Spice

 

 



 煙の向こうに肉をほおばる仏頂面が見える。私は、せっせと肉を焼く。

「コナン君もどんどん食べてね。お肉は好き?」
「うん!」
「よかった。お野菜もバランスよく食べなさいね」
「はーい!」

 真っ赤なロース肉。トングで薄く切られたそれを網に置き、白髪ネギを置いてくるりと巻いた。男の子側の網へ寄せる。続いて、一人娘の分も同じように。そのついでに、亭主の分も。夫はやはり仏頂面のまま、大きな口をあけてそれを頬張った。白い紙エプロンのカサカサ音が鼓膜を震わせ、私の心もソワソワと揺らした。

……いい食べっぷりだこと。そのオヤジが言ったのね。今夜、焼肉がいいって」
「あたり! お父さんが今夜は肉の気分だーって。せっかく行きたいイタリアンをピックアップしてたのに」
「どっちだってオレが払うんだから文句言うなよ。疲れてるときは肉だろーが!」
「そんなに疲れるような依頼、あったっけ」
「仕事とは限らないわよ? なんにせよ、お若くて羨ましいことね」

 煙の向こうの、小さな黒目と目が合った。ジトーっとした黒目はゆっくりと下がり、肉厚のしいたけを摘んでいた私の箸へ落ちてきた。小五郎はニヤリと笑う。テメーは若さがねーなァ! と小バカにされているが、無視してキノコを一口かじった。じゅわっと染みて美味しい銀座のしいたけ。

「ああ、美味しい。このしいたけ」
「しいたけ、ねェ……
 キノコに感動する私の顔に、煙越しにジトジト、ニヤニヤ感じつづける視線。いやらしく感じるのは気のせいかしら? 私は、今夜のある"予感"のことを考えまいと、キノコのうまみに目をつむる。

 ──えぇ? お肉!?
 今夜の家族での食事会。仕事を済ませて乗った行きのタクシーの中で、待ち合わせ場所の変更を告げられた。私は珍しく、運転手さんが驚くほどの素っ頓狂な声を上げてしまった。「……お母さんってお肉嫌いだったっけ?」と電話口の娘にも不思議がられた。

 言っておくがお肉は好きだ。私がなぜ動揺したかというと、エロオヤジ発案の「焼肉」にその"予感"を感じたからだった。それは刑事が使う隠語みたいなもので……
「野菜までしっかり美味しいわね」
「お母さんは、お肉食べないの?」
「ねえ蘭、ビビンバ分けて食べましょうよ」
「いいね! あ、すみませーん」

 蘭が店員さんを呼んでいる間に、さっと火を通した肉を夫側の網の端へ置いた。お肉が食べたかったんでしょう? 私はせっせと、左手で肉を焼く。せっかく蝶ネクタイを締めておしゃれしているのに、肝心のネクタイが紙エプロンで隠れてる。

 気のせいだとは思う。網からテンポよく消えていくお肉たち。私は物事を複雑に考えすぎてしまうときがある。おそらく、ただ単純に、彼は焼肉が食べたかっただけなのだ。
「それにしても何なんだぁ、この店。いやにカップルが多いな」
「ほら今日、バレンタインデーだからね」
 本日は恋人同士が愛を誓い合う、バレンタインデー。ふたりの言うとおり、店内にはカップルが多いようだった。

 蘭がセッティングした今夜の会、謀ったように2月14日を指定してきた理由は当然、離れて暮らす母親への、けなげなアシスト。しかし、私はある失敗をしてしまい、ココには、あるべきものがふたつ無い。ひとつは、左手の薬指にぴったりと収まるリング。それで私は今夜、左手ばかりを使って肉を焼くのだけれど、探偵さんは、指の根本に一度視線を落としただけで、指輪についてはまだ触れてこない。

……バレンタインねぇ。だからどいつもこいつも浮かれてやがんのか」
「いいじゃない。年一回のイベントなんだし! ね、お母さん」
 蘭はパスを送るように話題をふり、ワクワクするように私の手荷物へと視線を移した。これがふたつめの、あるべきもの。仕事鞄と一緒に置かれている小さな紙袋だ。渡すならこのタイミングだろうと、私は手を伸ばして口を開いた。

「コナン君はバレンタインデーって知ってる?」
「ボク知ってるよ! 2月14日に女のひとが男のひとへチョコレートをプレゼントする日だよね」
「そうよ。だからこれ、コナン君へよかったら。チョコレート」
「え、ボクに? あ、ありがとう。英理おばさん」
「ハン。手作りじゃなくてラッキーだったな! ボウズ」

 ラッキーってそれ、どういう意味? そう思いながらジロリと睨むと、言葉を詰まらせ、気まずそうに視線を外された。コナン君へ渡したのは、私が愛してやまないスイスの老舗チョコレート、ジゴバの紙袋だった。バレンタイン仕様の赤い紙袋に金色の箔押しがされている、見ているだけで心がときめくような、華やかなデザインのものだ。

「ボクにだけ? 小五郎のおじさんのは?」
「一応あるわよ。同じもの。ほら、有り難く思いなさいよ」
 そう言って、正面の網を避けるようにサイドから、同じ紙袋を渡した。
「あ、ああ……
「ウソ! 今年は手作りじゃないの? 毎年絶対手作りしてるのに! この前だってあんなに……

 蘭は驚きの声を上げた。そのとおり。私は懲りもせず、喜ばれない手作りのチョコを、毎年このヒゲオヤジに贈っていたわけだ。しかもつい先日の日曜日、蘭は私のマンションを訪ねてきた。チョコレート菓子の甘い匂いのする台所に、にんまりと微笑んで「頑張ってね~」なんて言い去っていった。その期待に応えられず、私は娘へ困り顔で笑う。

「あれは違うのよ。バレンタインとかじゃなくて、たまたま作ってただけ」
……あーあ。お父さん、楽しみに待ってたのにね」
「だっ、誰が待つかぁ!」
「楽しみにしてたじゃない! てっきりわたし、お父さんへのプレゼントだと思っちゃって……。お父さんってばチョコレートに似合うのはビターなビールだろ! とか言って酒屋さんで大量に買い込んじゃってさぁ」
「ふん! 酒が飲みてーだけだよ!」
「もー。意地っ張りなんだから」
「うるっせい!」

 小五郎は頬を染めてそっぽをむいた。おやおや。その反応は珍しく素直だと思った。文句ばっかり言うくせに、私の手作り、そこまで嫌がられてもいなかったらしい。
「まぁ、悪いけど。今年はこれで勘弁してね」
「まさかお母さん、あの手作りチョコ……、ほかの誰にもプレゼントしたり、してないよねぇ?」
「バカね、そんなわけないでしょ?」
「ハハ……。だとしたら、あんなもん食わされるヤローが気の毒でしょーがねーよ」
「どういう意味?」

 正面の夫をにらむ。彼も負けじと、ジトーっとした目で私をにらんでくる。ついでに、となりの娘も同じ顔をしている。……なんだか、手作りチョコを巡ってあらぬ疑いをかけられているみたいだけれど、黙秘に徹することにする。

……ハ。オバサンの不味いチョコなんて誰も興味ねーよ。さ、お前らも肉食えよな。何のための焼肉だ」
 その発言は、主に野菜ばかりを食べている私へ向かっての嫌味に聞こえた。正面の視線がなんだかしつこく、ねっとりしたものに変わったような気もした……

 焼肉に係る、今夜の"予感"が蘇る。それは、このオヤジがお肉を食べ、精をつけたらどうなってしまうのか。何を要求し、何を訴えてくるのか。そして妻である自分が、どう収拾をつけるのかということ……

「お母さん、顔赤いよ。火が強すぎるのかな」
「え、そう? そうかもね」
 私は左手のトングを置き、ジャスミン茶で喉をうるおす。
 気のせい、気のせい。と考える思考が胃の中に落ちてくる。考えまいとすればするほど意識してしまうのは、倒錯する人間の心理。私は左手でグラスを口に運びながら、気づけば、目の前のケダモノのことばかりを考えている。

 ──今夜は収まる気がしねーよ……。悪ぃな……
 獰猛で色っぽい、あの息づかい。それが急に聞こえた気がして、角度を傾け、お茶を一気に流し込んだ。私と彼はこれでも、こんな高校生の娘がいるくらいの長い間、夫婦をやっている。あたまに「一応」や「まだ」が付くこともあるけれど、なんのかんのと続いている。そしておそらく、この先も続く気がしているけれど、ともかく彼のことはよく知っている。これは、蘭も知らないことだ。

 それは、彼と関係を持った女のみが知る事実である。彼はお肉を食べると、とても精力がつき、すこぶる元気になるということ……

 焼肉と官能。こんな破廉恥な連想は、大人として恥ずかしい。でも。これは、過去の経験に基づいた立派な推考でもある。お下品で、明け透けで、動物的で、即物的なお誘いをするひとなのだ。私の亭主は。
「おねーさぁーんっ! カルビ二人前追加、ヨロシクね~」
「まだ食べるの!?」

 高らかに響く上機嫌な声。私は聞きながら、心の中で「別居中!」と書かれた立ち入り禁止札を、今夜、どうすべきか迷っていた。普段なら、別居中の夫にベッドへ誘われたとして、私は毅然と突っぱねる。「はい、待ってました。喜んで」なーんて媚びたりしない。気分屋のエロオヤジに都合よく扱われるなんて、以てのほかだと思っているから。

 私はパクリ、としいたけをかじる。……そりゃあね。私だって少しは、夫に触れたいと思わなくもない。でも……どうせ、いつもの気まぐれ。そうとわかっているから、頑固にならざるを得ないのだ。求める気持ちと拒絶したい気持ちで、私の心はいつも、複雑に絡んで解けない毛糸のように、混沌としている。



「美味しかったね!」
 ええ、と微笑んで答えても、実際のところ、お肉の味は記憶にない。私たちはコートを着て、エレベーターを待っていた。
 上階から降りてきたエレベーターには既に人が多く乗っていた。一人ないし二人のスペースしか空いておらず、私が「お先に」と足を出すより早く「お前ら先に行け」と小五郎は言った。子どもたちだけが先に乗り、ふたり残される。うっかり、避けるべき状況に至ってしまったことを思い、私は適当な話題をふった。

「あれだけ食べれば、満足したでしょうね」
「お前、全然食ってねーだろ。人に食わせてばっかで」
「そんなことないわよ」
 来るときには手ぶらだった小五郎の手には、ジゴバの紙袋が握られている。それがなんだか後ろめたくて、コホン、と咳払いを一つする。すると「あのよ……」と話を切り出してきた。私は顔を向けず、ゆっくり降りていくエレベーターの文字盤を追うので精一杯。

「ちょっと話さねーか。このあと」
「話?」
 来た来た、来ました……。低く真面目な声色に手におのずと力がこもり、鞄の取っ手が心臓のようにキュウッと鳴った。
「大した話じゃねーけどよ」
「私、時間を無駄にするのは御免だわ」
「予定でもあんのか」
「予定? これから?」
 私は左手首の時計をみる。予定といわれれば、これからゴロちゃんを迎えに行って、残った仕事をするつもりだった。けど仕事は明日に回して、あなたの為に空けてあげてもよくてよ? ……なんてね。素直にそう言えたなら、こんなに苦労はしてない。
「無くもないけど」
……フーン」

 もし"予感"が正しいなら、このひとは、どうやって私を口説き落とすつもりだろう。頑固な私が納得するような、素敵な口説き文句なら、特別に折れてあげてもいいかな……。そう思うのは傲慢? けど、この人の妻なんて、多少傲慢じゃなきゃ務まらない。
……ちょっと手、出してみろ」
「手?」
「ああ」
「何か気になることでもあって? はい、どうぞ」

 私は待ってましたとばかりに、左手を差し出した。装飾具のない素の左手だ。まさか、手の甲にキスでもしてくれるのかしら? なんて0パーセントの可能性を思いながら、少しでも綺麗に見えるように、指をぴんっ、とのばして見せた。ところが彼は眉をしかめた。

「そっちじゃねえ、右手だよ」
……
「右手」
 私はうんざりしてしまった。今日の私は、コートの下に袖の長いセーターを着ている。袖口が釣り鐘みたいに広くなっているベルスリーブで、手の甲までしっかりと隠れるものだ。袖が結構じゃまになるので着る回数は少ないが、今夜はうってつけだったので引っ張り出してきた。私は何気なく隠していた右手をゆっくりと差し出した。ぺろ、と袖をめくられると、手の甲に巻いた、白い包帯がさらされた。この擦れっ枯らしオヤジめ。

……やっぱな。わざとらしく左手ばっか使いやがって。カムフラージュだと思ったよ。オレが指輪なんかに気を取られるとでも思ったかバカめ!」
「別に、隠してた訳じゃないわ」
「うそつけ。オレから見りゃバレバレだっつの。どーせ慣れねー菓子作りでもして、火傷でもしたんじゃねーの?」
「さすがね。自称名探偵さん」
「自称じゃねーよっ」 

 ちゃんと新聞読んでんのか! と彼は怒鳴る。本当にうんざり。うんざりするけど、感心してしまう。私の右手の甲は、バランスを崩したオーブンの鉄板を受け止めてしまったのでした。こうしてバカにされるのがイヤで隠していただけで、深い意味はない。右手に注意がいかないように、左手の指輪をはずして目立たせていただけ。私もこのオヤジに負けないくらい擦れっ枯らしだ。小五郎は包帯をしげしげと眺め、心配そうに眉を歪めながら「成果品はねーのかよ?」なんて口では聞いてくる。ちょっと。私って意外と、愛されてるのかもしれない。 

「安心してよくてよ。あなたの元には行かないから」
 私が笑って言うと、小五郎の眉がぴくりと反応した。
「なんだって?」
「『オバサンの不味い手作りチョコ』なんて、あなたが喜ばないことくらい知ってますからね。これでもちゃーんと学習してるのよ」
……あーそう」

 短く答える彼の眉、ピクピクがとまらない。このヒゲオヤジがなにを考えてるのか、私にはありありと分かる。私の手作りなんて口ではイヤがっているくせに、自分の手に渡らないと知って、拗ねているのだ。なんて子どもっぽいの……! だってあなた、さっきの自分の発言、忘れたワケじゃないでしょう。
「私何か、気に障るようなこと言ったかしら」
「全っ然、怒ってねーよ。……勝手にしろ」
 チーン。そんな間抜けな音を立てて話は終了。エレベーターのドアが開いた。



 不機嫌、話しかけるな。とバッチリ顔に書いてある。さっきまでそれなりに上機嫌でお肉を頬張っていたくせに、いくつになっても子どもみたいな拗ね方をするひとだ。4人でいつものように帰路についているが、蘭は私たちの妙な雰囲気に気を使ってか、少し距離を置いている。

 残念ながら、今夜の"予感"は肩すかしで終わる模様です。このまま路上で解散、という流れになるでしょう。頭の中のお天気お姉さんが私に予報結果を語りかける。やめてよ。別に残念なんて思ってないし……。だたちょっと、イライラするだけで……

「あなたの話って、さっきの火傷の件だけだった?」
「あン?」
「ほかに話しておくことはない?」
「別にねーよ。まぬけな隠しごとされっと気になっちまうだけ。探偵の性」
「あ。そう」
 誤解を解いておくべきかと思ったけど、やめやめ。別に勝手に勘違いしただけで、解く義理なんて私にはないのだ。媚びを売るみたいで、しゃくに障るし。言い訳じみた弁解と捉えられるのも、面倒だし。
 華やかな赤色。銀座の街で揺れる、ジゴバの紙袋が、なんだか可哀想。

──小五郎さぁん!」
 唐突に、低めの女性の声がした。声に呼ばれると、車道を挟んだ向こう側に、きらびやかなドレスを身にまとったお姉さんが手をふっていた。
「ちょっと寄ってかない? 手作りのチョコレート、あるよ~!」
「おお! 行く行くぅ!」

 小五郎は不機嫌な表情など何処かへ消し去って、ふらふらと車道へ足を踏み出した。このまま私たちを置いて、迷わず行くつもりらしい。はいはい。いつもの、お決まりのバッドエンドってわけね。本当にあきれる。……私は大バカだ。今夜は特別に身体を許してあげようなんて、思ってしまった自分の甘さに反吐がでる。サヨナラしよう。永遠に。頬に平手打ちでもお見舞いしよう。そう思って見ると、そのにやけ顔が車のヘッドライトで照らされていた。
「あぶないわよ!」

 腕をぐいっとつかんで引き寄せた。車高の低いスポーツカーが目前を颯爽と横切った。
「子どもみたいに飛び出さない!」
「あ、アハハ……
 小五郎は私が居たことを今思い出したような顔をしていた。お姉さんは連れの私に気づいたようで、お行儀よくお辞儀をしてくれた。お店のビルに消えていく後ろ姿をみながら「あーあ、行っちまった……」としょげている情けないオジサンの背中に、ふつふつと怒りがわいた。
「私、お邪魔だったみたいね」
……フン」
「後はお好きにどうぞ。私は帰るから」
「お母さん!」
 蘭が見かねてフォローに入った。けなげに父親を庇おうとしているが、どう見たってこの男に、弁護の余地なんてないでしょ? 

 さらに加勢するかのように、私の携帯電話が震えた。
「もしもし」
 電話は栗山さんからだった。私の頼りになる優秀な秘書。彼女は猫好きで、今夜、飼い猫のゴロちゃんを預かりたいと自ら申し出てくれて、食事会のあいだ彼女のお宅にお邪魔しているのだ。
「ええそう。もうすぐ帰るところ。……そんなに寂しがってるの? すぐに行くわ」
 ところがゴロちゃんは慣れないお宅で、落ち着かない様子らしい。電話の向こうで私を呼ぶ鳴き声が聞こえた。幼い我が子を想うような、あまーい声で私は答えて、高揚した微笑みを浮かべながら電話を切った。すると。さっきとは打って変わって、唖然とした顔の小五郎が、口をぱくぱくさせている。
「何?」
……電話。相手、だれ……?」
「あなたに言う必要ある?」
「なっ……
 言葉を失った様子で、目を白黒させている。何? また何か妙な誤解をしてる? ……もう勝手にやって。繰り返すけど、私に誤解を解く義理はない。

「最後に良いこと教えてあげましょうか。手作りのチョコレートなら、ちゃんとあります」
「エッ?」
「さよなら」
 捨て台詞を吐いて、黒いロングコートを翻した。信じられない、という顔が、流れる視界にスローモーションで写る。まったくいい気味。少しは反省しなさい。カッコつけるように、ヒールの踵を響かせた。



 栗山さんの自宅への道のりは、駅から徒歩5分。私は何度か赴いたことがあるので、夜道を迷わず直進していた。駅周辺にお店が固まっていて、大通りから一本入れば街灯だけが点々と灯る住宅街だ。飲み屋があるような道じゃない。ましてや、こんなエロオヤジが好むような店は。

……どうして付いてくるのよ」
「コッチにたまたま用があるんだよ」
「何よ、用って」
「飲みに行くんだよ!」
「このあたり、閑静な住宅街よ?」
……

 栗山さんとの電話を切って、彼らと別れた後。栗山さんの自宅の最寄り駅で、コートの襟を立てた、あやしげな私立探偵とバッタリ出会った。私はもちろんすぐに気づいて、ツーンと顔を背け、無視して歩き出した。それから5分間ずっとこうして、付きまといの被害に遭っている。

「お前こそ、閑静な住宅街に何の用なワケ? いつの間にか引っ越したのか? んな話は聞いてねーけど?」
「誰も引っ越してないわ」
 私も、栗山さんもね。慣れたようにマンションの敷地内に入り、オートロックの操作盤に手をかけた。おもむろに、ガッと腕を掴まれた。
「おい」
「何?」
「お前は、そんな女じゃねーだろ……
「何を言っているの?」
 本当にこの人は、何を言っているのだろう。

 私はあきれて、よどみなく3桁の部屋番号を押す。ピ、ピ、ピ、呼出ボタンに指がかかるとき、探るように顔をのぞき込まれた。まるで、犯人に事情聴取をする刑事の顔だ。

「年齢は」
「27歳」

 小五郎は、お腹に正拳突きでも食らったみたいに、へなへなとしゃがみ込んだ。
……十も歳下じゃねーかよ」
「それが何か?」
 完全に誤解している。私は、嘘をついていない。面白がったりもしていない。
……いつからだ」
「出会ったのは、4年ほど前かしらね」
「4年!? いったいどこで知り合った!」
「募集したのよ」
「募集!? まさか出会い系か!」

 ……バッカじゃないの。
 私は依頼人と証人尋問の練習をするとき、いつも言う。毅然と法廷に立ち、問われた質問にだけ、簡潔に答えてください。だから、いまそれを実行した。座り込んだ元刑事さんは「4年……」と呟き、自分の頭をくしゃっと崩して奥歯を噛んでいた。ダメよそんな顔しても。あなたが普段デレッデレしてる女の子たちは、もっと若いわ。少しは私の悔しさ、思い知りなさい。
……好きなのか?」
「ええ、大好きよ。あなたなんかより、ずうっと頼りになる」
 足元から、駄々をこねるような、珍しい彼の声がした。
「英理っ!」
 うるさい。バカ。知らない。

──悪かったよッ!」

『はぁーい! 今開けまーす!』
 栗山さんの明るい声が響いた。泣き声みたいな沈痛な謝罪のすぐあとで。



──だからね一応、作ったのよ。この右手のせいで形が不格好になっちゃって……、渡せないから、しかたなく自分で食べようと思ってたの。それだけのこと」
……

 私の膝の上にはゴロちゃんのケージ。タクシーの後部座席で小五郎は窓を開け、空気を顔中に浴びている。2月の外気は、彼の頭をキンキンに冷やすだろう。
「なんで怒るのよ。大のオトナがみっともない」
……
「それとも拗ねてるの?」
……ハァァァァ」

 空に浮かぶ満月よりも重たいため息。先ほどの沈痛な声とあの表情……。久しぶりの大収穫で、さすがに私の怒りもすっかり静まっていた。老獪な中年オヤジのあんな表情、今となってはなかなか見られるものじゃない。
「食べきれないのよ。だからあなたが食べてくれない? 車にひかれる寸前に、命を助けた恩返し」
「んな大げさなモンじゃ……
「食、べ、な、さ、い」
「えェ~……

 小五郎は窓枠に腕をかけ、外を見たままだ。怒ってるんだか、拗ねてるんだか。嫌がられてるんだか、喜んでるんだか。全部かな。これじゃまるで、私が強引に誘っているみたいだけど、まあいいか。今日は愛を誓い合う、バレンタインデーだしね……
「観念したら」
「わーったよ! 処理してやるよ!」
「爆弾みたいに言わないでくれる?」
「こっちは爆死の覚悟だよ……命がけだよ……けどたまには……、甘い夜を過ごしてみるのも、悪くねーかな……

 甘い夜。その言葉に、私の頬はポッと染まる。風で、ちょろっとした彼の前髪が揺れている。あなたの顔も赤いようだけど、それは寒暖差による毛細血管の拡張ね? そういうことに、しといてあげる。

***


 たとえばバーカウンター。丸い氷を鳴らしていると、イイ女がふらりと寄ってくる。できれば、少し年下がいい。色気と可愛げの共存しているタイプならベスト。なじみのマスターに、同じものを。とオレは目で言う。彼女とオレは、少ない言葉で会話をする。彼女は、人に言えない悩みを抱えているらしい。絡まった糸を解くように、彼女の心にふれる。煙草と酒と女があれば、人生はバラ色だ。

「あ、あはははは」
「そこで笑うか……?」
「あなたって生きた化石なの?」
「ほっとけ!」
 ここはバーカウンターではない。LEDの煌々とした電気が灯るリビング。となりにいるのは見飽きるほど長いつきあいの女房。膝の上にはねずみ色の毛をした猫が、すやすやと眠っている。

「何年代の探偵ドラマに影響されてるのよ。あなたの手口って古風すぎる!」
「はいはい。どーせ……
 イジケて言いながら、コーヒーカップを口に運ぶ。けどなかなか、口の中のヒリヒリが和らいでくれない。
「ちょっと甘いモンが食いてー気分だなぁ」
「さっき食べたでしょ? ……吐き出したけど」
「そりゃあ、お前……

 テーブルのうえに置かれた不格好なチョコレートを見下ろす。この味。思い出すだけでまた、口の中がヒリヒリしてくるようだ。英理お手製のチョコレート菓子は、甘さのいっさいない、耐え難いほど檄辛い、隠し味とは言えないほど大量の唐辛子が入っていたと思われる。想像を絶する味に盛大に吐き出して「やっぱりあの子に貰えば良かったわね!」と英理をすこぶる怒らせた。

「じゃ、アッチのは?」
 甘いモン話の流れでオレは自然と聞いてみた。この部屋に入ったときから気になっていたのだ。部屋の隅に置かれたジゴバの紙袋のことが。全部で5つもある。「アッチ?」と英理は振り返り、ああ……、と語り出した。
「だめよ。あれは今日、配れなかった分だから」
「ハイハイ。お義理のチョコね。ご苦労なこって」
「人間関係が円滑になるただの慣習。お歳暮と同じ」

 焼肉屋でオレとコナンに渡したものとまったく同じものだ。時々買って英理に贈っているからわかる。義理チョコにしては、ちょいと値が張る。
「お歳暮、ねぇ……。この言葉、純情な昔のオレに聞かせてやりてーよ」

 ──オレ以外のヤローにぜってーやるなよ!
 ……それって、お父さんにも?
 高校生の英理が困ったように首を傾げてから、早20年。ガキくさい怒りをむき出しにした若きあのころが遠い昔のようだ。そう。遠い昔……のはずなのだが。まったく男ってのは、いくつになっても嫉妬で動く、哀れな生き物だ。

「一体何個バラ撒いたんだか」
「豆まきじゃないんだから……。そんなにたくさんじゃないわよ。お得意さまとかね」
「他には」 
 今夜のオレはおかしい。歳下男との一件で、心に、何かの火がついたみたいだ。英理は、性格はキツいがこのとおり無駄に美人だし、バレンタインデーの高級義理チョコに浮かれ、都合よく勘違いするヤローがいてもおかしくない。というかいる。絶対いる。オレは被害者をたくさん見てきたので、高校時代のあの発言に至ったわけなのだ。

「他って……。そうねぇ」
「隠しても為になんねーぞ。すぐ裏がとれる」
 英理の口から誰の名前を聞いても、今夜のオレは納得できない気がした。若い弁護士仲間? お世話になってる獣医ヤロー? それとも、傷心の依頼人?
「あなた今夜、刑事の気分なの? なんだか、取り調べをされているみたいね」
 英理は困ったように、けれども、ちょっと照れくさそうに笑っている。……。それならもっとしつこく、調べてみましょーかねぇ……。なんて企みながら、そろりと英理に手をのばしていった。

「ダーメ。まだ話の途中」
……ケチ」
 この部屋の主様はガードが堅い。普段堅いのはとても結構。だが、夫に対しても徹底しているのはおかしい。それとも、オレは他人か?
 口を尖らせて拗ねつつ、実はさっきから、何度もアタックを試みているのだが、服の裾へ伸ばそうとした手を振り払われている。
「そんな古くさい手口、いまの若い子には通用しないんじゃなくて?」
……さぁな」
「ね、ほかにはどんな常套手段があるのよ」
……そう手の内をホイホイ晒せるか」
「へ~え。成功例は簡単に明かさないのね。結構結構」

 チョコを吐き出したことで機嫌を損ねたのか。それとも、これはイジメの続きだろうか。手の甲は赤くなり、口の中もヒリついたままだ。女房なんかに嫉妬する、みっともない姿までをさらして今夜はさんざん。形勢逆転を謀りたいのだが、甘い夜が近づく気配もない。

「ねえ。どちらがエロティック? 依頼人と飲みに行くのと、飲みに行った先で口説いた相手が依頼人になるのとでは」
 エ、エロ? 英理は感慨深げに目を伏せて言い、オレをギョっとさせる。先生。まるで経験があるみたいな言い方に聞こえますけど、依頼人とそういう空気になること、あるんですか……。涼しい顔して仕事しながら、普段、そんなイヤらしいこと考えてるんじゃ……? 

 顔がひきつる。これは英理の思う壷だろうか。オレの顔を見る英理は、どこか楽しげで、こんなこと、想像させられた時点でコッチは負けている。圧倒的に楽しくない。もー負けてやるから、コレ、早くやめない?
「経験あるでしょ?」
「あのな。エロティックってのはなぁ、こうさ……。痛えっ!」
「エロオヤジさん。気安く触らないで」
「本気でつねるなよ……
 手の甲が真っ赤になっている。いい加減にしねーと、本気で拗ねるぞ。襲うぞ。
 オレはムスっとそっぽを向いた。
「で? 美人のお悩みを聞いて、それからどうするの」

 妖しい微笑みで、英理はイジメを続行する。旦那の口説き文句なんて聞いて、楽しいはずがないだろう。ちくちょう。オレは、ボリボリと頭をかきむしる。なんか無性にムラムラする。だいたい、惚れた女とふたりきりになって、抱かねえ男がどこにいる? スカートに隠れた膝頭に指先が触れようものなら「おかわり、もっと欲しいの?」とか、ふざけてる。正直言って、とっととベッドに行きたい。こんなところでチンタラ会話してる時間が惜しい。なーんて言ったら、ハイ、また、怒るんでしょーね!

「ハァ……。お前はどーなの」
「私? 私はイヤだわ。飲みに行った先で離婚相談なんて受けようものなら、興ざめだもの。その点、探偵はいいわね」
……だな」
 相づちは二文字。お察しのとおり、オレはもう面倒臭くなってきた。爪で引っかかれても良いから、さっさと服を脱がしちまうか。よし。本気で牙城を崩すため、身体と顔を近づけていった。
「ちょっと! 鼻息荒いわよ」
「なあ……、もう」
「やだわ、あなた。獣臭い」
 手で顔をぐいぐい押されるが、無視だ、無視。
「気持ちよくしてやっからよ」
「別に、私は……、もう! エッチ」
「忘れたのかよ。エッチだよ、オレは」
 首筋からほのかに香ってくる甘いにおい。「ダメよ……」と捻られた首筋のなんと色っぽいことか。
「ムードの欠片もない!」
「ムードがなんだ! ヤリてえんだ、オレは」

 しまった。つい気が急いで、身も蓋もない言い方を。英理は軽蔑するように目を細めている。
「最っ低」
「なあ、もう限界。甘いモンが食いてーんだよ」
「だから食べたじゃない。……吐き出したけど」
「いや。オレが食べたいのは……

 耳元で、こっ恥ずかしいことをささやく。すると「スケベ……」と呟き、伸びていた背筋が少しずつ乱れて、ソファの背もたれに崩れた。ほんのりと赤らんでいる首にたまらず、ちゅうと吸いつく。かすかな吐息。膝の上にいる猫を起こすまいと英理は動きを最小限にとどめている。「ホラ、甘い」とオレは感想を口にする。

「もう……。いけないこと、しようとして」
「いけないこと?……夫婦だろ?」
「別居中のね」
「何の問題が?」
「問題だらけよ」
 いやいや、問題なんてない。抱きたいか、抱きたくないか。抱かれたいか、抱かれたくないか。あるのはそのニ択だけだ。英理はなぜか抵抗があるらしいが、くだらない。好きな相手と身体を重ねたいと思うことは、そんなにいけないことかね? 

「私は、亭主に口説かれない哀れな女」
「これでも口説いてるっつーの……。もーどーでもいいから、触りてーんだけどよ」
 同情を誘うような本音がもれる。英理は避けるように捻らせていた首を戻してオレを見た。ちょっと潤んだ瞳。思い過ごしでなければ、私だって……と言っているかのようだ。

 うわァ、この顔、やばくねえか……。待て待て。幼なじみだぞ? おまけに女房だぞ? それのたった表情一つで突き動かされるなんて、オレってかなり変かもしれない。酒の抜けたオレのしらふ顔が、かぁっと染まる。しゃーない、血液の流れには逆らえまい……。もういい、勝手に触る。部屋に上げてくれたんだから、今夜はオッケーということだ。気の変わらないうちに耳の後ろに唇を付け、リップ音を聞かせるように緩く吸った。

「だ、だいたいね。だらしがないと思うのよ。こういうのは」
 清廉な弁護士先生の髪は少しほつれ、しどけなく乱れている。呼吸も浅く熱く、吐息まであまく感じた。いよいよ堪らない。かつて人生を掛けてまで、欲しいと思った女。一緒にいて、楽しいことばかりではなかったが、結局、コイツでないとダメなんだ。20年前と変わらないこの熱量、お前は笑うか?

「なぁ、英理。なぁ……
……お肉なんて食べるからよ」
「関係ねーよォ……
 ちゅ、ちゅ、と耳から顔へかけて、髭を筆みたいにして肌の上を滑らせていく。体臭とは思えないほどあまい匂いがする。オレの閉じた瞼、英理の震える瞼。本気の抵抗なんてしてこない。数え切れないほど身体を重ねてきたのだ。目を瞑っててもわかる。どうしようもなく、求め合っていることくらい。

 髭だけを英理の唇に触れさせ、待ってみることにした。承諾のキスを。英理は落ちてこない唇を待ち望んでいるかのように、ぷるぷる震えている。
 ホラホラ、がんばれ。もうちょい。

 まるで我が子が歩き出すのを応援するような気持ちで、固い殻が割れるのを待つ。もう二人っきりなんだから、意地を張らなくてもいいだろう。オレを見習って、素直になればいい。こうやって唇をつきだせばいいんだよ。ホラホラ。耳を指でなぞり、さらに欲情をさそう。

 英理はいたく悔しそうに、観念して唇をわずかに開いた。ゆっくりと近づいてきて、上唇の先と先がわずかに触れた、だろうと思われた、そのときだった。

「ニャア?」
 膝の上の猫が脚で顔を洗った。気づいたときには、オレは、おもいっきり英理に突き飛ばされていた。
「お、起こしちゃった? ごめんね」
「いってーな! いきなりど突くな!」 
「あなた」
「なんだよ」

 フローリングに強く尻を打った。情けねえ格好で恨めしく英理を見上げる。ちょっとお前、ソイツに比べて、オレの扱いがヒドすぎる。今夜だってあんな……、あんな甘い声。ここ数年オレは掛けてもらったこともない。寂しがってるのはコッチだってのに!

 オレは歳下男どころか猫にまで嫉妬し始めて、すごい顔をしていたのだと思う。英理は苦笑いを浮かべ、その目はすっかり冷静さを取り戻したようだった。けどまさか、こんなことを言われるとは思いもよらなかった。
「もう帰ったら」
……はぁっ?」

 無様に床から、唖然と英理を見上げる。今なんとおっしゃいましたか? ここで帰れと?
「なんか目が怖いし。それに。蘭たちも心配するでしょう」
 心配って……。あいつらとはさっき別れたばかりだ。オレは「飲みに行ってくる!」と怒りにまかせて宣言した。本当は英理を追いかける口実だったのだが、あいつらは、オレが飲み歩いて朝まで帰らないと思っているだろう。何も知らない娘の話を持ち出したことで、オレの何かはぷっつん切れた。

……もー我慢ならんっ!」
 床から素早く立ち上がり、英理をかかえ持ち上げた。
「えっ、ちょ、やだ、おろしなさいよ!」
「うるせーバーカ! 誰が帰るか。だいたい、お前だってキスしたろ!」
「し、してないわ。触ってない」
「イーヤ! 触ったね。ホレ、口紅付いてっぞ」
「ちが……、お酒。お酒のせいよ」
「飲んでねーだろ。一、滴、も!」

 寝室のベッドの上に、ボスっと落とした。獲物を見下ろし、食事前にガルガルとうなり声をあげたい気分だった。今夜はここまで、本当にここまで、煽られ焦らされ妬かされ、本当に長い道のりだった。マンガみたいに一瞬で服を脱ぎ捨て、裸で飛びかかった。
「きゃあ!」
 あれよあれよと、上半身からセーターと肌着を脱がせていった。押し倒されながら、おろおろと、紅い頬でうろたえる表情は昔とちっとも変わらない。ピンク色の可憐なブラジャーも。ただ……、隠されている熟れた乳房に、とてつもない色香を感じてしまい、鼻から煙が噴出した。

「ちょっとオジサン……。目が血走ってるわよ……
「テメーが焦らしまくるからな!」
「お願いだから、乱暴にしないで」
 困った様子で言われてしまい、その目は戸惑っていた。オレは首を何度か振り、落ち着かせるように深呼吸して、分泌された大量のつばを飲み込んだ。目前には下着姿を隠そうとしているベッドの上の女房。何度見ても、いつもの知的な佇まいからは、とても想像もできないなまめかしさだ。言われたとおり冷静に、ゆっくりと手を伸ばし、上から両手で包み込んだ。

……なんか、でかくなった」
「もう、バカね!」
 重力のせいかもしれないが。質感に重量が増している気がした。もみ、もみもみもみ、と揉みしだいていくと、ぷるんぷるんに揺れる。この歳でありえないだろ、この弾力。
「こんなの見せびらかされちゃ、たまんねーな」
……勝手に見たんでしょ」

 ほかの男もたまんねーだろうな。とチラと思ったが、ふと浮かんだ自分の考えにすらムカついた。英理は枕に背を付け、あさっての方向を見ている。さすがに観念したようだ。五指の力を強めると、ムチっとした頂点の突起がのぞく。下着よりもわずかに濃いピンク色。誘われるまま舌を伸ばしてしゃぶると、舌の上で溶けてしまいそうだった。
……あぁ」

 英理は顔を赤くして、顔を背ける。舌で転がすとすぐに固さを帯びる、いやらしいオッパイチョコレート。優しく吸い、舌のザラつきで粘っこく舐め回すと特に悦ぶのだ。甘い口どけを溶かすようにしつこくしつこく味わっていると、英理は可愛い嬌声をあげて眉根を寄せた。ただただ可愛いと思って愛でてきた表情だが、最近はこの火照った美貌に、かなり妖しさが混じるようになってきた。
「ぁぁ、ん…………ぁん」
……はぁ、旨い」
 口元の唾液をぬぐうと、ピンピンに屹立したそこは光っていた。濡れた乳首を勃てているこの姿、法廷でみる凛とした横顔を思い浮かべると、かなり、クるものがある。

「こっちもな」
 反対側の突起も同じように口に含んだ。空いた方の乳首は指先で摘んで優しく擦った。唾液で濡れてよく滑った。英理は弱い責めにますます喘いで、物欲しげに内股をこすり合わせはじめる。ずいぶんと反応が早い。普段、このスケベな肉体をどうやって持て余しているのか、オレは本気で、本気で気になる。
「腰がクネってるぞ。欲求不満なんじゃねぇのぉ?」
「や、だれが……
「じゃ確かめる」
「あなた……
 うるせえ。と言う代わりに歯を立てると「はぁっ……!」と顎が天井を向く。よっ。おかえり主導権。最高に気分がよい。

 下肢に手を伸ばしていった。スカートを引き抜くと、濃い小豆色のパンティストッキングの景色が目の前に広がり釘付けになる。触っていないのにじっとりと、汗ばんでいるのが伝わる。なんだここは。フェロモンの分泌工場か? 顔を埋めて、いっぺんむせ死んでみたいものだ。
 両膝頭を持ち、股を裂く。ショーツの一部分が濃くなっているのが、ストッキングの上からでもわかった。

「なんだぁ? イヤイヤ言ってる割りに、コレは」
……みないで。バカ」
「なにが、だらしないって?」
「もうっ、最っ低なオヤジね!」
「オヤジだよ」
「エロオヤジ!」
 ウエストのストッキングに手をかける。ショーツも一緒につかんで、ゆっくりと、めくり下ろしていく。雪景色のような、眩しいくらいに白いふとももがお目見えした。ホント、久しぶりに見たよ……。ふともも。オレのふともも……。そう思ったら唇を落とさずにはいられない。

 下着を足先から抜き、もう一度膝を持ってぱっくりと開くと、柔らかい毛に覆われた肉厚の性器が、怯えたようにヒクついていた。
「本当にイヤか?」
……
 顔を真っ赤にして英理は黙る。あーあー素直じゃないねぇ。卑猥な三角地帯にしゃぶりつきたくなって、たまらず顔を埋めた。ふわふわの毛は、肌に触れると心地がいい。気持ちよくしてやる、と宣言したとおり、丹念にねぶるつもりだ。舌を使って唾液をこすりつけ、丁寧になぞると、すでにソコは熱く濡れていた。
「ビッショビショじゃねーか」
「ふ、……ぁんっ……ウソ……

 耐えられないのか、赤面して目をギュッと瞑っている。濡れやすい体質なのを利用して、羞恥心を煽ってやると驚くほど濡れてくるのだ。しわの部分も皮の部分も、舌の力を抜いて、丹念に舐めた。「はぁ、旨い」と音を立てて言うと、ますます濡れは激しくなる。
「いやらしい……!」
 褒め言葉をいただけたので、オレはますます張り切る。剥くように舌を使い、クリトリスをちゅーっと吸い上げると、英理は激しく身体をうち振るわせてみせた。
「はぁぁっ……、ぁぁ! ああっ」

 特に敏感な弱点だ。イヤイヤ、と首を振るが、大好きなのを知っているので、何度も何度も愛おしんで吸う。舌をぐるぐる回転させるようにして舐め、焦らしたところを一気に吸う。中から白濁した愛液がトローっとこぼれ、舌をねじ込んで、一滴も残さぬよう頂いた。転させてぷりぷりなソコはすぐに大きくなって、固く充血して熱を帯びた。

「お前の、こんな、はちきれそう……
「だって、あぁっ……、それ、あ、あ、っ」
「はぁ、もう、好きだ~……
 柔らかい毛に顔を埋めてつぶやいた。好きな女の……英理の性器を舐めるなんて、頭がどうにかなりそうだ。何百回としているのに、オレってやっぱり変だよ。

「やっ、舌、入れないで、」
 さらに深く舌をねじ込んで、敏感な肉を食べるように抉った。口とディープキスするときみたいに、丹念に味わい、唾液を流し込む。抜き差しするように動かすと、愛液と混じった音が激しく響き、より熱く、濃厚な味が染み出てきた。すすり飲むような音を立ててやると、英理は恥辱に唇を噛んだ。
「そんなに、好きなの……
「バーカ。好きに決まってる」
「この、ヘンタイオヤジっ……
 英理の両手は、丹念にセットしたオレの髪を思い切り潰した。単なる好意ではなく、行為に対する執着と勘違いしたようだった。

 ……バッカだなぁ。お前だから舐めたいんだよ。しゃぶりたいし、狂わせて、感じさせたい。ただそれを伝えるのは困難を極めそう。
 ピースの形にした手を英理に向けてみせた。にやっと笑う。
「な、なに?」
 そしてそのまま、二本の指を埋めていった。クリトリスに濃厚に吸いつくのも、もちろんやめない。膣壁をくすぐるように愛撫すると、英理の身体が仰け反った。
「はぅんっ……!」
 暴れる下腹部を左手で押さえた。上半身を悩ましくよじらせて喘いでいる。快感を知り尽くしている熟れたこの身体は、全部、オレが育ててきた。この感情。あまりの甘美さに、頭がとろけるように震えるじゃないか。一朝一夕では成し得ない、奇跡のような、最高にいい眺めだ。英理の反応を見ながら様々なバリエーションの責めを繰り返す。やがて指への吸着が強くなり、もうすこしか……という頃合いを見計らって、オレは聞いてみた。

「なぁ、欲しいだろ、コレ」
 隆起したペニスをぶるぶる揺らした。こっちも可哀想なくらい、はちきれそう。
「言わせたい、の?」
「え。ちょっと、言われてみてーかも……ハハハ」
 挿れてぇ……、突き刺してぇ……、めちゃくちゃにしてぇ……、とか? そりゃー、お堅い弁護士先生のエッチなおねだり、聞けるモンなら是非聞いてみたい。想像して、つい顔がヘラっとしてしまう。

「絶対イ、ヤ!」
 ……だろーな。英理は男のロマンなんざ、分かっちゃくれない。ついでに言えば、もっと色々やりたいことだってある。本当の変態ぶりを発揮して、淫らなプレイでもしてやろうか?
「期待してねーよ……
 オレは嘘をつき、諦めよく身体を起こし、英理の片足をあげて肩に乗せた。さらなる官能のステージを上げるには、いろんな意味で距離が遠すぎる。毎回、渇望が高まりすぎて、性を楽しむ余裕が持てないのは、非常に重大な問題であるとオレは考える。最近はいつだってそうだ。愛する女を抱くのが、どうしてこんなに難しい。お互い限界な性器同士を擦らせる。くちゅくちゅ、と潤滑の音が鳴る。

「いくぞ」
「あ、待って。あ、あ……、あぁ」
 入り口をめくり上げながら侵入し、一気に奥までいきたい衝動をこらえる。狭くてきつく、男の存在を忘れているかのようだ。コイツ、膣筋を鍛えるような、特殊なトレーニングでもしているんじゃないだろうな。襞をかきわけてるように小刻みに突くと、そのたびに英理の口からは音が漏れた。顔をしかめ、少しムキになりながら、体重をかけて打ち込んでいった。
「うぅ……、大き……、あぁぁ……
「ふぅ、あっつ……

 根本まで挿れて、顔を汗が伝う。汗を散らすように首を振ると、崩れた前髪がハラハラと舞った。中は溶かされそうなほど、甘美に熱くなっていた。英理の顔も汗でにじんで火照っている。
「色っぺえ顔だな」
「あなたこそ……
「ほー?」

 惚けた様子で、珍しいことを言うもんだ。まぁこんな、一つになったときくらい、熱に侵されウットリしてもらわなきゃ困るぜ、奥さん。
「あっ、んぅうっ」
「んな絡みつきまくって……、もー、どーにかなっちまいそう」
「あ、あなたのせいよ。あなたにされると、身体が……
「身体が?」
「あぁ、いやらしく、なっちゃ……、あぁぁ、はぁっ!」

 言い終わるまで待てずに、ぐぽぐぽと激しく抜き差しをした。快楽に困惑してるような顔をしてるくせに、こんなに身体は悦んじゃって……。ねえ、本気でどうしてんの? 普段、オレが居なくて耐えられてんの? 片手で脚、もう片手で腰を固定してゆらゆら揺らすと、英理は言葉を失って、あられもなく身悶えた。 
「っ……ッ!

 オレはますますムキになっていた。まさか、ほかにご奉仕してくれる男でもいます? ねえ、先生。この肉欲の穴を、いったいどうやって埋めてるんです? また有りもしない可能性に囚われて、腰ががむしゃらに動いて止まらない。

 ……男はバカだね。膣が燃えるように熱くて、英理は声も上げられないらしい。というか声もなくイっている。中がめちゃくちゃに、うごめいているからわかる。この感じ……。あぁ~、無理無理無理無理。

「う……
 小さなうめき声とともに、先から精液が漏れ出てしまった。膣がキュッキュッと締まってシゴかれてるみたいで、とても堪えられるものではない。
「っ……はァ……ハァ……。やべ、でちまった」
「ああ……、ぁ……、バカ……」 
 女らしい細肩がぴくぴくと震えてる。感じまくってるくせにツンツンしちゃって。こんなちびっと出したくらいでは収まらず、抜かないままGスポットを抉るように擦ってやった。

「ウソ、ウソウソ、……ぁぁぁんッ!」
 英理は盛大にのけぞり、プシュッと潮を噴いた。ペニスにぬるい水分の感触がしたが、かまわず擦り続ける。抜くたびに大量の潮が噴き出して止まらない。
「すげ……。いま抉ってんの、わかるか?」
「ダメ、ダメ、ダメぇっ」
「悪い。こりゃー、ホテルですりゃよかったな」
「んぁぁぁっ、でちゃう、あっ、やぁぁ!」

 ぴゅ、ぴゅ、とヘソへ飛びまくり、陰毛を濡らし、玉袋までびしょぬれになった。ひと突きするたびにグチョグチョと水の音が激しく、つるつるで滑って抜けてしまいそうなので、奥にぐっと差し込んだ。先っぽに当たるのは、コリコリした最奥。ココを重点的に擦りあげると、照れも恥じらいも消し去ってしまうだろう。

「んぁぁっ、イッ……、んーーーッ!」
 英理はシーツを千切りそうなほど強く握って、歯を食いしばっている。もっと英理の一番奥に居たいのに、締め出されるくらい強烈な収縮に、オレの顔も苦痛でゆがむ。
「くッ……、」
 素晴らしい快感が、背筋から脳天を駆け昇りたがって止まらない。追い出されてたまるかと、体重のすべてを使って中に留まろうとする。ちゅうちゅう吸われてるみたいに吸着されている。上の口と違って、下の口は素直で積極的すぎる。

「ハァっ……、ダメだ。また出ちまう」
「い……、いや!」
 熱い息をはいて、ペニスの先がむくっと膨らんだとき、英理は掴まれていない方の足を腰に巻き付けてきた。ものすごい力だった。
「やめないで、やめないでっ」 
……イイのか?」
「いいのっ……、もっとっ……!」

 あの英理が、泣き叫ぶように懇願している。ようやく理性が飛んだらしい。やめろといわれても、止められない。けど安心しろ。いくら出しても、今夜は収まりそうにない。
「くっ、中が、めちゃめちゃ……、しゃぶられてるみてーだ」
「ああ……、好きよ……好きっ、大好き」
「この……! ちくしょう! 好きだよ!」

 英理は震える腕を伸ばしてきた。一緒に逝きたい、と訴える姿に、魂がふるえた。全身を密着させ、打ち込みに専念する。同時に子宮口が裏スジにまで吸いついてきて、こっちの理性もぶっ飛んだ。
「あぁぁ、英理……!」

 

 

 

***


「ちょ、……むり、むりむり、もう、むりだってばぁっ……、このケダモノっ……、いい加減にッ……

 ぶんっ、と思いっきりこぶしを振り下ろした。当たったのはいくら押しのけても離れない固い筋肉、ではなく。ぼふっ、という柔らかい感触。
…………あら?」
 まっしろな羽毛布団だった。

 夢? 
 あのしつこ~いスケベなオヤジは、どこ?

 いまのは多分、うわごとだったと思うけど、絶対に幻じゃない。だってあんな、スケベでリアルな夢、私が見るわけないし……

 顔を上げると、遮光カーテンの隙間から、光が漏れ出ていた。──なんだ朝か、起きたくないなぁ、と甘えて思い、私はベッドサイドの時計をみる。……起きなくては。でも、身体が動かない。身体の奥に石があるみたいに重くて、子宮の入り口あたりにじんじんとする不快感まである。まったく。だから言ったのに。あんまり、奥をいじめないで……って。

 もう。ずるいわ、あんなの。
 けど、最高だったなぁー……
 私は惚けたような、矛盾の熱いため息を吐いて、もぞもぞと羽布団にもぐる。昨夜のすばらしい愛の営み、彼の指を思い出すように。自分の肌を、肩、胸、ウエスト、そして脚を撫でてみた。

 一糸も纏っていないけれど、肌がしっとりしているようだった。指が触れた胸の頂が、ちょっと痒い。あんなに執拗に舐めるから……。脚の筋肉が固くなってる。あんなに痙攣するまで、やめてくれないから……。ほらココも、まだぷっくり充血してる。ねえ、こんなに……。なんて、私の指はいけないことを始めようとして、身体がくの字に丸まる。すると、足は何かゴツンと固いものを蹴った。布団をめくってみると、ベッドの上では見慣れない、ある家電がおかれていた。

……ドライヤー?」
 洗面所の引き出しに入れてあるはずの、白いドライヤーだ。なぜ? ここに? 寝起きの頭に浮かぶクエスチョンマーク。でも、考えてもわからない。いったん保留することにし、ふとあたりを見渡した。
……さっさと帰ったのね」
 ベッドには私だけ。先ほどドロドロに溶け合った、その片割れはいなかった。胸をすうーっと、風がとおり抜けていくのがわかる。……あんなセックスの後は、いつも、こうなる。

 私という個は、独立して成立していたはずなのに。溶けて混じってひとつになって。そしていま、彼の部分だけがごっそり削げ落ちていると感じる。急いで、両手のひらでシーツをまさぐった。私はいつから、残った男の体温を探す、湿っぽい女に成り下がったの?

……ん?」
 指先で触れたのは、大量の液体糊が乾いたような、パリッとした感触だった。その、生々しい名残の意味に気づいたとき、昨夜の記憶は鮮やかによみがえり、ドライヤーの謎はあっさり解けたのだった。おそらく。彼は濡れたシーツとマットをこのドライヤーで……いえ、やめよう。想像するのは。あまりに情けなくて、侘びしい光景だ。

 ぐう、と呑気なおなかが鳴った。夕食に、野菜とかキノコとか、消化の良いものばかりを口にしていたせいだ。そうだ。残ったチョコレートがあったわ。なんて思い出しウキウキして、ガウンを羽織る。大丈夫。私、図太い神経には自信があるの。やっぱり身体は重たいし、歩くのも、やっとだけど。

 寝室にはスリッパがない。足を擦るようにして素足でフローリングを移動する、一人では持て余し気味の広い室内。テーブルの上には、昨夜、一粒だけ食べられたはずのチョコレートが、乱雑に食べ散らかされたあとが残っていた。

「あのひと……
 昨夜は一粒だけで顔を真っ赤にして吐き出したくせに。そんなにお腹が空いてたの? ……無理しちゃって。ぼうっとする寝起きの頭は、自然と彼の姿を思い浮かべた。一粒一粒に文句を言いながら、口に放り投げる、あのしかめっ面……
「あはは……!」
 私は思わず、片手で口を覆ってしまう。笑うと腹筋が痛んでツラいのに、感情が止めどなく溢れてしまう。そこらじゅうに彼の気配が残っている。火照ったあとの怠い身体にも、私の温かい胸の中にも。

 ジャーーー……、という水音が思考をさえぎった。ハッと顔を上げると、お手洗いから素っ裸の小五郎が出てきた。私はあわてて、目元を拭った。
……あら、居たの」
「居ちゃわりーかよ。なんで爆笑してんだ」
 トイレから出てきた彼は、しきりに自分のおなかをさすっている。なんだかちょっと、やつれているみたいだった。

「何よ、そのかっこ。だらしのない」
「なんだお前、動けるのかよ。元気だな」
「お礼なんて言わないわよ」
 ドライヤーの件だ。小五郎はシニカルに笑う。元気だと言われたが、下半身の筋肉がうまく働かなくて、実は立っているのもつらい。テーブルに手をついていると、小五郎が椅子をひいてくれた。私は黙ってゆっくり腰をおろした。

「まだ寝ときゃいーのに」
「のんきな探偵家業がうらやましいわ」
 背もたれに手を添えた彼を見上げる。減らず口を叩きながら、ねえ、キスして……。と私は目で甘える。彼はムスッとした顔をして、触れるだけのキスを落とす。

「あのまま、死んだんじゃねーかとヒヤっとしたぜ」
……。あなたこそ、なんだかゲッソリしてない?」
「それがよ……、腹と腰がいてーのなんのって……
「腰はともかく、おなか? 調子に乗ってお肉を食べ過ぎたんじゃない?」
……いや。犯人はわかってる。お前は食わなくて正解だったよ」
「お肉の話よね」
……ハハハ」
「あなたまさか、昨日のチョコレート、トイレに流したんじゃないでしょうね?」
「ああっ……その手があったかァ!」
「あのねぇっ!」

 小五郎はうう……、とうめきながら寝室へ戻り、ベッドの上に丸くなった。お互い満身創痍といった感じ。久しぶりにして、あんなに燃え上がって、動けない、なんて。いいオジサンオバサンが恥ずかしすぎるし格好悪い。

 オジサンの方もひどく体調が悪そうなので「何か欲しいものはある?」と聞くと、彼は耳をホジりながら「……膝枕」と答えた。私はその意外な答えに目を丸くして、少し黙って、ゆっくり彼を追いかけた。

 ベッドの上に正座をして、太腿をぽんぽん叩いて「……どうぞ?」と内心ドキドキしながら畏まって言うと、だまって頭をのせて、お腹に後頭部をつけた。
 とても懐かしい眺めだった。私は久しぶりに彼の耳の穴を上から見たのだ。指は自然と彼の黒髪を梳いている。なんだか、夫婦みたいで笑ってしまう。しかも、憧れの、長年連れ添った老夫婦のような。私の心はいつだって矛盾ばかり。

「あら。こんなところに耳毛が生えてる。かわいいこと」
「何ぃ? どおりでくすぐってえと思ったよ。抜いてくれ。優しくな」
 ピンセットは洗面所なので、親指と人差し指の爪を使って抜いた。毛根から綺麗に抜けた。
「いてっ、優しくって言ったろ」
「コレ。すぐ、生えてきそうね」
 少し縮れた可愛い毛をしげしげと見つめる。いとおしい。誰も定期的に抜いてくれるひとがいないという、証のように思える。

「お店の綺麗なお姉さんに頼んだらいかが?」
「バーカ。こんなの、頼めねーだろ」
 じゃあ気が向いたらね、と私は微笑む。
──いつ、戻ってくるんだよ」
 彼は目をつむっていた。その耳が、少し赤らんでいた。
「何言ってるのよ。誰が、耳の毛なんかのために」

 私は笑って、答えをはぐらかす。フン、と不愉快そうな鼻息。小五郎もそうされるとわかっていた様子だった。コミカルさに覆われた、真剣な想い。混沌と渇望。
 だらしなくても、女好きでも。愛してしまった。どうせ私の人生は、このひとの気まぐれに翻弄される悲喜劇のようなものだ。けれど、そう悪いものじゃない。……ねえ、探偵さん。知らない女性の悩みを聞くくらいなら、こんなに面倒な私たちの心も、ほどいてくれたらいいのにね……。赤い耳をぎゅっとつまんでやると、まだ、ほんのりと熱い。

「ねえ、お粥でも作ってあげましょうか?」
「いらないいらないいらない……


***


「ええっ? 牡蠣!?」
 私はその翌月、夕方の事務所でコートのボタンを留めながら、驚きの声をあげてしまった。例によって娘は、電話口で困惑していた。
……お母さんって、牡蠣嫌いだったっけ?」
「だから困るのよ。急な予定変更は!」
「でも良いお店らしいよ~。お父さんが依頼人の方にごちそうになって、旨いって感動したから、お母さんにも食べさせたいって」
「嘘ばっかり。あのひとは自分が食べたいだけでしょ? その美人の依頼人の顔も立てたいんでしょうし」
「あれぇ。お母さん、やきもち?」
「寝言は寝て言いなさい」
「とにかくお父さんも楽しみにしてるから! じゃ後でね!」

 ちょっと! という抗議の声は届かなかった。また、牡蠣とは露骨に精の付きそうなものを食べたがって……。無意識なのか、わざとなのか。何も考えていないようで、そうでないような。
 そして、ある"予感"が頭をよぎる。お下品で、明け透けで、動物的で、即物的なお誘いをする、自分の亭主のことを。

 応接テーブルの上に置かれている、華やかな袋たちに目をやった。有名なブランドの小さな紙袋がたくさん。お菓子以外のものもある。良い文房具か、控えめなアクセサリーか。

 本日のホワイトデー、「こんな高価なもの、いただけませんわ……」と遠慮するくらい素敵なものばかりを頂いてしまった。これを今夜持参したら、あのひと、どんな顔をするかしら。またあの不機嫌な顔、見られちゃうかしら。でも、さすがにそれは、意地が悪いかな。

「先生? どうかされました?」
「いえ、べつに。何でもないのよ」
「そうですか? 私はてっきりまた、旦那様のことを考えていらっしゃるのかと?」

 栗山さんの意味深な目。先月の、あのすばらしく熱烈なバレンタインデーの情事を思い出し、私の頬は迂闊に染まっていたらしい。
「それより栗山さん、いいの? 今夜もゴロちゃんお願いしてしまって」
「私、今夜楽しみにしてたんですよ。ゴロちゃんの好きそうなおもちゃ、いくつか用意したんです!」
「悪いわね。ありがとう。できるだけ遅くならないようにするから」
「先生さえよければ、一晩預かったっていいんですよぉ」
「大丈夫よ。そんなことにはならないの」
「ほんとですかねぇ」

 そういえば先月のバレンタインデーにも、こんなやりとりをした気がする。バレンタインデーに作ったあのチョコのレシピは、実は栗山さんから教わった。その栗山さんは、通っている喫茶店の従業員に教えてもらったんだそうで。
 その喫茶店とは、毛利探偵事務所の下階にあるお店。「毛利さんも、お気に入りらしいです」と聞かされては、作らずにはいられなかった。教わったそのレシピには材料が几帳面に記載されており、本当は、隠し味の一味唐辛子は、ふたつまみ(厳守)、と書いてあったのだ。……けど、刺激は、多いほうがいいじゃない?

「手作りチョコのお返し、楽しみですね」
「もう、やめてちょうだい。期待なんてしてないから」
「愛されちゃってますものね

 私は照れくささを隠すように苦笑いして鞄を持ち、ついでに、お返しに頂いた紙袋を、すべて掴んでいた。愛されちゃってる? 

 ──さあどうかしら。今夜は期待はずれになるかもしれない。やっぱり刺激は多ければ多いほど、いいに決まってる。