R15です。ご注意ください。
ほんの軽い気持ちだった。
まさか、あんなものが録れてしまうなんて、想像もしていなかったのだ。
朝のテラス席は家族連れやカップルの喧騒で溢れていた。売店で買ったばかりの朝刊を開きながら、味のしないコーヒーを胃に流し込む。
胃にジワリと染みる感覚で、昨日の夜からなにも口にしていないことに、英理は初めて気がついた。
日頃の疲れを癒そうと仲間たちと訪れた軽井沢。その旅先で、仲間の一人が死に、また仲間の一人は殺人を犯して逮捕されるという異常な事態が発生した。
昨日までバリバリと仕事をし、お酒を飲み交わし、あんなに元気で健全そうに見えた二人がだ。
――頭の中が乱れていた。
昨日は夫に着せられた殺人事件の被疑者という濡れ衣を晴らすため、真の犯人を見つけることに躍起になっていた。
やがて真実は審らかになり、無事に事件は解決したのだが。
身近な人間同士で起こったこの異常な状況に、英理は今になって狼狽えていた。
被疑者とされた当の夫は、殺人が起きたまさにその場で、酒に酔い潰れて寝息を立てていたという。
これは大失態だ。夫さえ酔い潰れていなければ、もしかしたら土壇場で防げた事件だったかもしれない。
……そして何より。
夫が酔い潰れて女の部屋に立ち入るなど、英理には到底許せないことだった。
力づくに連れ込まれたわけではない。自分の足で、部屋に踏み入ったのだから。
最寄りの警察署で取り調べを受けていた夫が、朝になってようやく戻ってくると聞いた。
胸の奥からモヤモヤと怒りが涌き出てくるのが止まらず、心を鎮めようと、手にした朝刊の文字に目を走らせていた。
いい歳をして酒で失敗をする懲りない夫に、少しキツ目のお灸を据えてやろうと悪巧みを思いつく。
昨日娘から借りたMDプレイヤーの録音ボタンを押して、夫の謝罪を記録してネチネチ虐めてやろうと夫の帰りを待っていたのだ。
――そろそろ戻ってきてくれねーか……
限界なんだよ……
夫の静かな声が、イヤホン越しに聞こえた。
その声に、英理はメガネを光らせて俯いたまま、しばらく言葉が出なくなる。
ある種類の感動があった。
英理には、この台詞を待ち望んだ日々も確かにあったのだ。
夫に許しを請わせることができたという事実。その満足感が英理の胸に広がっていく。
宝物を手に入れてワクワクした気持ちを悟られないようにしながら、英理はアッサリとその場を離れたのだった。
お盆期間中の高速道路は混んでいて、長野から車を走らせ都内のマンションまでたどり着く頃には、英理はクタクタに疲れ果てていた。
今日の出来事は刺激が強かったらしい。英理の目はすっかり冴えきっていて、夜中になっても眠りを呼び寄せることができないでいた。
こんな夜にはお酒の力を借りよう。そう思いつき、ワインをキャビネットから取り出して静かにグラスへ注ぐ。
普段よりもいいワインだ。
チビチビと口をつけながら、目を伏せて問題のMDプレイヤーに手を伸ばした。
――限界? 今更どうして、そんなことを……
十年前、家を飛び出した英理を小五郎は追いかけもせず、そして今日まで迎えにくることもなかった。
英理は、妻や母親としての役目を放って単身生活を謳歌しながら、身勝手に感じる寂しさや、母親としての罪悪感に何度も押し潰されそうになったことがある。
そんなとき、夫は英理の前に不思議とタイミング良く現れるのだった。
過去に何度も様々な理由でこの部屋を訪れては、飄々とした振る舞いで、いとも簡単に英理を救った。
昔から間がいいのか勘がいいのか、ともかく夫はそういう男だった。
そのことは誰にも話したことはない。無論娘にもだ。
普段はそっけない態度で喧嘩ばかりの私たちが、二人きりになると言葉を無くしてしまうなどと、いったい誰に言えるだろう。
思い出すたびに頬が熱くなる。
二人きりの時に見せる夫の男の顔を思い出すと、この距離がもどかしく、ときどき気が迷って心が揺れることもあった。
英理はカバンから包装紙に包まれた箱を取り出して見る。
これは、そんな英理の期待が具現化したものだ。
結婚記念日という口実に、もしかしたら次は……、そんな期待を胸に購入したプレゼントのネクタイだった。
まさかこれを選んでいるところで彼らに出くわすなど、思ってもみなかった。
甘い蜜、甘い言葉に誘われて近づこうとすると、今回のように直ぐに水を差される。
この十年、その繰り返しだ。
これは気の迷いだった。
夫のデレデレしたニヤけ面を見たくらいで腹を立てているようでは、一緒に暮らしたところで、どうせ上手くいくはずがないのだ。
――限界なんだよ……
夫の真面目な声色に胸が痺れる。
出会って三十余年、結婚して十七年経っているというのに……なお夫に対してこんなにも心華やぐなど、馬鹿げていると英理は思う。
そしてタチの悪いことに……
別居している年数が、結婚して同居していた期間を超えた頃から、その駆け引きが楽しいとすら思えてしまっているのだ。
このぬるい関係をいまさら壊して元に戻ることが勿体無いと、心のどこかで感じている。
――だから、このままでいい。
高揚した気持ちで夫の声を聞き続け、英理は長い長い夜を過ごした。
香水を足首にちょんと付けて、いつもより念入りに靴を選んだ。
背に力を込めて踵を鳴らし娘とのランチの約束へ向かう。
英理は、娘の前では常に憧れの存在でいたかった。
母親としての役割を充分に果たせないならば、せめて女としての見本でありたいと、そう願っている。
母親としての自分を失った日のことを、どうしたって忘れることはできない。
十年前、引っ張ってでも引き取るつもりで蘭を説得したが、娘は頑固だった。
――絶対にお母さんが帰ってくるまで、わたしは待ってる!
そう言って夫の側を離れなかった小さな小さな私の娘。当時、私の人生の喜びのすべてだった彼女の、その意思の強い瞳に私はたじろいだ。
そして……
そこまで考えると、英理はいつも目頭が熱くなる。
……自分の分身として大切に育てた幼子は、別の人格を持っていた。その小さな頭で考えた結論を尊重すべき時が来たのだと、あのときは理解した。
手を振って別れた娘の笑顔を思い浮かべるたびに、英理の胸は潰れた。
それは今までの人生で間違いなく、自業自得でもっとも悲しい出来事だった。
夏の陽射しは寝不足の目には強すぎて、待ち合わせの喫茶店へ先に着いた英理は、窓際の席でコーヒーを頼んで静かに目を閉じた。
昨日の朝、軽井沢で別れたばかりの娘は、誰に似たのか、東京へ帰るなり直ぐにメールをくれるマメな性格をしている。
「遅れてごめん!」
「大丈夫よ。私も今きたところ」
蘭の装いは真夏に相応しい軽い素材のワンピース。先日英理が買い与えたものだ。それをきちんと披露する気遣いをしてくれる心優しい娘に、英理は目を綻ばせる。
メニューに目を運び、二人は同じものを頼んで蘭は一息つくと英理をじっと見つめた。
「お母さん、昨日なんか変だったよ」
「……そう? 知人があんなことになれば当然だと思うけど」
「ううん、そういうのじゃなくって」
蘭は言葉を探す様子で英理の手元に視線を下ろした。いつも娘は、左手の薬指ばかりを見ている。
「なんていうか……妙に機嫌が良かったって感じ。いつも別れ際にはお父さんと喧嘩別れするばっかりなのに」
聡い娘はよく観察しているなと、英理は感心する。
「逆にお父さんは昨日から機嫌が最悪なのよね」
それは身に覚えがあるが、無論口には出さない。
「寝不足だっただけじゃない? 夜通し取調べ受けてたんだから仕方ないわよ」
「そうかなぁ、なーんかそういうのと違う気がするんだけど……」
蘭は首を傾げた。
「……あ、これ借りてたMD。ディスクはダメにしちゃったからこれで新しい物を買って頂戴ね」
英理はそう言って、機械と少しの小遣いの入った紙袋を蘭へ手渡した。
「別にいいのに。ねぇお母さん。あのネクタイ、お父さんにいつ渡すの?」
期待を込めた目で見つめる娘。
英理は自分の軽率さを呪った。
「……なんか、色々あったから気が変わっちゃってね。誰か知り合いにでもあげるわ」
さも興味が失われたかのように英理は言った。
「ダメよ! なんでお父さんに買ったものを別の人なんかにあげるなんて言うの? 絶対にダメ!」
蘭は立ち上がって眉を逆立てる。すごい剣幕に英理は怯んだ。
「べ、別にいいじゃないの。ネクタイなんていくらでも持ってるでしょ。今さら私からのプレゼントなんて喜びやしないわよ」
蘭の勢いにたじろぎながら、仕方なく英理はそんなことを言った。その半分は本音だ。
「そういう問題じゃないでしょ! 仲直りのきっかけに買ったものなんだから、本人に渡さなきゃ意味ないじゃない!」
「だから……気が変わったのよ」
英理の言葉を受けて、蘭の腰はストンと椅子に落ちた。
「……そっか。やっぱり怒ってるんだ、お母さん」
「……」
英理は怒っているというよりも、ただひたすらに不快だった。あの、碓氷さんに寄りかかって甘える夫の姿を見たときに、英理の心は冷たくなっていた。
妻の眼前で他の女に触れる夫の手が、只々憎らしかった。
「……ねえ、蘭。私たち、今の状態で戻ってもきっと喧嘩ばかりするわ。あなただってそんなの見たくもないでしょう」
そうなったら行き着く先は見えている。
離婚と別居では、まるで重みが違うのだ。
「それは……もちろんそうだけど、でも」
「高校生のあなたに家のことをさせて、本当に悪いと思ってるの。少しでも負担に感じてるなら、ハウスキーパーを雇うからちゃんと言いなさいね」
「平気よ! 私がお父さんの面倒を見るの。そうお母さんと約束したじゃない」
蘭の黒々とした二つの瞳が母としての英理をまっすぐと見つめている。
我が子ながら、ビックリするほどの強い意志だ。
自分の揺れ動く心と対照的だと英理は思った。
そして、その真っ直ぐな眼差しは夫によく似ている。昔と同じだ。そしてその強さに英理が弱いことも、少しも変わっていない。
蘭の面差しが夫と重なった気がして、英理は自分が幸福だと感じた。
それはとても場違いなことだ。
ふと英理の顔から表情が消えた。
「あなた、まさかお酒飲んでるの」
夫が電話を掛けてくるときは、九割がた酔っ払っている。電話越しに周りのガヤガヤした音が聞こえて、英理は呆れを通り越して少し心苦しくさえなった。
つい数日前、あんな事件があったばかりで、よくもまあ酒など飲む気になるものだ。
「で。何の用よ」
できるだけ冷たい声を響かせて英理は言った。
「近くの店で飲んでたんだけどよ、帰る途中で寄っていいか。喉が乾いた」
「水でも買えば」
「なにか不都合でも?」
英理は不意にある夫の電話に自分が脆くなるのを自覚していた。
耳元に囁かれるような電話の声が、理屈じゃなく、好きなのだ。
昨夜から何度聞いたかわからない。
あの録音された声が頭の中に自然と聞こえてきて、英理は小さく口を動かした。
「……会いたくないわ」
つい自分らしからぬ言葉が漏れ出てしまい、英理はハッとした。夫はこういうことに昔から目ざといのだ。それを思い出したときには手遅れだった。
夫はそうか、とだけ言って電話をブツリと切った。素っ気ない態度だが、すぐにココへ駆けつけてくるであろうことがわかって、英理は動揺して頭を掻いた。
あんな声を聞いてしまったから。
今夜は冷静でいられる自信がない。
英理は急いで服を脱ぎ捨てて、シャワーを浴びた。
体で愛を伝えることはできても、
言葉で語ることができない。
二人は英理の寝室で一時間以上も繋がったまま。
半ば正気を無くしてうわ言のように夫の名前を呼び、その逞しい体に跨りしがみついている。
拗れきった女の精一杯の愛情表現。
それに応えてくれる、悲しくなるくらい大事そうに英理を扱う夫に、英理の胸はカッと熱くなり、そして徐々に冷たくなった。
今夜は与えられる夜だった。
夫から求められる夜は、もっと性急で乱暴だ。
こんな夜は身体が持つかぎり、何度でも達することができた。
快感が積み重なり、やがて夫と自分との境目が分からなくなるなるくらいに心も身体もトロトロに溶けきると、
英理は少しずつ妻としての自信を取り戻していく。
夫が満足そうに精を放つ頃には、空っぽの胸がたくさんの愛と安心感で満たされて溢れていた。
家を出て十年。これは妻としてのただ一つの役割で、生命線であると英理は理解していた。
だから英理は夫を拒んだことはなく、逆に英理が求めたときには、夫は望む以上の歓びをくれた。
もし、愛する夫が他の女に触れでもしたら、女としての心が死ぬと英理は思った。
夫婦の証である娘が大きく成長した今となっては……
私たちが夫婦として成立しているかと聞かれたら、私は口ごもり。
なぜ夫婦をやめないのかと聞かれても、私は目をそらす。
答えは明らかだ。
どうしてこんな我が儘が許される?
我侭な猫を飼いならすような夫の逞しい身体に、英理は全身の体重を預けた。
願わくは……
私は女として生きていきたい。
夫の女として、生涯を終えたいのだ。
それが本音だ。
私は、夫と娘に甘えきっている。
そんな人生を幸福だと感じてしまう自分が、私は嫌いだ。
「……鍵かけたらポストに入れておいて。じゃあ、おやすみ」
私は寝るからと、英理はサッとシャワーを浴びて体を冷やし、すぐにベッドに横たわった。
背中に視線を感じながら、先ほどまでの情熱はまるで感じさせない背中を装う。
ピロートークなど不要だ。もう充分に愛は交わしたから早く帰れと。
そう全身で告げる。
「これでも?まだ機嫌直らねぇのか……」
背中の窪みを撫でる夫の手は熱く、優しい。
「欲張りな女」
タバコの煙を吹いた匂いに乗って、ようやく英理は夫の声を聞いた。
今夜はロクに会話もしていない。
「もう眠いの」
「勝手に。寝ればいい……」
掠れた夫の声。そんな不機嫌そうな音でも耳に心地よく、英理はもう少しで聞いてしまいそうになる。
「ねぇ……」
――どうしてあんなことを言ったの?
でも、その引き金を引いてはならない。
「昼間、蘭に会ったわ。あなたの機嫌が悪いって、少し心配してた」
――限界だなんて嘘までついて。
「疲れてるなら、早く帰って寝たほうがいいわ」
――誰の為なの?
「ああ、そうするさ」
夫の熱い手は離れない。
まただ。
また私はこの甘い蜜に吸い寄せられそうになる。
……けれど、いまはその時ではない。
英理は強く自分に言い聞かせて、キツく目を閉じるのだった。
小五郎はゆっくりと一服してから、ワイシャツに袖を通した。
相変わらず我が儘で強情な妻は、背中を向けて寝息をたてている。
出来ることなら抱いて眠りたいが、それは許されないらしい。
いつも、キャビネットの一番上の引き出しにスペアキーは置いてある。
小五郎が引き出しを開けると、キーの横にリボンのかけられた長い箱が、置いてあるのに気がついた。
見覚えがある。つい数日前に出くわした軽井沢で、妻が買い求めていたものだとすぐにわかった。
蘭から聞いていた。渡したいものがあるみたいだから早く電話して!そう言って娘は珍しく食い下がった。
――素直に渡せばいいものを。
そう英理の背中に声をかけようとして、やめた。どうせ聞きやしない。
ちょうど4日前、旅行に行く前日だ。
霞ヶ関の交差点で、英理の秘書である栗山緑に会ったのだ。
小五郎は警視庁からの帰りで、彼女は裁判所の使いから帰るところだと言っていた。
「明日から妃先生も夏休みを取られるんですよ。軽井沢に行くと言ってたかな……」
ちょうど昼時だったから、昼飯を奢ると誘って、旅行の詳細をそれとなく聞き出した。なんとなくその面子に胸騒ぎがした俺は、家族旅行にかこつけて同じホテルを予約したのだった。
他の男と仲良く選んだネクタイかと思うと、小五郎の胸中は少し複雑だったけれど。
これは、妻の気持ちだ。
直接手渡されないのは、まだ許されていない証拠だと小五郎は妻の心情をなんとか噛み砕く。
――不器用な女だ。
そして可哀想なくらい、孤独だ。
小五郎はそれをスーツの胸ポケットに仕舞うと、そんな女王の城をあとにした。
とても静かな夜だった。
END