まったく逆のアプローチ






「うぉぉ~い、英理ちゃぁ~~ん!  開けてくれぇ~」
 赤い顔に乱れた襟。景気付けに飲んだ酒は一杯だけだ。俺はドアの隙間から顔を出した妻へ、アルコールを含んでいるような、熱い息を吹きかけた。
「ちょっとあなた! 近所迷惑よ……!」
 英理は呆れた表情を見せつつ、手早くチェーンを外した。非常識さにプンスカ怒る妻を背にし、玄関に座り込む。俺の表情は、シラフに戻る。
 ──そう、演技だ。ベロベロに酔っ払う、磨きのかかった芝居である。別居中の妻のマンションに脚を踏み入れるのには、妥当な理由が必要なのだ。 
 理由もなく人恋しい夜に、妻に触れたいと思ったときには……。

「英理ちゅわーん……。抱っこぉ」
「あのね! いい歳して正体を無くすまで酔うなんて。情けないったら!」
「うるへー」
「ご機嫌ね! そんなに飲んで何が楽しいんだか!?」
「なぁ、水くれ、水ぅ……」
「まったくもぉー……」
 英理は怒りつつ俺を抱き起こそうと、脇に腕を差し込んできた。しなやかな前腕、背に触れる胸。ああ……あったかい、……やわらかい。久しぶりの感触に、酔ってもいない瞼が、熱に白く濁っていく。俺はニヤける頬を誤魔化すように、みずぅ……、とくり返し呟いた。

「プハァ……」
 投げるようにソファに座らされ、飲み干した。不機嫌に俺の手からコップをひったくる英理に向かって、タックルするように腰へと巻きつく。
「ううーん、コゴローちゃん、も~飲めないヨォ~~~」
「もう! この、酔っ払いは……」
 部屋着の柔らかなセーターを吸うと、甘やかな柔軟剤の香りが、胸に染みこんだ。平らな腹に、俺は顔をぐりぐり擦りつける。
「……まるで大きな犬みたいね」
 犬の声のようにぐう、と喉を鳴らすと、英理の指は毛足の長い犬の毛を梳くように、後頭部の髪を優しく撫ではじめた。俺は愉快にほくそ笑む。
 女の懐に潜り込むには、様々な方法があるだろう。今夜は他愛なく甘えかかる作戦……。子の親だって、大の男だって、そんな気分になるときがあるのだ。普段とのギャップが受けるのか、成功率は割と高い。多用しすぎると効果が薄れるので、ここぞというときの、とっておきではあるのだが。犬というより狸かもしれないな、と俺は口で服の裾を摘まんだ。
「ちょっと、こらぁ! ハウス!」
 聞こえねー。
「ああん、もう! くすぐったい」
 服の中に顔を入れ、素肌をチロチロと舐める。犬みたいに。
「くすぐったいったらぁ……」
 本当にペットとじゃれているような声を出しているし、嫌がっている様子もない。意外な反応に拍子抜けして調子に乗っていると──ふらぁ……と、英理の身体が後ろへ揺れた。当然、俺の手は英理の背を支えることになる。
「……あら? 酔っ払いのくせに、ずいぶんと機敏ねぇ?」
 咄嗟に立ち上がった俺を見上げる瞳は、細まっていた。全てお見通しよ、と言わんばかりの表情で、俺はおそらく、素の表情をしていたのだろう。あまりの恥ずかしさに目を逸らしたくなった。英理の目尻が笑っている。
「あ、いや……」
「もう、酔いが覚めた?」
 バレている……。言い訳をすれば藪蛇になるだろう。英理の瞼はほんのりと赤らんでいて、小憎らしい言葉との差に、演技を忘れてその顔を見つめた。
「えっと、だなぁ……」
「そう何度も、同じ手は食わなくてよ。ねえ、探偵さん……」
 らしくない甘い声に、吸い寄せられる。待て待て。だめだ。……だが、俺は自分を止められない。──惚れているのだ。まして今夜は、溜まった欲望をぶつけるつもりでココへ……。既にエンジンが高鳴っている。じりじりと顔を寄せると、英理の体重がさらに後ろに仰け反った。
「きゃ!」
 おっとっとっと! と上手い具合に、俺たちはソファになだれた。まるで俺が押し倒したような格好に、間近で顔を突き合わせて黙る。
 仮にも、結婚して十数年の夫婦が。
「……!」
「……!」
 目が合い、不本意な体勢に、英理は頬を染めている。俺を誘惑するのに、この世で最も効果的な表情といえるが、俺は酔っ払いの仮面を外されて、どうしていいやらと戸惑った。
「す、スマン」
「……も、もう。強引なんだから」
「お、お前が転けたんだろーが! その誘い受けは、わざとかよっ」
「ちょ、ちょっとバランス崩しただけよ! 眠りの小五郎さんみたいに?」
「俺様の美学と一緒にするんじゃ……。ん?」
 低くなった視界に入ったのは、リビングテーブルの側にある、ワインの空ビンだった。一本、いや、二本……? 
 ぐい、と俺の流れる視線を正面に戻すのは、英理の両手。
「よそ見?」
「お前、ひょっとして……酔ってんのか?」
「ぜぇんぜん?」
「酔ってんだろ。どーりでなんか挙動が変だと」
「酔ってませんけど」
「じゃ、口、開けてみろ」 
 こ、こう? と微かに開いた唇に、すかさず食らいつく。ン! と声が漏れる。衝動ではなく吟味のためだと、キスの口実を俺は見つけた。柔らかい唇。みずみずしく濡れた舌。甘い唾液を吸っていくと、鼻を抜けるような風味を感じて、俺は目的を忘れそうになる。踏ん張って、なんとか唇を離した。
「やっぱり酒くせえ!」
「二十歳は超えてるわ。問題あって?」
「問題はそこじゃ無くてな!」
「わるい? 私だってお酒くらい飲むわ」
「誰だよ」
「え?」
「誰の所為だよ! んなフラつくくらい飲ませた相手はよ」
「……ふふっ」
 英理は嬉しげに笑った。しまった……。つい、ガキくせえことを。俺はつい取り乱した自分にバツが悪くなり、顔を背けて沈黙する。
「私は仕事でヤケ酒なんてしないの。あなたって私の保護者?」
「ただの亭主だよ……」
「なら、さっさと抱いたら?」
「な……」
「どうぞ?」
 両腕を広げてサラっと言う。男を誘うにはあまりに色気がなく、投げやりで、直接的な言葉だ。……なのだが。とろけた瞳を見て、俺は息をついた。その顔は、抱いたら? ではなく、抱いて♡ だろう、どう見ても……。どうやら期待されている。これはため息ではなく、暴走を抑える為の深呼吸。
「そうか、嬉しいか。そんなに」
「だって最後の一杯を飲み終えたら、電話するつもりだったのよ」
「……くそ。なんだよ」
「見て。あと一口。あぶなかったわ」
「さっさとしろよな、電話くらい……。減るもんじゃなし」
「いいえ。今夜はあなたの負けよ」                
「引き分けだよ……。どうして電話をするのに、酔っ払う必要がある?」
「……どうして、私の家に来るのに、酔ったフリをする必要があるの?」
 俺たちは顔を見合わせて噴きだした。