温泉旅行と、牡丹餅のワナ。

温泉旅行と、牡丹餅のワナ。






──妃先生もこのところお疲れのようだし、もし。もし、良かったら……。

 そう言って、スーツの胸内から取り出されたのは茶封筒。流れでつい手を伸ばしたけれど、受け取るか、ふと指は迷った。男の手にある封筒が、少し震えていたからだ。妙な緊迫感があり、なんだか、ワケアリのブツを横流しするブローカーじみていた。
「芝山さん。私、そんなに険しい顔してまして?……フフ、イヤだわ。すごいシワが寄ってる」
 ヒタイを触ってみて、眉間に込められた筋肉をグリグリ解しながら笑った。若い顧客に気遣われるほど、さぞお疲れの表情をしていたのだろう。仕事のしすぎではなく、プライベートである悩みを抱えていて……、とも勿論言えず、サッと、思わせぶりな封筒を受け取った。中身を取り出すと、『天然温泉、ゆきの湯』と書かれた紙が一枚。
「……温泉?」
「それがね。週末に予約だけ入れたところ、急に都合が付かなくなった。それで持て余してたトコロです。たまたまです」
「まぁ、それは……。もったいないですわね」
「でしょう。でも、急すぎますよね。馴染みの宿なんで、キャンセルするの悪いなぁ、と持ち歩いていたんです。深い意味はないんですよ?」
 芝山は目を細めて言う。茶化しとも取りにくい微妙な間で、ハンカチで首元の汗を抑えている。細い身体だが、暑がり屋なのだろうか。
「栗山さーん。空調、すこし下げてもらえる?」
「イエイエ、おかまいなく。それより、どうです。今週末、奇跡的に都合つきませんか。すごく良い宿で。しかも東京から近いし、なにより風呂付きで個室にこもれるから、プライバシーもバッチリで、ご夫婦旅行にも最適ですよ」
 お忍び旅行にも、でしょうね。と思いつつ。
「この部屋、暖房が効きすぎで」
 ニコリとし、芝山の言葉を聞き流していた。奥さんから別れを切り出される不倫常習犯たちは、みんな決まってお喋りだ。この芝山俊彦という顧客は一見善良そうに見えるのだが、人当たりが良すぎるのか、八方美人なところがある。おまけに外見が良くモテるので、女性関係のトラブルをいつも持ってくるのだ。今日なんて、不倫相手に怪文書が来たのでどうにかしてほしい、なんていう突拍子もない相談だった。弁護士より探偵向きの案件だ。
 ……そんなことよりも。手帳をパラッとめくり、考える。温泉。ズバリ悩んでいたのは、秋の家族旅行を、飛ばしたことについて。

『そんなぁ!』
『蘭……、ごめんなさいね』
『久しぶりにお母さんと温泉に行けると思って、楽しみにしてたのに!』
『埋め合わせは、ちゃんと……』
『もー、仕事仕事って、いつもそればっかり! 埋め合わせっていつ? 来月? 再来月? 半年後?? たまには仕事もぱーっと忘れて付き合って!』
『……ねえ』
「なに!」
『私は、あなたの彼氏なの?』
『は、はぁ?』
『いえ、なんか。怒れる彼女のセリフっぽくて』
『ドタキャンされたら、こう言いたくもなるわよ~。もー、結構前から予約してたの、知ってるでしょ?』
『それは、ごめんなさい』
 母娘の微妙な距離感からか、娘は母に甘えるにもこんな感じになるので、可愛くて参ってしまう。とりあえず機嫌直しに、近々のランチの約束でも、と対面にあるビルを見た。あそこはローストビーフが美味しいと評判なのだ。高校生にはちょっと贅沢だけれど、埋め合わせなら良いでしょう。そんな機嫌を伺う返答を考えていると、意外な人の声が聞こえた。

『……ほっとけよ、あんなヤツ』

 電話の後ろで、小さな、旦那の呆れたような声だった。面食らって、言葉に詰まる。
 だって蘭の計画する家族旅行はいつも、その全貌が隠されているはずである。だから私たちは顔を合わせたとき、「なんでこの人(コイツ)が!」と人差し指を突き差して、一戦交えるのがお決まりなのだ。
 ところが妙に拗ねたような、珍しい旦那の声。蘭とランチの約束は取り付けつつ。どういうことだろうと、今日までずっと引っかかっていた。
──(ほっとけよ)ですって? 私が来ること知っていて、その上で、楽しみにしてた? イヤ、まさか。
 そんな都合の良い解釈をしては、あのひとが? ありえない! と首を振って。けれど、なにかのサインを見落としているのではないかと、何度も記憶を掘り起こしては埋めた。自分でもバカみたいと思うが、気になって気になって仕方がないのだ。そんな折りに降ってきたもってこいの口実である。頼まれて仕方なく、とか。たまたまもらい物で、とかなら、私にも言える? 温泉、温泉、温泉……。
「妃先生?」
 悶々と悩んでいると、壁に掛けられた時計は、次の予定へのタイムリミットを指していた。ええい! と決意して手帳に封筒を挟みこむ。

「──芝山さん。お土産はなにがよろしいかしら」
「え、じゃあ!」
「はい。遠慮無く、お言葉に甘えて……」
 軽率で、私らしくない行動だった。後から思えば。私たちの飛び込み旅行で、事件に巻き込まれないわけがないのだ。





 去年は、このあたりはココまで雪が積もったんですよ。と出迎えた女将は自分の背丈を表現しながら言った。東京から車で二時間、やや有名な温泉街の外れの宿は、雪深い庭園や、出迎えに生けられた花も中々で、古いのに厳かな清潔感があり、確かに良い宿だった。
「見て!」「まあ、側溝の湯気ね」「温泉の香りがする~」「雪の音もするよ!」
 そんな会話をしながら、子連れ旅行らしく歩く。他に客はいないのかと思えば、静かなわけで、それぞれの客間は独立した建屋になっていた。広々とした和室の奥には、専用の庭が付いていて、白く濁った温泉が、誇らしげに湯気をたてている。女二人の感嘆のため息が重なった。
「わぁ……!」「ステキね……」
「部屋専用の露天風呂がついてるんだね」
 後ろからコナンが顔を覗かせて言った。
「ね、ね! 豪華! こんな良い部屋プレゼントしてくれるなんて、親切なひとだね」
「お二人の予定だったらしいけどね。人数増えそうだって、こちらにご相談したら、お部屋を替えてくださったの。コナン君も、きっと来たいだろうと思ってね」
 席に着くと座卓の上に、出迎えのお茶と和菓子が四つずつ置かれていく。中央には綺麗に磨かれた、大きな灰皿がある。蘭はそれを見てニンマリと笑った。
「ふふ。お父さんのために、喫煙できるお部屋にしてもらったんだよね~?」
「さ、三人も四人も一緒でしょ。運転手も要るし」
「はいはい♡」
「……ま、機嫌が良いなら、なんでも」

「にしても、急なハナシだったよね。その譲ってくれたおじさんは、本当は誰かと行く予定だったんじゃない?」
「おじさんというより、おにいさん、だけどね。そこまでの事情は知らないわ。だれも都合が付かなくて困ってるって」

「──お前よ、それ本気で信じてんの?」

「え?」
 部屋の入り口で、山盛りの荷物を持たされた旦那が、くたびれて言った。東京からレンタカーを運転してきたのは小五郎で、もちろんその疲労もあるだろう。けれど今日は、晴れやかな娘と対照的に、朝から虫の居所が悪いらしい。
「どういうこと?」
「……イヤ、べつに。なんでもねえよ」
「なぁに? ハッキリ言いなさい」
「まーまー……、お母さん」
「フン! 相変わらず、無邪気なオバサンだなって思ってよ」
「なんですって?」
「まーまー、まーまー……」
 車内でも、こんな態度だった。ブスくれた顔で、運転席に座っている彼。こちらの勇気を知りもしない、傍若無人な態度。
「あなたね、」
「せ、せっかくだしお風呂入ろう? ね? ね?」
「そりゃな。こんなとこまで来た甲斐がねーよ」
「じゃあ夫婦水入らずってどう? さぁさぁ!」
「嫌」
「なんで!」
「ハ! こっちこそ頼まれたってヤダっつーの!」
 小五郎はドサッと鞄を畳に置いた。女将さんからの、お運びしますよ、の申し出を遠慮したのは、きっと思惑があるからだ。と私は先回りして、すでに腹を立てている。
「……そうね。あなたなんかと一緒じゃ、せっかくの温泉が台無し! 私は蘭と。そうだ。コナンくんも良かったらどう? 」
「え、ぼ、ボク!? 」
「大丈夫。広そうだし、三人くらい平気よ」
「んー、それもいいけど。せっかくの貸し切りなのになぁ」
「急に息子ができたみたい。楽しいわね♡」
「え、えっと〜…そうだね、二人が嫌じゃなければ」
「やだコナン君! 小学生の男の子がそんなこと気にしなくていーの!」
「イヤなわけ無いじゃないの。スケベオヤジじゃあるまいし」
 小五郎をチラッと見ると、スケベオヤジは不愉快に輪をかけた顔で睨んでいる。
「……チッ」
「なによ?」
 負けじと腕を組んでにらみ返す。注意深く、彼の様子を観察するように。やがて根負けしたのか、ふいと目を逸らした。
「……付き合ってらんねーよ」
「ちょ、おじさん?」
「散歩してくらぁ」
「痛いよぉ! 」
 コナンが首根っこを掴まれ、グイグイと運ばれていく。
「お、お父さん!? コナン君も連れてくの?」
「子連れの方が、都合がいいんだよ!」
「へえ、そうなの。頑張ってね」
「のぼせんなよ。バァカ!」


「……なに? あれ」
「さあ」
「お父さん、なんか機嫌わるいよね」
「いつも、あんな感じじゃない」
「何か知ってるんでしょ、お母さん」
「べつに?」
 二人が出て行ったのを見届け、踵を返して脱衣所へ向かう。聞きたいのは、コチラも同じ。ぽつぽつとブラウスのボタンを外した。苛立つ指はいつもより早く動く気がする。腰のホックを外すと、すとん、とスカートは雑に丸まった。
「……すーぐケンカする。久しぶりに会ったときくらい、仲良くしてよ」
「誰があんな人と。どうせね、女将さんにチョッカイ出しに行ったのよ。あの人好みの美人だったでしょ」
「もォーー」
 ふう、と鼻で息をはいた。冷たい態度に気が滅入って、踊らされる自分の軽さにも嫌気がした。機嫌を伺うような自分の誘いと、いつもより丁寧に施したメイク。温泉を楽しむ前に、バシャバシャと、全部無かったことにする。昔の私なら、父親の威厳を保とうと、協力くらいしただろう。もちろん、いまでは知ったことではない。
「いいこと教えてあげましょうか」
「え?」
「通報されたことがあるのよ、あのひと。銭湯で」
「ええ!?」
「昔はねぇ、米花町にたくさん銭湯があって。大きなお風呂で同級生と顔合わせたりって、結構あったの」
「へえ」 
「ある日女湯にね、明らかに目つきがヘンな、男の子が」
「……イヤな予感しかしないんだけど」
「鼻息荒いわ、目が血走ってるわで。あれは異常だと思ったから、速やかに番頭さんに報告したわ」
「それって」
「小一の頃よ」
「しょ、しょういち……」
「ぎゃいぎゃい弁明しながら、大の大人に抱えられて追い出されていったわ。あのときの悔しそうな顔、フ、フフフフ……」
「ちょっと。笑いながら、語らないでよ~」
「コナン君もちょうど同じ歳頃でしょう? いろいろ思うところがあるのね。ほんと、バカ」
 洗い場には二つのシャワーがある。腰をかけ、ヘッドに手を伸ばしたところで、にたり顔の娘に見下ろされていることに気がついた。
「お母さん。自覚ある?」
「なに? 自覚?」
「えへ。私わかっちゃった。それ、のろけでしょ!」
「はぁ?」
「この話って、お父さんの反応を確かめたくて、コナン君をお風呂に誘ったってことでしょ?」
「ち……、ちがうわよ。守られたのは私じゃなくて、あなた」
「期待どおりでよかったね、お母さん♡」
「だから、ちがうってば。女の裸に異常に執着してるってハナシで……」
「へー。執着、してるんだ」
「もう! アレはただの変態なの!」
「ホッとした?」
 首を振る。
「誰でも良いのよ。さっきだって、いつものことでしょ。ナンパだのなんなのって。男のロマンとか平気で言うのよ。バッカみたい」
「ふーん?」
「そういう、くだらない話! 親をからかうんじゃありません!」
「……わかった。わかったよ。せっかくの温泉、堪能しよう? イライラはお湯に流しちゃおう」
 しかたなく笑う蘭の顔を見て、しまった、言いすぎた。と気づく。こんな風にからかわれるのが苦手で、父親が大好きな娘を困らせてしまう。ダメな母親は無言で身体を洗い終え、先に湯へ向かった。丁寧に洗髪する健気な娘を見て、思うことは色々複雑だ。
 ──小五郎め。私のお酌は、高いわよ……。
 そう苦々しく思っていると、今度は雷に打たれたような表情で、立ち尽くしている娘に気がついた。

「蘭?」
「き、き……」

「キャーーーーー!!」

 蘭の悲鳴に立ち上がる。振り返ると、目出し帽を被った男が、唐突に立っていた。スキー客には、とても見えない。そして、布にくるまれた何かを、取り出そうとしている。刃物だと思った。だとしたら、刃渡りは二十センチだ。
「お母さん!」
 こんなところで、刺されて死ぬ覚えはない。
「誰!?」
 男を睨んだ。男は後ずさりして、たじろいだ。けれど私よりも、奥に居た蘭の声に反応したようだった。

「蘭! 英理! どうした!」
「だ、だ、誰かが!」
「なんだって!?」

 男は姿を消していた。足元を見ると、一人分と思われる雪の跡がしっかりと残っている。雪上を歩き慣れていなそうな、汚い足跡だ。
「空手はどうした!?」
「ふ、服も着てないのに、そんなことできるわけ無いでしょぉぉ!」
 そらそーだ。と服、の言葉に皆が固まり、皆の視線が交差する。上から下へ。下から上へ。
「あ」
 コナンが呟く。ツーと伝ったのは、一筋の鼻血。





「……なんで鼻血なんか出すんだよ」
「ハハ……」
「……このマセガキが」
「ハハハ……」

「犯人、早くつかまるといいね……」
 浴衣に着替えて、心配そうに蘭は言う。テーブルに出して貰ったお茶には、一口を付けただけだ。見つかるといいが、ただのデバガメなら、あんな姿の現し方はしない。つまりは──。
 小五郎は吸いさした煙草でコチラを指して言う。
「知り合い、ってわけじゃねえよな?」
「当たり前でしょう!」
「ねえ、英理おばさん。今回の旅行を譲ってくれたのって、どんな人なの?」
「個人のお客さんよ。これといって普通の、会社員」
 ちょっとヤンチャなね。と心の中で加える。まさか男女の痴情のハナシを、子どもにできるはずもない。
「もしかして不倫問題?」
 相変わらず、ありえない冴え方だ。否定の言葉よりも、その先を聞きたくなった。
「どうしてそう思うの?」
「さっきね、受付で他のお客さんを見つけたんだ。父娘かなぁ、って思ったんだけど、二人は手を繋いでたから」
「ま、いかにもお忍びーって感じの宿だしな」
「女将さんが言ってたよ。夫婦とかカップルが多いから、僕たちみたいな家族連れは珍しいって」
「……」
「そのお兄さんは、なにかを代わって欲しくて、譲ってくれたのかもね?」
「……身代わりね」
 そうだ。芝山の話していた内容は、『不倫相手に怪文書が届く』ことだった。一つ一つ繋いでいくような話し方で、コナンの言いたいことがわかった。
「その相手の女の人、見たことある? 誰かに似てなかった?」
 芝山は私に『どうにかして、もらえませんか……』と困り果てて言っていた。もしこのことを指しているなら、とてもじゃないが、法律家の仕事ではない。悪質であるし、舐められている。──ああ、頭が痛い。私は煙草が欲しくなった。吸ったこともないのに。
「……やっぱりな。ンなことだろうと思ったよ……」
「どういうことなの? お父さん」
「犯人は間違えたんだよ。英理おばさんと」





『沖野ヨーコに似てませんか? 可愛いでしょう』
 不道徳を悪びれもせず、芝山は私に写真を見せた。不倫相手を得意になって自慢するとは、ふざけた男だと思ったが、私は仕事なので微笑んだ。
 その写真の女に似ている私は、そのアイドルとやらに間接的に似ていることにならない? ありえない。夫が熱を上げている若いアイドルの名前なんて、私は知らない。後ろ姿の髪の色が、ソックリだったのだ。それだけだ。

「つまり、既婚者Aの不倫相手Bの恋人Cが、犯人ってこと?」
 蘭は、テーブルにある銘菓を登場人物に見立てて整理した。私の役割は、薄皮饅頭が務めている。
「おそらくな。怪文書の内容から察するに、自分を裏切った恋人と、略奪した男に対する、復讐ってとこだ。んで、今回の温泉旅行を嗅ぎつけて、現れたんだな。ヘタしたら死人がでるぞ」
「良いこと考えちゃった! その本人達になりすますってのは、どう?」
「……蘭」
「また襲いに来たところを、今度は、みんなで、捕まえるの!」
 ぎちぎちと浴衣の袖から細い腕を覗かせ、絞め技をかけるフリをする。どこにそんな力があるのかわからないが、リアリティがありすぎる。元気が出たようでよかったが。
「わきまえなさい。それは警察のお仕事」
「でも……」
「やめとけ。囮捜査なんてロクなことにならん。なぜ禁止されてるかわかるな?」
「そうよ」
「う、うん……」
 私たち夫婦の意見が合致するのは、こういうときだ。こういうときの夫を、私は信頼している。
「さてと。今の話、情報提供してくるわね」
「よし、俺も一緒に行こう。オラ、ちゃんと横になっとけよ! 鼻血ヤローめ」
「ハハハ……」
 小五郎のツッコミを笑ってごまかそうとするコナンの顔を見て、ふと思った。私は男の子の発育について、少々誤解していたのかもしれない。





 子どもたちが寝静まったのは、十二時を過ぎてからだった。私は部屋を出て、隣の『本来、芝山たちが泊まるはずだった部屋』の扉に手をかける。やはり、鍵は開いている。露天を見上げると星がよく見える、快晴の夜空。朝はきっと冷え込むだろう。庭先でオレンジが一つだけ灯っている。何気ないことまで考え作られたムードは、目に美しい。ただひとつの異物を除いて。
「ああ。遅かったな」
 湯船に浮かぶような、小五郎の後頭部。眼鏡をかけていなくても、猿と見間違えたりはしない。後ろを振り返らず、ガララ、と開いた引き戸の音だけで話しかけてくるのは、いささか気障が過ぎる。
「あら。スケベなオジサンが居るわね」
「居ると思ったから来たんだろ?」
「来ると思ったから居るくせに」
 一瞥をくれ、隅にある洗い場に向かう。薄いタオルで隠しているのは、恥じらいではなく見栄である。たいして洗う必要の無い身体を丁寧に撫でるのは、心を落ち着かせるためだ。なんでもないこと。なのに時間を要してしまい、ちゃぽん、と音を立てるころには、身体がとても冷えていた。
「さて、来るかしら」
「さあな……」
 確認する必要も無いのだが、昼間の男のことである。同時に、駆けつけた警察官のことを思い出し、私は憤慨する。
「あの人たち、やる気あるの?」
「田舎だからな。しゃーねーよ」
 あのあと私たちは警察官に事情を説明したのだが、あまりの平和ぼけした態度に顔を見合わせ(「猿と見間違えたんで、ねえですか?」なんて言ってのけた。懲罰ものだ。)、あきれかえって部屋へ戻ったのだった。
 この空き部屋を調達したのはおそらく小五郎だろう。長い付き合いだ。お互いがなにを考えているか、口にする必要はない。最悪の事態が発生するまえに、ここで犯人を捕らえておきたい。できるだけ子どもたちを巻き込まずに──。

「意外と、変なのと関わってんのな」
「ヘン?」
「お前の客」
「ああ……」
 芝山俊彦のことについては、強く言えない。子どもたちには話さなかったが、業界ならではの、度し難い事情がある。かつて夢見た職業は、綺麗なままで務まるほどの甘さははない。
「本来なら、会いもしないわ」
「そりゃ、ご苦労なこって」
「それはどうも」
 皮肉である。私は彼の青臭い昔を知っているし、同じように知られている。それが今は。説教をかましたくなるふざけた相手にも、粛々と理論を組み立てるし、事実を天秤にかけ、ときに目を瞑ることもある。私はそういうとき、腹の中に無垢な自分を閉じ込める。若い頃は融通が利かずに葛藤を抱えたこともあったが。それも、もう、感じることはない。手放した正義。そして、手に入れた正義。
「……知ってたんだろ」
「なにを?」
「その芝山って男が、お前にかけた罠を。だから俺らを誘ったんじゃねえの?」
「……いいえ」
 正直に答える。小五郎は驚きののちに、呆れたようだった。
「そりゃ、褒められたモンじゃねーぞ……」
 でしょうね、と思う。
「どう丸め込まれたか知らねーがな。んな曰くありげな誘い、ホイホイ受けるなんざ、マヌケだね。何があってもテメーの責任だ」
「ハァ……そうね。普段ならね」
「なんだって?」
 言い訳は小さく響いた。確かに普段の私なら、キッパリと固辞しただろう。顧客に借りを作ることはおろか、相手は問題山積のトラブルメーカーだ。そんなことに気を配る余裕も無いほど、深く悩みすぎていたらしい。判断力を鈍らせるのは決まってこの人。けれどあなたのせいだとは、とても言えない。それ以上突っ込まれても、答えることができないからだ。
「……なんでもありません」
 ──妃先生は。ご家族のこととなると、冷静さに欠けますね?
 あるライバル検事に言われたことがあり、それは当たっている。横に居る、私の弱点。ふと見ると、水で濡れた髪はいつものセットが乱れていて、ギャップがえげつない。私も、彼の目にそう映っているといいなと思う。私たちは普段、父親と母親。ときに仕事上では、探偵と弁護士という依頼を介した付き合い。そして、ひょんなキッカケで、男と女に戻るときがある。自然に、あるいは、ごく不自然に。

「だいたい、温泉なんてよ」
「え?」
「俺が誘っても、来ねーじゃん」
「この間の旅行のこと? あれは蘭の」
「どうせオメーは温泉なんて、イヤだろうと思ってたさ。昔っからそうだ」
「…………驚いた」
 小五郎が持ち出したのは、意外すぎるほど昔のことだった。まさか覚えているとはと、驚いたのだ。だって過去に彼が温泉旅行を持ちかけたのは、まだ結婚前のハナシである。
「嘘でしょ? まだ拗ねてたの?」
「べえつに」
 あのときの私はまだ、男を知らなくて。男と女で泊まりがけの旅行なんて、承諾することができなかった。──さらに言うなら。彼と長年の付き合いで、生活を共にしていたこともあったけれど。一緒に風呂に入ったことは、実は、ほんの数えるほどしかない。理由は単純で、肉体的なコンプレックスだ。
「ね。久々に妻の裸を見て、なんの感動もない?」
「……ハア? 大変結構です。ごちそうさま、とでも言えと」
「違うわよ!」
「何言ってんだ」
「バ、バカにすればいいじゃない?」
「……イチ言ったら、百返すクセに」
「痩せすぎだとか、……た、垂れてきてるとか」
「あのなぁ……」
 チラ、と目線が湯の下におり、胸元を指される。
「ンなの、服の上からだってわかんだよ!」
「へ?」
「なんなんだよ。オメーはよ!」
 引け目を隠すには、自分から晒すのが楽なのだと、シンプルに思っただけだ。それが理不尽に怒られて、湯に口をつけ、ブクブクと拗ねたくなった。しかし、やめた。大人の女はそんなことをしない。
 私の今を否定されずに、どこかホッとしていた。そしてホッとしたことに、やはり湯に沈んでしまいたいほど恥じ入った。いつ、そんな目で見ていたの……。ヘンタイ……。と呟いた声は、いよいよ届かないくらい、小さく湯に消えた。

「来ねーなぁ……」
「そうね……」

 風が強くなってきたようだ。湯気が舞いだし、木々に乗る雪も共鳴して、踊りだす。私の心も。
「……勘違いさせられれば、来るかもな。不倫旅行っぽいムード、いっちょ出してみるか」
「不倫旅行? 経験無いから。知、ら、な、い」
「トーゼンだろ。あってたまるか」
 当然だと言う夫は憮然としている。あら、照れている……珍しい、と思った。これは、よく考えれば自然なシチュエーションなはずだ。夫婦で温泉。花見に団子、くらいしっくりくる言葉だ。けれど照れくさい。小五郎も同じことを思っているようで、舞う雪に目を細めている。私の口からは、微笑みがこぼれた。
「実際は、倦怠期の夫婦ですけどね?」
「だって色気ねーもんな。お前」
「……」
 わかりやすい挑発。その言葉は、私の重い腰を動かす。いや、動かされるのかもしれない。ま、どちらでもいいか……。お湯を太ももで掻きながら、ヌルリと近づいていく。肩に手をかけ、太い腰に跨がった。彼は私の負けず嫌いを、誰よりもよく知っている。
「……やっと、二人きりになれた」
「ンあ?」
「ね……“俊彦さん”」
 首にするりと腕を回し、首を傾げる。他の男の名が、できるだけ艶っぽく響くようにすると、唇の動きは自然と最小限になる。呆れた顔でいる彼には、予想以上の喧嘩が売れたらしい。
「(お、お前な……)」
「(……あなたが悪いのよ)」
 二人だけのささやき声で話す。秘密を共有する危うさは、なにかを刺激する。次はあなたの番よ……。私は目で言う。何されたって、文句言うなよ……。彼の目はそう言っている。バカじゃないの。文句なんて、言うに決まっている。

「……ちょっ、」
「(バカ……声出すなよ)」
「(あ、ソコは……)」

 弱点を往復する指の腹は憎らしい。挑発したのは彼で、けれど、煽り跨がったのは私だ。騎乗で情けなく白旗を振るなど、当然選択肢にはない。……のだが。
「……!」
 それは……さすがに……、と困って睨むと、小五郎は悪戯顔で、バンザイしてみせた。
「(手の、話じゃ、ないわよ……)」
 耐えきれず、頭を垂れる。みるみるうちに顔が熱くなっていく。降参するように首を振った。息も熱い。
「英理……」
 名を呟く唇が、覗き込むように近づく。大きな両手で私の髪をかき上げるのは、慈しみと欲情の絡み合った男。こんな風に始まらなければ、もう、素直に求め合えないの? それでもいい。もう、なんでもいい。観念して目を閉じた。けれど、唇は重ならなかった。聞こえたのは大きなため息。
「……?」
 無言のまま腰を掴まれ、ゆっくりと脇へ下ろされる。彼は立ち上がって背を向けた。

「フざけんなよ! 何でいま、お出ましだよ!?」

 全裸に仁王立ちで小五郎は言った。なにを見ているのか、身体が邪魔でよく見えないが、どうやら待ち人が現れたらしい。私は……、私の奥に灯った欲求を、どこに避難させれば良いのかわからない。息を整えながら、彼の引き締まった双丘を見つめている。





「昨日の痴漢、お父さんが捕まえたんだって?」
「ああ……。夜中に風呂入ってたら、ノコノコ出てきやがってよ」
 寝不足の運転手は、あくびをしている。事件は無事解決。『芝山の不倫相手の恋人』は、雪上にのびたところを、凍死する前に、駆けつけた警察官に逮捕された。被害者供述調書の作成に同行し、明け方になって宿へ戻った。小一時間の仮眠を取ったのち、私たちは昼頃になって宿を出たのだった。

「あの男。私を敵に回して、一体どうなるかしらね。フフ」
「起こしてくれれば良かったのに。ねえコナン君」
「よく寝ちゃってたよね。ところでさ。英理おばさんは、どうしておじさんと一緒だったの?」
「え?」
「一緒に警察へ行ったんだよね? たまたま起きてたの?」
「だってこの人、お酒飲んでたから」
「ふーん、そっかー!」
 後部座席から、納得したようで、合点のいかない声が頭部を刺してくる。当然だ。だってひとつも理由になっていない。寝不足もあり、この子を納得させられるだけの、辻褄を合わせる気力は無かった。ニコニコと笑顔で、的確に人の痛いところを突くことに長けている。弁護士に向いているな、と思ったが、もちろん黙っていた。話題を変えたのは小五郎。
「あ、蘭。オレ今夜、コレだからよ」
「麻雀? さっきの電話?」
「そーそー」
「いいけど。帰ったらちゃんと仕事しなさいよ」
「へいへい」
 アクセルを踏むのが荒い。身体がシートにぶつかった。
「ちょっと……、スピード、出しすぎじゃない? お母さん。なんで注意しないの?」
「きっとトイレに行きたいのよ」
「ハハ!」
「え。それなら次のサービスエリアに……」
「いーって。あと少しの辛抱だ」
 辛抱。たしかに、忍耐がいると思う。だって私は、運転席に座る夫からのサインを見逃すまいと、必死である。
「麻雀ってそんなに楽しいかな?」
「そりゃ~オトナの嗜みよォ」
「おじさん。今日は機嫌いいね」
「そーか? 待ちきれねーのかもな。久々で」
「麻雀が? 先週も行ってなかったっけ?」
「……放っておきなさい。男の生きがいなんて、理解しようとするだけ無駄」
 そう言って。寝不足の運転手の口に、甲斐甲斐しくお菓子を咥えさせる。はじけるような、蘭の希望に満ちた視線を感じた。やはり照れくさいが、今日は同じ失敗をしたくない。
 眠気覚ましになるかもと、私もひとつ口に入れた。カカオ七十%含有のチョコレートは「苦ーい!」と言って蘭の鞄から私へ渡ったものだ。大人は、苦さのなかに甘みを見いだすことができる。そういうお年頃。私たちは苦さのなかにある、希少な甘さを楽しんでいる。それは悲しいこと? いいえ、そうでもない。
「無駄よ。無駄」
 自分に言い聞かせるように繰り返した。なぜか耳ばかりが熱くなって、窓をすこし開けた。マンションに着くのは、何時頃になるだろう。早く着けばいいのに──。猛スピードで流れる景色を見ていると、呼応するように、車がバウン、と跳ねた。コナンが言う。
「まるで、スキップしてるみたいだね!」
 弾んだ声にドキリとした。冴えすぎである。










おわり