黙。そして、リビングでの家族会議。喜びと、怒りと、混乱の混じった表情で、詰められる私たち。
「さあ、説明してもらいましょうか?」
 腕を組む愛娘と、押し黙る両親。二人で楽しみすぎたツケが回ってきたのだ。もう逃げられない。私はそのとき、厳しい自分の父を思い出していた。初めて父に小五郎との交際が発覚したときのこと。少ない言葉の一つ一つが重くて、小五郎は恐縮してたっけ。親だけでなく、娘からも同じことを問われ、私たちは一体なにをしているのか。
「なにしてたの? 麻雀はどうしたの?」
「……」
「いつからなの? 言ってくれても良くない?」
 優しく気配り屋の娘に今までかけた苦労を思うと、私は合わせる顔がなく、居たたまれない。小五郎は静かに口を開いた。
「……夫婦なんだから、することがあるんだよ」
 居直ったのかと思えば、とても真面目な顔で蘭を見ていた。「大切に、します。絶対に」と言った過去のように。私は恥ずかしさで埋まってしまいたい気持ちより、小五郎が腹を括った顔に、見惚れてしまう。
「あなた……」
「文句あるか?」
「全然、ない!」
 よかった……、と蘭の目に、うっすらと光るものが見えた。指で目をぬぐっている。なぜか私まで、もらい泣きしそうになる。
「なあ、英理。いい機会だ」
 小五郎は体ごと私へ向いた。
「戻って、くるか」
「……え?」
「今後、麻雀って単語が出るたび、こんな顔で送り出されたんじゃ、たまんねーし……」
「そこなの?」
「英理」
「……はい」

「やり直そう」



 それから蘭の大学卒業までの期間、私たちは三人で暮らした。ちょうどその頃、幼馴染の新一君との結婚話も持ち上がり、桜の季節に、蘭は毛利家を巣立っていった。おめでたく、少しの寂しさを伴う春。今は、探偵事務所の上の階で、娘不在の日常を”仲良く”暮らしている。

「一緒に居たって、上手くいくわよ。……絶対いくわよ。今回は」
「どうかしらね?」
 両親の復縁をあんなに喜んでいた蘭は、「離れていたほうが、上手くいく」と今では言う。温かくもギスギスした半年の家族生活で、どうやら、そう結論づけてしまったらしい。
「最近は、喧嘩もしないのよ?」
「お父さんとお母さんの人生なんだから、あとは好きにして。相談なら乗るけどね?」
 娘はすっかり大人になってしまった。子の心、親知らずといったところだ。たしかに三人のときには、娘の結婚で意見が食い違ったことをキッカケに、些細なことでイライラ、口喧嘩ばかりしていたが、今は。
「……上手くいってるってば」
 その先を言いかけて、ごにょごにょと口ごもる。二人になって、解決した問題もある。つまり、夫婦のスキンシップは関係を良好にするのだ。そのために私たちは、ある取り決めをした。それはもちろん、娘に語るべきことではないだろう。

──たとえば 今朝。

「いつまで寝てんだ。俺の奥さんは」
「……ううん?」
 眠りについた記憶がないまま、気づくと朝になるということが、最近のパターンだ。目覚めるとキザな顔をした私の夫が、おでこにキスを落としてくるのも。私は照れつつ、夫の寵愛になすがままでいる。
「……お、おはよ」
「今日は休みだろ?」
 そういって、夫はベッドの上に乗る。
「ええ。午後から蘭とランチ。あなたも来る?」
「いい」
 首筋に顔を埋め、スーと鼻で息をする。ヒゲと呼吸がくすぐったい。
「何か言付けは?……あん、だめよ」
「……ウン」
「もう、しつこいわねぇ」
 私の声は全然嫌そうに響かないので、自分で自分に戸惑ってしまう。
「帰ったら、ね?」
 そう言って肩を押し留めると、ちゅ、と名残惜しげに唇を合わせ、離れていった。なに、あれ、可愛すぎる。本当に、私の夫?

──という悩みです。なんて言ったら、スパーン! と、緑スリッパが飛んでくるかもしれない。夫が可愛すぎる問題。でも現実として、身が持つのかは自信がない。




 帰宅すると、探偵事務所のソファで、夫が居眠りをしていた。寝不足に決まっている。いい歳して、毎晩毎晩……。満腹に満たされたような顔で眠る小五郎に近づき、微笑んで膝をついた。
「あなた、……もう夕方よ?」
 朝の夫と同じように、おでこに唇を落とす。まるで新婚時代に戻ったようなやりとりに、照れて私は、唇を拭って立ち上がった。
「……お、おはよう」
「ああ、おはよ」
「夕飯にしましょうか」
「ん。いい夢だったな……」
 いつのまにか手首を掴まれていた。寝起きの手は子供みたいに温かい。けれど節くれた、大人の男の手。
「でしょうね。すごく、幸せそうだったもの」
「けど、どうやら現実みてーだ」
「そう……」
 幸せに涙したくなるほど、私も歳をとったのだろうか。彼とこんな時間を共有できるなんて、想像以上の妙策だったと、我ながら思う。


──それは、ひと月前のことだ。蘭が毛利家を巣立ってから、私たちは二人の時間を避けるようになっていた。同居に踏み切るまでは、上手く行っているように見えた私たちの関係は、急に歯車が噛み合わなくなってしまったのだ。

「ちょっと、お話があります」

 この探偵事務所の応接セットに腰をかけ、私はそう切り出した。彼を好きな気持ちは変わらない筈なのに、苛つく感情を抑えられない。昔と同じだ。このままでは、十五年前の二の舞である。私は脳をフル回転させ……そこで、思い出したのだ。甘く幸せだった、かつての私たちのことを。
 私は仕事の合間をぬって何日もかけ、大作を作り上げた。そして寝不足の目で、努力の結晶を彼に差しだした。

「なんだこれ。……『復縁契約書』ォ?」

「試作品です。修正すべき点がありましたら、ぜひ論議致しましょう」
「なんだ、その口調。他人かよ。スーツまで着て」
「ビジネスライクにしようかと」
 ……でなければ、気恥ずかしさで死んでしまう。小五郎は仕方なさそうに、用紙に書かれた条項に目を通しはじめた。
「ったく、職業病だっつの。なになに。『第一条、甲は乙の料理に、苦情を言ってはならない』だと?……ああ、そーゆーことね……」
「お続けください」
「『第二条、甲は乙の許可なくして、不特定多数の女性を、みだりに口説いてはならない』あのなぁ!」
「どんどん行きましょう」
「『第三条…………』」
 契約という名の日常の細やかな苦情を、小五郎は一つ一つ読み上げていく。ギャンブルのこと、家事のこと、服の脱ぎ方、風呂のルール、煙草の始末の仕方まで。小五郎はチャチャを入れながら読み進め、条項は後半にさしかかる。私はピンと背筋を伸ばした。
「『第八十条 甲と乙は、お互いの誕生日等の記念日は、一緒に過ごさなければならない。ただし、やむを得ない事情がある場合には、必ず事前に申出をし、その補填をすること』……お前、コレは……」
 小五郎は読み上げながら、口元を隠している。
「『第九十七条 甲と乙は、特別の事情がない限り、スキンシップをとるよう努めること』……」
 小五郎はプルプル震えだした。こちらは真剣に考えた。真剣に受け止めてもらわないと困るのだ。
「ちょっと、真面目に……!」
「わかったわかった。これでラストだ」
 条項は多岐にわたり、全部でなんと百条に及んだ。最後の項目で、小五郎は目を丸くしている。ここまで笑い半分で読み上げていたのが、急に険しい顔になり、紙上をトントンと指で叩いた。
「……ココ。異議あり、だ」
「『性生活について』ですね。何か問題が?」
「大ありだ。読んでみろ」
「……『第百条 甲と乙との性交渉は、ひと月あたり五回とする』」
 自分で作成しておいてだが、直球な文面に、顔から火がでる思いだ。
「……」
「……」
「回数の根拠は?」
「……平均値ですが」
「平均! ふはははは!」
 小五郎は盛大に笑った。正直に言ってしまえば、本題はコレだ。最近はとんと減ってしまって、仲直りの鍵は、ココにあると思った。……寂しかったのだ。それで、大昔の手帳を引っ張り出して拾い集めた値を、ソコへ記載したのである。
 私は大真面目だ。何が可笑しいのかわからず首を傾げると、小五郎は笑い涙で濡れた目を綻ばせた。
「わかった! じゃあ、こうしよう。これ以外の九十九すべての条項に従う。そのかわり、この項目だけは、俺が決める。どうだ? 悪くない話だろ?」
「……本当に?」
「ああ」
「……アブノーマルな要求なら、即刻契約解除よ?」
「任せとけ」
 小五郎はなぜか自信たっぷりに歯をみせた。上機嫌になった彼を見て、私も緊張の糸がほどける。まどろっこしい真似するよなぁ……と言いたげに、 彼は私の頭をがしがし撫でている。真意が伝わったのに心底ホッとして、肩の力が抜けたように息をついた。その隙を突くように、小五郎の目がキランと光る。
「ところで、事のついでに言わせてもらうが」
「はい?」
「この契約書には、お前のマンションについて、明記されていないな? まだ契約中らしいが、奥様は一体、どういうおつもりで?」
「あ……あれは、その。一応の保険といいますか、もしもの場合に備えて」
「ああそう。俺との結婚は、交通事故ってか」
「ちが」
「逃げ道確保するなんて、らしくねえよなぁ?」
「わかったわよ! 早急に引き払います」
「結構」
 小五郎もどうやら不満に思っていたことがあったらしい。実りある話し合いを終え、こうして、私たちは復縁にあたり取り決めをするに至った。そして今のところは順調に機能し、上手くいっているというわけである。あまりに機能しすぎて、目眩がしそうになるのだが。
 



「……はぁァ」
 流しで夕食の後片付けをしていると、気の抜けた声がまとわり付いてくる。大きな子どもみたいな頭が、ぽんと肩に置かれた。食器についた泡を流しながら私は言う。
「無理してるんじゃない?」
「……ウン、してる。もう無理」
 少し酔っ払っているのもあるが。最近は酔っていなくても、ベッドの上でなくても、だいたいこんな調子である。
「あら素直。契約内容の変更なら、いつでもご相談に応じるわよ?」
「ウウン。無理ってのは、逆の意味でだね」
「なに言ってるのよ。変よ」
「だって可愛い。可愛いんだぜ、俺の嫁」
「……ばか」
「だってよお」
 腕が腰に絡みつく。身体をくねらせ後ろから諭すように、小五郎を見た。
「あなたは、自分の体力を高く見積もりすぎるの。いつまでも若いつもりでいたらダメよ?」
「……ソッチは鍛えてるモン」
 服の隙間から手が侵入し、肌をくすぐられる。私はますます身をよじった。
「ふふ、やだ。身が持たないわ。困ったわね」
「欲しがりなくせに? オバサンも鍛えればぁ」
「あ、オバサンって言った! 七十七条違反!」
「ヘーイヘイ」
「ふふふ」
 
 ちゅ、と首の後ろに落ちる唇。とける。心がとろけたまま、成形する間もないという感じ。肌のふれあいが、いかにストレスを軽減させるのか。昔の私は、なぜ気がつかなかったのか。こんな歳になって、甘い生活が待ち受けてるなんて、思ってもみなかった。

『第百条 甲と乙は、両者の求めに応じて、上限なく、夫婦生活を行う。ただし両者の同意なくしては、成立しないものとする』

 かくして、私たちの結婚生活は再生したのだ。私が九十九の要求をしたのに対し、彼が望んだのが、たったひとつというのも、実にらしい。欲が深いのか懐が深いのか、ハッキリさせないところも──。私は、彼の増えた白髪に免じて、深く追求しないことにする。






おわり