600円のケーキ


「たまたま近くに来たの。ケーキ買ってきたわ。食べましょう?」

 偶然を装い、夕食が終わるころを見計らったのは、悟られているだろうか。



『600円のケーキ』



「コーヒー? それとも紅茶にする?」
 台所から声を飛ばして、蘭は聞いた。「ぼく、紅茶ー!」とコナンは無邪気な声を上げる。
 英理は、テレビを見ている小五郎に目で問いかけたが、無視をされた。反射的にむずっ、と苛立とうとする心を抑えて、笑顔で紅茶をふたつ頼んだ。
 夫の顔には、「すこぶる不機嫌ですが何か?」と書いてある。けれど、英理が現れるまでは、上機嫌に夕食を食べていたことを知っている。外まで高らかな笑い声が響いていたし、玄関から顔を覗かせたとたん、満腹でゆるんだ顔がみるみる歪むのが、バッチリ見えていたからだ。
 コナンは妙な空気を察したのか、なんとなく気を遣っている様子である。意識をテレビに向けて、素知らぬ風を装われている気がした。相変わらず出来すぎた小学生だと、感心を通り越して心配になるくらいだ。今夜はその気遣いに甘えて、不機嫌な横顔に小声で話しかけた。

「……小さい男ねぇ」

 もちろん、小学生の男の子にではなく、図体の大きな自分の夫へ向けてである。英理の先制に小五郎の眉はピクリと反応し、口の端がヒクついている。
 二人は先日、ちょっとしたことですれ違った。まあ、いつもそれなりに拗れてはいるが……。少し違うのは、いつもと立場が逆ということだ。普段、怒りを発火させるのは、たいてい英理の方からだった。

「なんのことだか、わっかんねーなぁ」
「そう? おへそがヒン曲がっているけど?」
「嘘つけい!」
「そうカリカリしてないで、糖分でも摂って落ち着きなさい」

 なだめるように言ったが、フンっ! と素っ気ない態度をとられ、つい追撃したくなる。小五郎はテーブルに置かれたケーキ屋の箱を、苦手な料理でも前にしたような顔で、ちらりと見た。好きなくせにだ。おまけに、ハァァァ、とわざとらしいため息を吐きだした。とても嫌味ったらしく。

「……おめーはよ、オトコの機嫌の取り方、知らねえの?」
「あなた以外のなら、ちゃーんと知ってるわ」
「そーゆートコが可愛くねえんだよ! もう帰れってーの!」

 英理のトゲは、しっかり苛立ちの原因をくすぐったようである。わかりやすくて可愛いのね、とまるで少年を見る姉のような気持ちで、可笑しくなった。いくつになっても、根は変わらない。女に甘いこの男の機嫌なんて、どうせ、しおらしいポーズをとって可愛い演技さえすれば、イチコロなのだと知っている。

『……ごめんなさい。誤解させてしまったみたいね。でも、私の気持ちはあなただけ』

 そう。こう言えれば簡単に済む話なのだ。けれど意地とプライドの壁がそびえ立ち、どう足掻いても、そんな言葉は吐き出せないのだった。

「帰っても良いけど、でもね。あなた私に、なにか言いたいことがあるんじゃなくて?」
「……べつに、俺は」

 可愛い演技どころか、どうも尋問するような口調になっている気がする。これは癖なのでしかたがない。研ぎすぎた武器は切れ味が鋭すぎたのか、小五郎は自分の城なのに居心地悪そうな顔で、言い淀んだ。

 これは、つい先日の日曜日の話である。
 英理は休日に、事務所で仕事をしていた。一人ではなく、よその事務所の若い男の子をかり出して。割とよくあることなのだが、そこへ、珍しい人物から電話がかかってきたのだ。いそいそと電話を取った英理に、男の子は気づかずに話しかけ、なんだか意味ありげなやり取りを、夫に聞かせる羽目になった。

『あ、英理さん。……っとと、すみませんお電話中に』

 小五郎はその声を聞いて、「あ…」だの「その…」だのと言葉を詰まらせて沈黙した。英理は黙って続きを待ったが、結局、用も告げずに電話を切られた。あのあと、少し気にかかって何度か掛けてみたが、夫は拗ねたように電話に出なかった。喧嘩にもなっていない、ただのすれ違いだ。

「……あなたって本当。私のこと、信じてるのねえ」 
「ハァ?」
「放任しすぎも、ちょっとどうかと思うけど。少しは女がどんな生き物か、学習した方がよくてよ」
「あのな……」

 小五郎の手はテーブルのタバコの箱をくしゃりと握ったが、それを吸いはしなかった。甘い物とは合わないと思ったのかもしれない。けたたましくヤカンの沸く音がし、それに紛れるような低い声で、ボソリと言った。

「……他所の女は知らねえが。お前のことだけは、よく知ってるよ」

 くしゃっと音を立て、英理の心も握られた。つい油断して、不意をつかれた。黙って小五郎を見たが、目は照れたように泳いでいて、捕まらない。

「…………ど、どうかしらね」
「ハ! 調子に乗んな。馬鹿野郎」
「な!!」

 小五郎は意地悪く笑い、ケーキを迷わず一つ取り出した。訝しむような顔で掲げ、まじまじと観察している。

「……あーあ。詫びが、たった300円ぽっちのケーキなんて、俺も安く見られたもんだなぁ」
「……違うわ。600円よ。奮発したわ」
「ヘーヘー、さいですか」

 どちらにしろ安いものだが、しまったと思うより先に、口が可愛くないことを言っていた。やはりこれも癖なので、しかたがない。いまさら可愛こぶろうなんて、どだい無理な話なのだ。
 ペリペリとフィルムを剥がし、小五郎は好物のケーキを手で掴んで、大きな口を開けている。



おわり