あなたに会えてよかった


昨日から雨が降っていた。
止むことなく降り続ける雨。無情にも、雷まで鳴っている。

体中が熱かった。鉄の塊のように体は重く、動くことも容易にはできない。

こうなった原因は分かっていた。

英理は重い体を引きずり、辛うじて体温計に手を伸ばす。

もうすでに手段を選んでいる場合ではない。

アラームが鳴り。
体温計は残酷な数字を告げていた。

「(やばい、かも……)」

溢れ出る吐息。
呼吸することじたい苦しくなってきた。

英理は意を決して腕を伸ばし、受話器を手に取った。

RRRRRRRRRR…

「はいっ 毛利探偵事務所」

「っ…あなた?」

「なんだ、英理か…なんか用か?」
いつも通りにそっけない返事をする小五郎。
普段ならそれに腹を立てている所だが、あいにく今日はそんな余裕は無い。

「…蘭…いる?」

「ん?蘭なら、園子んとこにコナンと泊まりに行ったぞ」

英理の目の前が真っ暗になる。

「…今、あなたしかいないの?」

「…だったら何だよ。」

もう、こうなったら仕方が無い。今は意地を張っている場合ではなかった

「…っお願い…があるんだけど……」

「なんだ」

「今、来て…家に……お願い……」

小五郎は英理の様子がおかしいことに気がついた。

「英理?どうかしたのか?」

「(…苦し…)」

「お願い…来れば分かる…鍵、開けとくからお願い…」

どさっ

英理は力尽きて、その場に倒れこんでしまった。

受話器の向こうで何かが倒れる音がした。
「英理っ?おい、英理!?」

「……」

「…何なんだよっ!!」

小五郎は電話を切ると、いそいでタクシーを呼んだ。

気丈な妻の尋常ではない様子に、小五郎は珍しく焦りを感じていた。

あいつはめったな事が無いかぎり、人に頼るような奴じゃなかった。

…嫌な予感がする…   

運転手に金を渡すと、小五郎は傘もささずにマンションの中へと入っていく。

以前に来たことがあったから、部屋の番号は覚えていた。

エレベーターを降りると、英理の部屋の前に立った。

「ピンポーン」

「……」

…10秒ぐらい経ち、小五郎は意を決してノブを回す。
鍵は確かに開いていた。いささか無用心かと思ったが、それどころではなかった。

次の瞬間彼の目に飛び込んできたのは、

「英理っ!!」

なぜか喪服を着てリビングに横たわっている英理の姿だった。

「英理!?英理!!?」

意識はあるらしかった。だが、息が荒く、苦しさのあまり、目を閉じている。

ふと床に目をやると、体温計が転がっていた。

「40度!?」

手を英理のおでこにあててみる。

あまりの熱さに小五郎は全身の血の気が引いていく気がした。

「英理っ!?」

英理は気がついたのか肩を上下に動かしながら、苦しそうに目をあけた。

「だ、誰……?」

目がかすんでいる上に、倒れた拍子に眼鏡を落としたらしかった。

「俺だ。英理、分かるか?」

「あ…あなた?…来て…くれたの?」

「風邪か?」

「そうみたい……だめね…いい歳して自己管理もできてないなんて…」

英理の口が精一杯苦笑いの形を作る。

「働きすぎなんだよ」

「……」

「薬飲んだか?」

「ううん…今切らしてて…買いに行こうとも思ったんだけど、 車は今出してるし…病院にはいけないし…」

「……そうか」

「悪かったわね…仕事…してたんでしょう?……」

「今日は日曜だぞ。」

「日曜…?そうだったかしら…っちょ、ちょっと!」

小五郎は英理が言い終わらないうちに、英理を抱き上げる。

「寝室はどっちだ?」

英理は無言で指を指す。

「何で喪服なんか着てるんだよ」

「…葬式」

小五郎は英理の体をベットに置く

「ったく、服湿ってんじゃねーか。 着替えどこだ?」

小五郎はクローゼットから青のパジャマを取り出すと、英理の腹の上に置いた。

「自分で着れるか?」

「出来ればそうしたいんだけど…体は動かないし、それに喪服って脱ぎにくいじゃない…?」

小五郎はため息をつくと、英理の首元にあるファスナーに手をかける。

「…見ないでね」

英理の顔が仄かに染まる。

「今更何言ってんだ」
そう言うとファスナーを腰の所まで、一気に下ろした。

下着が服の間から、見え隠れする。

「(…コレじゃ生殺しだ…)」

小五郎は思わず生唾を飲み込んだ。



ボタンをとめる手がぎこちない。

「(服を着せたのは初めてだな……)」

小五郎は変なことを考えながらも、 なんとか上は着替えさせることができた。

「(……なんかこのカッコ…妙に……)」

「……」

「……っちょっと!?何だらしない顔してるのよ!!寒いんだから早く着せてよ!」

小五郎は英理の声にはっと我に返る。

「べ、別にやらしいこと考えてたんじゃないぞ!!!」


「…考えてたのね……?」
英理のこめかみがひきつっている。

その姿がちょっとだけいつもの英理らしかった。


「ち、違うぞ英理! 誤解すんな!!」

小五郎は急いで残りを着替えさせた。



「…あなた」

「今度はなんだよ」

英理は言いにくそうに口を開いた。


「…ストッキング…」

「…っそんなのは自分で脱げっ!!」

「……冗談よ。」

「と、とにかく薬買ってくるからな。……一人で大丈夫か?」

「多分ね。…気をつけて」

「あぁ」

小五郎はそう言うと傘を持って出かけていった。

英理は小五郎が来て安心したのか、そのままふっと眠りについた。



ガチャ。

「英理。薬買ってきたぞ」

小五郎は手に紙袋と水の入ったコップを持って部屋に入ってきた。

「zzz……」

「英理?寝てるのか?」

「zzz…」


(薬飲ませたほうがいいよな…)

「zzzz……」


英理はなにか寝言を言いながら苦しそうに顔をゆがめている。


「……しょうがねえなぁ」





「……英理…起きろよ……」

小五郎は英理の耳元で囁きかける。

「ぅ〜ん…あなた?…」
そう言いながらゆっくりと上体を起こす。

「目、閉じてろ。」

「…は?」

小五郎はカプセルとコップの水を自分の口に含むと
英理の口にそれを運んだ。



英理はやわらかい唇の感触とともに口の中に冷たい何かが流れ込んでいくのを感じた。



「飲み込め」

分けが分からないといった表情の英理。

「飲めよ」


……ごくん







「…………」

「…?…あ、あなた……!?」




もうろうとしていた意識が戻り始め、今起こった出来事を冷静に考えてみる。
一瞬、夢の続きだろうともおもったが、口に残った冷ややかな感触でだんだん現実に引き戻されていく。
……思い出せば思い出すほど英理の顔が染まっていく。


「とにかく粥でも作ってやるから、ちゃんと寝てろよ」
なるべく英理の顔を見ないようにして小五郎は部屋から出て行った。



英理は静かな部屋の中、なにやら考えていたが、やがて薬が効いてくると誘われるままに深い眠りに落ちた。







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英理は夢を見ていた。

昨日の出来事がうっすらと頭の中で駆け巡る。

苦しくて哀しくて……自分がこれほど無力だと思ったのは初めてだ。



そして、私は一晩中雨に打たれていた。


逃げるように。


自分を忘れるために。


けれど。











涙は止まらなかった。





とめられなかった。

自分が悲しいのか、寂しいのか、情けないのか、苦しいのか……哀れなのか。

確かめる術は無くて。


涙と交じり合った雨は頬をゆっくりと伝う。








小五郎は、英理の脇に腰を下ろしていた。

英理の頬を伝う涙をじっと見ていた。
そして、時々もらす寝言。

——ごめんなさい…——

英理は確かにこう呟いていた。はっきりとは聞こえなかったが、唇の動きで何を言っているかは分かる。
しかし、誰に謝っているのか、何を謝っているのかは全く分からない。


やがて、英理がゆっくりと目を開ける。
自分の手で頬をなぞると、不思議そうな顔をした。


「…私、どのくらい眠ってたの?」

「丸一日」
傍にはすっかり冷めてしまったお粥が置いてあった。

「そう……頭がぼーっとするわ……でも、熱は下がったみたい」
「寝不足だったんじゃないのか?今日ぐらいゆっくり休んでろよ」


「ありがとう。もうだいぶ良くなったみたいだし、一人で大丈夫だから……」

英理は小五郎と目を合わせずに言った。
「その顔のどこが大丈夫なんだよ。粥、あっためてやるから顔洗ってこい」




洗面所から重苦しい水音が聞こえてきた。

小五郎はしわの残るベットを見つめながら想いにふける。

昇ってくる太陽とすがすがしいすぎる青い空が恨めしくも思えた。



英理は乱れた服を整えながら鏡に映る自分を見据えた。

いくら悩んでも考えても苦しんでも。
自分との葛藤に決着などつかない。
むしろ糸が絡みつくかのようにさらに複雑になっていく。


タオルで顔を拭く手は微かに震えていた。

影ついた顔で寝室に向かう。


夢の名残からか
いつに無く情緒不安定な自分。

思わず涙腺が緩くなる。


彼女の視界に入ってきた立ち尽くした彼の背中に、どうしようもない孤独感を感じてしまう。その切ないシチュエーションにたまらず顔が歪む。

ゆっくりと背中に顔をうずくませた。
顔が見えないように。
彼の体温を感じたいがために。


ゆっくりと小五郎が振り向くと、英理と目が合う。
小五郎は目を細めながら、軽く2、3回英理の頭を撫でた。

小五郎は自然に英理の体を引き寄せる。
冷たい体に彼の温度が心地よく流れた。


英理は少しずつ目を閉じて、静かに声をあげて泣いた。



小五郎は子供をあやすように背中をそっと叩きながら英理を抱く。


二人の時間はしばらく止まったままだった。

それからしばらくして、落ち着いた英理から小五郎が聞いた事は、

英理が水曜日に死んだ、仲がよかった友人の、葬式にいってきた事。
死ぬ直前に英理と会っていた事。




英理はゆっくりと一言一言を噛み締めるように言う。

小五郎は英理の横で静かにそれを聞いていた。




「ねぇ…人の命ってそんなにあっさり消えてしまうものなの?何でそんな前触れもなく無くなってしまうの…?あんな……」



そこから先はもう、うまく言葉にならない。

「……」


「(あんなに…)」


「(恐くなったの…いつ終わってしまうか分からないような不安定な生き方をするのが不安定にしか生きられない私達のこれからが…)」


英理の目に再び涙の膜が張りつめていく。


「…人間いつかは死んじまうんだよ。」
小五郎が後ろを向きながらふっとため息をついた。


「…え?」

「死ぬ事ばっかり考えてたら生きてる意味がねぇだろ?大事なのは今をどう生きるって事だ」

「……」
「精一杯生きてるかって事だよ」

「……」
「お前だってそうだろ?やり残した事なんて無いくらいに」

英理から、小五郎の照れくさそうに笑った口元が見える。
つられて少しずつ英理の口がほころんでいく。

「…そうね」

振り向いた小五郎を極上の笑顔で迎えた。

「…こっちこいよ。」

小五郎は英理を迎え入れるために両手を横に開いた。

「やり残さないようにするんだろ?」


英理ははにかむような笑顔で小五郎の腕の中にすっぽりと入る。


……あなたに会えてよかった……






おわり