幸せの足跡








 昨日から天候は崩れ始めていて、天気予報で大雨警報が都内全域に出たと聞いた。崩れ行く意識の中、どこか深刻な声を取り繕った女の綺麗な声が言っていた。それは確かだ。
 部屋は冷え切っている。まだ10月に入ったばかりで普段は暖房を付けるほど寒くはない、しかし今日は違った。それにひきかえ私の体は熱く体内の異常な熱が外に放出されずにまどろんでいる。
 こうしてダイニングの木質のテーブルに頬を乗せるととても冷たくて気持ちがいい。その体勢から私は動かない、いや動けなかった。まるで体が鉄の塊と化したかのように。
 風邪、かしら?
 不規則な生活をしていても、めったに体調を崩すことなんてなかった。英理は自分の体を信じていた。しかしそれがいけなかったのだ。あんなことをすれば大抵体調を崩すだろう。
 しばらくテーブルにへばり付いていたが、急に喉に渇きを覚えて立ち上がった。立ち上がろうとした。
 途端、頭中の血液がすべて額に集中するかのような激しい眩暈に襲われた。普段の立ちくらみとは比較にならない、意識を失ってしまいそうな。深呼吸しようとしても呼吸がうまくできない。いつの間にか呼吸は荒く、精一杯肩で息をする。それでも苦しい。苦しい。助けて。誰か……
 精一杯手を伸ばし受話器を鷲掴みにする。番号はもはや指が覚えていた。







 昨日から鬱陶しい雨が続いていた。今日は外出の予定がないオレは大して不都合などなかったが、それでも憂鬱な気分にはなる。
 蘭は洗濯物が溜まっちゃって困る、とか、湿気で髪がまとまらない、とか色々言っていたがそれでも約束があるからと外へ出かけていった。日曜日だというのに少しのんびりしようとか思わないのだろうか。
 時刻はもうすぐ3時。事務所の電話番をしながら小五郎はそわそわしながらビデオデッキに新品のビデオテープをセットした。今日は3時から沖野ヨーコの二時間ドラマの再放送があるのだ。ヨーコちゃんは底なしに可愛い。あの笑顔にオレはいつも癒される。
 時間まで1分を切った。録画ボタンを押そうとリモコンを探していたその時、デスクからけたたましい音の電話のコールが鳴った。
 心の中で舌打ちをした。
「はい、毛利探偵事務所ですがー」
 明らかに不機嫌な声が出てしまう。邪魔はされたくなかった。
「…………」
「もしもしぃ?」
「……わたし」
 受話器から不意に漏れた声はすぐに誰だか分かったが、まるでいつもの覇気が無かった。普段のとおりに悪態をつくのが一瞬ためらわれた。
「なんだお前か、なんか用かぁ?」
 会話にできてしまった変な間。手ではリモコンを探しながら……何かがおかしい、いつもと違う。――それは恐怖に近いことだった。恐ろしいことへの前兆にさえ思えた。
「蘭は?」
「さっき出かけた。てっきりオメーんとこ行ってんのかと思ったけど、違うのか?」
 英理が質問に答える気配は無かった。受話器からは雑音だか何だか分からない不快な音が漏れていて上手く聞き取れない。
「おい、お前今どこに居……」
「会いたいの」
 はっきりとそう聞こえた。心なしか少し甘えたような声だった気がして、思わず受話器を落としかけた。
「え、え、は? どうしたんだよ?」
 いつものお前らしくない。不覚にも動揺してしまって顔が熱くなってしまう。
 英理の返事を待っていると、ゴト、と向こうから何かが落ちたかぶつかった様な音がして、それから何も聞こえなくなった。
「お、おいっどうした?」
 明らかに何かがおかしかった。
「英理?」
 返事どころか、物音すらしなくなった。何かあったのか?そんなまさか。いや、でも。
 頭の中に浮かぶモヤモヤした気持ち―――疑問とか意地とかそのほかの色んな感情が交錯してしまう。終には考えることを放棄した。
 しゃーねーな。
 ビデオの録画も忘れて小五郎は家を飛び出していた。




 タクシーの運転手にぶっきらぼうに金を渡して、車を降りた。
 高層マンションの上を見上げると雨粒が目に入って痛かった。傘を差さず走ってエントランスへと向かう。オートロックの解除のために部屋番号をプッシュしながら考えを巡らせた。ここに来たのはそう多くない。それなのによく部屋の番号まで覚えているなと自分で感心する。
 返事は無い。ここにはいないのか。そもそも場所までは言っていなかったがなぜか自宅だと確信してここへ来てしまった。
 あいつの携帯にも掛けてみるが何回コールしてもやはり出なかった。どういうことだ?
 事務所にも行ってみるかどうしようか考えていると、中からマンションの住人が出てきたのでそれに乗じて一応部屋まで行ってみることにした。
 部屋の前に立ち、無駄かもしれないが……と心の中で呟きながらインターホンを押す。
 ――昔、ここに来てこうして唐突にアイツを訪ねたことがあった。今より少し若かった。まるで魔法にでもかかったみたいに欲しくてたまらなくなった。
 やはり返事は無かった。仕方ない事務所に行ってみるかと思いながら何となくひねってみたドアノブ。
 あるはずのない手ごたえがあった。
 心臓が早鐘を打つ。こんな状況は過去も今も仕事で何度も経験していた。
 ドアを開けたとたん横たわっている妻の姿が目に飛び込んできて、全身から血の気が引いた。
 ――まさか。
いままで関わってきた事件とか凄惨な現場とかすべて頭を過ぎっては消えていく。頭が真っ白になり、気がつくともう足が動いていた。
「英理っ!!」
 冷たいフローリングに倒れている英理を抱き起こす。
 触れた体は温かかった。
 どうやら事件ではないようだ。心の底からホッとした。しかしまた別の意味で深刻な状態ではあった。
「おい! 大丈夫か!?」
 意識はあるようだが朦朧としているようだ。体は確かに温かかったがしかし熱すぎだ。
「とりあえず救急車呼ぶから」
 あたりを見回して電話を探すと、受話器は英理が握り締めていた。その姿を見て胸が締め付けられる思いがした。




 しばらく横たわる弱々しい妻の姿を見ていたが、男の看護士に呼ばれて小五郎は別室へと向かった。
「奥さん、肺炎になりかけてましたよ。もっと早くに受診してくれればここまで酷くはならなかったでしょうに」
 30代後半の色っぽい女性医師ははレントゲンをチラリと見ながらそう言った。
 英理は病室で点滴を打たれ、状態は今は落ち着いているという。――しかし肺炎とは。熱が40度もあったそうだ。そりゃぶっ倒れるはずだ。
「はぁ……」
 しかたなく小五郎は情けない相槌を打つしかなかった。
 まるでオレのせいだと言わんばかりの口ぶり。英理と同世代の女だ、俺を責めたくなる気持ちは分からなくも無いが。
「まあ落ち着いているし入院はしなくても大丈夫でしょう。そのかわり一週間は絶対安静、自宅療養ですよ」
 睡眠不足と過労で抵抗力も弱まっていたみたいだしね。そう医師は付け加えた。
 睡眠不足と過労――やはりそうなのか。今でもそんな生活をしているのか。
「ところで」
 メガネの奥から覗く眼がいたずらに小五郎を見つめる。
「あんたあの名探偵の毛利小五郎さんでしょ? 奥さんにどんな仕事させてんの」
 予想外の方向に矛先が向いて小五郎はギョッとしてしまう。完全に興味本位の目だ。なんだか不当な扱いを受けている気がしたが、それに怒る気力はどこかへ行ってしまった。
 頭の中ではあの女のことばかり考えてしまう。――あいつの声、横たわった体躯、握り締めた受話器。
 それらは自分の記憶にある、あの女のイメージからはみ出していた。どの記憶とも上手く結びつかなかった。
 過去に現実が追いつかない。想像ばかりが走りだしてしまう。
「――毛利さん?」
「じゃあ点滴終わったら帰らせてもらいますんで、どうもお世話になりました」
 小五郎は軽く会釈をすると個室を後にした。女医はやれやれという顔でカルテに目をやる。
「ところでこの奥さんの名前、どっかで聞いたことあるような気がするんだけど……誰だったかなぁ?」








「あ、そういや蘭に連絡すんの忘れてた」
 英理に付き添う形で再び家を訪れた。寝室のベッドに英理を座らせて隣に腰掛けた小五郎はそう言った。
 隣の女をチラリと見る。タクシーに乗ってここに来るまでの間、ほとんど何も喋っていない。
 やはりいつもと様子がまるで違う。体調のせいなのか?
「とりあえず、寝巻き。さっさと着替えて寝とけ」
 ずっと気になっていた。いつもとは違う彼女の服装。仕事着でもなければ普段着とはまるで趣が違う。
 黒い服。
 とりあえず代えの服を探そうと適当に引き出しを探ってみた。
「蘭には……」
 ふと開けた引き出しにランジェリーが沢山入っていて固まった。
「蘭には言わないでおいて。心配掛けたくないし、うつしたら悪いから」
「あ、ああそそそうか? おめーがそう言うならそうするか」
 冷や汗をじんわり掻きながらそっと引き出しを閉めた。
「あなた」
「何だ?」
「ごめんなさい……迷惑かけちゃって。他に頼れる人が思いつかなくて、咄嗟に」
「いいから、着替えて寝とけ。俺はあっちにいるから、何かあったら呼べよ」
 英理は少し微笑んで、ありがとう。そう呟いた。










 『もう歳でしたからね』
 どこか機械的な医師の声を反芻する。




 死。
 その先にはいったい何があるのだろう。
 ――どうしてそんな遠いところへ一人っきりで行ってしまったの。
 不思議と涙は出ない。いつだって涙は現実のものだ。流してしまえば受け入れなければならなくなる。


 英理は目が覚めてまず、寝汗によって濡れたパジャマを不快だと感じた。次にサイドボードに置かれたメガネをかけて、ゆっくりと起き上がる。
 昨日の気が遠くなりそうな眩暈もすっかり落ち着いて、ただ体が火照って熱いと感じるだけだ。
 変な夢を見た。
 酷く現実離れしていたことだけは確かだが、どんな夢かはまるで思い出せないのだった。
 体を起こそうと、しっかりと頭を振って前を見ると時計は7時を指していた。
 いつもと同じ時間に目覚める自分に感心する。いつだって正確だ。かいた汗を流すべくバスルームへと向かい、濡れたパジャマを脱いで全身に熱いシャワーを浴びた。
 体調は万全ではないことは分かっていたが、仕事には行こうと決めていた。
 沢山のものを犠牲にして得られた今の仕事はかけがえの無いもの。だから怠けるわけにはいかない。それに暗い部屋に一人取り残されていると、嫌なことばかり思い出すから、忙しい空間に身を置かなければならなかった。
 現実が私を追いかけてくるから、全力で走らなければ。


「うっす」
 バスローブを羽織ってバスルームから出ると、そう声を掛けられた。何だか不満そうな顔をしている。
 しかし間抜けなことに今の今まで彼がこの家にいるなんて考えもしなかったのだ。なんだか柄にもなく緊張してしまう。
「……あら、おはよう。早いのね」
「お前なぁ、病人なんだから大人しく寝てろって」
 ふとリビングに目をやると、ソファに毛布と枕と灰皿が置いてあった。
「ちょっと汗かいたからシャワー浴びただけよ。あなたこそ。昨日帰らなかったの?」
 少しツンケンした物言いになってしまうのはいつもの癖だった。我ながら可愛くない女だと思う。
 ――本当は少し嬉しかったのに。あなたが珍しく私を気遣ってくれることが。
「ほんと可愛くねー女だな」
 言うと思った。
 お前が帰らないでって言うから傍にいてやったのによ。と小五郎は吐き捨てたように付け足した。
「嘘。そんなこと言ってないわよ」
「言ったって」
「言うわけ無いでしょそんなこと。あなたみたいな飲んだくれでいーかげんな男なんかに」
 ちょっと言い過ぎたかなと思ったが、言ってしまったものはどうしようもなかった。
 昨日は素直にお礼が言えたのに、どうして今日は駄目なんだろう。
「へーへー分かりましたよ。まったく……昔はもう少し素直で可愛かったんだけどなァー」
 思わず顔が赤くなった。昔は素直で可愛かった?あなたそんな風に思ってたの?
「う、うるさいわねぇ。もう平気だから、帰って大丈夫よ。あなたにも仕事があるんでしょう」
「にも、ってお前まさか仕事行く気じゃねぇだろォな?」
「……まさか。今日は一日家にいるわよ、そこまで馬鹿じゃないわ」
 嘘をついた。
「医者から絶対安静って言われてるんだからな」
 と釘を刺す。
「分かってます」
 小五郎が嘘を見抜いてしまわないように、爽やかに微笑んで見せた。
「熱だってまだあるじゃねぇか」
 小五郎は大きな手をおでこにそっとあてる。思わず頬が赤くなってしまう。
「一人で大丈夫よ、子供じゃないんだから」
 本当は。本当はその優しさに甘えてしまいたかった。
「そうか?」
 彼はまだ何か言いたそうにしていたが、一通り納得はしたようだった。


 彼がまだ小言を言いながら家を出たとき、寂しさもあったがそれよりも安堵のほうが大きい事に自分でも驚いていた。
 自分を落ち着かせようと、少し大袈裟に深呼吸をする。
 秘書の栗山緑に電話を掛け、今日は休みにすること告げた。通常業務は無理だと悟った。いくら私でもそこまで無茶はしない。しかしせめて裁判所に提出する書類を今日中にどうしても作っておきたかった。記録はすべて事務所に置いてある、その記録だけ持ち帰って家で作業をすれば良いことだ。
 軽く化粧をし、スーツに着替えて支度を終える。
 台所に行くと鍋にお粥がつくってあって 彼の優しさに思わず目頭が熱くなった。あなたはどうしてこんなどうしようもない私に優しくしてくれるの。
 ――せめてその書類だけ作り終えたらゆっくり休もう。


 そんなことを思いながら駐車場で車にキーをさしたとき、唐突に声が聞こえた。
「こんなことだろうと思ったぜ」
 完全に言葉を失った。まだ夢を見ているかのように現実感がすっぽり抜け落ちてしまっている。
 彼の声は自然と穏やかで、しかしかえってそれが怖かった。
「……あなた」
 ばつが悪いことにきっちりとしたスーツを着ていた。これでは、『ちょっとそこまで買い物に~』などと言い訳も出来ない。
 なぜ、と言いかけて口を閉じる。私は忘れてしまっていた。いつだってこの人には嘘がつけないということを。
 小五郎は大きく息を吸い込んだ。
「この馬鹿野郎っ!!!」
 おどろいた。
「な……」
 言葉が出ない。
「案の定戻ってきてみればこれだ!死にてぇのか!!」
「な……なによっ、あなたには関係…ない、で…しょ」
 急に激しい眩暈に襲われて足元がふらついた。地面が揺れて立っていられなくなってその場に倒れこんでしまう。自分の体力の無さが恨めしい。そんなことを思いながら最後に見たのは小五郎の心配そうな表情だった。
 温かい腕に支えられて英理は意識を手放した。









 枕もとの電話の音で、英理は目が覚めた。

 ふとサイドボードに飾ってある写真に目がいった。10年以上も前の家族写真。見慣れているはずなのに、切り取られた3つの笑顔から目が離せない。
 コールが7回、8回鳴って切れた。部屋は静寂に包まれる。
 自分の寝室であることはすぐに理解できた。鉛の体を起こすと、冬だというのに体中にびっしょり汗をかいていた。おでこに乗っていたタオルがぼとりと布団に落ちる。
 午後7時。
 窓の外はすでに夜の景色に変わっていた。
 ベランダに夫の姿が見えたことで、私は夢から現実へと呼び戻された。煙草を燻らせている男の背中はまるで怒っているように見えた。
 ろくに回りそうも無い頭がやけに重い。ああそうか、風邪で体調がよくないんだっけ。
 彼が煙草を消して寒そうな素振りを見せたので、条件反射で布団に潜りこんだ。
――バツが悪いような気がして。そもそもどんな顔をしていいのか分からない。いつもの強気な自分でいられる自信が無い。
 目を瞑ってしばらくすると冷えた空気が強い風とともに部屋に入り込んできた。私は目を開けることができなかった。
 寝たふりが得意ではなかったが、この時ばかりは全神経を集中させ、眠る私自身の演技をした。それは本来の時の流れより長い沈黙に感じられた。

 彼の手が不意に私の髪を撫でる。心臓が弾けてしまうくらい驚いた。無骨な手があまりにも優しく動くから。その時、彼の手にグッと力がこもった。
 何だろうと考える暇も無く、煙草の匂いとともに懐かしい感触が降りてきた。温かいものが唇に……これは?
 !!
 心臓が爆発した。
 いつもの冷静さが消し飛ぶ破壊力。目を見開いてしまうことはなんとか堪えた。
 身動きが取れない。
 すぐに離れるのかとも思ったがそれもない。
 優しすぎるくらいのキス。普段の姿からは想像すらできないタッチで。
 唇を割って舌が触れた瞬間、体が痺れるような感覚が体中に走った。
 不器用そうに見える男の舌が、どれだけ巧みに動くのか私は知っている。
 あまりの心地よさに身を任せてしまいたくなる。
 ようやく、唇が名残惜しそうに離れた。ほっとしたのも束の間、彼は私に覆いかぶさるようになり、ベッドのスプリングが少しきしむのが分かった。
 ちょちょ、ちょっと!
 首筋に唇が触れ、そこにもキスをされる。
 さすがに声が漏れてしまった。
「ちょ、っとぉ!」
「バーカ。寝たふりなんかすんじゃねーよ」
 私はすべてを理解した。
「なな、なにするのよ!」
 側にあった枕で頭を叩いた。
 頬が上気していないだろうか。
「痛ってーな、何すんだ」
「分かってたんならもっと普通に起こしなさいよ!」
 駄目。顔が赤くなってるのが見なくてもわかる。
「オメーが悪いんだろ。だからお仕置きだ」
「ハイ?」
「このオレ様を騙そうとした罰だ」
 声がやけに真剣だった。
「……」
 (だって、仕方が無いじゃない)
 私は、家族と同じくらい仕事が大切なの。例えワーカーホリックだなんて言われても。
 小五郎の真剣な表情を前にしたら、言葉にすることができなかったけれど。
「英理」
 小五郎は探偵でも刑事でもない、私の幼馴染の顔をして私の名を呼んだ。
「頼むから、自分を犠牲にするのはやめてくれ」
 私は何も言えなくなった。
 それ以外に差し出せるものが私には見つけられない。
 小五郎の無骨な手が耳の後ろに差し入れられ、私は観念して目を閉じた。
 そのまま二人はベッドになだれ込む。体が熱いのはきっと熱のせい。
 罰を甘んじて受けろというの。
「オメーは強情だな、昔っから」
 あなたは相変わらず容赦ないのね。









「――もう歳くってたし、こればっかりは仕方がねえな」
 枕元で煙草を燻らせながら、小五郎は言う。普段とは結びつかないような色っぽい仕草に、英理は頬を染めた。
「うん、分かってる。もう平気よ」
 沢山泣いたから。心の中でそう付け足した。
 ゴロがいないこの家は広すぎる。ベッドもソファも何もかも、私一人では持て余してしまう。私が孤独なとき、誰よりも側にいてくれた。
 ――どうか安らかに眠って。
 ベッドのヘリ越しに暗くなった空と夜景が見える。暗い部屋の中は煙草の匂いと僅かに差し込む光で満たされていた。普段憎まれ口ばかり利く人なのに、自然に慰めてくれたことが何よりも嬉しい。こうやって自然と手を握ってくれることも、とても愛しい。英理は仰向けの姿勢で天井を見つめながら、手のぬくもりをただ感じていた。
「やさしいのね、今日は。どういう風の吹き回し?」
 私を優しく抱いて、そして手を握ってくれる。新婚のころみたい。
「いつもこうだろ」
「どこがよ、さっきまで怒ってたくせに」
 本気で怒ってたわね。でも嬉しかった。
「まだ怒ってんだけどな。オメーは強情だから言ったって無駄なんだろ、どうせ」
小五郎は煙草をもみ消しながら私の顔を見下ろした。
「……ごめんなさい」
 今だけは素直にアナタに甘えられる。いつもの女王の仮面も意地もプライドも、全部服を脱いだら捨てられるらしい。

 しおらしくて気持ちわりいな、なんて言って小五郎は笑った。
「オメーちゃんと食ってんのか。……痩せただろ」
 具体的にどの辺が、とは聞けない。
「アナタはお酒ばっかり飲むのに、全然太らないのね」
小五郎は不服そうな顔をして英理の髪を撫でた。
「シャワー浴びてくるわね」
「お前、体調は?」
 今更ながらの質問に英理は、少し顔を赤らめて言った。
「汗かいたから、もう大分楽になったわ。ありがと」

 シャワーを浴びて寝室に戻ると、小五郎は私のベッドで大の字になっていびきをかいていた寝ていた。こんな短時間で深い眠りにつけるのはこの男の特技だと思う。
「まったく、そんな格好で風邪ひくわよ。アナタ」
 はだけた布団をむき出しの肩まで掛けながら英理は言う。起こしても起きるような男じゃないのは分かっているので、半ばこれは独り言に近い問いかけであった。
 午後9時。蘭に連絡しようかとも思ったが止めておいた。ウチに泊まるなんて言って変なこと勘ぐられたら恥ずかしいもの。蘭曰く、麻雀で一晩帰らないなんてこと良くある事だそうなので明日の朝連絡すれば問題は無いだろう。コナン君も居るし、大丈夫よね。
 
 小五郎の腕を少し退かしてベッドの隣に潜り込んだ。手のひらを捜してそっと握る。
 ――頼むから、自分を犠牲にするのはやめてくれ。
 小五郎の言葉。その声が頭の中で何度もリフレインする。嬉しくて涙が出そうだ。

「おやすみなさい」
 安らかに眠る頬に優しい唇が落ちた。